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エッセイ・詩歌 10

   

「偉くない「私」がいちばん自由」 文春文庫 
米原万里 著  佐藤優 編

  偉くない「私」が一番自由 (文春文庫)


ロシア語会議通訳、作家・エッセイストとして活躍した米原万里の作品を、盟友・佐藤優がよりぬいた傑作選。メインディッシュは、初公開の東京外語大卒業論文、詩人ネクラーソフの生涯。ロシア、食、言葉をめぐる名エッセイ、単行本未収録作品などをロシア料理のフルコースに見立て、佐藤シェフの解説付きで紹介する。

 ロシア語通訳裏話の本をちょっと見して面白そうだったので、エッセイ選集を手に取ってみました。さまざまなエッセイ、文学論、教育論をロシア料理フルコースになぞらえて集めた一冊。いいですね〜

 ソ連邦解体前後の市民の本音の言葉が印象的。

 ゴルバチョフにはむかつくぜ、ブレジネフの頃はどんなタバコだって手に入ったもんだ。


 国主導だった社会がいきなり変わった苦労や理不尽、それでも「やりきれない」と笑いながら機転をきかせて生きていこうとするたくましさが伝わってきます。米原さんがほぼ母語のようにロシア語を話した方だから、こういう本音も聞くことができたのかなと思う。
 また、対談の中で語られた、亡命した芸術家のエピソードにも目をひかれました。

 彼が亡命十六年目になった頃、殺されてもいいからロシアに帰りたいと言って、ウォッカをがぶ飲みして泣きだしちゃったんです。
 ロシアにいる間は才能があるだけで皆が愛し、支えてくれたけれども、西側に来た途端に足の引っ張り合いと嫉妬で、自分はこういう世界を知らなかったから、それだけで心がずたずたになっていると言っていました。彼にとって才能は自分のものじゃなくて、神様が与えてくれたものなんです。



 昔、オリンピックでソ連などの社会主義国がごっそりとメダルを獲得するたびに「国家が選手に金を注ぐから、いい成績につながるんだ」とよく言われていましたが。もちろん、そういう面もあるけれど、商業主義とは無縁で、芸術やスポーツの才能そのものが大切にされる社会だったから生まれたものもあったのでしょうね。

 さて、残念ながら私は純文学はほぼ読まないし、さらにロシア文学は縁遠い(昔、子供向けに抜粋したプーシキン、トルストイを読んだくらい)。なので、せっかくメイン料理に選ばれた卒業論文である文学論は読めませんでした。

 通訳時代に関係するエッセイなどあれば、探してみたいです。

(2017.3.3)

 

「ガセネッタ&シモネッタ」 文春文庫 
米原万里 著

  ガセネッタ&シモネッタ (文春文庫)


もし、あなたが同時通訳者だとして、現場で突然「他人のフンドシで相撲を取る」という表現が出てきたら、どう訳します? 時間はないし、誤訳も困る。同時通訳は、次にどんな言葉が出てくるかわからない、スリル満点ストレス強烈な世界。そのストレス解消のため、国際化社会に欠かせない重職でありながら、同時通訳者の仕事には爆笑がつきもの。国際会議の舞台裏から、ロシアの小話や業界笑い話、柳瀬尚紀・永井愛氏との充実のコトバ対談まで、抱腹絶倒のエッセイ集。

 またもロシア料理のフルコースになぞらえられたエッセイは、『京のぶぶづけとイタリア男』『花と通訳にはお水を!』『腐ってもボリショイか』『モテる作家は短い!』……目次を見るだけでも面白い。通訳がらみの話は守秘義務があるから無理でしょうが、言葉について職業柄気づいたことがたっぷり語られていました。

 政治家、科学者、芸術家と幅広い分野の通訳のために入念な下準備をされるそうですが、その中で気づいたことが興味深かった。
 たとえば、冷戦時代の「鉄のカーテン」という言葉。私のイメージでは、東側世界がカーテンを引いて自由な思想を排除した強固さを表しているかのような言葉でしたが、実はカーテンをひいたのは西側世界という意味の言葉なのだそうで。
「西側諸国はソ連の革命の火が燃え広がるのを抑えるために鉄のカーテンを下ろしている」とロシアの作家が書いたのが始まりらしい。カーテン下したのは西側、という考え方なのね。

 また、日本語についても面白い譬えで語っています。

 わたしは日本語はまるで蟒蛇(うわばみ)のようだと思うんですね。『星の王子さま』では蟒蛇が象を呑み込んで象の形になってしまったでしょう。それが徐々に消化されて蟒蛇そのものの血となり肉となっていく。だから漢語が奈良時代に大量に入ってきたときにはぎくしゃくしていたと思うんです。でも、次第に日本人が自然に使うようになった。今度はヨーロッパの言葉が大量にカタカナとして入ってきたので、現代は蟒蛇が形を整えている状態だと思うんです。


 いったん飲みこみ、いびつな形になって、それから中身を消化して肉にする、というのは実感できる。

 また、カナや漢字をたくさん覚えなければならない日本語と、26文字ですぐに言葉の学習に入り込めるアルファベット圏の言語――その違いを痛感した著者は長らくそれを非効率と考えていたらしい。
 それが、黙読通訳(sight translation)の経験を通して、ロシア語と日本語は「黙読する限り、日本語の方が圧倒的に速く読める」と気づいたそうです。
 たしかに、文意の中心を漢字の単語で、その関係をかなで表す日本語の構造は目から入ると理解が速い、というのはわかる。それを実際に音読/黙読して比較して気づいたというところが面白いです。

 他に、零下60度のシベリアで車が故障した時に助けてくれたロシア人のこと。また、ソ連時代に当局の目を逃れて外国人(著者)と会って話そうとした友人との長い長いドライブの話も印象的でした。

 まったく、読むほどに著者の言葉に対する知識と経験の深さを感じます。言葉で苦労する職業だからこそ、こんな風に言葉を楽しむようになれるんでしょうね。
(2017.6.27)

 

「言葉を育てる」 ちくま文庫
米原万里 対談集

  言葉を育てる―米原万里対談集 (ちくま文庫)


通訳から作家へと転身を遂げつつも、類い希なる言葉の遣い手として人々を魅了し続けた米原万里さんの最初で最後の対談集。毒舌家でありながら、人間に限りない興味を抱きつづけた人柄が、多彩な対話からあふれ出す。対談相手は小森陽一、林真理子、児玉清、西木正明、神津十月、養老孟司、多田富雄、辻元清美、星野博美、田丸公美子、糸井重里の各氏。

 話題は教育や政治にも及びますが、とくに通訳という職業から見た「言葉」観が面白かった。言葉は本来自分を表現するために使うのに、それを赤の他人のために使うという、通訳って不思議な職業なんですねえ。

 特に面白かったのは、イタリア語通訳の田丸公美子さんと、コピーライターの糸井重里さんとの対談。
 言語が違うと、業界人の気質もこんなに違うのかとびっくり。理想主義で地味な服装のロシア語通訳と、個々人が好きにやっていて団結せず派手なファッションが多いイタリア語通訳。そ、そうですか。

 また、話者の意図するところを意識しながら、時に意訳のようなこともする、というのは、なるほどと思いました。
 単語がカバーする意味の範囲が言語によって違う以上、直訳より意訳の方が意図が伝わるのは当然なんでしょうね。

 ですが、その先をいく話を読めたのがよかった。つまり、誤解や衝突を生むとわかっていて、あえてそのまま訳した方がいいのではないか、という考え。

 本当はそのまま訳して笑われればいいわけです。ああ、日本にはそういうことわざがあるのかとか、ああ、それをかけておかしかったんだなあとか、いろいろ笑ったり失笑されたりして印象に残るつき合いができるから。

 なるほどなあ。
 これは、本の翻訳や講演の通訳とは違う、対話の通訳ならではの考え方ですよね。

 また、目をひかれたのは。紙を豊富に持っていた文化圏、たとえば日本や中国の人は視覚モード、という考え。一方、ヨーロッパ圏の人は聴力モードで、耳から入る情報に敏感に反応して覚える脳になっている、と。

 通訳していてわかるんだけど、日本の学者はロジックが破たんしているのが多いんです。ヨーロッパの学者は非常に論理的。現実は、世の中そんなに論理的じゃないんですよ。論理というのは何かというと、記憶力のための道具なんですよ。物事を整理して記憶しやすいようにするための道具。


 使っているのが表音文字か表意文字か、ということも関係あるのかしら。どちらが先かわかりませんけど。

 さらにじっくりと言葉の話を読んでみたくなりました。

(2017.3.16)

 

「ロシアは今日も荒れ模様」 講談社文庫
米原万里 著

  ロシアは今日も荒れ模様 (講談社文庫)


「ロシアとロシア人は退屈しない」そう断言する著者は、同時通訳という仕事柄、彼の地を数限りなく訪れている。そして、知れば知るほど謎が深まるこの国は、書かずにはいられないほどの魅力に満ちあふれている。激動に揺れながら過激さとズボラさ、天使と悪魔が共に棲む国を鋭い筆致で暴き出す爆笑エッセイ。

 1990年代に雑誌等に発表されたエッセイをまとめた一冊。
 話題はロシア人政治家の肖像やペレストロイカに翻弄される庶民の声、ロシア料理についてと幅広いですが、その中からロシアという近くて遠い国のイメージがぼんやり浮かんでくるのが楽しかった。ことに、ウォッカを愛するロシア人、その偏愛ぶりが可笑しくて呆れるばかりで、でも人間くさくて面白い(笑)。


 印象的だったのは、三章「その前夜」、ソ連邦解体前夜の庶民の言葉を綴った章。
 他の本でも読んだタクシードライバーの他にも、映画監督、炭鉱夫、文学者、兵士の母、元・軍人、元・宇宙飛行士……それぞれの立場で見た母国の変容が語られています。
「世の中にこんなことがあるんだ。国が『ソビエト連邦、やめます』宣言するなんて」と、衝撃的だったあの出来事。中の人たちは、外から想像するより複雑な思いでいたんだな。不安と焦燥、それと同時に未来に希望を持つ人たちもいた。

「この国の将来をどう思うかだって? いい国になるさ。俺たちみたいな闘う労働者が出てきたんだから、大丈夫だ」
 (元・炭鉱夫の言葉)


 また、元・宇宙飛行士の『高度な仕事をした人間は見合う報酬を与えられるのは当然。能力に応じて働き、働きに応じて与えられるのが社会主義の原則』という言葉は何だか資本主義の間違いじゃないの、という気がして不思議な思いでした。
 他の箇所には、ロシア人の気宇壮大さと語るエピソードとして、有人ロケットは打ち上げに成功して、視察要員を乗せたバスはエンコした、と書かれているのですが(笑)。一部の優遇される分野で「高度な仕事をした」人が豊かになるのは、どこでも同じなのかなあ。

 もうひとつ面白かったのは、5章「肖像画コレクション」。ゴルバチョフ、そしてエリツィンのユニークかつ人間くさい魅力を語っています。(閑話休題。通訳の面白い話を読みたいと思っていたんですが、よく考えたら守秘義務というものがありますね。トップ会談の内幕なんて最高機密。ちょっと無理そうです)

 ゴルバチョフがかの「プラハの春」の立役者人物(ムリナシュ)と学友だったとは知らなかった。平和的に体制の変化を成し遂げたチェコとソ連の違いは何だったんだろう。
 また、大酒飲みで気分屋、率直(はた迷惑な程)なエリツィン像も面白かったです。「この親父、しょうがねえなあ」と国民に思わせてしまう、可愛げというのですかね。こういう政治家は強いのかもなあ、と感じました。

 また、90年代の北方領土をめぐる会談で日本側がエリツィンの機嫌を損ねたのは、交渉方針の問題ではなくて、「ゴルバチョフが来日した時は〜、ゴルバチョフがこう言った、ゴルバチョフの案は〜」と、彼が毛嫌いしている前任者(?)の名を出し過ぎたからでは、という著者の目は鋭いですね。

 こんな冗談のようなことで大国の政治が動くなんて、妙なもの。……まあ、冗談のようなアメリカ大統領が誕生してしまったんですけどね。

(2017.4.27)

 

「ヒトのオスは飼わないの?」 文春文庫
米原万里 著

  ヒトのオスは飼わないの? (文春文庫)


ネコ4+イヌ2+ヒト2=8頭この総数は流動的だが、いつもニギヤカな米原家の日常。ロシア語通訳の仕事先で恋に落ちたり、拾ったり。ヒトのオスにはチトきびしいが、ネコとイヌには惜しみなく愛情をふりそそぐ名エッセイストの波乱万丈、傑作ペット・エッセイ集。

 私小説ともいえますが、一応エッセイに入れておきます。

 野良犬、捨て猫を拾って連れ帰り、さらにロシア出張先で一目ぼれした子猫を加えてにぎやかで楽しい生活をめぐるエッセイ。
 私はそれほど動物大好きという人間ではないので、「はたして楽しめるかな」と思ったのですが、とんでもない! 性格のいい犬のゲンや個性的な猫の無理(むり)と道理(どり)の行く末が心配で、ぐいぐい引き込まれるように読み進んでしまいました。これまで読んだエッセイとはひと味違うけれど、これも楽しい。

 私はどちらかといえば猫より犬が好きなので、人(犬)のいいゲンのエピソードが心に残ります。
 米原家に連れてこられた当初はまったく吠えないし、屋内にも上がろうとしない(厳しくしつけられた)ゲンですが、ある時を境にがらりと変わって吠えるようになった。
 獣医師はその理由を『これまで捨て犬で盥回しになった経験から、おとなしく振る舞っていたが、ようやく飼い主(著者)に馴染んでここを終の棲家と決めた』というのです。か、可愛いじゃないですか。

 また、並外れた猫好きの人々が登場しますが、その中でも横綱級なのがロシア愛猫家協会の会長。猫語をあやつり、どんな気難しい猫とも心を通じてしまうようです。
 いやいや、猫語なんて冗談でしょう、と私も思っていたのですが、これは信じざるを得ない?? ちょっと猫観が変わりました。

 犬好きの読者には終盤のエピソードが切ないのですが。この、にぎやかな米原家の風景に心が和みました。
(2017.7.7)

 

「心臓に毛が生えている理由」 角川文庫
米原万里 著

  心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)


鋭い言語感覚、深い洞察力で、人間の豊かさや愚かさをユーモアたっぷりに綴る最後のエッセイ集。同時通訳の究極の心得を披露する表題作、“素晴らしい”を意味する単語が数十通りもあるロシアと、何でも“カワイイ!”ですませる日本の違いをユニークに紹介する「素晴らしい!」等、米原万里の魅力をじっくり味わえる。

 (美しい日本語ですね、と言われて)帰国子女のわたしには、まだきちんとした日本語が精一杯。それを崩せるほどまでには身についていないということなのだと、深く肝に銘じたのだった。
「きちんとした日本語」より

 やっぱり言葉の面白さは崩した時の味わいに尽きるのかもしれないなあ。(たぶん塩野七生さんのエッセイだったかと思い出されている)アラン・ドロンのテーブルマナーの話もいつか読んでみたいものです。

そして、巻末にはソビエト学校の同窓生との対談が収められています。地元(?)から見るチェコ人観が面白かったです。

 大河小説的なもの、大ロマンは生まれないということがいえると思います。ブラックジョークなんかはとても上手なんですが、主観に完全に身を委ねる、抒情に身を委ねるということができない民族です。
延々と語るということをしない、一方、風刺劇のようなものは実におもしろいし、うまいですよね。


 ここを読んだとき、プラハのホテルにあったギャラリーで見かけた作品を思い出しました。
 油絵や抽象的な塑像だったのですが、観る人を引き込むよりは突き放すような、安心して見ることを許してくれないようなシニカルな感覚の作品でした。こんな不安感のある作品をどうしてホテルで飾るんだろうなあ、と思ったくらい。もしかしたら、この感じを語っているのかな、と気になりました。
(2020.3.15)

 

「米原万里の言葉」 MUJI BOOKS
米原万里 著

 https://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/9784909098054


ずっといい言葉を文庫本で。人と物をつなぐ「人物シリーズ」。ロシア語通訳にして数々の文学賞を獲得した小説家でエッセイストの米原万里。プラハで過ごした多感な少女時代や世界を旅した通訳者時代の経験を通して、異文化交流の舞台裏をユーモアと毒舌を交えて解き明かしました。

 無印で買い物をしていた時に見つけました。本まで出してるのか! 
(上記リンクは無印のサイトへ)
 店頭でぱらっと見て既読のエッセイが多いかな、と思ったけれど、たくさんのエッセイの中から無印さんとしてはどんな言葉を選ぶのかな、と気になって購入しました。

 これまで読んだエッセイは当然ながら文章主体ですが、こちらは書斎や通訳ブースの米原さんの写真や落書きが載っていて楽しい。文庫本サイズで薄いので点数は少ないのですが、じっくり選ばれた感があって堪能しました。
 やっぱり、走り書きの文字からは、人の息遣いが聞こえるよう。ゴルバチョフ大統領の通訳を務めた時の集中力みなぎるメモ付き資料。また、日程表の切り抜きやレシートを貼りつけた日記帳に『〜さんと食事。例のこと、はげます』なんて覚書きまである。知力にあふれ心遣いもある素晴らしい人だったんだな。

 あと、これもいまさらだけれど、ミニ伝記として読むと著者が外国語に精通することができたのは時期と鍛錬の相乗効果なのだとわかる。
 母語による思考の基礎が出来上がった年頃にチェコに連れていかれたこと、そこでしっかりとした教育を受けることでネイティブさながらのロシア語を身につけた。どちらが欠けても米原万里という通訳、翻訳家、小説家は生まれなかったのでしょうね。

 こんな奇跡のような人の言葉を読めるのは、幸せなことだとあらためて感じました。
(2020.11.20)

 

「医者を忘れて大航海」 幻冬舎文庫
米山公啓 著

  医者を忘れて大航海 (幻冬舎文庫)


大学病院を辞めたDr.米山は、世界豪華客船の旅へ出る。楽しいはずの夢の航海が、塩辛いディナーと忙し過ぎるツアーの連続で一転、持ち前の好奇心が疼き出す。異様に肥満した老人達の元気パワーに圧倒されたり、乗客達の身勝手な健康相談に辟易させられながらも、気がつけば船中を観察し始めて…。誰も知らないワールドクルーズの意外な真実とは。

 医師と作家、二足のわらじの方ってけっこういるのね。
 勤めていた病院をやめて、取材も兼ねて40日間の豪華客船クルーズに参加した体験記。私は一生乗ることはない(笑)豪華客船の旅に興味を持って手に取りました。

 「へえ、そうなのか」と思った2点、まず『通しで世界一周の旅をしない乗客も多い』。
 著者は横浜からイギリスまで乗船したものの、むしろこういう人は珍しく、他の乗客は「今回は横浜からシンガポールまで」「ドバイまで」と細切れに何度も参加するらしい。
 これは中身を読んで納得しました。要は退屈するんですね。来る日も来る日も水(海)しか見えないのは退屈で、たまに上陸してオプションツアーに参加するのが楽しみ――これなら船上の日程を長く耐える必要もないですよね。

 そして、もうひとつ『食事がまずい』(笑)
 これは船によって違うし、今は改善もされているのかもしれませんが。退屈な毎日で食事がまずいって何の拷問なんだ。

 楽しかったのは、さまざまな国から来た乗客、クルーとの交流。そして、何時にプールに入ろうが、賭け事にいくら遣おうが乗客の自由というおおらかさ。まあ、経済的に豊かでないとできないけれど、逆に言えばお金を持っていてできる「自由」ってこれだけなんだね、という気もしました。

 旅の終盤、映画「タイタニック」の名シーンになぞらえて、白衣を着た記念写真を撮った著者。ああ、やっぱり病院をやめられてもお医者さんなんだな、とちょっとほっこり。

 著者の語り口が少々七面倒くさいけど(笑)、見知らぬ世界の飾らない体験記として面白い一冊でした。
(2017.5.4)

 

「ガン病棟のピーターラビット」 ポプラ文庫 
中島梓 著

  ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)


2007年11月、人気作家を再びガンが襲った。痛みに眠れぬ夜を過ごし、築地を見おろしてグルメを考察し、死を思い、生をふり返る日々。もっと、もっと書こう。一行でも多く――告知から手術、退院までをかろやかに綴って、毎日を生きる勇気にあふれるエッセイ25篇。

 2009年に膵臓ガンで亡くなった作家さん。私も10代の時に出会ってよく読みました。「グイン・サーガ」は途中で挫折しましたが、現代版ホームズ&ワトソンといったミステリー「伊集院大介」シリーズが好きでした。

2007年に見つかった膵臓ガンのために入院された時の日々を綴ったエッセイ。作家らしい目で病院関係者や患者、見舞いの人たちを見つめ、また退院までの自身の病状を通して、生き方、死に方について語っています。エッセイは初めて読みましたが、小説のようにパワフルで真摯な文章です。

ガンセンターの雰囲気を「町の病院とは違う、生死の最前線」と書いているのが印象的。
そして、「管と私」という単純な関係に自分の生き方を問うことになるのが現代医療なのかも、と考えさせられました。答えを見つけるのは難しいことなのだと思います。

「また管人間になれば助かるかもしれない」といわれたら、私は手術を受けるか? それよりも「ずっと管人間としてなら生きられる」といわれたら、私はどうするだろう?


そうして生きることの意味はあるのか否か、と考える。しかし、一方で

どんな辛いときでも、朝がくればやっぱり「生きているというのはいいものだ」と思ってきたと思う。

ぞっとする事件、悲惨な出来事――それらは私の胸を沈ませ、いやなもので一杯にします。でも、それにもかかわらず、やはり私が「生きているのはいいことだ」と思うもののほうが、はるかにこの世界にはたくさんあるのだと思います。


 ときにユーモアある言葉も書かれていて、厳しい話の合い間に少しほっとしました。
 他のお見舞い客の話を横で聞いていたとき。どうやら家族に告知していないらしく、『お父さんもうすうす気づいてるみたいなのよ』と話しているのを小耳にはさみ……。ここはガンセンターなのに、自分がガンかもと思わない人もいるんだ、と驚くくだりに思わずわらってしまいました。

 また、食べ物の話もかなり頻繁に書かれます。確かにこれって最大の関心事なのですよね。私の家人が入院した時も、食事が嫌で早く退院させてもらったという・笑
 著者は(点滴を受けて)何日も食べなくてもけっこう人間大丈夫なのだ、と考えられたようですが。しかし、食べ物への関心の持ち方そのものが、すでに一大事なんですよね。

 この本の後にも、つづく闘病のエッセイを書かれているよう。
 苦しい中でも見たこと体験したことを綴って、命の後輩たちに残してくれたことに感謝です。
(2017.1.15)

 

「花嫁化鳥」 中公文庫 
寺山修司 著

  花嫁化鳥 (中公文庫)


 大神島の風葬、青森のきりすとの墓…寺山修司が旅した不可思議な世界。日本各地の奇習をたずね、うつつと夢のあわいを彷徨しながら日本人の原風景をさぐる。

 寺山修司、名前は知っていたけど、初めて読みました。昭和も前半にはこんな世界があったんだろうか、とほとんど異世界ファンタジーを読むような気分でした。

 古い風習、怪しげで筋の通らない、しかし魅惑的な言い伝えが生きていた頃。民俗学で扱われるような事柄が生きていた最後の時代だったんじゃないかと思ってしまった(あ、もちろん研究者にとっては21世紀の今だってそれなりに研究対象なんでしょうけど)

 特に、宮古列島の大神島にあった共同墓や風葬について語った「風葬大神島」は印象的。死因によって葬り方が違うなどの風習、聖域をめぐる地元民と外来者の考え方の差にめまいを覚えるほどでした。

 また、岡山県・西大寺の裸まつりをみる「裸まつり男歌」。服を着て裸を隠す日常社会と、裸になって現実-虚構をひっくりかえす祭りの一夜について書かれています。
 見せるために刺青を施すことがそれに華を添え、肌を見せる職業やそれにまつわる生業(彫師、娼婦、テキ屋など)の者たちが勢いを取り戻す――社会全体が呼吸している姿を見たような気がします。
(2017.6.1)

 

「帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。」 文春文庫
高山なおみ 著

  帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。 (文春文庫)


高山なおみが本格的な「料理家」になる途中のサナギのようなころの、雨ではないが晴れ間でもない、なにかの中間にいることの落ち着かなさ、不安さえ見え隠れする淡い心持ちを、そのままに綴ったエッセイ集。なにげない日々のなにげない出来事が静かに心を揺らし、切なく痛い。カラー口絵、32レシピ付き。

 実は、読みはじめて、意外にねっとり重い文調だったので「ああ、ちょっと好みじゃなかったかな」とふと思いました。でも、読み進めるうちに面白いことに気づいてきました。
 独り言のような、少し重苦しいエッセイの章末に小さく料理名が書かれているのですが、それが絶妙のバランス。
 夢や記憶、空想の重みから現実に立ち返り、「ともかく、ごはんを食べて。できることをしよう」と思う心をそっと押してくれるような気がするのです。言葉と料理が切り離せないものとしてひとつのエッセイになっているんでしょう。

 ひとつ、気に入ったのは、ここ。

 段ボールを開けると、見たことのないインスタントラーメンの塩と醤油味がひとつずつ、森永キャラメルひと箱、くるみの枝が入っていた。
その下に新聞紙に包まれた物体ふたつと、広告に包まれたものひとつ。
新聞紙をほどくと、赤ん坊の太ももくらいのさつま芋。広告の方は、肉厚のしいたけがふんわり包まれている。
和紙をかぶせた石鹸の箱は、振るとカタカタ小さな音がする。枇杷、椿、柿、アボカドの種に梅干しの種。つるつると黒光りする西瓜の種まで入った、いろんな種の詰め合わせだった。



 ああ、こんな風な手作りの温かな贈り物を友達にあげてみたいな、と思いました。

 巻末のレシピは簡単なものなので、これで知らない料理を作るのは勇気がいるかも。でも、自分のレパートリーに小さな工夫を教えてくれるようなレシピもある。そこが楽しかったです。
(2017.5.9)

 

「望遠ニッポン見聞録」 幻冬舎文庫
ヤマザキマリ 著

  望遠ニッポン見聞録 (幻冬舎文庫)


中国大陸の東の海上1500マイルに浮かぶ、小さな島国――ニッポン。そこは、巨乳とアイドルをこよなく愛し、世界一お尻を清潔に保ち、とにかく争いが嫌いで我慢強い、幸せな民が暮らす国だった。海外生活歴十数年の著者が、近くて遠い故郷を、溢れんばかりの愛と驚くべき冷静さでツッコミまくる、目からウロコの新ニッポン論。

 遠くに見るから、かえってよく見える――外から日本を眺めて懐かしがったり、冷静に突っ込んでみたりするユーモラスなエッセイ集。イラストが楽しいです。単に日本を考えるというより、アジアの一角としての日本という捉えかたが新鮮。意外とそういう視点を考えたことはなかったので。

 アジアの生き物は(人間も)、全体的に地上に対して垂直でいるのが、あまり好きではないというイメージがあります。


 なるほどね!
 面白いなと思ったのは、2012年に書かれた本にもかかわらず、どこかバブル時代の空気を持っていること。いや、古いエッセイを図書館で借りてしまったのかと思いましたが、そんなことはなかった。
 ほぼバブル期に日本を離れて、生活の基盤を10代の頃からイタリアにおいてしまったという著者。だから、日本で目にとまるモノどもを語る時に、感覚が昭和―平成冒頭に戻ってしまうのかなあ、と想像しました。

(2017.6.30)

 

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