Novel

はじめての宿題 1

 

1.
 夏の午後の静けさが、山あいの城を包んでいた。
 夏といってもツルギの峰の足元のレンディアで、暑いのは強い日差しの下だけのこと。ここ、城の小部屋では吹き抜ける風もさわやかに、肌寒いと言ってもいいほどで、ちょうど書物でも読むのにあつらえ向きだ。しかし、部屋の主はその書物を広げたまま、半刻も前に出て行ったきりだった。
  その時、静けさを破って部屋の扉が開いた。

 身丈と幅がたいして変わらない姿で戸口を塞いだのは城臣のユルクだ。そして、その小脇には三、四歳の幼子が抱きかかえられている。
 この部屋の住人、レンディアの長の息子のセディムだった。

 それまでの時が止まったような静けさは喜びいっぱいの声でかき乱された。
「それでね、牛の足を見たんだよ」
 セディムは首ねっこを捕まえられようが、抱えられようがかまわず夢中で喋り続けていた。
 明るい茶色の髪には干草をくっつけたまま、顔は走り回った汗と砂が混ざってまだらだ。
「足の爪の間に入った石をとってやるんだ。こんな大きかったよ」
「さあさあ、書物も途中のままですぞ」
「それでね、ぼくにもやらせてくれたんだ。牛がびっくりしないように前から近づいてね、足を一本ずつ上げるんだよ。シスカが言ってた。一本ずつあげるのが大事なんだって」
 どうやらシスカは子供をからかって楽しんだようだが、当人は頭から信じ込んだらしい。
 セディムは大まじめで説明したが、ユルクは相槌も力なく、うなづくのも適当で、最近めっきり重くなってきた若君をようやく椅子に掛けさせた。

「ぼくが一人で石をとったんだよ」
「セディムさま」
 泥まみれで胸をはる子供にようやく口をはさむ頃合と見て、城臣はまじめな声音になった。
「午後までに、ここまで読んで覚えるというお約束ではなかったですかな」.
 それを聞くと、セディムはそれまでの元気はどこへやら、うなだれてつま先を椅子の下でぶらぶらさせた。ユルクはこれまで何回となく繰り返した小言を口にした。
 自分をはじめ、城臣の皆がセディムが勉強熱心な大人になることを願っていること、書物には代々の長の書き残した知恵が詰まっていること。
「あなたさまはこのレンディアの跡とりでいらっしゃる。書物を読まなければ父上のように賢くなれませんぞ」
「かしこいってどういうこと?」
「穏やかになれることです。何が起こっても驚かず、どうしたらいいか、いつも知っていることです」
「じゃあぼく、かしこくなくていい」
 そう言ってセディムは椅子から滑り降り、ユルクの伸ばした腕の下を肩をすくめて逃れくぐった。
「だって、びっくりすると面白いもん」
 ユルクはこの時ばかりは自分の出すぎた腹を呪った。身をかがめて子供を捕まえようという時にこれさえなければ……。
 しかし、当のセディムは城臣の手を難なくかわして、今入ってきたばかりの戸口へ突進した。
 が、外へ出ることはできなかった。
 背の高い姿が戸口の上から下まで塞いだからだ。もっともセディムを止めるのには、下三分の一だけ閉ざせば充分だったのだが。
 ユルクは援軍にほっとしながら、今度こそしっかりと若君を捕まえなおした。
「ずいぶん苦労しているようだな」
 現れたのはレンディアの長ケルシュだった。午前の仕事を終えて遅めの食事をとろうと階下へ降りていくところだった。
「お元気なのは結構ですが、ちと年寄りには荷が重い」
 泣き言をもらした城臣にうなづきながら、長はセディムの前にしゃがみこんだ。セディムは、どちらかといえば母親似の明るいまなざしを父に返した。
「セディム、ひとつ相談があるのだがな」
「そうだん?」
「お前がどう思うか聞きたい、ということだ」
 そう言うと長は息子の肩に手を置いて、まるで対等な大人に話すような口調になった。
「村のイバ牛は夜までに小屋へ入れてやらなければならないのは知っているな」
「うん」
「それができない時にはどうしたらいいかと困っているのだ」
 父の言葉に戸惑いながらも、セディムは黙ってうなづいた。父が何か迷ったり、困っているところなど見たことがない。
「お前が牛を十頭つれて、村の下の草場へ行ったとしよう。ちょうど今日のように暖かくて気持ちのいい日だ。新しい草を食べさせ、歩き回らせてから夕暮れ前には帰ってくるつもりだった。しかし、だ」
 ケルシュはそこで言葉を切った。セディムは書物のことなど忘れて父の話に夢中になっていた。

 

2.
「そこで急に霧が出てきた。それに気づかないで牛を放していたのだ。あっというまに帰る道は見えなくなってしまった。牛もお前もだ」
 かたわらのユルクは長の意図を察して、時折うなづく以外は黙っていた。
「しばらくすると霧が雨を呼んできた。それから寒い夜になる。村へ戻ろうにも暗くて道は見えない。さて、お前なら何とする?」
 長は息子のまだらに汚れた顔を見た。くしゃくしゃの髪の下で大きな目が考え深げにきらめいている。
「簡単だよ」すぐにセディムは答えた。
「だって、牛を連れて行くときだって火を持って行くもの。枝に火をつけて灯りにするよ」
「不意の雨にふられたのだぞ。火口も枝も濡れてだめになってしまった」
 セディムは首をかしげた。どうやらこれは思ったより難しそうだ。
「ふいって何?」

 ユルクはこらえきれずに吹き出した。
「急に、ということだ」
 ケルシュはそれから立ち上がり、長い部屋着の裾をなおした。
「ではセディム、頼んだぞ。夕飯までには答えを聞かせておくれ」
「父上、書物は?」
 長は城臣と連れ立って行こうとしたが、ふり返って息子と不釣合いなまでに大きい書物とを見比べた。
「これは大事な相談だ。書物よりもな。だから今日の勉強はこれで終わりだ」
 セディムは父の背中を見送った。勉強は終わり?
 でも、あたり前だ。だって大事なそうだんなのだ。父上がぼくにどう思うか、聞きたいというのだから。

 午後の穏やかな風がヒラ麦の畑を撫でていく。それにつれて、育ちつつある穂がうなだれるのが波になって見えた。
 まるで、麦が挨拶しているみたいだ、とセディムは畑の間を歩きながら思った。
 今日はこれからどこへ行こうか。
 セディムがまず考えたのはそれだった。
 牛小屋は朝のうちに見に行って、するべきこと――牛の鼻を撫でてやるとか水を足してやる、といったことは済ませてしまった。
それに、大事なことを考えるのに行き慣れた牛小屋ではつまらない。
 普段はあまり行かない、特別なところがいい。たとえば村はずれの大岩、隣のエフタへと続く山道の曲がり角。それよりも……。
 セディムは足を止めた。
 ――決まっている。あの草場がいい。
 レンディアの子供たちがよく牛を連れていく場所だ。あそこなら何か役に立つものがないか探せるではないか。
「あそこだ、そうだんだ」
 嬉しくなって、セディムは走り出した。その姿を辺りの畑から村人たちが微笑んで見送っていた。

 村から小半刻も山を下ったあたりは、レンディアの子供たちの遊び場だった。
 村のイバ牛の世話は子供たちの仕事だ。夏の昼間、村のまわりの草場を毎日転々として牛を追う。牛が食事にありついている間に、子供たちは駈け比べなり、ごっこ遊びなりできるというわけだ。
 セディムがだらだらと続く坂道を降りて行くと、その行く先から牛と子供たちの一群が現れた。
 幼い子が牛の前を走ってくる。群れから離れて草を食もうとする牛は鼻面を叩かれて、また真っ直ぐ前を向く。
 そして、年長の者がしんがりをつとめて牛でも子供でもおいてきぼりがないか、目を光らせていた。
「セディムだ」
 先頭の子が声を上げた。遊び仲間を迎えに他の子供たちもすぐ走り出した。
 彼らはセディムが自分たちの長の子供だということは知ってはいるが、だからといって特別扱いも手加減もしない。
 分け合う昼ごはんも均等、火口を携えていく責任ある当番も他の子供と同じように回ってきた。
 セディムは子供たちの間でも幼い方ではあったが、すばしっこい身のこなしは一目置かれており、戦ごっこには欠かせない存在とされていた。
「待ちくたびれたわ」
 一番年長の少女、スーシャが文句を言った。「昼前から待ってたのに来ないんだもの」
「ごめん。だってユルクにつかまっちゃったんだよ」
「でも逃げ出して来たんだな」
 スーシャの横から、セディムより三つばかり年上の少年ノアムがひょいと顔をのぞかせた。顔の汚れ具合はセディムとどっこいというところだ。
 彼は城臣である祖父に連れられて城へ来ることも多く、セディムにとっては一番仲のいい幼馴染だ。
「それでこそ、わがおうこくいちのぶじんだ」
 ノアムは胸を張って言った。



Novel
inserted by FC2 system