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エッセイ・詩歌 12

   

「探検家の憂鬱」 文春文庫 
角幡唯介 著

  探検家の憂鬱 (文春文庫)


生のぎりぎりの淵をのぞき見ても、もっと行けたんじゃないかと思ってしまう…。冒険とは何か。生きるとは何か。自分はいったい何者なのか。探検家の角幡唯介が、極限状態において自らに問い続けた果てに、絞りだされた孤高の独白。文庫特典として「極地探検家の下半身事情」「イスラム国事件に対して思うこと」などを収録。


 地球上の奥地や高山は探検し尽くされ、極地でさえお金さえ払えばだれでも行かれるようになった。そんな時代の「探検」とは何だろうか――。
 この著者の本は、危険と隣り合わせの探検行はもちろん、こんな探検哲学のような問いを常にいだいているのが面白いです。

 自分の探検行をノンフィクション作品に書く時、表現することが行為を左右することはないか、表現するために取る行動が変わったなら、それは純粋に探検と言えるのか?
 何故、山に登り、何故、極地を目指すのか? 100年前とは異なり、探検の価値が社会的に認められなくなった今の時代に、探検してそれを文字にする行為にはどんな意味があるのか?

 そうやって突き詰めていくと、著者にとっての探検は必ずしも命の危険を顧みずに前人未到の地を訪ねることではなく(それもいいけど)、初心者登山家が列を為す富士登山でも成り立つのだ、とわかってびっくりするのです。

 章の間にはさまれたコラム(ブログの記事)に書かれた探検家を悩ます卑近なことどもの話には電車で読みながら笑いそうになって堪えるのに苦労しました。
(2018.8.28)

 

「あしたはアルプスを歩こう」 講談社文庫 
角田光代 著

  あしたはアルプスを歩こう (講談社文庫)


なんかへんだ。雪が積もりすぎているのである。視界は白く染まり、風に飛ばされそうになりながら、標高二三二〇メートルの小屋に駆けこんだ。―トレッキングをピクニックと取り違え、いつもの旅のつもりでイタリア・アルプスの雪山に挑んでしまった作家が見たものは?


 雪山登山をトレッキングと言っていいのかという疑問は残るけれど、楽しかったです。

 著者はとても旅慣れた方のようだけれど、でも山歩きには不慣れなようだけれど。でも登山道中にガイドさんと交わす会話、弱音をはきながら辿りついた頂上を楽しむ姿がとても素直。
 目にした風景の大きさ、美しさ、味わいをありきたりな表現ではなく、少しでも自分らしい、腹の底から湧く言葉で伝えよう、という作家ならではのエッセイでした。

 合い間に挟まれるイタリアの美味しいワインや家庭料理のシーンも楽しい。欲をいえば、写真付きでもよかったのではないかしら。もっとゆったりと、山と酒と美味しいものと仲間たちの会話を読みたいなあ。
(2018.10.26)

 

「お医者さん・患者さん」 中公文庫 
吉村昭 著

  お医者さん・患者さん (中公文庫)


患者にとっての良い医者、医者からみた良い患者とは? 子供時代の病気の思い出、二十歳からの大病の体験を描きながら、あらためて医者と患者の望ましい関係を考えるエッセイ。

 著者を医師と勘違いして手にとったのですが、作家さんですね。なので、あくまで患者側からみた話です。ま、医師であったとしたら、そんなに患者さんの話を書けませんよね。

 戦中戦後時期の闘病の話がメインなので、治療風景はちょっと古すぎる(そして怖すぎる)のですが、さすがに大病を繰り返した方らしく病院と馴染み(?)があるんでしょうね。苦しい闘病体験の中でも冷静に医師や看護師の話を聞き、好奇心を巡らせていてます。

 書かれているとおり、医師にも人格者もいれば人間的にどうかという人もいる。医師からみれば患者にも扱いやすい人、トラブルの多い人がいるんでしょうね。病気にはできればなりたくないけれど、もし病院のお世話になったらなるだけ肝の据わった患者になりたいと思いました。

 医学の進歩を支える動物実験についての章は内容はある程度知っていましたが、やっぱり読むのは辛いです。
「医学の進歩のため」といってもなるだけ少なくはして欲しい。安易に動物愛護を唱える気はないですが、そこに倫理観があれば何かの防波堤になるのでは、と思うので。

 さて、長く病院とつきあってきた著者なので、戦中戦後だけではなく、近年の医療事情(患者から見た)も読みたいです。
(2018.11.25)

 

「もとちゃんの痛い話」 角川文庫 
新井素子 著

  もとちゃんの痛い話 (角川文庫)


ことの起こりは、春の終わり。なんだか急に痛みだした左胸の何とも言えない違和感。不安と痛みに胸をかかえ、産婦人科の門をくぐったもとちゃんを待ち受けるのは?


 乳房の膿瘍、そして虫歯をこじらせて通院した経験を語るエッセイ。痛い話はとことん痛かった……。
 しばらくこの方の本を読んでなくて忘れてたけど、けっこう描写が容赦ないですね。私は虫歯の話はまあ読めましたが、膿瘍の話はだめでした。通院ものエッセイ(なんてものがあるのか)の良さは、病院が苦手という意識が薄れることだと思ってましたが、この本に限っては撤回しますね(汗)。

 ただ、何度も思ったこと……「こんなになる前に病院へ行っていればよかったのに……」という点だけは、非常に、ひっじょうに役に立ちました。貴重な教訓を得たので、おとなしく定期検診を受けることにします。
(2018.9.10)

 

「つぶやきのクリーム」 講談社文庫 
森博嗣 著

  つぶやきのクリーム The cream of the notes (講談社文庫)


何から手をつけたら良いのかわからない状態とは、なんでも良いから手をつけた方が良い状態のことである―。けっこう当たり前なことのなかに、人生の大きなテーマは潜んでいるものなのだ。小説家・森博嗣がつい誰かに教えたくなって意外に真面目に綴った、世界の見え方が変わるつぶよりのつぶやき一〇〇個。


 書名がちょっと面白く、軽妙な雰囲気かなと想像して手にとりました。
 が、中身はぎっしりと固い。余白がなくていやに息苦しい。。。これは文庫本になった時に見開きで1章になるように文字数を調整して書いたためだそうで。著者紹介を見たら工学畑の方で、なるほど隅々まで設計されている感がありますね。この理詰めな雰囲気に私はぐったりしてしまった。

 前半は(私にとっては)息苦しいばかりでしたが、後半では「ああ、なるほどね」と思うつぶやきもありました。

 僕はスパンメールを自動的に処理せず、いちいち手作業でゴミ箱に捨てている。大した労力ではない。どんなものが、どれくらい来るのか、ノイズを感じている方が安心できるからだ。


 優柔不断な人間が、いくら力の籠もった有益なアドバイスを受けても、残念ながら効き目はない。力をしっかりと受け止めて初めて、ものの形が変化するのである。

(2017.8.28)

 

「フィンランド 森と街に出会う旅」 東京書籍
鈴木 緑 文・写真

  フィンランド 森と街に出会う旅


フィンランド旅行のヘビーなリピーターであり、不思議の国フィンランドにとりつかれたデザインライター+フォトグラファーが書いた、フィンランドのライフスタイルと自然の本。


 著者はデザイン関係の仕事で度々フィンランドを訪れているよう。ともかく、フィンランドでの日常をありのままに伝えよう、という気持ちが文章や構成から伝わってきました。
 著者が会う人はデザインや観光業界に偏っているけれど、かえって「こういう人もいるのだな」「これは、この人の個人的な視点だな」という見方をできるので、下手に国民性云々を語られるよりもいい。

 印象的だったのは、なんといっても女性のたくましさ。大工仕事も薪割りもこなすなんて、素晴らしすぎる! 他方、男性も料理をしたり編み物をしたりと男女の役割分担がゆるやかな印象。第二次大戦後にソ連に莫大な戦後補償を払わなければならず、少ない労働人口では男女問わずに経済活動に関わらなければならなかった事情がある、とのこと。
 きっかけは必要に迫られてだったのでしょうが、人の力を最大限に生かすことを真剣に考えている国という印象を持ちました。「人が国の財産」という考え方でもって福祉や教育が組み立てられている――こういう構造を理解することが大事なんですねえ。

 もう一つはフィンランドとスウェーデンの微妙な関係。
 かつてスウェーデンに支配されたため、国内にはフィンランド系フィンランド人、スウェーデン系フィンランド人が居て、2つの言語がある。対抗心を燃やすけれど、反目はしないけれど、単純に友好的ともいえない。近しい関係だからこそライバル意識や特別な感情を抱いてしまう――こういうところ、ちょっと日本人にはぴんとこないですけど。
 でも、例えばアイスホッケーの試合でフィンランドがスウェーデンに負けると、他のどの国に負けるより落胆するとか。フィンランドの家庭の味であるマスタードをスウェーデンの企業が製造することに不満を語る人たちがいるとか……そんな風に著者の周囲の話を読むと、ほんの少しだけ想像がつくような気もします。

 また、巻末には20人のフィンランド人に質問を投げかけていて、その答えが面白い。
 質問は(抜書きですが)「あなたがフィンランドで一番好きなところは?」「一番嫌いなところは?」「フィンランド人を表現する最適な言葉は?」「一番尊敬する人は?」「一番好きな飲み物は?」などなど。

 だいたいフィンランドの豊かな自然、安全で清潔なところが気に入っていて、長くて暗い冬と高い税金が嫌い、と。そして、「尊敬する人は?」という問いにほとんどの人がに具体的な人名ではなく、性格や行動を挙げているのも意外でした。

 意外といえば。
 個人的なびっくりなのですが、キノコ狩りをたいして好きではないフィンランド人も結構いるらしい。そして、フィンランド人も日本人と同様に『肩が凝る』らしい。肩凝り対策に、ムーミンに出てくるキャラクター、ニョロニョロを模したマッサージ器具があるなんて……(笑)
(2018.2.20)


「ロシアに学ぶ週末術―ダーチャのある暮らし」 WAVE出版
豊田菜穂子 著

  ロシアに学ぶ週末術


都市生活は捨てられない。でも田舎暮らしにも憧れる。両方をバランスよく行き来できたらどんなにかいいのに! こんな贅沢な望みが、ロシア人にとってはあたりまえ。それが「ダーチャのある暮らし」です。郊外の家ダーチャで、野菜や花を育てたり、散策やバーベキューを楽しんだり、手づくりサウナでひと汗かいたり……。とことん週末を満喫すると、月曜から再び街の暮らしに戻っていくロシア人。そんなダーチニキ(ダーチャ住民)のライフスタイルをモスクワ郊外に取材し、「私たちにもできること」を考えてみました。素敵な写真も満載です。

第1章 「ダーチャ」って何だろう
第2章 ダーチャへ行こう!
第3章 ダーチャに見るロシアの心
第4章 ダーチャのある暮らし


 歴史方面からばかりロシアを見ていたので、ちょっと身近な視点を足したくて手に取りました。それに、米原万里さんのエッセイで、エリツィン大統領夫人が家庭菜園にはまっていたというエピソードを読んでから、ロシアの家庭菜園が気になってまして。まさにぴったりの本。
 「家庭菜園のある郊外の家」がダーチャ。週末や長期休暇のたびにダーチャへ行き、畑仕事にいそしみ保存食を作るなど、手作り生活を送る。もちろん、自分で家も建てるのです。……家も!!

 郊外に別荘のようなものを持つ文化は昔からあったようですが、ダーチャがこのような形になったのは、ソ連邦成立から。
 社会主義のお題目が当時どう捉えられたかはわかりませんが、「自給自足、足りなければなんとかする、無いならつくる」というタフさがロシアの人にはしっくりきたのかもしれませんね。実際、ソ連崩壊後の物資不足も都会の話で、ある所にはあったのだそうで。

 それにしても、館と呼ぶのがふさわしい家(でも、作りかけ)や本業にできるような出来高を誇る農園、などなど、紹介されている素敵なダーチャのどれもが本格的でびっくりです。なんと、ロシアのジャガイモ生産量の9割がダーチャでの素人農業の収穫だそうです(経費を引くと儲けはほぼ無いそうですが)。

 でも、儲けがあるとか損得という話ではなくて、ただただダーチャが好き。『ダーチャ』と言うと会う人がみな顔をほころばせる、という言葉に読んでいる側も楽しくなります。

 カラー写真が少なくて、小さな白黒写真では物足りないなあ、と残念に思っていたところ、最後のレシピの紹介にはしっかりと大きな写真が使われていまして。「そうそう、そこが大事よね」と嬉しくなりました。ブリヌイ(ロシア風クレープ)……食べたい。
(2018.3.1)


「さいえんす?」 角川文庫
東野圭吾 著

  さいえんす? (角川文庫)


「こいつ、俺に気があるんじゃないか」―女性が隣に座っただけで、男はなぜこんな誤解をしてしまうのか?男女の恋愛問題から、ダイエットブームへの提言、野球人気を復活させるための画期的な改革案、さらには図書館利用者へのお願いまで。俗物作家ヒガシノが独自の視点で綴る、最新エッセイ集。


 漠然とした思い込みで、この著者は私より年下だと思い込んでいましたが、年長の方でした。そして、作品からはわからなかったけど、けっこう………うるさいオジサン。失敬!

 プロ野球の回は置いておいて(爆)、電子辞書の浸透ぶり、地球温暖化、振り込め詐欺対策など話題が幅広くて面白かったです。元エンジニアという経歴のせいか、問題意識を持ったことにちゃんと自ら検証を試みているところが、他の文系作家さんとは違うなあ、と感じます。特にダイエット食品会社の肥満度チェックQ&Aを追及してみた回はスッキリしましたねえ。

 そして、著作物や出版業界のしくみについての回は特に興味を持って読みました。
 この本が出る以前は、音楽や映像にはある貸与権が出版物にはなかった。だから、図書館が新刊を購入したり、新古書店(○ックオフ等)が成長すると作者や出版社が影響を被り、ひいては本そのものが無くなるだろう、という話でした。

 この本が出版された平成17年に著作権法が改正され、出版物にも貸与権がつくことになったそうです(権利を管理する社団法人も設立)。今や普及も進んだ電子書籍はどうなのかな、と気になりました。
(2018.3.11)

 

「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」 文春新書
山中伸弥 羽生善治 是枝裕和 山極壽一 永田和宏

  僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう (文春新書)


京都産業大学での講演・対談シリーズ「マイ・チャレンジ一歩踏み出せば、何かが始まる!」。どんな偉大な人にも、悩み、失敗を重ねた挫折の時があった。彼らの背中を押してチャレンジさせたものは何だったのか。


 科学者、プロ棋士、映画監督――それぞれの分野での第一人者を招いての講演と対談を収録。
 若者に向けて「どんな偉人にも悩み、失敗をした時代があり、自分たちと同じだったのだと感じて欲しい。先人への憧れと、親近感を抱いて欲しい」という願いで企画されたものです。

 若い時の失敗は無駄にならない、しつくした計算を越えたところに突破口がある、おもしろがって、ということを一様に口にされていたことが印象的でした。
 若者はもちろん、昔の若者(笑)も読むとはっとすることが多かったです。感じ方や物事の進め方において、年を取ると(気づかない間に)できなくなっていた点に気づかされました。

四十代の前半くらいまでは自分でも実験をやっていましたが、それ以降は老眼にもなるし、実験の能力も下がりますから、若い人がやった実験のデータをみるという仕事に比重が移っていくわけです。選手から監督に変わるような感じです。そこで若い人たちと一緒に喜べるかどうかっていうのは非常に大きなポイントだと思います。

(「第一章 失敗しても夢中になれることをおいかけて」山中伸弥 より)


続編では漫画家、劇作家も登壇。分野としては、私にはこちらの方が馴染みがあるので、読んでみたくなりました。
(2019.5.20)

 

「いい音 いい音楽」 中公文庫
五味 康祐 著

  いい音 いい音楽 (中公文庫)


作家・五味康祐のもう一つの顔は、音楽とオーディオの求道者であった。FMのライブ放送のエアチェックに執念を燃やし、辛口の演奏家評を展開するなど、生涯にわたって情熱を傾けた音楽。癌に冒された最晩年の連載「一刀斎オーディオを語る」を軸に編んだ、究極の音楽エッセイ集。


 クラシック音楽愛好家である作家・五味康祐が音とオーディオについて語るエッセイ。
 ほとんどがオーディオ機器についてで、無関心な私は実はほとんどを読み飛ばしてしまった。何故手にとったのか、といわれたら「ちょっと勘違いしまして」としか言いようがないのですが。
 しかし、これほどのこだわりがある人の話は聞いて損はないなあ、と感じました。

 名曲は作曲家だけでなく、それを見出した聴衆によって作られる、とか。フルート演奏はフランス語の発音の影響を受けているフランス人奏者が1番! って、そんなこと関係あるのか、とか。指揮者カラヤンは、ベルリンフィルではリズムより旋律を重視しがちなドイツ人に我慢できなかった、などなど。面白いですねえ。

 言葉や巷にあふれる音がその国の音楽文化を深いところから支えているのね、と想像するのも楽しいです。

 私が好きなのはダントツ1位でバッハ、ついでヘンデル(のメサイア)なので、この二人の曲の中から特にのおすすめが挙げられていて嬉しい。覚書としてメモ。

<バッハ>
 トッカータとフーガ
 マタイ受難曲
 平均律クラヴィーア
 無伴奏チェロ・ソナタ
 ブランデンブルク協奏曲
 フーガの技法
 インベンション

<ヘンデル>
 メサイア

<ヴィバルディ>
 四季
 竪琴(ラ・セトラ)


 こんな曲もあるんだ、ということで久しぶりにクラシックを聴きたくなりました。
(2018.5.29)

 

「旅行者の朝食」 文春文庫
米原万里 著

  旅行者の朝食 (文春文庫)


「ツバキ姫」との異名をとる著者(水分なしでもパサパサのサンドイッチをあっという間に食べられるという特技のために)が、古今東西、おもにロシアのヘンテコな食べ物について薀蓄を傾けるグルメ・エッセイ集。「生きるために食べるのではなく、食べるためにこそ生きる」をモットーに美味珍味を探索する。


 他のエッセイにも登場した「旅行者の朝食」をはじめ、美味しいもの、変な(^^;)食べものをめぐるエッセイ。

血液型で人間を分類して面白がる人が多いけれど、わたしなどまず人間を「生きるために食べる」タイプと「食べるために生きる」タイプに二分しますね。こちらの方がはるかに性格を正確に言いあてられます。


 こういう著者らしいエッセイともいえる(笑)

 特に面白かったのは、「ジャガイモが根付くまで」と「トルコ蜜飴の版図」。

 南米生まれのジャガイモは、ヨーロッパに持ち帰られてからもその泥まみれで異様(に見える)形状からなかなか広まらなかった、とは意外な話。味が薄くてソースがなければ食べられなかったのも理由のひとつらしい。確かに、土の良くない土地で作られたら、あまりおいしく無さそうですよね。
 それが、ロシア革命期に上流階級の流刑者たちがシベリアで広め、ようやくロシア全土に根付いた、というエピソードは面白かった。でも、金貨とセットでジャガイモを作らせるとは、やっぱりどこかボンボンはボンボン、という気がしないでもないですけど。

 そして、ケストナーの本に登場した憧れのお菓子「トルコ蜜飴」に始まり、プラハの子ども時代に食べたロシアの菓子「ハルヴァ」、その幻の味との再会――。
 本に出てくる食べ物に恋い焦がれる、というのはどの子どもも経験があるのかもしれないですねえ。でも、大人になってもその憧れを忘れず、手掛かりを求めつづける情熱はすごい! 大人の人脈(笑)はあの菓子を求めてスペイン、シチリア、インドまでたどり着くのです。ひとつの菓子がそれを愛する人たちによって、行く先々で広まったのだろうなあ、と想像すると楽しい。

 私は食い意地が張ってる方ですが(笑)、著者のこのバイタリティーにはとてもかなわない。「食べるために生きる」タイプの強さって、こういうことね、とつくづく感心したのでした。
(2018.5.3)

 

「魔女の1ダース
〜正義と常識に冷や水を浴びせる13章〜
新潮文庫
米原万里 著

  魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章―(新潮文庫)


私たちの常識では1ダースといえば12。ところが、魔女の世界では「13」が1ダースなんだそうな。そう、この広い世界には、あなたの常識を超えた別の常識がまだまだあるんです。異文化間の橋渡し役、通訳をなりわいとする米原女史が、そんな超・常識の世界への水先案内をつとめるのがこの本です。大笑いしつつ読むうちに、言葉や文化というものの不思議さ、奥深さがよーくわかりますよ。


 タイトルは「普通、1ダースといえば12のことだが、魔女の1ダースとは13」という言葉からつけられたそう。異文化にふれたときにつきつけられる常識や思い込みをくつがえす出来事がしゃきしゃきした文章で語られていて引き込まれてしまう。

 印象的だったのは、イスラム圏の「マーレッシュ=気にすることはない」という言葉に驚くエピソード。
ホストの高価なお皿を割ってしまった客人が「気にすることない」と言う、そのこころは「神は皿を割るという不幸を私の身にふりかけた。あなたはそれを免れた」という考え方なのだそうで。これは、確かに魔女の1ダース。

 また、5章で描かれる韓国人や元・シベリア抑留者との出会いに見る「天動説」の危うさも。戦中戦後の大陸の混乱は、立場によってこれほど違う風景に描かれるのか、とあらためて驚きました。自分を中心に世界を考える人たちが顔を合わせた時にどうやって異なる意見を受け入れるのか。緊張しながら読み進みました。

 こんな風に、世界のさまざまな「1ダース」が紹介されていますが、その中で時折「やっぱり、1ダースは12個」と思えるほっこりするエピソードもあります。マーボードウフという単語ひとつで心通わせる人たち、また初めて目にするロシア・オペラの魅力に虜になったツアー旅行客などなど。

 言葉や常識が通じない驚きと可笑しさ、そしてそれが通じた時の開放感が伝わるエッセイでした。
(2018.6.26)


「わたしの外国語学習法」 ちくま学芸文庫
ロンブ・カトー 著  米原万里 訳

  わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)


14のヨーロッパ系言語と中国語、日本語を、ほとんど自国を出ることなく、純粋に学習という形で身につけてしまった女性の外国語習得術。25年間に16ヵ国語を身につけていく過程と秘訣をつつみ隠さず公開してくれるこの本は、語学の習得にあたって挫折しがちなわたしたちを、必ず目的の外国語は身につけられるという楽天主義に感染させてくれます。


 米原さん訳というところで興味を惹かれて読んでみました。
 学習書というより言葉についてのエッセイで、外国語を学ぶにあたっての様々な発見があって面白かったです。密林のレビューでは、タイトルから期待したものと違ったという低評価もありましたが、そんな読み方をする本ではないでしょうに、と意外でした(もちろん、本は読者が好きに読めばいいのですけどね)
 多くの日本人は学校教育を軸にするのでしょうが、そこから離れて外国語を独学する時の指針というか設計図を語ってくれる本、というのが私の印象。未知の学び方を教えてくれたという意味では私には十分『外国語学習法』でした。


 今、目の前に素晴らしく美しい薔薇の花があると仮定します。わたしたちはこの薔薇の花を、写真に撮ることで永遠のものにしようとするでしょう。そんな時、周知の通り、わたしたちはレンズを薔薇の花びら一枚一枚に近づけるのではなく、写真機のファインダーにちょうど花の姿全体が収まるように一定の距離をおいて撮影にとりかかるでしょう。


 唯一のルールなどあり得ないのです。
 水を運ぶために、洗い物をする際に、または熱い鍋の取っ手をつかんで火から下すために使われ、夜は劇場を訪れる際に手を美しく見せるために用いられる手袋が、型をくずさないなどということがありますか?


 こんな風に多種多様な目的に使われる<手袋>が、型がくずれ、すり切れ、ヨレヨレになってしまったり縮んでしまったりと変わりはててゆくのは当然です。
 そして、最もすり切れてしまうのは、言語の中でも最もよく使われる部分、すなわち日常語なのです。



 言語を四つの部屋(発話、聞き取り、作文、読解)からなる建物に譬えて、その骨組みから美しい装飾まで作り上げようという熱意が文章の間からあふれているのです。こんな風に日本語に翻訳した米原万里さんもすごい。
 また、単語は単独ではなく必ず文脈の中で、その家族となる言葉(対やセットで使われる言葉)とともに覚える、など既知の勉強法も感覚的に掴める気がしました。
 なんというか。言葉と向き合うこと――じっくりと観察し、舐めて齧りつき、噛みくだき、すりつぶしてから飲みこんで、それが腹の中を下っていくまでを感じる――外国語を学ぶってそういうことなんだなあ。その地道さと面白さにあらためて感嘆しました。

 序盤で、外国語の勉強には1日に1時間半はかけるのが平均的学習者、云々……と書かれて、ちょっと心折れそうになりましたが(汗)
 でも、言語についての美しい譬えやその奥深さを伝える文章に、心が浮き立ちました。なんというか、英語が読みたくなったんですよ。

 最近忘れていた英語の楽しいリズムを感じたくなって、明日読もうとカバンにいれていた本を以前挫折した洋書にさっそく取り換えました。
(2019.7.7)

 

「小さな幸せ46こ」 中公文庫
よしもとばなな 著

  小さな幸せ46こ (中公文庫)


最悪の思い出も、いつか最高になる―。両親の死、家族へのまなざし、大切な友だちや犬猫との絆、食や旅の愉しみ、さまざまな出会いと別れ。何気ない日常の中にある「小さな幸せ」を見つけて慈しむエピソードの数々。あなたの人生に寄り添ってくれる幸福論的エッセイ集。


 帯に書かれたとおり、どこから読んでも、好きな時に好きなだけ読んでほっこりできる短いエッセイ集。はい、お勧めどおり、3ヶ月ほどかけてのんびりと読み終えました。
 あとがきによれば、著者がご両親を亡くして『ひとつの時代が終わった』端境期に書かれたとのこと。身のまわりの小さな喜びや笑いをひとつひとつ数え上げて、一歩ずつ進んでいこうという思いが伝わってきました。失くしてもはや戻らない時間を思い出すエピソードが多く書かれていますが、不思議に寂しいという気持にはならず、ただ出し汁が身にしみるように記憶が自分の体を作っている幸せが書かれているように感じます。

 好きだったのは、その「だし」のエピソード。何も食べたくない時でも体が受け入れる、何なのだろうな、だしって。

 そして、自分になじむ場所を見つけることの大切さを語る言葉。


 なじみを多くして、会いたい人を多くして、行きたい場所と行きつけの場所を増やして、にこにこ生きるしか対応策はない気がする。

 バランスよく行ったことのない場所へ行き、自分の姿や考え方を確認するのもとってもだいじ。そうしたら行きつけの場所はもっと温かい場所になるから。なじみの場所が消え、いた人がいなくなる、その経験もなぜか尊く思えるから。


(2019.3.10)

 

「幸せへの近道
〜チベット人の嫁から見た日本と故郷
時事通信社
バイマーヤンジン 著

  幸せへの近道 ―チベット人の嫁から見た日本と故郷』


遊牧民の11人きょうだいの9番目に生まれた著者は、家族の理解と村の人たちの支えによって貧苦を乗り越え、高校、大学と何千倍もの狭き門を突破、ついに中国国立四川音楽大学に合格します。それは両親が字を読めず悔しい思いをし、何としても子どもたちに教育を受けさせようと決意したことで開けた道でした。故郷チベットに「教育」という恩返しを続ける彼女の半生記を中心に、「チベットと日本――異文化理解」という視点を交えて、日本の読者に「人間はなぜ学ばなければならないのか」「教育とは何か」を問いかけます。


 チベットでの子ども時代、音大に入り、日本人と結婚して来日。日本人の家族や知り合った人々をとおして感じたチベットと日本の絆を綴ったエッセイ。

 チベットで仲のよい大家族(日本基準でいえば)に育つ中で育まれた素直さ、優しさ、健やかさ、期待に応えようという真っ直ぐな心根が文章からにじみ出ていてほっこり。
 また、日本に来てから、チベットとの生活習慣の違いに戸惑いながらも、コテコテの大阪弁とユーモアを掴んでいくところが楽しい。日本人の旦那さんの帰りが夜10時、11時になるのを理解できず、「牛だって働いてない時間なのに!」と不満をもらすところに思わず笑ってしまいました。

 そして、「チベットと日本は何が違うのだろう」と考える中で行きついたひとつの答えが「教育」。努力と諦めないで学び続ける姿勢が今の日本を作ったのでは、と。おそらく、旦那さんの実家の祖父母世代が中国東北部からの引き揚げ者で、大変な苦労の末に今に至ったという生の声にふれたことも大きな影響になったのでは、と感じました。

 故郷の子どもの教育のために学校を設立し、日本人支援者とともに子どもの未来のために働く行動力に感嘆の念を抱かずにはいられません。日本での苦労もあったろうに、ただただ感謝し続ける――言葉の端々にこぼれる謙虚な姿勢も印象的でした。
(2019.5.11)

 

「ヨーガン レールとババグーリを探しにいく」 PHP研究所
ヨーガン レール 他 共著

  ヨーガン レールとババグーリを探しにいく


人と自然をやさしくつなぐ、手の仕事。ババグーリ(瑪瑙)の美しさに魅せられた著者が、世界各地で見つけた大事なもの。

手仕事への憧憬、それはここからはじまった(インド)
伝統の草木染泥染め(中国・広州)
世界にひとつのやたら編みの椅子(大分)
イバン族のかごを求めて(ボルネオ)




「自然がこのように美しいものを用意しているのだから、私は飾りもののような不要なものは作りたくない。自然への尊敬の念を込めて、環境を汚さない、土に還る素材で、ていねいな手仕事をされた服や暮らしの道具など、自分にとって必要不可欠なものを作りたいと考えたのです」

 ただただ、この言葉に尽きる。哲学といいたくなるような作り手の姿勢が美しいです。
 私がまだ10代の頃から憧れたテキスタイルデザイナーさんですが、語っていることがまったく変わらない。世間の流行も人の目も気にしない。自分が心地よいと思うもの、美しいと感じるものだけを選び続けてきた人の言葉の重み、とでも言いましょうか。

 心ひかれたのは、中国の泥染め、インドネシアの家具職人がつくる木の葉そっくりの小箱、インドの手紬ぎ綿糸のふくみのある白さ。写真にある作品だけでなく、それを作る職人たちの姿も魅力的です。

 また、自然物の美しさを前にして、人工物を作る意味を自分に問う――こんな考え方をするデザイナーがどれだけいるだろうか、とも考えました。
 生半可に環境問題を語るのではなく、これほど美しい作品(商品)を世に送り出しながら、同時に「人間の手仕事のスピードを基軸にするかぎり、自然環境を再生できないほど破壊することはないのではないか」と語ることができる著者は、やはり特別な存在だなあ、と。

 地に足をつけた人が持っている穏やかな空気が言葉と写真の一枚一枚からひたひたと水のようにあふれてきて、幸せな読書でした。
(2019.9.29)

 

「晴れても雪でも」 集英社文庫
北大路公子 著

  晴れても雪でも キミコのダンゴ虫的日常 (集英社文庫)


冬は毎日繰り返される雪かき、春はブルブルふるえながらお花見、夏至が過ぎたら冬を恐れ、秋は迫りくる冬の気配を全力で無視する…。本当に判で押したように、毎年変わらないキミコの日常。ビールも凍る試される大地(北海道)での、雪と酒と妄想まみれの日々をつづった爆笑&脱力日記の第2弾。


 たまたま図書館でとあるエッセイを手に取ったのですが、それが下戸の男性作家が飲みなれないお酒をのんで長年の夢だった男の城(ワンルームマンション)で寝込む、という話でして。そこにぴんとこなくて隣にあった別の本を手に取ったのが、こちら。呑んべえさんのエッセイの方が楽しいわなあ、とこちらを借り出しました。妙な出会いですみません。

 あとがきにあるように、札幌での楽しい食べ歩き、夏のプチ旅行、秋になると話題の端々にのぼる「あれ」のこと、とまったりと過ぎていく日常が書かれたエッセイ。特別な大事件が起こらないところがいいのです。
 くすくす笑えるちいさなエピソードこそ、毎日の楽しみ、酒の肴ですねえ。

「あれ」との例年の戦いも気になるので、第一弾も読んでみたくなりました。
(2019.9.11)

 

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