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歴史小説 5

 

「天地明察 上」「下」 角川文庫
冲方丁 著 

   天地明察(上) (角川文庫)     天地明察(下) (角川文庫)


徳川四代将軍家綱の治世、ある「プロジェクト」が立ちあがる。即ち、日本独自の暦を作り上げること。当時使われていた暦・宣明暦は正確さを失い、ずれが生じ始めていた。改暦の実行者として選ばれたのは渋川春海。碁打ちの名門に生まれた春海は己の境遇に飽き、算術に生き甲斐を見出していた。

 面白かった!
 碁で将軍家に仕える安井家の二代目で、しかし趣味の算術にのめり込んでなかなか城の流儀に染まれない若者・春海。
 公務で慌ただしい中、ある日訪れた神社で目にした絵馬が彼の運命を変えます。難解な算術の問題をたちどころに解いた関という人物への憧れと対抗心が決まりきった生活に倦んでいた春海に新たな一歩を踏み出させる。つまり、北極星観測と測量の旅、そしてつづく改暦という大事業。

 戦乱の時代は遠くなって、武士でも立派に切腹できる腕前の者は少なくなったと嘆かれ、身分制度が堅牢に整いつつあった頃。後世から見れば、いよいよ江戸文化が花開くかと思うけれど、そこに生きていた人にとっては重苦しさを抱く時代だったのかもしれない。春海やその同僚(?)道策といった若者にとっては、照覧のための碁を打って一生を終えるなど堪らないだろう。とはいえ、何かに挑むのは恐怖でもある。そんな複雑な思いを抱えながらも、一歩踏み出すことを躊躇しない春海の軽快さがいいなあ、と思いました。

 さて、当時使われていた暦は800年も昔に中国で作られたもの。その後、修正も行われず、春海の時代には実際の天体の運行とは数日のずれが生じています。当時の暦は農事とか吉凶を記した宗教的なもので、生活の中でも強い影響力があった。そのために、改暦の影響は大きく多岐に渡ります。
 「天意を読み解く」という天皇の権限に幕府が関われば公家社会との衝突は必至で、天下に騒乱を招きかねない。また、暦の管理者は宗教、思想統制に関わることになり、同時に暦の販売で莫大な利益を得ることにもなる。
 為さねばならない大事業である改暦の影響を子細に調べさせた会津藩藩主・保科正之の慧眼には春海同様に惚れましたねえ。ちょっと、恰好良すぎるんですけど!

 天体観測がまだ広まっていない時代。星を見るとは、純粋に科学や数学を学ぶことであり治世術でもあり、宗教的でもあった。西洋のルネサンス期の思想のようで、当時の世界観を想像するだけでもわくわくします。「天に触れるか」と呟いた大老・酒井の言葉にはっとしました。

 ところで、春海は「自分の春の海」を望みながらも、実際には周囲の思惑や期待で動くのが面白いですね。地理測量しかり、上覧碁しかり、そして改暦も。「天職」とか「自分の仕事」というものは、結構こうやって周囲の都合だけで決められていくものなのかもしれないね。

 さて、北極出地のエピソードも春海に佩刀が許された理由も物語世界の中にきちんと納まって、見事に収束しました。明察! 明察! すっきりしました。
(2014.3.20)

  

「OUT OF CONTROL」 ハヤカワ文庫
冲方丁 著 

   OUT OF CONTROL (ハヤカワ文庫JA)


『天地明察』の原型短篇「日本改暦事情」、親から子どもへの普遍的な愛情をSF設定の中で描いた「メトセラとプラスチックと太陽の臓器」、著者自身を思わせる作家の一夜を疾走感溢れる筆致でつづる異色の表題作など、全7篇を収録。

スタンド・アウト
まあこ

日本改暦事情
デストピア
メトセラとプラスチックと太陽の臓器
OUT OF CONTROL


 「天地明察の原型」である短編「日本改暦事情」が入っていたので手にとりました。その流れでカテゴリは歴史小説に入れますが、他はまったく違いますね(^^;)

 この短編と比べると「天地」の方は、おきゃんな娘えんが登場したり、算術を絵馬に書いて奉納する、地理測量の旅が丁寧に書かれるなど、話がより脹らみ、工夫されていたことがわかります。期待通りに興味深く読みました。

 さて、他の短編はというと、どれも雰囲気がまったく違う! 巻末の解説によれば、著者はライトノベル、SFを多く書かれていて、むしろ「天地」の方が異色だったらしい。
 死んだ人間が残した怨嗟が残された人々を蝕む「まあこ」、「箱」は怪奇ホラー。小野不由美さんのホラーがゆっくり忍び寄る怖さだとすれば、こちらは異常に気づいたとたんに日常世界が崩れ落ちるようなスピード感のあるホラー。こわいですよ。。。

 さわやかさがあって好きだったのが「スタンド・アウト」。からりと拘りのない文章で、読んでいて心地よかった。
「デストピア」以後の3作は、実験的にすぎたり、気持ち悪すぎて、途中でやめてしまいました。ええ、朝の通勤電車では読みたくなかったな。この3作は明確に私の趣味でないので、すがすがしく放棄しました。しかし、多才な著者ですね。
(2014.3.26)

 

長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帳1
「麝香ねずみ」
文春文庫
指方恭一郎 著 

   麝香ねずみ―長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帖 (文春文庫)


次期奉行の特命で、江戸から一人長崎の地に先乗りした与力・伊立重蔵。そこで目にしたのは、得体の知れぬ「麝香ねずみ」と呼ばれる阿片や鉄砲の抜け荷を得意とする一味に蝕まれた奉行所の姿だった。身を崩した錺職人・善六、地元の親分・吉次郎らと真相に迫った先に出会ったものとは。

 舞台は長崎ということで言葉遣いも違うし、南蛮貿易がらみの事件で、江戸前の時代劇とはひと味違って面白い。
 禁制の鉄砲や阿芙蓉(アヘン)売買で富を得ているという噂の謎の一味「麝香ねずみ」を追ううちに、彼らがどうやら奉行所内部にまで巣くっているらしいことに気づき、重蔵は愕然とする。奉行所の表看板に無用の傷をつけずにどうやって首謀者を捕えられるか。じっくり読ませてもらいました。
 次期奉行の部下として先に長崎入りして地ならしをしている重蔵なのですが、それにしても、こんなに派手に活躍しては地ならしどころか穴掘ってるんじゃないかという気もするけど。

 重蔵の旦那の片腕となった善六、町使の後藤主税(ちから)ら仲間の活躍、また江戸に暗い思い出のあるらしい重蔵の過去も気になります。第二弾も読んでみます。
(2014.8.30)

 

長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帳2
「出島 買います」
文春文庫
指方恭一郎 著 

   出島買います―長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帖 (文春文庫)


長崎・出島の建設に出資した25人の出島商人。大きな力を持つ彼らの前に26人目を名乗る人物が現れた。次期奉行の命で江戸から先遣された伊立重蔵が捜索すると、そこには長崎進出を目論む江戸の札差の影が―。錺職人の善六、街の親分格・吉次郎らとともに、江戸と長崎で暗躍する“謎の組織”を解明する。

 南蛮貿易で潤う長崎の富を横から掠め取ろうとする鴉組、夜叉一味がずる賢く、証文詐欺の手のうまいこと。伊立がなかなか先手を取れないので、読み始めると止まりませんでした。
次々と善良な町民が餌食にされていくのにやきもきしつつ、最後には善六が重要な役割をつとめて周囲を驚かせました。

他にも、江戸手妻(手品、見世物)あり、長崎名物ごはんあり、ちょっとユーモラスな場面も出てきて、前の巻よりも余裕たっぷりなところが楽しいです。でも、主税さんがあまり活躍しなかったのが残念。
(2014.9.21)


長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帳3
「砂糖相場の罠」
文春文庫
指方恭一郎 著 

   砂糖相場の罠―長崎奉行所秘録伊立重蔵事件帖 (文春文庫)


長崎では急落している白砂糖が、大坂で高騰している。謎の相場を、長崎奉行の特命で調査する重蔵の前で不審な殺人事件が次々に起こる。さらには盟友の裏社会の親分格・吉次郎まで牢屋に閉じ込められて……。薩摩藩が仕掛けた壮大な仕掛けに、伊立重蔵が錺職人の善六らとともに立ち向かう。

 重蔵が長崎の町に馴染み、仕事仲間や頼りにできる友人が増えたことでお話がぐっと面白くなりました。
 今回も長崎らしさのある舶来品の白砂糖をめぐる事件。砂糖は長崎では贈答品に使われるほど珍重されており、そうなれば単なる利益だけでなく相場を操作しようという裏社会の力も働いているのか、と惹きつけられます。
 また、隠れ切支丹や古くは秀吉の時代にまで遡る藩同士の確執といった複雑な事情も出てきて面白い。

 存在感があったのは吉次郎とお蔦姐さんでしょうか。ぬれぎぬで捕えられても、すぐに牢名主の座につき鋭い視線を光らせる吉次郎と、その留守をけなげに守りながら真相の一端に辿りつくのは姐さんだなあ、と。どうもこの巻、重蔵、完全に負けていたような気がします。
(2014.10.5)


長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帳4
「奪われた信号旗」
文春文庫
指方恭一郎 著 

   奪われた信号旗―長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帖 (文春文庫)


「外国船入港を知らせる信号旗が奪われ、偽狼煙まであげられた」。長崎奉行から特命を受けた伊立重蔵は、現場・小倉藩への潜入を決意する。そんな折、錺(かざり)職人の善六は博多へ、長崎会所を裏で仕切る吉次郎も下関へ旅立つことに。

 馴染みの長崎を離れて、博多、小倉近くが舞台。密命を帯びて、見知らぬ土地へ行く緊張感がありました。しかし、こんなに仲良しの3人が一緒に長崎を出立するのでは、ちょっと目立ちすぎだと心配しました。
 道中でも、初めて会う人は信用できるのか否か、重蔵が常に目を光らせている感じ。ちょっとした違和感から不審人物を見抜く重蔵の眼力を堪能できました。
それにひきかえ、今回は善六はだらしなかったですね。真面目で不器用な職人のはずですが、ただのオッサンでした。

 私はてっきり椿が筋立てにからむと思い込んでいたのですが、あっさり躱されました。謎解きは完敗です。
(2014.11.3)


長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帳5
「江戸の仇」
文春文庫
指方恭一郎 著 

   江戸の仇―長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帖 (文春文庫)


長崎開港以来初めてとなる「武芸仕合」の開催が決まった。長崎奉行所の与力格・伊立重蔵も腕を見込まれてエントリー。出島にいる阿蘭陀人の大男、腕自慢の唐人、さらには重蔵と江戸で因縁の関係だった男まで出場していた。

 これまでずっと謎だった、重蔵が江戸を離れる原因となった親友・大江康友との事件から始まります。
 汚職事件に巻き込まれた大江ははからずも重蔵と剣を交えることになり、その結果、命を落としてしまった。多方面へ影響するのを懸念したお上の判断で、事件はうやむやにされることに。主犯の元蔵は行方不明に、そして重蔵は長崎へ。こうして事件は幕引きとなったはずだった。しかし、重蔵が仇の元蔵を遠く長崎の地で見つけたことで、過去の因縁が蒸し返される。
 一方、オランダ人と遊女の間にできた子供をめぐる悪徳商売、そして、清英間の阿芙蓉(アヘン)密売の余波が長崎にも及ぼうとしていた。

 過去の江戸と、長崎での二つの事件がからみあっていて面白い。重蔵と仲間のいつものお話に物足りなく感じはじめていたので、新しい展開が新鮮で一気に読み切ってしまいました。剣戟や槍での格闘場面が多く、時代劇らしさが強く出ていました。重蔵の人間関係も少し明らかになりました。
 長崎に馴染んだとはいえ、妻のりくや、娘のおたまをすっかり忘れたわけではないし、とりわけ親友を偶然とはいえ斬り殺してしまったことは重蔵にはいつも重荷になっていた。
 すべてがすっきり丸く収まったわけではないですが、希望を感じられる結末。重蔵の心情を慮る長崎奉行や上司の佐々木満実の配慮もじんわりと感じられる巻でした。
(2014.10.23)


長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帳6
「フェートン号別件」
文春文庫
指方恭一郎 著 

   フェートン号別件―長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件帖 (文春文庫)


出島に数年ぶりの外国船がやってきた。阿蘭陀船かと喜んだ長崎の町は、実はイギリス船であったと仰天する。人質も取られ、銃弾も飛び交う激しい攻防の結末は? その時長崎奉行は? 奉行所与力格の重蔵は仲間を総動員して町の防衛に立ち上がるが……。

 そげなこと、せんでよか! と怪しげな長崎弁?で手に汗握りながら読みました。面白かった! 1808年に起きた長崎港のイギリス軍艦侵入事件「フェートン号事件」に伊立重蔵をからませたフィクションです。

 数年ぶりにやってきたと思われた阿蘭陀船は実はイギリス船。日本との通商を求めているというが、清に阿片を売りつけていることを思えば、その上陸を許すわけにはいかない。そして、長崎防衛にあたっていた重蔵は出島のオランダ人から衝撃的な事実を聞かされる――阿蘭陀という国はもはや無い、と。日本人がヨーロッパ随一と信じていたオランダはすでに斜陽の国であり、フランス、イギリスがこの遠く清や日本にまでやってくるという。
 イギリス船との駆け引き、主税や吉次郎の手も借りての長崎防衛の場面の端々で、長い太平の世が終わろうとしていることが感じられました。

 ところで、こんな大事の折にポカをやってしまったのが鍋島藩だったのですね。
 長崎防衛を担う当番藩でありながら、長年の平和に慣れて経費節減、人員削減。フェートン号事件に対応できなかったことでお咎めを受けたのが鍋島斉直、その子が好奇心あふれる直正……久々に思い出して、また本を読みたくなりました。

 閑話休題。事件の結果、松平康英は責任をとって切腹。重蔵はつらい思い出の残る江戸へ帰らなければならないのか、とやきもきしたのですが、妻子ともども腰を落ち着ける場所が見つかったようです。
 シリーズ最終巻、幕末の空気を漂わせつつ、物語も丸くおさまって満足いたしました。
(2015.1.19)


「菜の花の沖 1、2」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

  新装版 菜の花の沖 (1) (文春文庫)

  新装版 菜の花の沖 (2) (文春文庫)


江戸後期、淡路島の貧家に生れた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく…。沸騰する商品経済を内包しつつも頑なに国をとざし続ける日本と、南下する大国ロシアとのはざまで数奇な運命を生き抜いた快男児の生涯を雄大な構想で描く。

 1、2巻では、嘉兵衛が淡路島の貧村で村八分にも遭いながらも海についての知識を身につけ、兵庫で船乗りの経験を積んでいく姿が描かれました。

 淡路島では漁村の古い風習とそこに入れない半端者の苦しさが書かれており、嘉兵衛のひりひりとした焦りや怒りが読んでいて息苦しいほど。しかし、舞台が兵庫に移り、嘉兵衛自身が船乗り・商人目線を身につけていくにしたがって、落ち着きと豪胆さが表立ってくるようになりました。運ぶ材木を筏に太平洋を行くって、すごい。 そして、それを成し遂げたことで嘉兵衛は一足飛びに周囲の評価を得ていきます。

 廻船問屋の主人や腕利きの船乗り――人との出会いで嘉兵衛の世界も広がるわけですが、そこに見える江戸後期の商業活動の様子がほんとうに面白いです。
 北前船に見るように、この頃の日本は経済活動を見れば日本海側が「おもて」なんですよね。太平洋側も細々とした海上輸送はあるもののあくまで「うら」。現代とのギャップが興味深いし、それでも一大消費地はやっぱり江戸なんですね。

 また、和船の話も。和船の構造って西洋の船と比べるとずいぶん素朴に見えますね。遠洋航海ではなく沿岸の港を結ぶような航海の方法も、オランダ人などからみれば原始的に映ったでしょうね。

 嘉兵衛は船乗りとしてだけではなく、商売人の物の見方、考え方も学んでいるのが他の船乗りとは違う模様。どのくらいのスピードでどこに何を運ぶか――こんなことを考えるのなら、雇われ船頭ではなく、自分の船が欲しいとなるのも当然。

 他にも、入船に湧く湊の経済、小さな漁村で取れた海産物が最終的に清へ運ばれていくなど、江戸のお偉いさんは知っていたとしてもどこまで把握、統制できたのか。
 潮流のような活気が日本中に流れていたのが感じられました。
(2021.3.16)

 

「菜の花の沖 3、4」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

  菜の花の沖(三) (文春文庫)

  菜の花の沖(四) (文春文庫)


蝦夷地の主・松前藩は、アイヌの人びとを酷使して豊富な海産物を独占していたが、この内実を他に知られるのを恐れ、北辺にせまる大国ロシアの足音を聞きながら、それをも隠し続けた。漸くにして嘉兵衛が巨船を作り上げ、憧れのかの地を踏んだころから、情勢は意外な展開をみせ始めた。幕府が東蝦夷地の経営に乗り出したのだ。

 念願の持ち船、辰悦丸が出来上がり、初めての船出の目的地は当然、蝦夷地。松前藩による蝦夷統治と、そこに上から足を踏み込もうとする幕府、その不穏な空気の中に嘉兵衛は巻き込まれていきます。

 船や商売だけではなく政治の世界を目にする、そのきっかけになった高橋三平との交流のエピソードは面白い。身分という区分けに囚われることなく、優秀な人材と交わることを楽しみとする――こんな人も居たのかなあ。
 あまりお上と深い付き合いをしすぎると店を持ち崩す、という北風様の警告を聞きながらも、蝦夷地行の中で出会った情熱的かつ革新的な人々への愛情も捨てられない嘉兵衛の気持がよくわかる。

 嘉兵衛が垣間見ることになった武士社会の身分にともなう細かい儀礼も興味深かった。
 帯刀できる身分であっても、目上の人間と会う時には刀をはずして平伏する。上の高橋三平は登場したときは嘉兵衛から見れば雲の上の人なのに、その上、もっと上の役職の人物が出てくると見え方が変わって来る。突き詰めれば、将軍以外は百姓も侍も変わらない、という理屈には驚きでした。
 お侍社会の複雑さ、そこにはまることで行政が回るという巨大なシステムが感じられました。

 さて、こうして世界が広がる中、嘉兵衛の姿は「詩人であったのかもしれない」と描かれています。
 初めて念願の蝦夷地に足を踏み入れる場面では、嘉兵衛はそこにいる地元の和人に目もくれず、蝦夷の風景と空気を全身で受け止めることに集中しているよう。彼の器の大きさのようなものが感じられました。

 ちなみに、3巻冒頭の航海についての一文はそれこそ歌のように美しい。


 ――あの灯は、はたして土崎のものだろうか。

 と、たれもが確信をもてなかった。
 この時代の航海が、実務というより多分に詩に近いといえるほどにかぼそかったのは、闇夜にひかる灯明台ひとつを考えてもわかる。



 そして、蝦夷地担当の幕臣、近藤重蔵から嘉兵衛への命は「クナシリ島とエトロフ島間の水路を開拓する」こと。一度や二度ではなく定期的に多くの船を渡す、それも大型船でなくても乗り切れる進路と停泊地を見極める、という難題です。

 未知の土地、海域へ向かう探検者としての役割を嘉兵衛はどう受け止めたのか。大型の辰悦丸ではなくあえて物資運搬船の図合船(ずあいぶね)で荒波を乗り切るため、嘉兵衛がクナシリ島から海流を観察する場面がすごい。
 何日も何日も、ひたすらに2島の間の海を観察しつづけ、ふいに目が開かれたようにその海流の複雑さを掴み取る――鳥肌が立つようなエピソードでした。

 また、4巻では伊能忠敬も登場して、嘉兵衛と初対面。どちらも愛想のない実利主義的な性格に見え、まるで海と陸のなわばりが異なるだけの似た者同士のようで面白い。

 さて、幕府の蝦夷統治計画は初めこそ力が入って「たんと稼げ」というところでしたが、次第に金喰い虫の事業であることが見えてくると蝦夷地・独立採算制の方向へ。「江戸幕府自体が結局は(金を)とる機関で、出す機関ではないのである」という一文には苦笑してしまいました。

 嘉兵衛が引き受けた5艘の官船の建造にも、ありがた迷惑な横やりが入ってきまして。。。続きを読みます。
(2021.5.16)

 

「菜の花の沖 5、6」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

  新装版 菜の花の沖 (5) (文春文庫)

  新装版 菜の花の沖 (6) (文春文庫)


突然の災厄が、嘉兵衛をおそった。彼自身がロシア船にとらわれ、遠くカムチャッカに拉致されたのだ。だが彼はこの苦境の下で、国政にいささかの責任もない立場ながらもつれにもつれたロシアと日本の関係を独力で改善しようと決意した。たとえどんな難関が待ち受けていようとも。

 5巻はほぼ全部ロシア事情。司馬先生、思いきってる!
 この時代、ロシアが経済的、社会的、思想的に大きな変化を遂げつつあった。その余波が北太平洋に及んできた――それが、4巻までに嘉兵衛が目にした蝦夷地事情だったのですね。それにしても、海の向こうのヨーロッパはすったもんだして、オランダなんて国が無くなったりしてるのに(!)、日本のこののどかさ。5〜6巻はこのギャップをじわじわと味わえる巻だった。

 実際、5巻の思いきった構成が物語には必要だったのだ、と最終巻を読んで納得。

 ロシアは日本の捕虜となったゴローニンの情報を得るため、嘉兵衛の乗った船を拿捕、嘉兵衛らをカムチャツカへ連行する。辺境の地で出会った以上、ディアナ号艦長のリコルドと幕府官船をとりしきる嘉兵衛はどうしても二国の代表にならざるを得ない。

 その重みの中、二人が「こいつは信頼できるか」の1点をめぐって顔をつきあわせ語り合う姿は、潮くさくて大きくて力強い。この感想に尽きる6巻でした。
 言葉も通じず、通訳もいない。まったくのゼロから始まる会話で互いの人となりを推し量ろうとする。全身全霊で人と向き合い、その上で得られた確信の強さが、事態を好転させていったのだろうなあ。

 また、ロシアと日本の出合いにも様々考えました。
 この頃にはヨーロッパ各国と肩を並べる存在となったロシア。エカテリーナ二世をきっかけにロシアの大変革が始まったと描かれています。ロシアは、まさに生まれ変わろうとする「産みの苦しみ」の中にあったのだろうな。そして、一方の日本も。鎖国という建前に拘りつつも外界の変化をもはや無視できなくなっていた。のちの時代から思えば、今日のロシアは明日の日本だったのかも。

 未来をどうやって生きていくのか――身分には関係なく、一部の英邁な人物たちが考え始めていた。その一人が、当人にはその気はなくとも、嘉兵衛だったのでしょう。


 全巻通しての感想ですが。

 やっぱり、大御所の小説はすごい。最近、気軽に読める小説を手にすることが多かったのだけど(それはそれでいいけど)。まさに、打ちのめされる感じ。

 高田屋嘉兵衛の生涯を追いながら、織り込まれるのは江戸時代末期の日本の経済、政治、社会制度、そして世界情勢。
 いくつもの視点が重なるように物語をかたち作っている。しかも大胆な構成で。すごいことだ。

 この深さを読むには体力がいる。もっと早く読んでおけばよかったなあ。
(2021.7.12)

 

「麗しの皇妃エリザベト
 ―オーストリア帝国の黄昏―
中公文庫
ジャン・デ・カール 著  三保元 訳

   麗しの皇妃エリザベト―オーストリア帝国の黄昏 (中公文庫)


世紀末ヨーロッパ随一の美貌を謳われ、世の讃美を一身に集めたオーストリア皇后エリザベト。だが、マイヤーリンクでの皇太子の情死、幼な馴染みのバイエルン王ルートヴィヒ二世の狂死、妹ゾフィの焼死と相次ぐ悲劇に、皇后は旅と乗馬への異様な執着で現実からの逃避をはかる。時代に先んじた自意識ゆえに宮廷生活を厭い、彷徨の果てに自らも異郷の地で凶刄に倒れた美しき皇妃の波爛の生涯。

 オーストリア帝国斜陽の時代にあって類稀な美貌で人々を魅了した皇后の伝記物語。
 バイエルン王国の公女エリザベト、通称シシはフランツ・ヨーゼフ1世に見初められて結婚、オーストリア帝国の皇后に。しかし、16歳と若く、自由気ままに育ったシシは厳格な宮廷儀礼にしばられる生活に馴染めない。皇后としての公務を厭い、姉妹や親しかったバイエルン王ルートヴィヒ2世などの死の悲しみから逃れて、旅に明け暮れるようになった。夫や子供たちと顔を会わせる機会もなくなっていったシシは1898年に暗殺、60歳の生涯を閉じた。

 美しく、しかし恐ろしく気まぐれだったという伝説的な人物。皇后が一年のほとんどを国を空け外国で過ごすなど王室にとっても国民にとっても考えられない事態だと思うのだけど。
 でも、それが通ったのは、国民が若くして嫁いできた日のシシの美しさを覚えて慕っていたのか、また勤勉な皇帝が自分とはまったく違うタイプの妻を愛して許していたからかもしれない。あるいは当時の王室は今では想像するのも難しいくらい権威があったのかも。

 読むほどに「なんでこの人はこの時代に、この立場に生まれてしまったのだろうな」と考えてしまいました。
 現代であれば、庶民派の王族として絶大な人気を得たことは間違いないし、また当時の名もない一市民として生まれていれば女優にも詩人にでもなってパリあたりで成功したかもしれない。

 身分にとらわれず、掛け値なしの愛情をもって自由に生きることは誰もが理想とする人生だと思うのですが。それ「だけ」にしか価値を見出せなかったから悲劇の皇妃と呼ばれることになったのかな、などと考えました。

 告白。久々にヨーロッパの本を読んだら、オーストリア「帝国」のイメージがさっぱり描けなくて困りました。。。。
(2015.3.8)


「皇妃エリザベート」 集英社文庫
M・V・インゲンハイム 著  西川賢一 訳

   皇妃エリザベート (集英社文庫)


栄華をきわめたオーストリア帝国が、最後の輝きをはなっていた十九世紀後半。田舎育ちで自由奔放な公爵令嬢エリザベート(シシー)は、皇帝フランツ・ヨーゼフの妃として華麗なるハプスブルク家の帝室に迎えられた。これが波瀾の人生の幕開けになろうとは、彼女にも予想すらつかなかった。今日でもなお根強い人気の「さすらいの皇妃」シシー。その若き日々の素顔に迫る物語。

 皇妃エリザベートの20代後半までを描いた宮廷小説。あとがきによれば翻訳元には創作エピソードも多く、それを省いての邦訳です。中途半端なところで終わっているのは、この本がシリーズものの元本の1冊だけ邦訳したためで、これは仕方ないのでしょう。

 会話中心で読みやすく、シシーの周囲の人間関係をつかむにはちょうどいい本でした。
 この間、「麗しの皇妃エリザベト」を読んだ時にはうっかり気づかなかったのですが、シシーの天敵(?)ソフィー大公妃は伯母なんですよね。シシーの母ルドヴィーカとは一緒に育ったのだろうにずいぶん考え方や好みが違うものだと不思議な感じでした。皇妃となることのなかった彼女は、シシーが宮廷をないがしろにした(ように見える)のを複雑な思いで見ていたのでしょう。この嫁姑の関係は、性格からいっても立場からいっても良くなりようがなかったのかもしれない。

 ユニークだったのは、シシーの舅フランツ・カール大公。登場箇所は少なく、でも宮廷で孤独な立場にあったシシーを支えるいい役回りで描かれていて印象的でした。

 また、ハンガリー人教師マイラート伯爵。シシーのハンガリーへ親近感はウィーンからの逃避願望だけでなく、マイラートの母国愛に影響されたものだったらしい。かの地でのシシー人気を思えば良い人選だったのかもしれないけれど、しかし、分離独立勢力に敏感な宮廷にこの人をしれっと推薦したシシーの父がいかに空気を読まない人だったかよくわかる。

 オーストリア帝国終焉期の諸外国との関係も描かれていて、他の本を読む助けとなりそうでした。
(2015.5.7)

  

「ピエタ」 ポプラ社
大島真寿美 著

  ([お]4-3)ピエタ (ポプラ文庫 日本文学)


18世紀ヴェネツィア。『四季』の作曲家ヴィヴァルディは、孤児たちを養育するピエタ慈善院で“合奏・合唱の娘たち”を指導していた。ある日、教え子エミーリアのもとに恩師の訃報が届く。――史実を基に、女性たちの交流と絆を瑞々しく描いた傑作。

 リンクは文庫版へ。

 久々に心に染み入る作品に出会えました。Tさんに感謝を。。。

 生まれて間もなく孤児となったエミーリアはヴェネツィアの慈善院「ピエタ」に引き取られ、そこでヴィヴァルディが音楽指導する“合奏・合唱の娘たち”の一人となった。その後、成長したエミーリアは音楽の才能豊かな幼馴染アンナ・マリーアとともにピエタ運営に関わり日々忙しく過ごしていた。そんな彼女にある転機がおとずれる――ヴィヴァルディ先生が亡くなった、という知らせが。

 ヴィヴァルディの死を知らされた時、エミーリアは40代。当時でいえば、人生ほぼ終わった年齢のエミーリアに降ってわいた変化ということに何となく心掴まれましたよ。
 アンナ・マリーアほどの才能もなく、それでも(今でいうなら)事務処理能力やそつのなさをかわれて生きてきた。きっと、彼女の人生はピエタの石の建物の中で穏やかに終わっていくはずだった。本人もそう考えていたでしょう。しかし、あらたな出会い、再会がエミーリアの世界を押し広げたのですねえ。

 友人からの依頼でヴィヴァルディが遺した楽譜を探すうちに、敬愛する先生のピエタでは見せなかった別の顔を知ることになります。エミーリアにとってヴィヴァルディの楽譜を探すのは、もちろん資金難のピエタのためだけれど、自分やアンナ・マリーア、先生が幸せに過ごしていた日々を幻にしてしまわないための意地だったのではないかしら。

 さて、数百年後の今も愛される作曲家ヴィヴァルディ。当時の売れっ子歌手や家族が語る彼はどんな人物かというと。
 まるで息をするように音楽を作り、奏でた天才。気まぐれで自分の思うとおりに突っ走って、周囲の人間を巻き込んでいく――芸術家肌そのものの姿に描かれています。ただ、かつては時代の寵児として活躍してピエタでもその才能を発揮していたけれど、いまや移り気な都会では少々時代遅れに思われているらしい。

 そして、彼がコルティジャーナ(高級娼婦)とも親しかったことを知ってエミーリアは驚きます。
 かつてヴェネツィアで花ともてはやされ、今もその豊富な人脈で名を知られているコルティジャーナのクラウディア。外国の思想に染まった若者たちを援助したりもしている貫禄のある存在。
 音楽家とコルティジャーナ――二人は似てはいなかったけれど、通じ合うものがあった。ただのアントニオとクラウディアとして過ごした思い出は短く描写されるだけなのだけれど、その思い出の品をクラウディアがのちのちまで大切にしていたことが切ない。
 後半を読むとはっとするのだけど、いくら人脈のあるクラウディアも所詮はコルティジャーナ。ゴンドラに乗って好きなところへ行くことはなかったのね。それを考えると、エミーリアの世間の方がまだ広いと言えたのかもしれない。

 楽譜を探し、一生出会うこともなかったような人たちと知り合ったエミーリア。ピエタの外の騒がしく複雑で、しかし豊かな世界を知ります。自分の人生と、それを懸けてきたピエタの価値を理解した瞬間だったのかもしれない。


沖から見るヴェネツィアは息を呑むほど美しかった。
サン・マルコ大聖堂やドージェ宮。道をそぞろ歩く、小さなたくさんの人影。それから、ピエタ。
あれがピエタか、と私は思う。
ピエタはあんなに小さかったのか。いや、ピエタはあんなに大きかったのか。



 そして、印象的だったのは終盤のピエタの中庭での合奏。ヴィヴァルディの「l'estro armonico」。
 時は過ぎ、先生の音楽はすっかり時代遅れになっているらしい。でも、その消えゆく時代の輝きを縫い留めようとするかのような、かつての“合奏・合唱の娘たち”の演奏のひととき。それをピエタの若い子が眺めている――。

 いいなあ。どうやらうまくは弾けないらしいエミーリア、きっと変わらず美しい音色を響かせただろうアンナ・マリーア。彼女たちの笑い声も。
 子どもたちが聴いてくれてもいいし、古臭いと感じてもいいし。いや、もう誰も見ていなくてもかまわないのかもしれない。それでも、若者たちに「よりよく生きよ」と愛情を注ぐエミーリアたち。

 年を重ねていくことの幸福がきらきらと描かれていて、まさに幸せな風景でした。
(2020.5.25)

 

「富士に死す」 文春文庫
新田次郎 著

  富士に死す (文春文庫)


霊峰富士に対する民間信仰は古くからあるが、急速に大衆化したのは、「富士講」のはじまった天正年間である。しかし、大衆化は同時に信仰の俗化、形骸化を招いていった。富士講の荒廃に反発する行者・月行に見出され、後に富士講中興の祖と称された身禄の波瀾の一代を描いた歴史小説。

 私には富士講の魅力がさっぱりわからず、感想の書きようがなくなってしまいました。

 前半は、のちの身禄である伊兵衛が絵に描いたようにいい若者すぎて、さっぱり感情移入できませんでした。
 後半、伊兵衛が身禄と名乗るようになっても、言うことが『信じねば成らぬ』『信じれば成るはず』という問答にしかみえない。
 それに、江戸時代の常識ではあったのでしょうが、後年も修行のために自分の勝手を通す身禄を、菩薩と呼ぶのは抵抗があります。

 ただ、江戸時代の富士登山の利権(だよね)をめぐる地元の駆け引き、一般の人々のご利益目当ての富士信仰の中で、最晩年の身禄の言葉がもてはやされて一大流派となるのも皮肉なものだ、と思いました。おそらく、そこは身禄も渋い顔をするのじゃないかな。
(2016.12.10)

 

「村上海賊の娘 1」 新潮文庫
和田竜 著

  村上海賊の娘 1


時は戦国。乱世にその名を轟かせた海賊衆がいた。村上海賊――。瀬戸内海の島々に根を張り、強勢を誇る当主の村上武吉。彼の剛勇と荒々しさを引き継いだのは、娘の景だった。海賊働きに明け暮れ、地元では嫁の貰い手のない悍婦で醜女。この姫が合戦前夜の難波へ向かう時、物語の幕が開く。

 ちょっと前に話題になった小説。水軍の話はわくわく(おい)するので手に取りました。
 冒頭、なかなか海賊が出てこないのでやきもき。主人公が出て来るとあとはテンポよく、ユーモア混じりの会話に笑ってしまった。

 しかし、途中からは物語に入り込めなくなってしまいました。
 景(きょう)がちっとも魅力的に見えません。「醜女で悍婦」はともかく、いきあたりばったりのおバカっぷりはどうなの。
 当初、醜女という設定が同性として嬉しくないせいかとも思ったのですが、大坂で「なかなかの別嬪」と言われるようになっても、まったく素敵に見えないのは何故?

 歴史小説を読む時は、現代の価値観は持ち込んではいけないけど。
 でも、もっと颯爽とした景を読みたかったな。醜かろうが、勇ましかろうが、好きなことを好きと言い切る娘だったら、もっと爽やかに読めたと思うのですが。

 文庫では4冊出ているようですが、これは続きを読む気はしないかな。
(2018.3.8)

 

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