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風渡の野 45 | ||
5. | |
矢をくぐりぬけた兵士たちは崖下に陣取って、今度は狩人たちに向かって射返し始めた。すると、少しはなれた岩場に、また別の狩人たちが立ち上がった。ノアムの率いる一団だ。 「山を守れ」 「使者を思え!」 口々に叫んで、矢を放つ。迎えうつ平原の弓はレンディアのものより強いらしい。うなりをあげて飛ぶ太い矢は、狩人たちが立つ岩にあたって石片を飛ばした。 アルセナ兵の列はいまや長く伸びていた。次々と岩陰から姿をあらわし、手にした小盾で矢を払いつつ駆けぬける。何を叫ぶか怒声がやまず、射抜かれて崖下に消えた者もいた。だが、兵の数はしだいに増えていった。 狩人たちはしだいに追われる形で岩場を退きはじめた。そこへ執拗に射かけながら兵はさらに進んでいく。 その時、山にひときわ強い叫び声が響いた。狩の折に、狩人がハールの護りを願うかけ声だ。 「レンディアを守れ!」 山道の正面、高く切り立つ崖の上にあらわれたのは、最後の岩場にひそんでいた狩人たちだ。 「去れ!」 「ここは我々の地だ」 その中にはアデルの姿もあった。今までこらえていたものがこもる矢は、鈍い音とともに革鎧を貫いた。 あらたに現れた射手に兵士たちの足どりは乱れた。先頭の兵はちょうどアデルたちの眼下に身をさらしていた。浴びせられる矢をかわそうと先へ進んだ者もいたが、崖の向こうから叫び声が上がり、彼らは戻ってこなかった。 ふいに、山の空気を裂くように鉦の音が響き渡った。 これを聞いた兵士たちの間にとまどいの声が上がった。山の民は知らなかったが、アルセナ軍兵の退却を告げる合図だったからだ。 不満のつぶやきが広がった。だが、退くこともふくめて、服従が彼らの義務なのだろう。手綱をひいて牛を回し、倒れた兵たちを抱え上げる。あるいは空身の牛の手綱を操って、引きあげはじめた。 こうして、まるで風が砂礫を掃きちらすように、兵士たちはばらばらになって山道を駆け去った。 息をはずませながら、レンディアの男たちは立ち尽くしていた。 矢を番えたまま兵士が去った道を呆然と見つめている、その間を長が歩きながら声をかけた。 「みんな、よくやってくれた。レンディアは守られるぞ」 これを聞いて、ようやく多くの者が破顔した。 村を守った――その感触が、熱のようなものが広がっていく。最初はおずおずと、やがて声があふれた。 「やった……」 「やったぞ!」 自分たちが村を守った、そんな力が自分たちにはあったのだということが、やっと腑に落ちたのだ。 「奴ら、二度と来てみろ。追い払ってやる!」 「ここはハールの住まわれる地だ」 父神に栄えあれ、と叫ぶ歓声の中、ノアムは厳しく口をむすび、仲間をかきわけて歩き出した。 「スレイを見なかったか?」 誰かが指差す。弓を振りあげて喜ぶ人垣の向こう、連なる岩に腰をおとした姿にノアムは走り寄った。 「おまえ……!」 怒鳴りつけて、スレイの胸ぐらをつかんだ、その声はちょうど上がった歓声にかき消された。 「レンディアにさいわいあれ!」 「何故、ためらった?」 何かを奪い返そうとするような激しさで、ノアムは幼馴染を睨めつけた。だが、揺さぶられるままのスレイの目は呆然と見開かれたままだ。 「……できなかった」 こぼれた言葉は力なく、その意味もろくにわかっていないようだった。 「顔を見たんだ。まだ子供だった。十五かそこらの……そう思ったら、手が動かなかった」 「ああ、そうだろう!」 怒りと、ふいにわいたやるせなさにノアムの声は震えた。周囲の誰も二人に気づいていなかった。熱気の中で、ノアムの言葉は冷めていった。 「それなら何故、戦うべきだなどと言ったんだ? 長や城臣は戦うまいとしていた。なのに、力で決着するなどと何故言った?!」 ノアムはひと呼吸して声をおし殺し、幼馴染の目を見据えた。 「いざという時、お前は踏ん張りきれないかもしれないと、セディムは知っていたぞ」 ぼうっとしていたスレイの瞳がみるみる澄んで、焦点を結んだ。「……何だと?」 「戦の前、おれは後ろの守りにつくのはおまえの方が向いていると言った。だが、セディムはそうしなかった」 ノアムは吐くように言った。 「守りの要をおれに任せる、と。何があっても射つづけて、決して攻め入られるな、と言った。そこまでは……おまえはできないと見越していたんだ!」 湧きたつ歓声の間をセディムは歩きまわっていた。 興奮のあまり涙を流している者、気がぬけたように座り込んでいる者もいる。鎧姿が崖から落ちていく光景がまなうらから消えないのだろう、声をかけてもすぐには返事をしない。よくやってくれたと肩を叩くと、ようやくこちらに目を向けた。 だが、セディムの表情はいつまでも硬いままだった。 もし誰かが怯んだなら――戦えと命じられるのは長だけだとわかっていたから、城臣の反対を押し切ってここへ来たのだ。 (それなら何故、いまさらこんな吐き気を覚えるのだろう) ふと、足元に落ちていた矢に気づいた。アルセナ兵が放った本物の鉄の鏃だ。手に握り込めばひどく冷たかった。 「セディム様。祈ってやってください」 静かな声にふりかえると、男たちが集まっていた。 目に覆い隠せない悲しみをにじませながら、アデルが上衣のかたまりを差し出していた。衣、ではない。そこにくるまれていたのは、長年城に仕えてきたものの無残な姿だった。こぼれる白髪には血がこびりつき、まなこは見開かれていた。きっと最後のその時まで、目にしたものを長へ報告するつもりだったのだろう。 セディムは腕をのべてそれを抱きとった。弔いの儀は村へ戻ってからになる。しかし、まずは使者に言いたかった――許せ、と。 「モルード。ご苦労だった」 この長の言葉を聞くと、男たちもつぶやきながら死者のまえに頭を垂れた。 「もう、眠っていいぞ」 「レンディアは俺たちが守ってみせるからな」 |
6. | |
古いエフタの城には、かつて聞かれたこともない音が響いていた。 鋲打ちの靴が石を打つ、金具と鞘があたる音、そして、たくさんの兵士の声。城を占めていたのは、アルセナの第二皇子ラケルとその兵だった。山地を制するのに必要、とアルセナ北部の山岳地から集められた兵は城下の小屋にいる。そして、小屋のそもそもの住人たちは、さらに粗末な納屋に押し込められていた。 だが、城に居をかまえた者たちは、そんなことどもに興味はない。彼らが知りたいのは、本国とバクラとの戦が行なわれているシル河畔の動静だけだった。 「我が軍がドルカラの砦を落としたぞ」 城の一室では、駆け込んできた男の言葉にどよめきが広がった。かつてエフタの城臣が集った広間は、今はアルセナの将校たちが占めていた。 「確かなのか?」 「どの隊だ?」 あふれる問いに、男は興奮気味に答えた。 「白鷹三軍だそうだ。これで河南一帯がアルセナの配下になる」 だが、これを聞いた将校たちの間からは苦しげな声がもれた。 「またか。河南に掲げられたのは白鷹軍旗ばかりではないか」 「我らが黒鷹軍はどうなったのだ」 誰も自軍の勝利の知らせを受けたとは思えない顔つきだった。 白鷹と称される第一皇子の軍と、彼らはさまざまな栄誉をはりあっていた。皇宮にあれば御前試合の賞を、戦場にあれば剛を競う関係だ。彼らはラケル皇子の旗にちなみ、黒鷹軍と呼ばれている。 だが今は、呼ばれていた、という方がいいかもしれない。 ここにいるのは皇子直属、つまり黒鷹の目とも頭ともいうべき一隊だ。しかし、鷹の翼は今もシル河畔の戦線にあった。 二月ほど前、黒鷹軍兵士の相当数が白鷹将の配下に編入された。作戦のための一時的なことと言われはしたが、それで簡単に受け入れられることではなかった。 「実働している黒鷹兵の八割だぞ。要は白鷹将の手駒に持っていかれたということだ」 すると、剣の握りを磨いていた年嵩の将がそれを受けた。 「ドルカラといえば河南の中心だ。ここを押さえ続けるには兵の数が必要なのだ」 「それなら、我々が部下を率いればよいでしょう」 先の将校は憤然と言い返した。 「二軍がそれぞれに兵を出し、ともにドルカラ周辺を守ればいい」 「そうだ。何故、我らだけがこんな辺境任務につかねばならないのか」 これには頷く声が漣のように広がった。 軍兵を率いる立場であればこそ戦場へ戻りたい。馬を駆り、隊列を率いてバクラの兵士と剣を交える。それが、彼らの国への仕え方だ。 「やめんか」 その時、一喝する声が響いた。扉の前に立っていたのは、壮年の将だった。 短く刈り上げた髪と骨ばった顔、額に残る古傷は、その地位が生まれだけで得られたものではないことを示している。 「キルアム将軍。ですが――」 「今回のことは、殿下もご承知のうえだ。お考えあっての命に口を差しはさむのが黒鷹将の務めか?」 これには将校たちも口をとざすより他なかった。 「キルアム将軍、イーレ副将」 その時、伝令の少年兵がやって来た。静まり返った上官の面々に恐れをなしたか、彼は必要以上に胸をはった。「ラケル殿下がお呼びです」 階上の間で、キルアムとイーレは主君のまえに頭を垂れた。アルセナでは質実剛健が好まれているから、皇子であってもこの程度の礼ですまされる。 部屋の奥の椅子におさまった男は年は三十ばかりか。冷ややかな表情で、戦場にある将らしく革鎧に身をかためている。肩からたらしたマントの縫い取りは、背後に掲げられた黒鷹軍旗とおなじ模様だが、意匠はさらに豪奢だ。大将の様子がりゅうとしているほど、兵は喜ぶものだ。ラケルのこの身なりは好んで、というより、立場を意識したものだろうとキルアムは考えた。 だが、皇子はかたわらの地図を眺めたまま、いっこうに二人に見向きもしない。 用件を言うでもなく、参じたことを認めているかもわからない、主君のやり方に慣れているキルアムもさすがに所在なく感じ始めた頃、 「南か、東か。どちらだと思う?」 ラケル皇子はようやく口をひらいた。 「は?」 「白鷹騎団はこれからどうすると思う?」 と、何気なく微笑む。これが油断ならないのだ、とキルアムは背筋をのばした。 「東へ向かうべきでしょう」 「何故だ。ドルカラ周辺の制圧に力をそそぐべきではないのか」 そうは言いながら、ラケルの目は将軍を試すように見ていた。すでに答えは出ているのだ。求められているのは『面白い』答えだった。 「ドルカラは通過点にすぎません。東の対岸の砦を得て、はじめてシル河を使えるようになるのです」 「南は要らぬか。鷹揚だな」 「東を手にすれば、南の地はそれについてきます」 「兄上もそのように考えてくれればよいが。残念ながら、そんな機転はお持ちではないだろう」 そう言って立ち上がり、窓の外へ目をやった。 「は……」 キルアムはどう答えてよいかわからず、あいまいに頷いた。 戦線はシル河とからみあう蛇のようにのたうち回っていた。東岸そして西岸へと動きながら、町や古い砦をその身に抱きこんでいく。要所の砦を押さえれば、蛇は蠢き、兵士が進む。だが、その動きが遅ければ横から隙を突かれ、薄くなった蛇の皮は破れてまた元の形にもどる――シル河畔の土地を争う戦いはこうして何年も何十年も続いてきた。 沈黙してしまった主君を前に、キルアムとイーレは顔を見合わせた。いずれにしても、彼らが望んでいる戦の場がまた遠のいたわけだ。 その時、士官のひとりが報告にやってきた。 「山を下りていた者が戻りました。ご命令どおり、遺骸を持ち帰りました」 この辺境の地の長を処刑したのは数日前のこと。それに先立ち、ラケルは旅に出たという長の息子のあとを追わせていた。まずは指導者を処分して叛乱の希望を断つのが彼らのいつものやり方だからだ。 しかし、皇子の表情は渋かった。 「遅い」と、イーレは部下を叱責した。「いったい何日かかっているのだ」 「申し訳ありません。ですが、この急峻な山道、不慣れな者が死体をかついで歩くのはいささか……」 「聞き苦しいぞ」 「――誰が体を持ち帰れと言ったのだ」 冷ややかな声に、三人ははっと息をのんだ。いつのまにか皇子はこちらを見据えていた。 「みせしめにすると言ってあったはずだ。首だけあれば足りるであろう」 そう言うと、ラケルの目はふたたび地図に注がれた。 非情な言葉にキルアムとイーレは声も無くし、皇子の前から下がった。 |
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