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エッセイ・詩歌 3

「花明りの路」 三月書房
松永伍一 著 

  花明かりの路


詩人、評論家である著者のエッセイ集。花や着物、旅先の風景、詩人や作家の文体について、と幅広い題材をとりあげたもの。真紅の布装丁が美しい。(限定2000部出版とのこと)

 題名の雰囲気そのままに、あちこちに咲いた花を摘んで歩くような楽しさのある本です。著者愛用の志野焼の話、現在では作られていない「博多涼し」という着物の話が好きでした。何度か読むと、その度に別の話が胸に響くようになるのだろうと思います。
金沢の老妓の恋の思い出を語った「金沢新内ぶし」は、詩とも掌編小説とも言える美しさでした。
(2004.5.22)

「卵と無花果」 三月書房
草市潤 著 

   随筆 卵と無花果


歌人である著者の句をまじえながらの随筆集。

 不思議な味わいの言葉の数々に、振り回されたり目をひかれたりして楽しみました。面白さを説明するのも野暮というもの。片付け物の間から出てきた名前もわからない種を庭に蒔いてみて、忘れた頃に芽が出たのに気がつき、思わずいっとき見入ってしまった……そんな風に妙に心が落ち着く文でした。そら豆のさやと握手する、という一篇が好きです。
(2004.11.29)

「新選 谷川俊太郎詩集」 思潮社
谷川俊太郎 著 

  新選谷川俊太郎詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)


「ことばあそびうた」他の詩集からの抜粋、エッセイ、未刊の作品など約100編を収録。

 入手してから、いっきに読みきったことは一度もない本ですが、長年本棚に納まってます。
思い出した頃に取り出して、ぱらぱらっとめくって、「ああ、今日はこれがいいな」と思いながら読むのです。まあ、詩はどんな読み方もありなのでしょう。
 冬は「ポール・クレーの絵による絵本のために」、くたびれた時にはエッセイ、慌しい日々には「ことばあそびうた」のどれかを読むことが多い。ですが、いつもひとつかふたつの詩を読むとお腹いっぱいになってしまうので、すぐに本棚に戻すことになります。そして「かっぱかっぱらった かっぱらっぱ……」と、しばらく反芻して、またじきに忘れてしまいます。要するに好き、ということです。
(2006.1.24)

「ジプシー歌集」 平凡社ライブラリー
F・G・ロルカ 著  会田由 訳 

   ジプシー歌集 (平凡社ライブラリー―詩のコレクション)


スペインで広く愛されているロルカの、ジプシーの生活を題材にした詩集。

 描かれる血の色も、木々の緑も生々しく迫ってきます。男たち女たちの叫ぶ声と、月明かりの下で滴る夜露に目をとめる静けさの対比が鮮やかです。
 これは私がロルカを初めて手にとった時の感想です。
 詩というのは読む人によって見える物が違うのでしょうから、こんな感想をつけるのも野暮な話ですが。久しぶりに手にとってみると、演劇、絵画、音楽と多才だったというロルカの詩には言葉という枠を越えた力があるとあらためて感じました。
 どの詩も読み終わったあとに、あともう一行、声にならなかった文が隠れているような錯覚を覚える。不思議な余韻があります。ちょうど楽器が鳴り終わったあとに、音とも響きともつかないものがほんの少しの間だけ残っているのとよく似ています。
 詩の題材は恋、信仰、死も誕生もあるのだけれど、表現が生々しいまでに直裁で身体に近くて、異国の文学だなあ、としみじみ思います。ロルカに限らず、スペイン語圏の文学は光はあくまで眩しくて軽やかで、闇は救いようもなく深く暗い。それを描くためには自分の身体をしっかりと掴んでいないと、どこかにはじき飛ばされてしまうのかもしれないと、ふと思いました。

 巻末では、解説者が「邪道なのだが」と言い添えながら、ロルカをこう語っています。「ロルカの詩は『死』なのだというところから出発するのは、彼を感じるにはいちばんの早道なのだと確信する」
(2005.3.18)

「少女への手紙」 新書館
L・キャロル 著  高橋康也 高橋迪 訳 

   少女への手紙


「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロル(チャールズ・ラトウィジ・ドジソン)が、少女たちにあてて書いた書簡集。キャロル撮影の少女たちのポートレート、手紙に書かれたイラストも収録されている。言葉遊び、なぞなぞ遊びの原文についての注釈つき。

「いとしいガートルード。いけませんよ、手紙のたびにキスをひとつよけいに入れるなんて。重さが超過して、すごくものいりなんですよ」……

 こんな調子で、まあ、どれもこれもからかいと愛情であふれています。まるで「不思議の国のアグネス」「不思議の国のメアリー」……あとがきによれば、キャロルは十万通弱の手紙(!)を書いたそうです。全部が少女宛ではないにしろ、眩暈のするような数のお話があったわけですね(放心)。

 膨大な量の手紙。きっと受け取り手が笑い転げてくれることだけを願って書いたのでしょう。
 キャロル自身は几帳面な分類魔だったそうですが(受け取った手紙も出した手紙も、写しをとって保管し、通し番号をつけていたそうです!)、手紙の受け取り手が同じことをするとは思わなかったでしょう。あふれるような愛情は、旧・少女(笑)の目には少し滑稽で、でもいとしく映りました。

 余談。この本はまだ売っているのかな〜、と某密林で検索したところ、次点でこんなのがひっかかりました。

  『少女たちから「オヤジ」への手紙』

……ドジソン先生には見せられません。
(2005.9.22)

「イタリアでわかった」 祥伝社 黄金文庫
タカコ・半沢・メロジー 著 

   イタリアでわかった―陽気でけっしてクヨクヨしないおしゃれ生活 (祥伝社黄金文庫)


イタリア、ベルガモに住む著者が友人たちがイタリア風に「楽しく生きる」姿をかいたエッセイ。

 実の子供同様に著者を可愛がってくれる老夫婦、困っていると休みの日にでも駆けつけてくれた水道工のおじさん、失業中でも毎日楽しそうに歌う隣人。お気楽な面も、切ない出来事も書いてくれている、温かい気分になれる本でした。
(2003.8.30)

「おとな二人の午後」 角川文庫
五木寛之 塩野七生 著 

   おとな二人の午後―異邦人対談


イタリア、ローマを歩きながら、大人の色気ある生き方からイタリアからみた日本について、など様々な話題を語る対談集。

 高揚感のようなものが二人の著者の言葉から立ち上って、心地よかったです。ホテル住まいの気を張る感じ、イタリアで泥棒に入られた話、スーツを買うのに店員と交わした会話。まったく違う話題なのに、それぞれに漂う緊張はどこか共通点があるのが印象的です。
(2004.5.30)

「ニューイングランド物語」 日本放送出版協会
加藤恭子 著 

   ニューイングランド物語―アメリカ、その心の風景 (NHKブックス)


アメリカ植民地時代、初期の移民たちが住み発展したニューイングランド地方。そのアムハ-ストという町に7年在住した著者が、そこで出会った人、史跡を訪ねた旅を通してアメリカという国の原形について考えた本。

 独立前後のアメリカの風景、人々の暮らしの雰囲気を知りたくて手にとりました。宗教的迫害を逃れて、あるいは新しい仕事の機会を求めて新天地を目指した人々。他の国の建国とは違う様々な事情があったということが、独特の考え方や文化を生み出すことになったと考察されてます。その土地に実際に住み、今も残る建築や自然に触れながら「当時はどうだったのか」と想像して疑問を解決していく。
 思い出記のような文章なので資料として読むには物足りないかもしれませんが、実体験から歴史散歩が始まる様子が楽しく読めました。
(2003.10.28)

「ヴェネツィアの宿」 文春文庫
須賀敦子 著 

   ヴェネツィアの宿 (文春文庫)


12の小編で語られる、著者の自伝エッセイ。戦時中におとずれた親類の家、寄宿舎の思い出、戦後の留学先で出会った人々、そして父の思い出を語る。

 ヴェネツィアの宿で耳にしたアリアから、亡き父のことを思い出す――ここからはじまる小編集はそれぞれが独立した話のようでありながら、いくつもの視点から「アツコ」という著者の心の中を描き、紡ぐ。不思議な構成の本です。

 やわらかい日本語で周囲の人の言葉や癖、ちょっとした表情を淡々と描いていく。これは、言葉によるポートレートスケッチだと思いました。大事件も起承転結もない、物語とはちょっと違う。ただ、読み終わったあと、写真の印画紙に焼いたように、心の中に人の姿がふんわりと写っているのに気づく。こんな感じでした。

 特に好きだったのは、伯母の凛とした和服姿が目に残る「夏のおわり」、シスターたちの温かく力強い愛情によって守られていた少女時代を書いた「寄宿学校」、夫の死の予感におびえ、揺れる心を描いた「アスフォデロの野をわたって」。
(2007.10.3)

「トリエステの坂道」 新潮文庫
須賀敦子 著 

   トリエステの坂道 (新潮文庫)


夫の親族たちをモデルに描いた私小説的エッセイ12編と未完小説のための思索ノート「古いハスのタネ」を収録。

 著者が結婚して暮らしたミラノの町の風景と、夫の両親と兄弟、親類たちとの交わりが描かれています。落ち着いた静けさのある文章が心地よいです。
 特に好きだったのは、山間の村フォルガリアに住む義弟の奥さん一族を書いた「重い山仕事のあとみたいに」。そして、教会のカラヴァッジョの絵画と友人ナタリア・ギンズブルグの思い出を重ね描いた「ふるえる手」。

 この著者の本はまだ2冊しか読んでいませんが、『他のどの本とも違う』空気を感じます。まるで、音楽のコンサートで一曲だけ調の違う曲がはじまる時に、はっと耳をとらえられるのと似ています。長年、翻訳をされていながら自身の文章を発表されたのは50代後半になってから、という著者の来歴によるのか。それとも、日本とヨーロッパを行き来されていたことと関係あるのか。
 著者は、周囲はイタリア語ばかり、自分の中の日本語がしぼんでしまうのではないか、と考えていた日々の中である本と出会います。

(その本は)いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。イタリア語で書くか、日本語で書くかは、たぶん、そのときになればわかるはずだった。

 誰にでも出来ることではないのでしょうが、「書く」って本当はこういうことなのかもなあ、と感じた一文でした。
(2007.10.25)

「ミラノ 霧の風景」 白水Uブックス
須賀敦子 著 

   ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)


霧が厚くたちこめるミラノ、詩人ウンベルト・サバの生まれたトリエステ、ヴェネツィアの運河の水音――各地で出会った人々の姿とともにイタリアの風景と文学について語るエッセイ。


 きれいな日本語が読みたいな、と思うと、手にとるようになった著者の本。
 長くイタリアに暮らして「自分の日本語がしぼんでしまうのを怖れた」という人だから、なおさら言葉が選ばれ、磨かれているのかも。この著者の文章の味わいって、例えば良い食べ物とは高級食材のことではなくて、丹精されて滋養の詰まった素材であるのと似ている気がしました。

 好きだったのは。
 旅行で訪れたヴェネツィアの、街全体が劇場であるような不思議な雰囲気を語った「舞台の上のヴェネツィア」。
 小鳥のさえずりのような土地訛り。運河と島という独特の風景が、ヴェネツィアっ子独特の街歩きの感覚を生み出す。それらが重なって、他の土地とは異質な虚構の空間をつくっている。真夜中、運河の水音を聞きながら、そんなことを思う――こんな旅もあるのだなあ、と感嘆しました。

 また、解説のこんな一文が面白く、惹かれました。

「古来、女性は語り伝えられてきた話を次の世代に語り伝える才能に恵まれていると思う……(中略)……須賀さんは大昔から女性の繰り返したおしゃべりをおだやかに、ふたたび繰り返しているように思える」

 ああ、なるほどなあ。著者の本はどれも美しい文章だけど、堅苦しくはない。そこに女性の雑談を思い起こした解説の方の目にも驚きました
(解説者:大庭みな子さん)
(2010.10.28)


「コルシア書店の仲間たち」 文藝春秋
須賀敦子 著 

   コルシア書店の仲間たち (文春文庫)


狭いキリスト教の殻にとじこもらない共同体をつくりたい、という願いによって1950年代に始められたミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店。夢と理想を現実とする場所を求めた若者たちは、やがてイタリア社会の変化の中でそれぞれの生き方を選んで離別していく。

 このエッセイ集の中心となっているコルシア書店は、カトリック左派の思想に立って本の出版や講演、ボランティア活動を行なっていた一団。
 本文によれば、カトリック左派とは「20世紀においては、精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もう一度現代社会に組み入れる運動として、第二次大戦後のフランスで高まった」というもの。また、聖と俗の垣根をとりはらおうとする新しい神学が1930年代に起こり、50年代にはそれを社会的運動にまで進展させる共同体の思想がカトリック学生の間に広まった、と時代背景にもふれられています。

 イタリア留学していた著者はここに迎え入れられ、いわく「彼らの会話の深みについていけなかったので耳をかたむける側にまわった」という、一歩うしろに下がったような静かな視点で仲間の姿を描いています。
 この書店の思想にはほとんど触れられてはいませんが、その場にいた若者たちの夢みるような行動や行き違い、やがてそれが生き方の違いとして彼らを分けていく様子が丹念に描かれていて、読んでいるとおだやかな気持ちになりました。

 印象的だったのは、書店のリーダー的存在で、詩人としても名を知られたダヴィデ・マリア・トゥロルド司祭を中心に書かれた「銀の夜」。
 堂々とした体格、堰を切った水のように笑う行動的なダヴィデ。そのまわりには、書店の哲学的な方向性を組み上げていたカミッロ、著者の夫で物静かなペッピーノがいた。さらに、支援者である上流階級の婦人や作家、弁護士、聖職者、十代の若者たちが書店にやってくる。著者はここで出会った人々を通してイタリアという国のさまざまな顔を知ることになります。
 ですが、かつては同じものを見て語り合った友人たちがそれぞれの事情をもって別れていく。その別れすら、味わうように書かれた言葉がいいです。

 ちょうど熟れた果実が木を離れるように、ダヴィデはコルシア・デイ・セルヴィ書店から離れていった。あるいは書店が彼から離れていった。それは、どちらが意図したとか望んだということではなくて、時間がそのように満ちたのだと思う。

 著者は仲間が遠くなっていくことを悲しみも怒りもなく、ただじっと見つめている。終章「ダヴィデに――あとがきにかえて」に書かれた言葉は忘れがたいです。

 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。
(2007.11.17)

「地図のない道」 新潮社
須賀敦子 著 

   地図のない道 (新潮文庫)


友人から贈られた一冊の本に誘われるように、ローマとミラノのゲットを訪ねた旅を記した表題作。そして、ヴェネツィアの高級娼婦(コルティジャーネ)の歴史をおもう「ザッテレの河岸で」が収録されている。

 扱われている題材がイタリアのゲットや娼婦であるからか、ユダヤ人の友人が著者に語った(あるいは口を閉ざした)戦中の記憶に触れられているせいか。または著者が夫を亡くされた直後の話であることも関係しているのかもしれません。他の作品集より、少し重くて湿っぽい感じがします。でも、この一冊もまた淡々とした文章で、重さは暗さではなく静けさにつながっていくようです。
 これは読み終わって、ぼんやりと頭に浮かんだイメージなのですが。

 ――橋の下を流れるとき、川には影が落ちるけれど、川の水が黒くなったわけではない。

 周囲の状況に影響を受けない何か。途切れることなく心の中に流れ続けるものがある。そんなことを考えて、じんわりと幸福がこみあげてきました。

 著者が加筆訂正中に亡くなられたために、そのまま掲載されている「地図のない道」。この最後の場面がとても好きです。
 ヴェネツィアの小さな島に建つある古い聖堂、そこを訪れた著者が、友人の思い出と聖母像に心が満たされていく。夕暮れの桟橋に帰りの船便を待ちながら、うずくまるように座って水平線を眺めている著者の姿に思い入れるうちに、穏やかな気持ちになっていきました。
(2007.12.5)

「時のかけらたち」 青土社
須賀敦子 著 

   時のかけらたち


ローマのパンテオン、固い石畳、シエナのフレスコ画、彫刻像、一編の詩――それらを見るときに思い出される友人たちの姿、彼らと過ごした記憶をつづる、著者最後のエッセイ集。

 著者が周囲の風景、人々をみる目は感度のいいアンテナのようだ、と感じました。
 記憶の鍵となるものは建築物、美術品とさまざまですが、そのどれからも作り手のこころの動きやつぶやきが伝わってくる、それをあまさず聞き取り、言葉にとどめておこうとした。そんな風に書かれた文章である気がします。

 ヨーロッパの固い、抵抗感のある石畳をあるく心地を描いた「舗石を敷いた道」、ナポリの猥雑な下町の通りを描いた「スパッカ・ナポリ」、ローマ帝国時代に築かれたパンテオンに、現代人の想像を超えた計算、美しさを見出した「リヴィアの夢」が特に好きでした。
(2007.12.19)

「こころの旅」 角川春樹事務所 ランティエ叢書
須賀敦子 著 

   こころの旅 (ランティエ叢書)


「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」――それは人だけではなく、書物にもいえるのかもしれない。言葉と人に寄りそって生きようとする著者の思いをつづった16編のエッセイ集。

プロローグ
芦屋のころ
旅のむこう
となり町の山車のように

日記/1971年4月10日・土曜日
きらめく海のトリエステ
思い出せなかった話
Z――。
チェザレの家
ある日、会って……
塩一トンの読書
本のそとの「物語」
父ゆずり
松山さんの歩幅
翠さんの本


 他の本にも収録されている作品が多いのですが、装丁がきれいなので満足。久々に「本」の形を楽しみました。文庫サイズでハードカバー仕立て、というのは、この著者の作品には一番似合うと私は思います。小ぶりで、でもしっかりとした造り。旅行にも持って行きたくなるような足取りの軽さを感じる美しい装丁です。

 特に気に入った作品は、楽しそうに手話で会話する家族との出会いを書いた「ある日、会って……」。『蝶が舞うような』手話の身ぶりの美しさ、もう会うこともないだろう人たちの姿があざやかに描かれています。

 そして、「日記/1971年4月10日・土曜日」

 Piazza del Campo ――朝の陽がいっぱいに照っている。こまかくレンガで杉アヤのようなもようにつくられた、autodromoのような傾斜をもつ、この世界屈指の美しい広場。

 イタリア語と日本語を自由に交えた走り描きのようなスケッチ。印象派の絵のような明るさが好き。音が聞こえる、きらきらした光がみえるような気がします。
 スケッチのような作品はもうひとつあります。庶民と上流階級の世界に二分されたミラノの町――その音や匂い、歴史を感じさせる「街」という一編も大好きです。
(2009.3.9)

 

「遠い朝の本たち」 ちくま文庫
須賀敦子 著 

   遠い朝の本たち (ちくま文庫)


人生の遠い朝――著者が少女時代に出会った本やそれにまつわるエピソードを語るエッセイ。

 著者は子供の頃には兵庫の自然に囲まれた家で育ったそうですが、その描写が美しいです。
きっと、太陽を浴びながら野花を摘むように本を読み、ふりそそぐ言葉を受け止めて育ったのだろう、と思いました。

 印象に残ったのは、サンテグジュペリ「星の王子さま」の思い出からはじまる「星と地球のあいだで」。
生まれてはじめて飛行機からの夜景を見た瞬間に、著者の中に根を下ろしていたサンテグジュペリの言葉が結びつく。

(灯火の)ひとつひとつは闇の大洋の中で人間の意識の軌跡を告げ知らせている

 飛行機に乗って目的地へ一直線に向かっていく、という軽やかな感覚と、そこから見える灯火のもとに暮らす人を思う気持ちがひとつになる――幸せな気分になりました。

 また、著者が九歳くらいの頃に、隣に住んでいた俳人・原 石鼎(せきてい)の作品との出会いについて語った「ひらひらと七月の蝶」。
 著者の家庭と原石鼎とは近所づきあいもほとんど無く、言葉を通して知り合うには歳が違いすぎた。同じ風景を違う角度から見ていたということだけがわかる、不思議な縁だと思います。
 好きな作家や画家が、実は自分が生まれる前に亡くなっていたことを知った時の気持ちと、どこか似ているような気がしました。
(2008.8.19)

 

「安野光雅の異端審問」 朝日文庫
安野光雅   森啓次郎 著 

  安野光雅の異端審問 (朝日文庫)


目次からずばり、抜粋です。下剤と下痢止めをいっしょに飲むとどうなるか?占い師は馬券を買うだろうか?豆腐を郵便で送れるか?サーカスの猛獣使いは生命保険に入ることができるか?桃栗三年柿八年というのは本当か?

 110の審問のうち、4つは私も疑問に思ってたことがありました。解明のために実験したことはなかったですが。この本が書かれたのが1988年なので、今やほとんどなくなってしまっただろう審問もありました。「公衆電話で10円玉で、どれだけ長電話ができるか?」
(2004.2.8)

「大人のための文章教室」 講談社現代新書
清水義範 著 

   大人のための文章教室 (講談社現代新書)


報告書やお知らせ、手紙といった何かしらの文章を書かなければいけない大人向けの、伝えるための文章教室。

(実用書というべきなのかもしれませんが、文章をめぐるエッセイとしても読めたのでこちらに)
面白かったです。くすくす笑いが抑えられず、「近寄ってはいけない文章」の項はお腹を抱えて笑っておりました。伝えるための小さな工夫が楽しく、そしてわかりやすく語られてます。
いわゆる名文の良さをちょこっとだけ紹介して、「でも、これは離れ技ですからね」と断り書き。その上でちょっとしたコツを説明されたりすると……早速、明日の連絡書に使ってみたくなるではないですか(単純)。
(2005.7.27)

「なんといふ空」 中公文庫
最相葉月 著 

   なんといふ空 (中公文庫)


「絶対音感」の著者によるエッセイ集。子供の頃の記憶、駆け出しライター時代に見た競輪場の風景や会社勤めをしていた時期に出会った人々を語る48篇。

 ふう、と力を抜いた時に見える風景とよく似てる気がします。普段は気にも留めないのに、何かの折に鮮やかに目に映る風景。古い記憶とも似ています。そして、思い出と一緒で「あんなことあった」と懐かしんだ後は、もう一度現実世界に帰っていく読後感が好きです。冒頭の『わが心の町、大阪君のこと』の、その後を語る一篇で締めくくられているせいかもしれません。

『星々の悲しみ』
高校時代の友人との手紙のやりとりと、その後の再会。
声もかけられずに別れた友人との遠さに、切ない気持ちになりました。

『遠距離の客』
遠距離と超近距離の客には事情ありなことが多い。タクシー運転手から聞いた話。

『知らない人の本を読む人』
ずいぶん難しい本を読むんだな、と思わず笑ってしまいました。


そして、偶然にも知り合いが編集に関わった本が取り上げられていました。あ、この人も読んでくれたんだ、と嬉しくなったので宣伝、宣伝。

 珈琲に遊ぶ―おいしいコーヒーを淹れるヒント

(2006.6.16)

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