風渡の野 目次


風渡の野  1 
0.
 もうすぐ、雪になるかもしれない。
 男はそう考えて、背中の荷をもう一度しっかりと背負いなおした。
 灰色の空を背にしたツルギの峰から、低い風の音が聞こえる。いや、この寒さだ。上ではもう白いものが舞っているのかもしれない。
 それにしてもいい買い物になった、と、荷の重さに男は微笑んだ。
 秋の狩の成果の毛皮は、冬仕度に忙しい平原の町であっという間に売れていった。そして、それと引き換えにした果物、反物。
 その品々を思い浮かべながら、男は額の汗を拭った。エフタはまだ遠い。できれば日が沈むまでに峠を越えたいものだ。
 その時、見慣れない色がちらりと目に飛び込んできた。
 濃い青。
 眼下の大きな岩の陰、気のせいかと思ったとたんに、もう一度青いものが動いた。それは見慣れない服の数人の男達だった。
 あれは平原で見たのと同じ上衣、すると隣国レンディアの客人だろうか。
 そう考えて男は思わず喉を鳴らした。客人といえば、きっと歓迎の宴が催されるだろう。そこに供される炙り肉やら果物のことを思い浮かべたのだ。
 いや、早く熱い汁物でも啜りたい、と男は呟いた。それと酒のひと壺も。きっと万事ぬかりない妻が支度しているに違いない。
 そう考えて男は足を早めた。それきり彼は異国の旅人のことを忘れた。

 やがてカバラス山脈は雪と風とに閉ざされた。
 昼も夜もない薄闇が続く。長い冬はいつまでも居座るかと思われたが、王国の村人たちはそうではないことを知っていた。嵐と嵐の間は次第に間遠になる。
 そしてまた、新しい春がやってくるのだ。

  

1.
「おいで」
 雪の原、静寂の只中。少女がイバ牛に乗り、そっと話しかけていた。
 薄紫の雪の斜面を、風が吹き下ろしていく。その声がいっときやむと、夜明け前の山は耳に痛いほどの静けさに包まれた。降り積もったままに滑らかな雪の面には染みのような牛の足跡が続く。
 乗り手の小柄な姿からすると牛は少々大きすぎるようだが、少女は気にする様子もない。軽く手綱を引いてはこちら、次はあの岩陰、と牛を歩かせていた。
「あの枝はどうかしらね。どう思う、オリス?」
 そう言いながら、彼女は背伸びをして目指す枝に目をこらしていた。
 イバ牛は最初、背中の主に言われるがままに雪を踏み分けていた。もともとイバ牛というのは乗り手の手足、と言われるほど従順なものなのだ。
 しかし、少女は牛にとってはやっかいな主人だった。気まぐれにこちら、次はあちらと急きたてる。とうとう我慢できなくなった牛は首を震わせ、好き勝手に雪のくぼみに鼻をつっこみ始めた。
「オリス、違うったら。こっちに来て、あの枝を見に行くのよ」
「アーシア」
 苛立たしげな少女の後ろから、静かな声が飛んだ。数歩遅れて、雪を踏み分けてきたのは年嵩の若者だった。
「オリスは長いことお前につきあってやったんだ。少し好きにさせてやれ」
 少女は頭からかぶっていた肩掛けを落として勢いよく振り向いた。春の陽のような色の髪があふれたが、その顔は穏やかとはいえなかった。
「だって兄さま、早くしないと陽が昇るわ。まだ見てない枝がたくさんあるのに」
「何も今日だと決まったわけじゃない」
 そう言って兄、ティールはあくびをかみ殺した。「明日かもしれないし、この寒さではまだ先の……」
「でも今日かもしれないじゃない」と、アーシアは兄の眠たげな言葉を遮った。
「早く見つけたいのよ」
 そう言ってアーシアは牛の背から滑り降りると、一人で雪を踏み分けはじめた。それを見て兄であるティールはため息をもらした。アーシアのきかん気は今日にはじまったことではなかった。
 彼にすれば夜明け前からの山歩きなど、本当は乗り気ではなかったのだ。
 夕べはつい書物を読みふけって、寝たのはついさっきのこと。寝ついたばかりのところを妹に揺さぶられて、何が何だかわからないうちにイバ牛の背に乗せられていたというわけだった。
 妹の方はといえば、兄のため息、諦めたように首を振るさまなど目にも入らない様子で、手を伸ばしては潅木の雪を払い落としている。
 そして、探していたものを見つけ出した。
「見て!」
 雪のくぼみからすっくりと立ち上がった木の枝先に、小さな丸い芽が出ていた。その言葉に、ティールも思わずイバ牛を急がせた。
「今年最初の新芽よ」
「こんなに早いなんて、思わなかったな」
 ティールもその緑から目を離せない様子だった。無理もない。この幾月ものあいだ、山中では見ることのできない色合いだった。
 二人は眠気などどこかへ行った様子で笑い、そして若い枝を折り取った。それから、朝日を浴びて輝く斜面をイバ牛で駆け下りはじめた。

 エフタの城までの道は、イバ牛がよく知っている。
 アーシアはオリスが行くのに任せたまま、遠くの山並を見つめていた。つい先ほど顔を覗かせたばかりの太陽が東の峰の右縁から離れた。
 もう、あそこから陽が出るようになったんだわ。そう考えてアーシアは微笑んだ。
 秋までは峰の左から朝日が昇っていた。もう新しい年になったのだ。今年こそ……。アーシアは心の中で強く頷いていた。
   ここ、小王国では春一番の新芽を見つけた者が、春の使者として隣国を訪ねる。たとえティールがその役を言いつかったとしても、見つけた自分に何の楽しみもないわけがない。
「ねえ、兄さま。今年の春の使者には兄さまがなるのでしょ」
 アーシアは傍らを行くティールに甘えるように言った。極々上機嫌に、否とは言い辛いように、しかし決して答えを急がせない声だ。
「そうしたら、私も連れて行ってくれる?」
「父上はいいと言ったのか?」
「まだ聞いてないわ」
   アーシアはしれっと言ってのけた。
「でも兄さまが良いと言えば、きっと許してくれると思うわ」
「アーシア」
 牛に揺られながら、ティールは厳しい目をしてみせた。
「頼む順番が違うだろう。父上が良いと仰ったら考えるよ」
 途端にアーシアは顔をしかめて、兄の手から若枝をひったくった。
「私が見つけたのよ」
「もし父上が良いと……」
「どうして女は旅をしちゃいけないのよ」
 アーシアは背筋を伸ばして穏やかな兄の顔を睨めつけた。主の不機嫌を察してか、イバ牛は鼻を鳴らした。
「レンディアなんてほんの三日で行かれるのよ。去年もおととしも頼んだのに」
 そうも言い終わらぬうちに、アーシアは枝を抱えるとイバ牛の脇を蹴った。そして、兄を置きざりに、一気に村への道を下っていった。

2.
 まだ陽が出たばかりであったが、エフタの新しい一日は動き始めていた。
 台所からあがる煙、城臣たちはまだ薄暗いうちから城中の鎧戸をあげてまわる。ヒラ麦畑のあちこちには、村人の姿が見られた。
 アーシアはちょうど牛小屋を見に行こうと通りかかった城臣に牛の手綱を渡し、自分は軽々とした足取りで城の階段を駆けあがった。
 厚い石壁の廊下にもようやく朝日が差し込み、あちこちに掛けられた古い織絵を照らし出す。代々の女達が春の到来を待ち望んで若枝や蔓草、花模様を織り出したものだ。しかし、その品々も、今のアーシアの目には入らないようだった。
 おかしい。絶対におかしいわ。
 喉まで渦巻くような不満を抱えて、アーシアは足音も高く歩いていた。
 だって私が新芽を見つけたのに、どうして使者にはなれないの?
 その勢いに行きあった者たちも思わず道をあけた。
「ねえ婆や、父さまはどこ?」
 アーシアは忙しげに歩いていく乳母を引き止めた。しかし、その問いに彼女はすぐに答えてはくれなかった。
「まあ、何ですか。その髪」
 乳母は目を瞠って小さく叫んだ。
「ちょっと風が吹いてただけよ。それより父さまは?」
「先ほど朝ご飯を召し上がっておいででしたよ。それにその皺だらけの肩掛けときたら」
「婆や」
 アーシアは手をあげて、あふれ出したお小言を堰き止めた。
「ありがとう」
 そうして、くるりと身を翻してアーシアは駈けだした。あわてて何てみっともない、とたしなめる声は耳に入らなかった。

 アーシアの父であるエフタの長はすでに身支度を整え、食事もあらかた終わらせたところだった。
 朝日の差す城の部屋は、夜の間埋み火にしていたためにほのかに暖かい。彼の愛する整然とした部屋の静けさは、激しい足音にかき乱された。
「父さま、お願いがあります」
 そう言って転がり込んできたアーシアは、父の前に立った。
「今年は私も行きたいわ。ねえ、いいでしょ?」
 長ウォリスは杯を置き、娘の姿を上から下まで見回した。
 申し訳程度に撫でつけられた輝くような髪は亡き妻ゆずりだが、この目は? いつもしっかりと見開かれて、実際何かを見落とすことなどない瞳は誰に似たものだろう?
 アーシアの明るい表情と笑い声はまさにエフタの春の光、と村人たちからも慕われていた。ただ、この光は優しいかと思うと、突然雲に陰る春先の太陽と同じように気分屋でもあった。
「何処に行っていたのかね、アーシア」
「これを見てよ、父さま。アカヤナギ、今年一番の木の芽よ」
「そうだな」
「だからいいでしょう? 兄さまだけ行くなんてずるいと思うわ」
「今までどこにいたのかね」
 ようやくアーシアは父の厳しいまなざしに気づいた。
「上の大岩まで。でも、兄さまも一緒です」
 しかしその言葉にも、長の目は和らがなかった。
「あの……多分そろそろなんじゃないかと思ったの。去年もあの木が一番早かったし」
「それで、芽が出たかどうか見に行った、というわけだ」
「父さま」
 雲行きが怪しいと見て、アーシアはあわてて身を乗り出した。必死になった目には涙まで浮かんだ。
「まさかレンディアへ行くな、なんて言わないで」
「アーシア、お前は落ち着きがない」
 そう言って長は立ち上がり、娘の頭の上からきっぱりと言った。
「見ればいつでも走っている。お前の染めた糸はむらばかり。機の前に半刻も座っていられないとしたら、いったいどうして自分の衣服を整えることなどできるだろう。あげくに長の娘ともあろう者が城を抜け出して山遊び。こんな娘に旅を許すなど……」
「ごめんなさい、父さま。だってどうしても確かめたかったの」
 普段は物静かで、ろくに口も開かない父の言葉にアーシアは動転した。何が何でもレンディアに行こう、という決意は頭から消しとんだ。
「だってあの木は兄さまと私しか知らないし、だけど兄さまは夕べは遅くまで起きていたから、放っておいたら起きてこないし。でも早く確かめないと……ああ」
 どうしよう、という言葉をアーシアは飲み込んだ。夜更かしを内緒にしておくという約束で、兄を寝床からひっぱりだしたのを思い出したのだ。
「アーシア」
 長は首を振った。
 いったい何度こんな小言を口にしたかわからない。そう考えながら長は我慢強い口調で言葉を継いだ。
「お前は人の話を最後まで聞かない。昨日もそう言ったばかりだ。こんな娘をレンディアやふもとまで行かせようなどと、何故思いついたものだか」
「ふもと?」
 アーシアは顔をあげた。
「春の使者としてレンディアへ、その後、平原の工房都市まで行きなさい。ティールがいれば……大丈夫だろう」
 兄王子ならうまく手綱を取るだろう、と長は内心ため息をついた。
「本当に? 父さま」
「レンディアはわが国の古い盟友だ。礼を失することのないよう、長の娘にふさわしい振る舞いができるならばな」
 その言葉が終わらないうちに、アーシアは笑い声をあげて父の首にかじりついた。
「ありがとう、父さま。大丈夫、髪も結って礼儀正しくするわ。挨拶も覚えるわ」
「しきたり通りの丁重な挨拶を、だ」
「もちろん」
 アーシアは父から身を離して、しっかりとした表情をしてみせた。
 何せエフタから出るのは生まれて初めてだ。しかも山を降り平原の町まで行ってよいという。古臭いお辞儀や舌を噛むような口上のひとつやふたつ、覚えてみせようではないか。
「大丈夫よ。本当に」
   アーシアはもう一度父に抱きついた。
 そして、嬉しさに一度は走り出そうとしたものの、思いとどまってふわふわとした足取りで部屋を出ていった。
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