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エッセイ・詩歌 9

   

「美しいイギリスの田舎を歩く!」 集英社be文庫 
北野佐久子 著

  美しいイギリスの田舎を歩く! (be文庫)


ハーブ研究家の著者が何度も訪ねたおいしい紅茶とお菓子と物語の故郷へ!湖水地方やコッツウォルズ、デボン、サセックス。人々に愛される文学ゆかりの田舎の村々を紹介します。

 旅行に行きたいなあ、行けないなあ――ということで、手に取りました。
 たくさんの写真とコンパクトな装丁。何より、著者が自分自身の旅の体験を軸に語っているところが素敵な本でした。
 そして、美しい風景の紹介だけでなく、イギリスの田舎暮らしを心から愛して守り続けるための地元の意識を細やかに描いています。

 ここの暮らしが本当の暮らし。ロンドンの暮らしは人工的なものだよ。劇場、美術館、レストランはたくさんあるけれど、どれも作られた楽しみだ。田舎にはもっと根源的な楽しみがあるんだよ。


 昔と同じレシピで作られるお菓子、持ち主が替わっても同じ姿を保てるように守られた家。過去に積み重ねられた遺産(目に見えるものも見えないものも)を尊重することが、こういう風景と暮らしを守るためには必要なんだな、と伝わってきました。

 また、大きく取り上げられているのが、ナショナル・トラスト活動で知られるビアトリクス・ポター。
 農場や土地を買い上げて保全に努めるというスケールの大きなエピソードが有名ですが、絵を描くことについての言葉に惹かれました。

 私はインヴェント(想像で作りだすこと)できない、コピー(写すこと)する」


 この本に載っている写真と彼女の絵を思い出すと、確かにじっくりと見つめて、ただそのままに写しとったのだな、と気づく。石壁も花壇も川にかかる橋も……。
 観察、ということでは、ウィリアム・モリスの有名な「柳の枝」が彼の愛したケルムスコット・マナーの柳の木から生まれた、というエピソードも好きでした。

 アートや芸術というと新しい何かを無から生み出す、というイメージがありますが(それはそれで素晴らしいのだけれど)、目の前にあるものをよく見る、じっくり見て味わって、それから紙の上に写し取る、という穏やかな行為の良さにも気づかされました。
(2020.12.25)

 

「ひとりずもう」 小学館文庫 
さくらももこ 著

   ひとりずもう (小学館文庫)


「生理になりませんように」と祈った中学生時代。オシャレをしたりペットを飼ったり呑気に過ごした女子校生活。突然の初恋。そして将来について考え始めた矢先に味わった絶望体験。爆笑…そして感動。""まる子""だった著者が、""さくらももこ""になるまでの青春の日々を記した自伝エッセイ。

 想像力、というかもはや妄想があふれるような中学高校生活を綴ったエッセイ。マンガそのままのとぼけた味と笑いのセンス、そしてキラキラした純真さがこぼれていて楽しかったです。

 特に可笑しかったのは、高校の文化祭をすっぽかして家でテレビを見ていたエピソードでしょうか。真面目に展示製作に取り組んでいた先輩後輩たちが「展示物が壊れてお客も来なかった」と泣いて悔しがるのを、「正直、テレビ見ていてよかった」と内心思う。だよね。

 高校三年になってから、さすがに高校生活のゆるさを反省、一念発起して書き始めたエッセイ漫画に打ち込む姿は清々しいです。確かに、四六時中こんなに集中してられないよね。だらだらして、たまに本気を出すくらいで、人生いいんだよ。
(2016.8.21)

 

「からすうり」 日本文学館
山崎裕子 著

   からすうり


日々の暮らしを彩る植物や、友人との会話で綴るエッセイ。

 背表紙の字が目をひいたので、図書館で借りてみました。巻末のプロフィールを見ると80代の方らしい。教壇に立っていた頃の思い出や庭の草木、近所でのボランティア活動や四国巡礼の話が品のある言葉で綴られています。
 題材に馴染みが薄いのと、文章が私には淡白すぎましたが、いつか読み返したらまた違う見方ができるのかもしれない。

 印象的だったのは、自宅のお風呂場の横にからすうりを植えた話。
 からすうりとは、白い花弁の「月下美人より幻想的な」「レース編みのような」花らしい。それをお風呂場の灯りを消して楽しんでいるという。
 月下美人より美しい花というだけで、興味をそそられるし、そんな風雅な入浴もしてみたい、と思ったのでした。
(2016.9.23)

 

「Q 人生って?」 幻冬舎
よしもとばなな 著

   Q人生って? (幻冬舎文庫)


「こんな世の中で、子どもをまっすぐに育てるにはどうしたらいいと思いますか?」「家族も友人も彼氏もいるのに、淋しいです。どうしたら淋しくなくなりますか?」。どうしても眠れない夜やどん底だと思う日、ひとりぼっちだと感じる時に。恋や仕事や子育てにまつわる31の疑問に答えたよしもとばななの言葉が、明日の扉を開き、心をのびやかにする。

 著者のサイトに寄せられた人生相談のメール。その多くに繰り返し出てくるテーマがあると気づいて、共通の悩みとそれへの答えを形にしようとして書かれた一冊。

 質問する側は問題を端折ったり抽象化するので、答える方は大変だろうなあ、と思う。慎重に言葉を選び、質問から考えられる可能性を探りつつ答える姿勢から著者の誠実さを感じました。こういう本を書こうと考えるだけでも、それはわかる。
 ああ、ちょっといいなあ、と思った言葉は――。


 憎しみは、育ててしまうと育ってしまうものです。育てないようにすれば、いつしか養分を断たれて枯れてしまいます。


 かなり早いうちから地を出して、思う存分悪口を言われて、それでも憎めないというところまで持って行くのがベストだと思うのですが、それにもとにかく時間をかけることです。
 形だけでつきあっていると、一見うまくいっているように見えても、心からそうなるのにもっともっと時間がかかります。


 自殺したいほど思いつめたらなにも食べないのが男性。でもそんなときでもちょっと泣き止んでおまんじゅうを食べてしまうことができるのが女性。


 もしも神様みたいなものがいるとしたら、完璧な、非のうちどころのないあなたをどこかでじっと見ていて、いつかいいことを返してくれるのではない。残念だけれど、人の心の法則を見ていると、そうではないのです。
 むしろ、とにかく無理をせず、どこかゆるくて、自分を愛していて生き生きとしているあなたのほうを応援して思わぬラッキーをくれるのです。


 もらっている額よりもちょっとだけ多く働く、そこがコツです。安いからって手抜きをするとものすごくまずいことになるし、高いからって安定して力を抜くと、いつかつけは回ってきます。


 でも、どのようなおそろしい理不尽な死に方をしても、その人がだれかを愛し愛されたということは決して消えません。それなら、不運ではあったかもしれないですが、ほんとうには淋しくないのです。


 ほんとうの孤独は果てしなく暗くて宇宙空間くらいに大きいけれどどこか甘く、自分を強くしてくれます。そうでない淋しさじゃ、他の人に愛されている自分を思うと、消えていくはずです

(2016.8.30)

 

「バナタイム」 幻冬舎文庫
よしもとばなな 著

  バナタイム (幻冬舎文庫)


将来への強大なエネルギーを感じとったプロポーズの瞬間から、新しい生命が宿るまで。人生最大のターニングポイントを迎えた著者の胸ときめく日々。幸福な場所、大好きなイタリアのこと、人間の気品と風格についてなど…。幸福の兆しを読みとることの大切さを伝える24章。

 いつものように、日常の他愛ないことの中にピカッと光るものを見つけるようなエッセイ集。この著者はほんとうに海が好きなんだな、と実感しました。

面倒くさい、とどれだけ思っていても、しぶしぶと水に入った瞬間、はっと目が覚める。これまで見ていたのが悪くて長い夢で、今の私が私なのだ、と首を水から出して岸を振り向き、その土地の自然の姿を見た時に思う。


そうだ、死ぬ直前まで人は生きているのだから、自分で弱気になって終わりにしてはいけない。

(2017.5.1)

 

「前進する日もしない日も」 幻冬舎文庫
益田ミリ 著

  前進する日もしない日も (幻冬舎文庫)


 着付け教室に通ったり、旅行に出かけたり、引っ越ししたり。仕事もお金も人間関係も自分なりにやりくりできるようになった30代後半から40歳にかけての日々。完全に「大人」のエリアに踏み入れたけれど、それでも時に泣きたくなることもあれば、怒りに震える日だってある。悲喜交々を、きらりと光る言葉で丁寧に描く共感度120%のエッセイ集。

 著者のふっと力のぬけた、軽やかに動き出しそうなイラストが好きで手にとりました。エッセイは初めて。でも、文章もうまい方ですね。するするとおなかに入ってくるように読み進みました。

 苦手なもの違和感のあるものを避けて生きる、というのは意外と難しいのに、それをやわらかく貫いているなあ、と感じました。
 お得と言われる携帯プランも要らなかったら「結構です」と言える。違和感のある歯科医院を離れる――ちょっとしたことだけど、なかなか決断がつかないのですよね。

 それと同時に、来るものを拒まない柔らかさも必要。人に誘われて舞台を見に行くエピソードは、私は趣味多めなので「さほど興味がないものでも、誘われたら行きます!」という発想が新鮮でした(笑)

 自分の好きなもの大切なものを守り育てるような感覚を感じるのは、よしもとばななさんのエッセイとどこか似てるかな。他のエッセイも読んでみたくなりました。

(2020.11.23)

 

「チベットの秘密」 集広舎
ツェリン・オーセル、王力雄 共著
劉 燕子 編訳

   チベットの秘密


民族固有の文化を圧殺された上、環境汚染・資源枯渇など全般的な存在の危機に直面するチベット。北京に「国内亡命」を余儀なくされ、“一人のメディア”として創作と発信を続けてきたチベット出身の女性詩人が、闇に隠された「秘密」に澄明な光を当てる。王力雄「チベット独立へのロードマップ」及び編訳者による「雪の花蘂―ツェリン・オーセルの文学の力」を併録。

T 詩篇 ―― ツェリン・オーセル

 雪国の白
 一枚の紙でも一片の刃になる
 チベット断想(抄)
 他

U エッセイ ―― ツェリン・オーセル

 チベット・2008
 ソンツェン・ガムポ王の故郷はまもなく掘り尽くされます
 ニマ・ツェリンの涙
 偉大な「市民的不服従」がチベット全域に広がっている
 漢人に自由がなければ、チベット人には自治はない
 我が身を炎と化して
 ガンデン寺よ、廃墟のままであれ

V チベット独立へのロードマップ ―― 王力雄

 チベット事件は分水嶺である
 帝国政治体制の苦境
 チベットはどのように独立に向かうか

W 雪の花蕊  ツェリン・オーセルの文学の力 ―― 劉 燕子



 どのジャンルに入れようか、かなり迷いました。歴史(アジア)ともいえる、後半はテーマから考えればノンフィクションともいえる。悩みましたが、メインであるツェリン・オーセルの文章が詩という形態で描かれていることを重視してここにします。

 前に読んだ「殺劫」とはかなり違う、詩に近い文章であの3月の出来事が語られていました。
 2008年3月14日にチベットのラサで起きた騒乱は、北京オリンピックの年とあってメディアでもかなり取り上げられていたけれど、実際のところ、事はあの日に始まったのではない。その4日前に平和的に請願を出した僧侶たちが殴打、逮捕され、それを止めようとした市民も次々に逮捕された――その結果にすぎないことが記録されています。

 一部始終を見ていた者、かろうじて逃れた者たちがひっそりと証言する言葉をつなぎあわせることで、ネットのニュースでは伝わらないものが見えてくる。さらには目に見える事柄だけでなく、その日のラサを覆った空気までも文字にしたい、という切々とした思いが伝わってきました。

「その時、ぼくはパルコル北街の入口にいた。デモ行進は催涙弾で追い払われた。まず、前列にいたものが止められて連行された。続いて、やつらはすぐ後ろの者を射殺した。……(中略)……あそこで、少女が石ころを拾って投げようとしたら、特殊警察に射殺されたんだ。ぼくは十数メートルか二十メートル位離れた所にいて、はっきりと目撃した。たくさんの人が目撃した。恐ろしかった……。彼女は十七、八歳くらいだった」
「ぼくが誰だとわかるように書かないでください。ぼくはまだラサに帰りたい。」
(チベット人・WD)



 著者自身も当局から目をつけられて監視され、盗聴や自宅軟禁されるような身の上なので、話を聞いた誰にも危険が及ばないように注意深く書かれている。自由の国の言葉で読む身にはもどかしく感じることもある。
 それでも、もう一歩踏み込めないか、もう少しだけでも深いものを掬いだせないか、と考えられた末に生まれた詩文は、著者が生み出した独特の世界だと感じました。これを感傷的とか耽美という人の目はどこについてるんだと思う。


 もうひとつの、中国人権活動家である王力雄の「チベット独立へのロードマップ」は一転して非常に男性的、論理的な文章で、オーセルの詩篇とはまったく違う側面から中国の少数民族事情を描いています。この二者の文章を一度に読めるところがこの本の魅力かと。

 3.14事件(3/14以降の一連の騒乱)がなぜあのような様相を呈したか、中国の指導者層の体質、そして西欧世界との関係の中でどのようにチベット独立の方向性を見つけられるか、が明確に書かれています。
私は漢人寄りの事情、中国政府事情にも明るくないので、「こういう背景があったのか」と目からウロコでした。

中国の政府組織には『チベットに関連する機関』『反分裂の機能を担う機関』が多数あり、これらの官僚集団の判断が3.14事件の性質を決定した、と著者は書いています。当初は小さな芽にすぎなかった騒乱を、失態を嫌う官僚体質が「ダライ集団」による行為と発表したことから事件は大きな(大きすぎる)意味を持ち始める。

 起点が方向を決定する。そして、起点のズレはミリ単位でも、結果では1000キロの差となる。この責任を回避する官僚の口裏合わせがその後の行動の枠組みを決め、事態の展開の方向を決定した。


 政府が「民族一帯の家族」というイメージを飾り揚げているにも関わらず、3.14事件は漢人とチベット人を分断してしまった。チベットではこれまでもたびたび抗議活動はあったものの、市民レベルでは両者は比較的良い関係にあったが、それが激しい対立に変わってしまった。
 ここはちょっと興味深いな、と思ったのですが。著者は「もともとチベット独立の条件は揃っていた、と言うのです。

 今回の事件が起きる前から、チベット独立の条件はかなりそろっていた。単一民族、単一の宗教と文化、地理的に明確な境界、歴史的に明白な位置づけ、国際社会における高い知名度、衆望の帰する指導者、長期に活動してきた政府……


 しかし、もっとも重要な条件、つまり国内チベット人が独立を追及する十分な原動力が欠けていた。だが、今回の事件を経て、抑圧と差別を受ける弱小民族側から独立の要求が出てくるのも当然。となれば、もともと備わっていた条件は効果を持ち始めて、独立は現実味を帯びてきてしまった。
 もともと「チベット独立」という単語を知らないチベット人に、それを禁じる指導をしたことで(独立という言葉を)教えてしまった。
 これは官僚集団の性格から当然のように帰結されたもの――つまり『積極的に出撃し、頭を出したらすぐに叩きつぶし、敵の機先を制する』、さらには『頭を出さなくても叩きつぶし、追いかけて叩きつぶす』やり方が生んだのだ、と。

 こう書くと冗談みたいですが、冗談ではないのですね。

 官僚たちは決してバカではない。むしろ利口で、自分たちの利益のために利口に立ち回る。だが、それが国の利益と一致していないのが中国の悲劇なのだ、と。
 それを中国の独裁体制の弱点と捉える著者からははっきりとした結論が出されています。 つまり、「反分裂」勢力が中国の権力構造の重要かつ広範な地位を占めていることから考えれば、中共の指導者個人にチベット問題の解決を期待するのは幻想にすぎない、と。

 最終部では欧米社会との関係から、中国の抱える諸問題解決の可能性を探っています。
 著者は、西側(という言葉は今も生きてるんですね)政府やメディアや市民の意志、つまり民主主義の力に期待しており、私は「ちょっと買いかぶりすぎでは」と感じましたが。

 真に安定した社会には、重層的な統合のメカニズムが必要である。政権だけでなく、道徳倫理、法治、健全な市場、国家の軍隊(人民解放軍は国家でなく中国共産党の軍隊)、さらには宗教組織、民間社会、多党制などが必要である。


 この言葉に照らしても、中国がこのまま不安定なまま膨張する危険性、内乱と崩壊を起こす可能性も事実なのだろうと思います。国際社会がそれを手をこまねいて放置しておくのが愚かであるのは確か、なのですが……そう、ぶっちゃけ、自由の国の我々も相当に愚かなのですよ、と嘆かざるを得ない。

 著者としては、中国の分解、解体、という絵が最も望ましいものとして描かれているようです。いわば、釜の下から薪を取り除くような穏便な方向性、軟着陸です。
 しかし、欧米社会にもそうそう力はないのだ、ということは、昨今の難民問題からも明らかになってしまったのではないでしょうか。
 それでも、著者のような中国一般市民が「自国政府の過ちを正してくれる何らかの力が西側から来る」と考えていることを、どう受け止めたらいいのだろう、と考えさせられたのでした。

 とりあえず、漢文文化ってのはすごい、と感じた力強い文章。王さんの本も探してみようかな。
(2016.8.13)

 

「司馬遼太郎と『坂の上の雲』」上 朝日文庫
週刊朝日編集部

  司馬遼太郎と『坂の上の雲』 上 (朝日文庫)


司馬遼太郎が40代を費やして書き上げた『坂の上の雲』。執筆当時の取材状況や、作品に込めた思いを読み解く。連載当時は誰も注目していなかった日露戦争。その経緯を紐解くことで、作家は“日本人の精神性”を描き出そうとした。だが、歴史になる前の出来事を書く苦しみを味わうことになる。それを乗り越え「事実」を踏まえた「小説」を生み出そうとした、独自の工夫と試みに迫る。

 友人との会話で「坂の上の雲」の話題が出たことがあり、ちょっと懐かしくて手に取りました。
 取材や物語の舞台となった土地の話や、夏目漱石、東郷平八郎の留学時代、子規の後援者だった陸羯南の家族の話など、小説世界をより脹らませてくれるような本です。

 面白かったのは、正岡子規と夏目漱石の交流について。
 TVドラマでも小説でもそれほど重きを置いて書かれてはいなかったですが、病床の子規と漱石が「二人句会」とでもいえるほどたくさんの俳句を作って手紙で評価しあっていたそうです。
 俳句は短い語句の中に情景を凝縮して描くゆえにただでさえ強烈な力を持っていると思うのですが、病身の子規とのやりとりは、真之流に言うなら「砲弾が飛び交う」ようなものだったのでは。
 子規の死後、漱石が俳句をつくるのをぱったりとやめてしまった、という話は印象的でした。
(2016.12.24)

 

「司馬遼太郎と『坂の上の雲』」下 朝日文庫
週刊朝日編集部

  司馬遼太郎と『坂の上の雲』 下 (朝日文庫)


日露開戦以後を『坂の上の雲』で描く際に、司馬遼太郎は何を見て、何を調べ、昭和の戦争まで連綿と連なる日本人の気質について、考察を深めていったのか。

 下巻は子規の死と日露戦争の巻。ひっそりと逝った子規の思い出を塗りつぶすかのように戦争は続いています。

 「坂の上〜」を読んでいた時には情けないところばかりが目立ったロシア人艦長ロジェストウェンスキーですが、この人も苦労したんだな、と感じました。 出航時から船は壊れがちだわ、規律は緩んでいるわ、何にもいいところがない(爆)。あまりに長い航海(アフリカ回り)で本国との連絡もままならない中で、とにかく日本海まで着いて戦ったというだけで、大変なことをやり遂げたわけです。

 日露戦争は「のびゆく国と、のびしろを無くした国の戦争」と書かれていますが、おまけのコラムでは「どちらの国も誇大妄想に取りつかれていた」という。
 日本は満身創痍の勝利に浮かれて、さらにロシアを攻めようという風が世の中に蔓延する。一方のロシアもすでに勝った気になった軍人も多くて、占領後にすぐに使えそうな露日日常会話集まで作られたらしい。どっちもどっちだ、という感じ。

 しかし、日本の戦力がそれほどもつわけでもない。結局、運をつかんで窮地をぎりぎりですり抜けるように戦争終結にこぎつけたのは政治家、外交の力だったんですね。

 この本を最初に手にした時には、「本(坂の上の雲)の本」なんて歴史から離れるばかりでは、などと考えていましたが。
 むしろ、史実→小説→関連本 という流れの中で、時代背景や著者の考え方がぎゅっと凝縮されていくような本でした。
(2017.1.14)

 

「伊能忠敬を歩いた」 新潮文庫
佐藤嘉尚 著

  伊能忠敬を歩いた (新潮文庫)


50歳過ぎの後半生に夢を実現し、大きな業績をあげた伊能忠敬。彼の足跡を世紀の変わり目の2年間をかけて辿り、日本中をくまなく歩き通した“伊能ウオーク”本部隊員たち。双方に自分の来し方を重ね合わせる著者は、人間らしさを取り戻す「歩く文化」を提唱し、たくさんの友人と15キロの体重減を勝ち取った。「人生を二度生きた男」たちから、満足できる自分の人生を志す人へ、力強いエール。

 初の日本地図を作った伊能忠敬の足跡を歩いて辿る「伊能ウォーク」発起人によるエッセイ。伊能忠敬の若き日のエピソードや、著者による小説風の解説、参加者の紹介、さらにこのイベントでダイエットを試みた経緯まであり、好き放題に書いたなあ。
 史実と創作がごちゃまぜなので読みづらいですが、割り切って読めば楽しいかも。ただし、もう少しオヤジ目線を抑えてくれれば、と何度も思ってしまいました。

 伊能ウォーク参加者たちの感想が一番面白かったです。ほぼ2年かけての大イベントで、全行程に参加した人もいれば部分参加もありだったらしい。年齢も性別も立場も違いますが、それぞれの方の充足感が伝わってきました。

 歩くことと文明の利器「飛行機」を使うことの違い(所要時間、かかる金額)を語っている参加者の視点にはっとしました。
 北海道-東京間が徒歩で約100日&100万円。かたや、飛行機では1時間半&1万7000円なのだそうで。良し悪しではなく、違いとそれぞれの価値を考えることが大切なのだ、と。そして、実際にこつこつと足で歩いてこそ、自然の変化や厳しさ、美しさもわかる。

 アナログの極ともいえるイベントの豊かさに惹かれました。あ、肝心の伊能忠敬については、まずは別の本を読もうかと思ってます。。。

(2021.2.10)

 

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