14 Novel 16
春を待つ城 15

「ばかげた話だ」
 セディムは肩の傷をかばいながら寝返りを打った。
 日が落ちてから風に雪が混じりはじめたようだ。狩小屋の戸を叩く雪つぶての音が、夜の静けさをいっそう際立たせる。
 誰に聞かせるとも自分に思い出させるともつかないセディムの話に、ラシードは黙って耳を傾けていた。炉の小さな炎に照らされて見えるのは鍋だけで、炎を見つめる二人の顔は闇に沈んだままだった。
「あの麦さえ手に入ればと、ずっと願ってきた」
 セディムは目を閉じた。
 あの豊かに重い実をつける平原の麦。今も脳裏に思い描ける、金色の波穂。穂のざわめき。
 だが、それもこれも夢だ。
「考えてみればあたりまえのことだ。レンディアの麦は昔、父祖たちが平原から持ち込んで育てたもの。平原の麦と同じ種類だ。重い実が生らないのは麦のせいではない。ここの痩せた土、乏しい水と寒さのためだ」
「つまり、何をしても変わらんということですか?」
 セディムは頷いた。
「この地が豊かに実ることなど、ありえない」
 もしもあんな麦が実るなら、たとえ雪鳩の毛皮十枚が二十枚でも惜しくはない。だが、そう口に出せば、それすら持っていないことを思い知らされるだけだ。
 セディムはこの何年もそうしてきたように、目を閉じて、誰にも聞かれないようにため息をついた。
「退屈な話をした。すまなかったな。だが、もう気が済んでいるのだ」
 ラシードは薬草を揉み続けていた手を止めた。
「あきらめた、と?」
「せっかくの土産だが、この麦は役にはたたないのだ」
 そう言って、セディムは麦の袋を差し出した。
「皆が健康で畑を守り、秋にはハールが恵みを下さる。無事に冬を越せれば、それで充分だ」
 セディムは穏やかに笑ってみせたが、それは陰になっていてラシードには見えなかった。
「やはり、あなたは変わられたな」
 ラシードは返された麦の袋をちらと見たが、手を伸ばそうとはしなかった。
「確かに貧しい山の民が、他に願うことなどありませんからな。いやはや、あなたも大人になられた」
 そう言って薬草を鍋に放り込んだ。
「平気で嘘をつけるようになられたな」
「嘘だと?」
 セディムは驚いて身を起こした。「偽りなど言った覚えはない」
 セディムは思わず傷の痛みにひるんだが、ラシードはそれに手を貸そうともせず、年若い友人の顔を覗き込んだ。
「ああ。皆には長らしい顔をして見せて、ご自身には平気で嘘をつく。望みはないなどと、たわけたことを。そんなことを誰が信じましょう」
「では、他にどうしろと言うのだ」
 ふいにこみ上げた怒りにかられてセディムは怒鳴った。治りかけた傷をえぐられたような気がした。
「いったい私に何ができる? 長にできることといえば、弔いの祈りを捧げて死者を送り出すことだけだ」
「長はハールと村とを結ぶ糸のようなものだ」
 ラシードも負けじと声を張る。怒声は山鳴りのように小屋を揺るがせた。
「何故、皆が長に感謝するのか、あなたにはわからんのか?」
 とたんに薪が音をたてて崩れた。
 ラシードは新しい木切れを手に、静かに炉を突いた。
「昔話の長たちのことを知っておられるか?」
「平原から落ちのびてきた、小王国の最初の長のことか?」
「そう。こんな貧しい辺境にあって、何故彼らが長であり続けたのか。いったい彼らの何を、村人が崇めたのか」
 それはセディムもノアムも、小王国の子供達が慣れ親しんだ昔話だ。
 かつての長たちはハールから貰い受けた力を持っていたという。望むだけで雨を降らせたり、陽を呼び戻す。狩の上首尾を祈り、獲物の姿を一番に見つけた。願うことで何かを手にいれた人々だった。
「だが、あれは昔話だ」
 セディムは笑った。
「私たち人間から、そんな在り難い力が無くなって久しい」
「確かにな。だが、それでも……今でも皆は知っている。長がハールの子の直系であることを」
「だが、昔話だ」
 セディムは繰り返したが、ラシードは首を振った。
「長が願い続けてくれなければ、誰が神に我々の望みを伝えてくれるというのだ」
「願うだけか」
 セディムはようやく手を伸ばして、ラシードの胸倉を掴んだ。
「叶えられることもないのに?」
「長が祈ってくれることを皆がどれほど喜ぶか。あなたはご存じない」
 ラシードは言い切った。セディムの顔から目を離さず、その手をはずさせた。
「レンディアのためなら何でもすると祈ってくれることが、どれだけ皆の助けになるか」
「祈っても何も変わりはしないのに?」
 セディムは自分の言葉に疲れて、ラシードが促すままに身を横たえた。
「願い、望み続けるだけでいいのだ」
 ラシードはそれを見守りながら言った。
「いつか変わらないものなどない。畑の石積みは変わり、新しい牛が生まれる。ケルシュは命を落としたが、あなたの傷はじきに治る。だから、ご自身に誓ったことを諦めなさるな」

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