風渡の野 目次


風渡の野  2 
3.
「とうとうお許しになったのですか」
 羽があったらなら、そのまま飛び立つような風情で出て行ったアーシアと入れ替わりにやってきたのはティールだった。朝の遠乗りで目も覚めたか、もうすっかり明るい表情だ。
 長はその言葉に重々しく頷いて見せた。
「そなたを頼んでのことだ。レンディアとふもとまで……」
 しっかり妹を見張ってくれという長の言葉に、ティールは天を仰いだ。めったにない試練になりそうだった。
「いったい誰に似たものだろう?」
 長は気遣わしげに首を振った。「女が旅に出たがるなど、聞いたこともない。何故そんなことを思いついたものだろう?」
「アーシアは気立てのいい娘です」
 ティールはその様子を見て、自分の心配ごとはひとまず忘れることにした。
「村の者の気持ちをよく知っています。今朝の山歩きも、春を持ちわびる皆に早く若芽を見せてやりたい、と思ってのこと」
 それを聞くと、長は堪えていた息を吐き出した。
「それはわかっておるよ。だが、まさか自分で探しに行くなどとは誰も思わんではないか」
 ティールは黙っていた。それはいかにもアーシアならやりそうなことだと思ったのだが、父にそう説明する気にもなれなかった。
 長は昔気質の男だった。男は獲物を追って山を駆け、手柄を女のもとへ持って帰る。女は夏は畑で働き、冬は糸を紡ぐ。
 春を待つ気持ちに男も女もないが、山へ行くのは男のすることだ。そうとしか長には考えられなかったのだ。
「あれを見たら、レンディアのセディム殿はどう思われるか」
「心配いりません」
 ティールはきっぱりと言った。
「幸い従兄上はそのあたりは気にしない方です。山歩きも遠乗りもお好きですし、新しい考え方にも寛容でおられます。少々むら気で頑固でも、かなり落ち着きがなくても……いや、そのう……」
   ティールは言葉尻を濁した。
「ですが、何故ふもとまで?」
 妹を連れてやっかいなことになるとすれば、レンディアよりむしろそちらだろう、とティールは考えていたのだ。
 平原には市がたつ。市には飾りものやら布やら、その他にも男には何に使うのか想像もつかないものが溢れている。
 目新しいもの好きのアーシアをその前に立たせたところを思い浮かべて、ティールは思わず目を瞑った。
 アーシアが欲しいものを諦める、そんな風景は到底思い描けなかった。
「少々、気になることがあってな」
 その時、父の答える声にティールは我に返った。
 長は先程とは別のもの思いに沈んでいた。
 眉の下には影が宿り、目は中空の一点をみつめて動かない。その様子に、ティールは知らず身をひきしめた。

  

4.
 塔の上にあるアーシアの部屋は、足の踏み場もなく散らかっていた。
「いったい何をなさってるんです?」
 箱から肩掛けやら上着を引っ張りだしている少女の後ろから、乳母が声をかけた。アーシアは振り向くとどっしりした体格の乳母を見て、明るい表情をした。
「婆や、ちょうどよかったわ。どこにしまったか覚えてる? あの白い上着」
「よして下さいましよ。この婆やが片付けることになるんですからね」
 そう言って彼女は痛む腰を叩きながら服をかき集めた。しかし、その言葉が聞こえなかったかのように、アーシアはまた一枚、今度は古い布を引っ張り出す。
「アーシアさま」
「あの白いのがないのよ」
 そう言いながらアーシアは手を休めなかった。この箱でなければあの棚に、そんな調子でもう小半刻も探し続けているのだ。
「刺繍のついた上着。春の使者になってレンディアへ行くから、あの上着がいいと思うの」
「何をおっしゃるやら、あれは晴れ着ですよ!」
「だから、あれがいいのよ」
 アーシアは乳母の呆れ顔も見ずに、今度は別の箱にとりかかった。
「気の早いこと、なんて気の短いこと」
 乳母はアーシアが引っ張り出すより早くしまい込もうと箱に蓋をした。
「秋までお待ちなさいませ。さあ、これをたたんで……」
「秋?」
 そのひんやりとした声に寒気を覚えて、乳母は手を止めた。手塩にかけて育てたアーシアの気性は心得ている。これは嵐の前触れだ。
「秋って何のこと?」
「父上がお決めになって……」
「だから何のことよ?」
 妙に静かなアーシアの言葉に、乳母はとぼけるのを諦めた。
「レンディアからお使者がつきましてね。この秋に婚礼ということを父上がお決めになったのですよ」
「そんなこと聞いてないわ」
 ついにアーシアは叫んだ。「結婚?」
「ご存知のはずでしたよ。あなたがいずれレンディアの長殿のところへ嫁ぐのは誰でも……」
「何で決まってるの?」
 アーシアの濃い青い目は怒りのあまりきらめいた。「別の長の子供同士でなければいけないってことはないでしょ」
「それはそうですよ。でもできればそれに越したことありません。古王国の血をひくご身分ですからね。お年の釣り合いもいいとなれば、何で他へ嫁ぐことがありましょう」
「絶対に、嫌です」
 アーシアはすっくりと立ち上がると腰に手をあてて乳母の顔を覗き込んだ。
「婚礼なんてしません。絶対に嫌」
 そう言うと、手にしていた肩掛けを投げるように置いて、アーシアは階段を駆け降りていった。


5.
「ひどいと思わない? おじさんなのよ」
 できればこのままどこかへ行ってしまいたい。
 アーシアはそう思ったのだが行くあてがあるでもなく、結局城の台所に入り込んだだけだった。
「手も動かして下さいよ」そう言って、若い女はアーシアの膝に豆の入った籠を置いた。
 食事の支度をしていたメリナはアーシアの幼馴染だった。頭に血の上ったアーシアの扱いには慣れている。小型の雪嵐のような勢いで台所に飛び込んできた姿にもメリナは動じなかった。
「莢の筋は忘れずに両側とも取るんですよ。でも、そんなはずはないでしょう」
 そう話しながらもメリナの手は干し肉を刻み、野菜を選り分けて休むことがない。
「レンディアの長といえば、確かティールさまより三つばかり年上なだけですよ」
「そんなに年取ってるんだ」
 アーシアの目には怒りと驚きでうっすら涙まで浮かんでいる。メリナはため息をついた。「おおげさですよ」
 しかし、アーシアの気は晴れなかった。
「だって私よりいくつ年上なの? だいたい会ったこともないじゃない」
「あら、ありますよ。昔、前の長殿といっしょにエフタへ来られて……」
「いったいいつの話?」
 それが、自分がまだ乳飲み子だった頃の話と聞いて、当人は断固として首を振った。
「嫌なのよ。絶対に嫌」
 メリナは野菜の皮を剥く手を止めた。
 アーシアは頑固な性格ではあったが、いつまでも駄々をこねるほど子供ではない。少なくとも、そうは見られたくないと思うはずだった。
「いったい何がそんなに嫌なんです? 会ったことがないのはあなたも同じじゃありませんか」
「だって、勝手に決めたのよ!」
 アーシアは思わず叫んだ。
「何で最初から決めつけるの? ああしなさい、こうしなさい、それはだめ。父さまも城臣も婆やも言うけど、誰も理由なんて知らないじゃない」
「アーシアさま」
 メリナはぎょっとして刃物を落としそうになった。
「父上になんて言い方を……」
 しかしアーシアは幼馴染を睨み返した。
 顔も知らない隣国の長といえば、自分よりも父や城臣たち年寄りの仲間ではないか。そんな人に嫁げなどといったい誰が決めたのか。
 古王国の血筋というが、それにこだわるだけのどんな理由があるのか。兄の許婚は村の娘なのだ。
「それなのに、何で私のことだけ勝手に決めるの?!」
 アーシアは勢いよく立ち上がった。豆の籠を膝に置いたのを忘れていた。浅緑の豆は勢いよく床に散らばった。
 メリナは厳しい目をして豆を指差した。「アーシアさま」
 よく磨かれた灰色の石の床にかがみこんで、アーシアは黙って豆を拾った。
 子供のようなことをした。そう思うと口惜しいやら情けないやらで、また涙が溢れてくるのはどうしようもなかった。
 拾い残しがないかを確かめると、二人は同時にほっと息をついた。
「ねえ、アーシアさま」
 俯いたままの幼馴染を、メリナは覗き込んだ。
「ともかく一度、レンディアの長に会われたらいかがです? あちらはアーシアさまの噂も聞いた上で申し込んでおられるんです。会いもしないで嫌というのは公平じゃありませんわ」
「皮肉を言わないで……」
 文句を言いかけたその時、アーシアははっと顔をあげた。
「そうだ。会ってから嫌だと言えばいいんだわ」
「ええ?」
 メリナは驚いて目を瞠った。
「会ってみたら本当に嫌な人だった、と言えば父さまもきっと考えて直して下さるわ。そう、顔も知らないで言うよりよっぽど効きそうじゃないの」
 アーシアは椅子から滑り降りた。
「支度しなきゃ」
「いったい何をなさるんです?」
 情けない声でメリナは叫んだ。こんな理屈になるとは思ってもみなかったのだ。
「もちろんレンディアへ行くのよ。挨拶の言葉を覚えなきゃ。それからイバ牛を選ぶわ。兄さまがオリスに乗るなら、私、あの黒いのにする」
「駄目ですよ!」
「大丈夫よ、ちゃんと挨拶してみせる。兄さまも文句言えないようにね」
 アーシアは自信ありげにいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それから婚礼なんて真っ平です、と、丁重にお断り申し上げるわ」
 まさか、その言葉をレンディアの長本人に言うつもりではあるまいか。そう考えてメリナはぞっとした。
 アーシアは豆の籠をメリナに押しつけ、台所から駆け出していった。その籠を見下ろして、メリナは泣きたい気持ちになった。
 あれほど言ったのに、豆の筋はどれも片側しか取られていなかった。

 薄紅に染まったちぎれ雲が追いつ追われつするように、夕暮れの峰を越えていく。紫の夕闇は山なみを這い上がり、石造りのエフタの城を包み込んだ。
 城の回廊では、幼馴染の言葉にうろたえたメリナがティールに泣きついていた。兄王子は笑って、いくら何でもそこまではするまい、と請合った。
 その階下の牛小屋では、これと選んだ牛の背をこすっているアーシアの姿があった。話しかけたり背を叩いたり、それから思い出したように小難しい挨拶の文言をイバ牛の前で披露している。牛はそれを聞いているのかいないのか、時おり退屈そうにあごを動かした。
 寒さの緩んだ春の宵だった。やがて古い剣の形の峰が闇に沈むと、こぼれるように瞬く星が空をおおった。
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