Novel

はじめての宿題 2

 

3.
 これを聞くと、セディムは草場へ行く気が少しばかり揺らいだ。
 王国一の武人、と人を褒めるといえば昔話のアレイオス王のごっこ遊びに決まっている。アレイオスはレンディア建国の王で、彼に忠誠を誓ってつき従って来た荒武者ケリン・ドゥールの役をセディムは一番気に入っていたのだ。
「もう下には誰もいないわよ。これから大岩へ行くからついてらっしゃいよ」
 スーシャはにこにこして言った。「今日はケリンをやらせてあげるわ」
「ほんとう?」
 セディムは夢中になった。
 いつもは威勢のいい、はっきり物を言う性格のスーシャがケリンの役を取っていってしまう。しかし、今日は彼女は珍しく武人よりもアレイオスの美しい愛妃の方が気になるらしい。
 これを逃したら二度とケリンにはなれないかも……。
 そう思うとセディムは頷きかけたのだが、あわてて首を振った。
「ぼく、行かない」
「どうして? ケリンが好きなんでしょ」
「好きだよ。でも……」
「みんなで旅に出るところをやるのよ。ケリンがいなきゃつまらないわ」
「ケリンには大事な約束があるんだ」
 口ごもっていたセディムに助け船を出したのはノアムだった。
「それを済ませるまでは俺たちと来るわけにいかないんだよ。そうだろう?」
 セディムは幼馴染に感謝した。やはり男同士ならぴんとくるものなのだ。そこでケリンは主であるアレイオス王に深く礼をした。
「やくそくを果たしたら、まっさきに王のもとへ駆けつけます。その時まで、どうぞおまちを」
 アレイオス王は黙って頷いた。子供たちは友情に結ばれた戦士たちの誓いを見守った。
 それからアレイオス達は村はずれの大岩を、勇者ケリンは草場を目指して別れたのだった。


 山の天候が変わりやすいとはよく言われることだ。ことに午後の雲行きは見慣れない者には読みにくい。
 強い日差しが続いて色鮮やかな日没を迎える日もあれば、突然立ち込めた靄がそのまま雨となり、陽を見られないまま夜になることもある。そして夜となれば、気温はみるみる下がって命に関わることもあった。
 腰に手をあて背筋を伸ばし、あらかた牛が食んでしまった草の急斜面にセディムは立っていた。夏の風が頬をなぶる。
 もしも今、霧が出てきたら。雨に濡れた十頭の牛とセディムが、ここで夜を明かさなければならないとしたら……。
「ケリンならどうするかな?」
 子供達が憧れるケリンなら、何をするべきか知っているはず。剣を持たせれば王国一、主君アレイオスをのぞけば誰よりも物知りだったという伝説の男だ。
 父上とどちらが強いだろう? もちろんケリンは大昔の人なんだけど。
 そんなことを真剣に考えながらセディムは草場を歩きまわりはじめた。
 山で一番怖いのは、天候の変化と滑落だ。
 レンディアの大人は子供達に、畑仕事や食べ物の支度の仕方と同じように、山の歩き方も教え込んだ。
 もし、雨が降ったら岩陰でも潅木の下でもいいから、すぐに雨をよけなさい。そうしないと濡れた体がどんどん冷たくなるから。
 雨ですめばよいが、夏から秋に向かう頃にはいつ霙にかわってもおかしくはない。
 牛は寒さには強いから、その点は心配いらない。しかし、夜になって牛たちが不用意に歩き回れば、岩の急斜面を転げ落ちることになる。それを避けようと牛たちを宥めて歩くうちに、人の方が崖から足を踏み外したことも実際にあった。
 そんな時はどうするのだっけ?
「まずは牛を集めるんだ。崖の方には行かないようにしなきゃ」
 じっくりと考えながら、セディムは途中で手折ってきた枝を振り回す。これで牛を追い立てる仕事はスーシャやノアムから仕込まれている。
 慣れた仕草を繰り返すと、次々とやることが頭に浮かんだ。
 牛に話しかけながら驚かせないように、でも勝手な方へ歩いて行かないようによく見張らないとだめなんだ。牛を集めたらどうする? 夜の間ここにいればいい?
「だめだ、ケリン」
 セディムは慌てて首を振った。「ここは崖があるじゃないか。こんなところにいちゃだめだ」
 勇者にしては何て馬鹿げたことを考えたんだろう。そう思うとセディムは悔しさと恥ずかしさで胸が詰まった。
 しかし、ここでこのまま立ちつくしていても仕方ない。時間は限られているのだ。こぶしを強く握りしめ、セディムはもう一度辺りを見回した。
 牛だけでなく、人間もしなければならないことがある。雨をよけ、少しでも体を乾かさなければ。
 しかし、あいにく草場の近くには身を寄せていられるような大きな岩も、岩棚もなかった。セディムは斜面を這いはびこる、蔓とも枝ともわからない茂みをのぞきこんだ。
「ちょっと……狭いか」
 そう呟くと肩を落とした。子供の体なら何とか入ることもできるかと思ったのだが、ひねこびた枝や根はからみあい、頑として侵入者を拒んでいる。
 どうしよう。それにイバ牛は?
 セディムは混乱しはじめた頭を落ち着かせようと必死になった。
「いっこずつだ」
 今朝、シスカから聞いたばかりの言葉を思い出す。
 何もかも一度にすまそうと思っちゃあ、いけませんや。牛の足は一本ずつ、狙う獲物も一羽ずつ。
 セディムの声に答えるかのように、茂みの奥から山リスが馴染みのある鳴き声をたてて飛び出してきた。薄茶色の毛皮はつやつやしていて、どうやらこの夏の食べ物には苦労しなかったようだ。

 

4.
 風が夏草を揺らす柔らかい音に、セディムは振り返った。
 誰もいなくなった草場はがらんとしてひどく寒々しく見えた。やがて日も落ちるのに、ここにいる訳にはいかなかった。しかし、どこへ?
 もちろん、多少の霧ならば無理をおしても村へ帰るべきだろう。しかし、草場から上はせまく、足場がいいとはいえない道が続く。灯りを持たずに牛も人も歩きたいとは思わない。
 幼いセディムにもそれははっきりわかっていた。
「どうしよう……?」
 その呟きに驚いたのか、山リスは岩から飛び降り走り出した。セディムは見慣れた友人がなだらかな斜面を駆け下る姿を茫然として見送った。
 その時、新しい考えが浮かんだ。
「そうだ、山を下りていけばいいんだ」
 セディムはすっくり立ち上がった。
 去年の秋に毛皮を売りに山を下りた大人たちの言葉を、セディムはよく覚えていた。
 山を下りるにつれて風の冷たさは弱まり空気が濃くなる。やがて年の初めから花が咲きこぼれる平原に着くのだ。
 雨に濡れても、それほど寒くなければ一晩くらい明かせるだろう。幸い、草場から下の山道はなだらかで、牛も人もそれほど足元を心配する必要はなさそうだ。
 そのことにセディムは勇気づけられて歩き出した。
 まるで道案内をするように山リスの姿が岩の間に見え隠れする。レンディアの村の家並みはもはやすっかり見えなくなり、城の遠見の塔が岩のむこうに時折姿をあらわすだけ。村の畑から聞こえていた歌も途切れがちになり、やがて聞こえなくなった。あたりの静けさの中で鳥の羽ばたきだけが響いた。
 山ヒタキか雪鳩の雛か、と空を見上げたのだが、どこにも鳥の姿はなかった。
 セディムは思わず身震いした。
「一人でも大丈夫だよ」
 ケリン・ドゥールは約束を果たさなければならない。困っているという父に、答えを持って帰らなければならない。
 しかし、それでも独り言を呟いたとたんに物寂しくなり、セディムは適当な鼻歌を歌いはじめた。それも木の根をよけ、岩を避けながら相当に調子っぱずれなのだが、それを気にする者もいなかった。
 山の斜面はあちこちに茂みを宿しており、曲がりくねった枝が上から下へ向かって伸びている。峰から吹き下ろす強い風のせいで、ここでは斜面を這うように下にむかって木が伸びるのだ。
 ひねこびた枝やら根を跨ぎながら、セディムは上機嫌で歩いていった。歌は確かに効いた。
 セディムは父の相談に応えられるようなことを思いついたのが嬉しかった。
 暖かいところでひと晩やり過ごして、また日の出とともに村へ戻ればいい。悪くない考えではないか。しかも、これなら牛たちを目の届くところにおいておくことができる。
 レンディアで、いや隣のエフタでも、イバ牛は大切な財産だ。
 若いうちは狩人たちの足として山を駆け、やがて仔牛を産んだり年をとれば村の畑を耕すために働くようになる。
 レンディアの年寄りたちは自分達も牛とそっくりだと笑う。「だって、そうだろうよ。若い時分は狩をして、がたがついたら村の畑でご奉仕だ」
 イバ牛のことなら誰よりも詳しいシスカは、放牧に行く子供達によく手をふってこう言った。困ったことがあったら、古参の牛に聞いてみろ。
「道がわからなくなったら、その爺牛に聞いてみろ。何せお前たちの母さんが子供の時から、この辺りを歩き回った牛なんだから」
 イバ牛は大切なものだ。レンディアの暮らしのどの場面にも深く結びついて分たれないものだった。だから、無事に連れ帰れば気を揉んでいた大人たちは胸を撫で下ろすに違いない。
 そして何より。
 大好きな父が喜んでくれるだろうことを思うと胸が温かくなって、セディムはなお大きな声で歌い続けた。

「そろそろ暖かくなるかな」
 セディムは気温が上がる気配を見逃すまいと前より注意深く、はずむ息を抑えた。よさそうな辺りで夜営の場所を探そうと思ったのだ。
 しかし、斜面は途切れる様子もなく続く。先ほどから道が狭くなっていたがセディムはまだ気づいていなかった。
 もし村人の誰かがそこに居合わせたとしたら、すぐにセディムを抱えて連れ帰っただろう。レンディアから平原まで、大人の足でも七日はかかる。気温が明らかに上がるところまでとしても、三日は歩かなければならないのだ。
 日暮れはそう遠くなかった。
 陽が落ちれば山の気温はあっという間に下がる。夏でもレンディアの夜は毛皮を手離せない。何の支度もしていない子供がうろつく時間は終わろうとしていた。


Novel
inserted by FC2 system