真冬の光  第四部 真冬の光 3章-2
真冬の光 目次 3章-4
 
第四部 真冬の光
三章 希求 - 3

 
 ついに麦の袋が空になった。
 最後の袋はうらがえしにされ、はたはたと振られて、それで終いになった。
「まだ、少しだけ豆がありますからな」
 つとめて明るい声でヤペルが言うと、セディムが長の間の窓から振り向いた。朝日は薄い雲に隠れていたが、外は明るい。
 本当ならば昨日あたり、山を下りた男たちがもう帰ってもいい頃だった。だが、市での交渉に手間取れば一日二日は遅れるかもしれない。山の天気はよく持っていた。今日あたり登ってくるかもしれない、あと少し待てば、何かしらの食べ物が手に入る。そんな声も聞かれた。
「実は、ですな」
 ヤペルがそっと声を落とした。
「ロカムが言うとるのです。雪がさわいでいると」
「雪が?」
 セディムは目を瞠った。冬の終わりの終わりになると、積もった雪がゆるみ始め、かすかな音をたてる。聞こうとしてもそうは聞こえないきしみを、レンディアでは「雪がさわぐ」と呼んでいた。
 だが、セディムは口元を引きしめた。
「まだ、わからない。春の鳥が姿を見せない」
「……そうですな」
 ヤペルはちょっと気落ちしたように目を伏せた。
 だが、その二人の間にも切にそれを願う気配が流れている。もし、ほんとうに春ならば――そして、男たちがもうじき麦を背負って帰るなら、レンディアは長い冬を耐え抜いたことになる。
 セディムは暦台の石をひとつ動かした。
 この冬の間、もう何回この石を動かしただろうか。一日、ひと刻み、毎日――。去年の今頃は父の仕事だったが、今ではもうセディムの日課になっていた。長い冬と呼べば恐ろしいばかりだが、こうして石を動かせば時が過ぎていると信じられる。皆が希望を持てる。実際、日は着実に長くなり、陽光は力強くなっているようだった。
 そんな天候が急転したのは、翌日の午後だった。

 カバラス山脈は麓こそうすい緑に色づいていたが、その肩はまだ雪に覆われていた。
 空には鈍色の雲が連なり、畝をつくっている。雪に覆われた急斜面には粉雪がさらに降り注いでいた。その中を登る黒い石粒のような姿がある――レンディアの男達だった。
 風は絶え間なかったが、岩の間を縫っていく一行はまったく気にしていなかった。山の上に比べれば、たおやかなそよ風のようなものだからだ。
「よく、もつな」
 先頭の若者のつぶやきは、顔の下半分をおおう面布でくぐもって聞こえた。すぐ後ろを歩いていたラモルだけがそれに耳をとめ、
「計らいか、試練か」
 そう言って、並んで歩くイバ牛の背から雪を払い落した。つまり、この穏やかな雪――レンディアの者にとっては好天のうちだ――は天の父が彼らを守っている証なのか、あるいはのちに来る試練の前の静けさなのか、と言っているのだ。
 その時、列の後ろから手を挙げながら来る者がいた。ドルモだ。
「――先頭を代わろう」
「何故だ?」
 前にいた若者が面布を少し下ろした。ノアムだった。
「まだ、交代してからいくらも経っていない」
「風向きが気になる」
「風向き?」
 ドルモはうなづき、目を細めて雪の原を見渡した。
 下へ下へと吹く風が雪を白く舞い上げて流していく。まるで、風のかたちが目に見えるようだ。
 ノアムは黙ってドルモと交代した。他の男たちもノアムのために場所を空けた。嵐の前兆にまっさきに気づくとすれば、この一行の中でもっとも風読みに長けたドルモだろうからだ。
 彼らは再び雪を踏みしめて斜面を登り始めた。
 辺りはすっぽりと雪に覆われていたが、峰の方角と山のかたち、時折みえる岩の地形から、どこを歩いているのかは皆がわかっていた。ノアムは少し前方の斜面を見やりながら、イバ牛とその背の荷物を確かめた。
 彼らがふもとの町を後にしてから、七日になろうとしていた。
 山を降りた彼らはまず二手に分かれ、自分たちの食べ物を買わずにすむようにノアムとラモルは近くの森で狩をした。
 残りの者はすぐに市場を訪れて毛皮を売った。古びていたのでろくな値段にはならなかったが、青鷹の羽は商人たちの目を引いた。飾り羽と引き換えに渡された、ちっぽけで頼りない銅貨を男たちは不安げに眺めた。それから、穀物商の天幕へ行った。
 わずかな金でより多くの麦を手に入れようと、あちこちを見比べて回った。駆け引き上手のチャルクに教えられた通りに一度だけ値切ってみもした。もっとも、彼らの目は空腹でぎらついていたし、商人を相手にするにはあまりに朴訥すぎて、とても交渉にならなかった。
 ただ、その様子があまりにみすぼらしかったのだろう、商人は値引きはしなかったが、代わりに干し肉少し――おそらく冬の終わりに余ったもの――を分けてくれた。
 不慣れな事どもに予想外に時間がかかったが、最後にはそこそこの量の食べ物を手に入れた。小さな野ウサギも捕えることができた。男たちはそれらをイバ牛の背にくくりつけて、山道を急いだのだった。
(よかった)
 来られてよかった、そう考えてノアムはもう一度しっかりと雪を踏み固めた。これで、甥っ子に食べさせることができる。姉にも、友にも。そして――。
 そのとき、足元の雪煙にノアムは気づいた。
「ドルモ」
 声をかけた先ではドルモがすでに足をとめて、峰を見上げていた。
「風が回ってる」
 ――東から、わずかに北へ。一行は顔を見合わせた。天候が荒れる前触れだ。
「まあ、よくもった方だ」
「あの雲を見ろ」
 分厚い雲は山並みの向こうから果てしなく押し寄せてくる。今はまださほどではないが、いずれ激しく降るだろう。ラモルが身震いした。
「雲が厚いのに、どうしてこんなに冷えるんだ」
「もっと寒くなるぞ」
 一同は驚いてドルモを見た。彼は仲間たちから一歩離れて風の匂いと風向きの変化を読もうとしていた。
「冷えてくるのは風のせいだ。雲があっても温もりはどんどん奪われていく」
「どうする」
「ここで、野営するか」
 日が傾く頃には、風はさらに冷たくなるだろう。この先、故郷に近づけば近づくほど岩も灌木も少なくなる。身を寄せて野営できる場所はもう無い。
「このまま登ろう」
 そう言ったのはラモルだった。「もうかなり近くまで来てるんだ。皆を待たせたくない」
「俺は反対だ。嵐をやりすごした方がいい」
 ノアムは首を振った。横で別の者も頷く。
「そうだ。これはレンディアの命綱の麦だ。慎重になるべきだ」
「だが、やりすごすと言っても、どれだけ待つのだ?」
 そう言ったアラゴの雪焼けの顔を皆が見た。
 雪はどれだけ降るのか、風は続くのか――しかし、祈り尋ねても、答えはどこからも返ってこなかった。足元を流れる雪煙はいっそう厚く、激しく渦巻いている。
 やがて、沈黙を破ったのはドルモだった。年長でこの旅の主導ともいえる彼の表情は厳しい。その灰色の眉が上がった。
「――このまま登ろう。この風は、来るぞ」






 

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