45 風渡の野 目次 47


風渡の野  46 
7.
「何とも苛烈な御方だ」
 狭い石の廊下を歩きながら、イーレはつぶやいた。それをキルアムはちらと見やった。
「だが、そうでなくては皇宮ではやっていかれん」
 皇家の中、ことに三人の皇子の争いを知らぬ者はいない。この言葉にイーレはふと眉をひそめた。
「やはり、噂は本当なのでしょうか。つまり、殿下ははめられたと……」
 だが、続く言葉はキルアムに遮られた。
「憶測は命取りだぞ」
 もっとも、彼も否定はしなかった。
 今回の皇帝からの命令はキルアム自身も納得しがたいものだった。兄皇子の指揮下へ編入された黒鷹兵の大部分が重装兵で、砦を守るという任には向かない。こんな山奥へ来た兵たちにしても、駄獣――牛の背で戦うなどこれまで考えたこともなかった。
(そもそも、皇子殿下の仕事ではない)
 キルアムは顔をしかめた。
 この辺境での任務のために集められたほとんどが山岳地からの農民兵だ。雑兵を率いるなど、大隊長程度でよいはずだ。だが、それをラケル自らにさせよ、という。となれば、裏で糸を引いたのは兄、弟――どちらの皇子殿下か、と考えるしかなかった。
 その時、遠くから聞こえる重い蹄の音にキルアムは顔を上げた。
 窓の外、はるか山道に相当数の兵が牛を駆ってくるのが見えて彼は目をすがめた。
「どういうことだ?」
 イーレの表情も険しい。尾根の先の村も掌握せよ、というラケルの命令で送られた中隊だ。帰ってくるはずが無かった。
 キルアムは厳しい視線を部下へ投げた。
「このような山里のひとつやふたつに手こずるなど考えられん。報告はわしの前でさせるように」
「……」
 イーレはごくりと唾をのんだ。

 副将ではなく、黒鷹軍一の将軍の前に立つ意味は重い。
 土埃にまみれ、腕に矢傷まで負った中隊長の姿は将校らの前ではいっそう惨めに思われた。相手はただの山岳民、敗けを喫するなど彼らの誇りからは考えられない。将軍の怒りはいうまでもない。
「たわけ者が!」
 岩が落ちるような怒声に、集まった者たちは身をかたくした。
「その黒鷹の徽章は飾り物か?」
 辛辣な言葉に中隊長は歯をくいしばり、増員の許可を願った。
「一隊をお許しいただければ――」
「二分隊までだ」
 キルアムはぴしりと遮った。
「我らがここへ来た目的を忘れたか。本末を転倒してはならん。ここで一人死ぬは平原で戦っている黒鷹兵が一人死ぬことと思え」
「は」
「兵一人を損なうは故国を損なうことだ。肝に命じておけ!」
 その怒気に慄きながら、中隊長は退出していった。
「今年は正念場ぞ」
 激昂そのままに、キルアムは副将を睨めつけた。
「前年に天候に恵まれなかった昨年とは違う。地方小国からの兵も揃いつつある。だからこそ皇帝陛下も此度の黒鷹兵の編入を許されたのだ」
 この言葉に、今まで沈黙していた将校たちは顔を見合わせた。
「では、南部だけではなく、北東部の戦線も今年は動くということでしょうか」
「赤鷹軍がついに討って出るのでしょうか」
「我が軍はどうなるのですか。ばらばらにされて、次は弟殿下のもとへ行けと?」
 広がるざわめきを、キルアムは手をあげ押し止めた。
「赤鷹軍も移動することになるだろう。たが、そこに編入されるかどうかはまだわからん」
 この数年、激しい戦闘を繰り返してきた南部だけでなく、膠着していた北東部も、となれば確かに正念場の年となるだろう。
 しかし、彼ら黒鷹将校にとっては苦い一年となりそうだった。多くの兵が白鷹軍とともに南へ、残りわずかは各地の砦に張りついて守りを固めなければならない。前線へ出ていけない以上、どう転んでも彼らの旗が翻ることはないからだ。
 くすぶる不満を将校らと思い分けているから、キルアムもまた硬い表情だった。
「ここでの任務が終われば、また南部戦線へ復帰できるのでしょうか――黒鷹旗を掲げて」
 イーレの問いももっともだった。キルアムはつよく頷いた。
「それを念頭においての任務だ」
「ラケル殿下も、同じように考えておられるのですか」
「ああ。あるいは……」
 ふと、さきほどの主君の様子を思い出して、キルアムはひそかに肩を震わせた。
「あるいは、さらに先のことを考えておられるのかもしれん」


8.
 まだ雪が解けのこる春の山を、人々は列をなして登っていた。
 長く白い印旗が掲げられ、列が動くにつれてたなびく。弔いの詠唱は風にのって遠くの峰にまで運ばれていく。そのうちのひと声でもいい。天まで、ハールにまで届けという願いを込めて、レンディアの村人は詠い続けていた。
 戦いによる死者が出なかったことはささやかな救いだった。だが、使者の亡骸を前に村人たちはあらためて涙を流した。
(命ある者へのなんという冒涜か)
(平原の人間は、ハールを恐れることを知らないのか)
 葬列はやがて雪渓を越えた。
 この先はハールが住まう神の庭――山の民が最後に眠る床だ。亡骸は布にくるまれ、雪の原に横たえられた。無残な傷は花と若葉におおわれていた。
 亡骸をとり囲むように立てられた印旗がゆれる影を落す。その傍らに長が膝まづき、祈りを捧げた。まわりに立つ村人もあとについて祈った――あなたの庭を歩む子が迷うことのないよう、道を示して下さい、と。

 弔いの儀式がおわると、人々は別れを惜しみながら山を下りはじめた。三々五々に立ち去る村人の中、セディムは城臣ギリスの姿に目をとめた。
 ギリスは、今はもうからだの一部になってしまったような杖をつきながら、それでも難儀して雪残りの山道を歩いていた。セディムは彼の横に並んで腕を差し出したが、ギリスは首をふった。
「どうってことありません。もう何年もこれでやってますから」
 そこで、セディムはギリスの半歩先に立って下りはじめた。
 雪が融けた下からはガレ石とぬれた土が顔をのぞかせている。ところどころに爪の先ほどの若葉がのびて、弔い人らの目をひいた。死者は去り、新しい命が山に与えられる。滞ることない営みは村人に安堵の思いを抱かせるだろう。
「ところで、セディム様」
 ギリスは大きな雪のかたまりをよけながら尋ねた。「弔いにはスレイが来ていなかったようですが?」
「ああ。何人か連れて、谷の見張りに行った。今朝方、先に祈りを捧げてから出て行ったらしい」
 ギリスは眉をひそめた。
「会っておられんのですか」
「城にいる気になれないらしい」
 セディムは穏やかに答えて、ふと口をつぐんだ。
 ゆっくりと歩く二人を追いぬいて、村人たちは下っていく。もう後ろには誰もいないのかもしれない。風の音だけが耳にひびくようになった。
 スレイが最初の矢を任されながら怯んだことは村中に知れていた。非難する者がいる一方、いや、後では誰よりも多くの矢を放った、と証す仲間もいた。
「皆の目がつらいのだろうが……いたしかたないだろう」
 ギリスは驚いて足をとめた。
「スレイが出て行ったのは、あなたに合わせる顔がないのですよ」
「なぜだ?」
 セディムはふり返った。「恥じている? そんな必要はないのに。何を強いたのかは、私が一番よく知っている」
「それでは、奴にはできないとわかっておられたんですか?」
 ギリスが目を瞠ったのに気づいて、セディムは苦い笑みを浮かべた。
「スレイは彫り師だ。人の姿を彫るのが好きなんだ。人を傷つけることなど、本心では望んでいないだろう。それに、スレイだけではない」
 ――自分たちは本当に『戦』などできるのか。
 このことは最初からセディムの胸に引っかかっていた。
 祈りを捧げて始める狩しか知らない、ハールの子である人間を殺してはいけないと言われて育った者が、人に矢を放つことなどできるのか。そもそも、戦の中に生きるアルセナの人間がどうやって戦うものなのか、見当すらつかない。長いこと孤立していたこの地には、平原について教えてくれるものはあまりに少ない。
 その長の表情を見て、ギリスは尋ねた。
「ラシードがいれば、少しは役にたったろうに。奴を呼び戻しますか?」
「いや」
 だが、セディムは首をふった。
「城と地の利があれば、レンディアはもちこたえられる。だが、エフタにはあの二人しかいない。彼らがいなければ、エフタに先はない」
 しかし、そう言うそばから薬師の残した助言がむなしく思い出された。
 ギリスは何も答えなかった。彼自身は戦の場へ行くことはない。長、城臣、村人――誰の気持ちもわかるが、かえって口に出すことができないのだろう。 
「ともかく、使者たちはようやく眠れますな」
 ぽつりと言って、胸の前に祈りの印をむすんだ。
 村の家々を見下ろす細道にかかった時、二人は足をとめた。城の前にはイバ牛が引き出され、たくさんの村人が集まっている。
「あれは、何だ」
「行って下さい」
 ギリスは長を促した。「多分、あなたを待っているのです」
 セディムは頷いて、山道をひとり駆け下った。

 城の前は狩人たちでいっぱいだった。弓を、矢筒を、という声が飛び交う中に戻ったセディムは城臣の姿を探した。
「ヤペルは。オルドムはどこにいる」
「セディム様」
 小走りにやってきたのはヤペルだった。
「見張りに出ていた者が使いを寄越しました」
 傍らに立つ、来年あたり初狩を許されるだろう少年は長の前に背伸びしていた。
「道に積んであった石垣が崩されました」
「すぐに兵士がやってくるから応援の手が欲しい、とデレクから伝言がありました」
 と、ヤペルは厳しい表情で周りの者たちを示した。「支度は出来とります」
 セディムは狩人たちを見回した。すでに皆が身支度を整えており、あとはイバ牛に合図するばかりだ。セディムがともに行くといえば、彼らは長の支度を待たねばならない。
 躊躇しているセディムを促すように、ヤペルは言った。
「今すぐ行かせましょう。そして、次に備えねばなりません。同じ手はもう使えませんからな」
「わかった。――アデル、頼んだぞ」
「お任せください」
 アデルは使い慣れた弓を握りしめ、イバ牛の背から大きく頷いてみせた。「必ずや道を守ってみせますぞ」
「ヨーーーゥ」
「ツェ、ツェ、ツェ……」
 合図の声があちこちにあがってイバ牛たちが歩きだした。
 細道をぬけるころには速歩に、さらに進めば雪鳩狩のときのように身軽に走りだすだろう。その背に跨った村人らの顔には、レンディアを自分たちの手で守ろう、という決意が漲っていた。
 ――だが、いったい何人が気づいているのだろう。
 彼らを励まし送りだしながら、セディムは考えていた。
 戦がいつ、どうやって終わるものかなど誰も知らない。どうやって終わらせることができるのか、長自身も想像がついていないのだ。
 見知った雪嵐とも突風とも似つかぬものの中に足を踏み入れた――そんな気がして、セディムはひそかに身震いした。
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