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エッセイ・詩歌 8

 

「ミナを着て旅に出よう」 文春文庫 
皆川明 著

   ミナを着て旅に出よう (文春文庫)


オリジナル生地から服を作り上げる独自のファッションブランド「ミナ ペルホネン」。温かな手触りと空気感に満ちたコレクションからは、どこか壊かしい心 象風景が立ち上がってくる。魚市場で働いていた若き日々から、駅伝のようなチームワークの現場まで、クリエイションの源を静かに語った宝物のような一冊。


 ファッションブランド「ミナ ペルホネン」のデザイナー・皆川明がブランドを立ち上げるきっかけや日々の仕事について語ったエッセイ。
 ミナの洋服はあまりに可愛くて私は着られないのですが(笑)、肩の力の抜けたような軽やかな生地デザインが好きで、よく商品写真は眺めています。読み終わり、「もっと若い頃に読みたかった」と思い、同時に「周囲がどんな状況であっても、やる人はやるのだ」とも考えました。

 学生時代はデザインとは無関係のスポーツ一辺倒、そして、ブランドを作ってからもしばらくはアルバイトと兼業だったらしい。そのアルバイトが、魚市場というところが何とも意外でした。ですが、読んでいくと逆に「ああ、魚市場」と納得するのが面白い。それは、ひとつひとつ違う魚や貝のかたち、いいと思ったマグロが捌いてみたらそうでもなかった、反対に、期待していなかったマグロが意外においしかった、と……。なるほど、ミナのデザインってこういう感じだなとわかりました。

 そして、流行から一歩離れて、自分のペースでものを作る姿勢に憧れを感じました。
 半年ごとに新しいものを作り、前の物は古い、と切り捨てる面がファッションにはある。それとは正反対に何年使い続けるものを作りたいと語る著者。テキスタイルへの関わりもアパレル会社ではなくて工場からだった、ということにも納得。既存の考え方や枠組みにとらわれない、自分がいいと思ったものへのこだわりをそのまま形にする方法を現場で学ばれたことがわかります。

 また、工場を知っている人であるから、繊維産業の未来に向けた言葉は現実味があります。

 ファッション産業の中には、ピラミッド式にものを考える人がいて、それこそ工場のひとのことを自分たちの家来のように扱う人がいるんですが、僕は一着の服を全員で作っているという意識を忘れたらダメだと思っているんです。

 誰がエライとか、誰が下だとか、そういう考え方はつまらない。ピラミッド型の産業構造では、一着の服を作った利益が上にしか残らないことになり、下に位置するところはどんどんつぶれていって、ピラミッドは小さくなり、最終的には頂点もなくなるっていうあたりまえの話です。



 ああ、本当にそうだな、と同じ業界の片隅にいる私もそう感じます。
 どちらもお互いがいなくては仕事が回っていかないのに、こんな当たり前のことを当たり前にしてこなかったために、日本の生地や縫製工場は死に体になってるわけです。だから、私は和風総○家とか見ると腹が立つんですよね。どうして、もう10年、20年早くこういう人たちを取り上げなかったのか、と。

 ……閑話休題。世代もそう遠くなく、同じような時期に同じ業界でこんな方が仕事してらしたのだな、と感慨深い。
 似たようなことを考えていた、などとはおこがましくて言えないけれど、「自分はそれほど間違ってはいなかったのだな」と思う。
 それでいて、それを目に見えるかたちにできなかった自分は才能も努力が足りなかったのだろう。同じことをこれからしようというわけではないけれど、せめて考えたことを呟く程度のことはこれからもしていこうと思いました。
(2015.8.27)


「国家・宗教・日本人」 講談社文庫 
司馬遼太郎 / 井上ひさし 著

   国家・宗教・日本人 (講談社文庫)


混乱と迷走の時代をいかに克服し、広い度量と日本人としての誇りを持ちながら、いかにして未来への下地をつくるのか!? “宗教と日本人”“よい日本語、悪い日本語”“「昭和」は何を誤ったか”など、二大作家が独自の史観で情熱を込めて「日本」の過去・現在・未来の諸問題を わかりやすく語りつくした対談集。


 ちょうど20年前、1995年の対談です。戦後50年の節目の年であり、地下鉄サリン事件があったあとの対談、といえば時代感を思い描けるでしょうか。
 しかし、まあ。読むほどに気が滅入り、絶望的になりました。何故なら、書かれていることに説得力があり、私としてもかなり頷けた。にもかかわらず、20年経っても変わってないこと、そしてもっと以前から日本人はそうなのだ、と聞かされて心底がっかりしたのでした。
 宗教や言語とからめながら、日本人から「考えぬいて決める」「表現する」思考が失われているという話には特にがっかり(笑)しました。

 用意された答えは何だろうということがまず最初にあって、その先とかその脇とかを考えずに、他の筋道を考えもせずに、ただひたすら用意された答えに寄り添っていく。

 とにかく途中はどうでもいいからまず差しさわりのない答えを、という社会になってしまった。機械をつくる、モノをつくる、あるいは文章を書く――どんな面においても日本人の創造力にパワーがなくなっているのは、そのあたりに理由があるのかもしれません。
(井上)


 これに関連して、「自治」という意味を日本人はわかっていない、とも書かれていました。
「自分で治める」というざくっとしたイメージではなく、本来は「自主性」ということ。何もない所に町を作るようなもの。こうしたい、何がしたい、何が欲しい、という意見を出しあい、話し合って現実化させるのが「自治」。なるほど、そこまでリアルには考えたことはなかったかもしれない。試しに autonomy を辞書でひいたら、本当だ。「自治」だけでなくて、ちゃんと「自主性」と書かれていましたよ。そこから考えなければならないのですか……。
 とにかく思考力を問われると耳が痛い。

 精神性は大事ですが、近代戦においても、最後は合理的な兵学思想を捨てて、成算がないことへその場の雰囲気で踏み切ってしまうことや、あるところまで客観的に見ていたのがパッと主観的に切り替える癖が日本人にはありそうな気がしますね
(井上)


 そうだな、と。しかも日露戦争あたりからそうなのよ、と言われると、もうどうしようもないじゃないですか。……と、がっかりしていても始まらないのですが。
 ただ、西洋哲学やカトリックにある「絶対的なもの」という考え方を日本人ができないのは仕方ないことかな、と思いました。むしろ、二章以降で語られている、「ダメなものはダメ」「過ちには謝罪を」といった筋を政治家や経済人がなくしたことが「絶対の欠如」にあたるのかもしれない。これに関連して、検証しない国民性と書かれていて、似たようなことを感じたことがあったので興味深かったです。

 また、後半では日本の戦後についても書かれています。

 私は「普通の国」になどならない方がいいと思ってます。核、再軍備の問題をクリアしてフランス並み、アメリカ並みの「普通の国」になって「普通」に振る舞って、それが何になるんだということがあるでしょう。
(司馬)

「朝鮮半島を支配したじゃないか」と言われれば、昔の話だけれども「申し訳なかった」と頭を下げていかなければならない。いくら頭を下げてもいいんだ、カッコ悪いもヘッタクレもない。基本的な誇りの首の骨を折られた人たちには、三代、四代あとまで謝ることは必要です。それでいいんです。それで少しも日本国および日本人の器量が下がるわけではない。下がると思ってる人は、自尊心の持ち方の場所が間違っている
(司馬)


 戦後処理についての考え方はすべて頷くことはできないな、とも感じました。
 ドイツと同じ戦後処理を被占領国の日本がするのは無理だったと思うし、年月が下ってはかなり近いことを実行してはいるわけです。何よりも、「西洋の中のドイツ」と「アジアの中の日本」でまったく同じ謝罪と賠償の方法を取ることはできないと私は思っているので。
 明治以降、無理やりに西洋化を進めた日本の軋みが欧米、アジアのどちらにも受け入れられない立場に自らを追い込んだのかもしれない。そして、その立場での発信方法を確立できていないのが、一番最初に挙げた創造力と表現力の欠如ということなんだろうか。

 さあ、絶望に戻ってきましたよ。ただ、自尊心の持ち方、という視点には多少(笑)救われた気持ちになりました。こんなに疲れる読書は久しぶりでした。

 間違ったことを認めて表現するということは、自分の暗部を自力で乗り越えるということ。
 かつての日本、その後の日本、あらゆる日本について日本人がしっかり自己評価して、あのときの日本はよくなかったとか、このときの日本は誇るべきだとか、そういう表現をするのは自分の値打ちを下げることではないんです
(井上)

(2015.9.10)

 

「「自分」の壁」 新潮新書 
養老孟司 著

   「自分」の壁 (新潮新書)


「自分探し」なんてムダなこと。「本当の自分」を探すよりも、「本物の自信」を育てたほうがいい。脳、人生、医療、死、情報、仕事など、あらゆるテーマについて、頭の中にある「壁」を超えたときに、新たな思考の次元が見えてくる。「自分とは地図の中の矢印である」「自分以外の存在を意識せよ」「仕事とは厄介な状況ごと背負うこと」―『バカの壁』から十一年、最初から最後まで目からウロコの指摘が詰まった一冊。

第1章 「自分」は矢印に過ぎない
第2章 本当の自分は最後に残る
第3章 私の体は私だけのものではない
第4章 エネルギー問題は自分自身の問題 
第5章 日本のシステムは生きている 
第6章 絆には良し悪しがある 
第7章 政治は現実を動かさない 
第8章 「自分」以外の存在を意識する
第9章 あふれる情報に左右されない



 「自分」と「自分以外」との境界はどこにあるのか。社会と「自分」との関係、「自分」の身体は本当に自分のものか。また、エネルギー問題、情報社会での生き方などにも話が広がっています。あちらもこちらも含蓄のある言葉が多く、先日読んだ103歳の方の本もそうでしたが、ただ頷いて受け入れるしかない感じでした。

 面白かったのは、環境やエネルギーについて語った3、4章。
 自分は田んぼや山など自然に負って生きているのだから、自分は自然だし、自然は自分自身だという――1章で出てきた「自分の存在は世界の中では相対的なもの」という考えとともに、どこか仏教的で日本人としては馴染みがありました。
 さらに、原発などエネルギー問題を他人事と考えることもおかしい、と。問題もまた自分自身で、自分も問題なのだという視点に気づかされました。
 また、人が作るエネルギーと消費するエネルギーがアンバランスである、という考えも新鮮。

今は日本人1人あたり自分の作るエネルギーの40倍を使っているとされています。現代の日本人は40人を雇っているのと同じ状態で日々暮らしている。それはいくらなんでも使いすぎだと思うのが普通じゃないでしょうか。


 生み出すエネルギーをどう換算するのかという問題もあるけれど、でも単純に考えても電気と水はざぶざぶと使いすぎかもしれません。ああ、あと食べ物も。
 そこから、エネルギーをどんどん使うことが経済成長、という考えに疑問を呈していました。何事も前提を疑い、シンプルな考えをしなさい、ということかな。度々「山へ行け」と書いていることの裏にはこんな意味もあるのかもしれないですね。

 もうひとつ面白かったのは、「情報過多とメタメッセージに気をつけた方がいい」という言葉。
 メタメッセージ、とは初めて聞いたのですが、『そのメッセージ自体が直接示してはいないけれども、結果的に受け手に伝わってしまうメッセージを指す』。ネットのニュースを思い浮かべ、なるほど何となくわかりました。情報過多って、単に「量」だけでなく、無意識に受け取っている情報も含まれてるということですね。

 幅広い話題、論理的な話の流れで興味深かったのですが、話が章ごとにころころ変わるのでやや読みづらい気もしました。
 導入部が科学者らしい「自己の領域認識」という面白い(と門外漢は思う)視点から始まるので、ミトコンドリアとか仏教とか、『顔色を読む』とか、エネルギー問題あたりまででまとめた方が本としては良かったのでは、と思います。政治にまで話が広がってしまうと何がなんだかわからなくなってしまいました。
 と言いつつ、「国家のような大きなものが簡単に動くとは思わない方がいい。強いリーダー次第でがらっと変わる国があるとすれば、それは不安定で良くないシステムだ」なんて言葉には深くうなづきました。
(2016.6.7)

 

「ジェネラル・ルージュの伝説」 宝島社文庫 
海堂 尊 著

   ジェネラル・ルージュの伝説 (宝島社文庫) (宝島社文庫 C か 1-9)


ジェネラルの原点「ジェネラル・ルージュの伝説」に、新たに書き下ろした「疾風」と、その後の物語「残照」も収録。文庫用に加筆したエッセイ、自作解説で創作の秘密を惜しみなく明かします。巻末には年表&主要登場人物リスト&用語解説辞典付き。

novel
伝説1991
疾風2006
残照2007

海堂尊物語
自作解説
海堂尊ワールド



 短編もありますが、エッセイの方が量が多いのでこちらに。
 短編は初めて読みましたが、歯切れよく、話が広がりすぎることもなく、楽しく読みました。まだ医師になりたての頃のジェネラル・速水の無茶ぶりが、またデパート火災で次々に急患が運ばれてくる修羅場を経てひとまわり成長する姿に好感が持てました。

 巻末の年表を見て、これまで疑問に思っていた時系列の矛盾(?)がはれてすっきり。というか、著者が書き間違えたんじゃないかと私は今でも思うのですが……。まあ、きれいに年表におさまったので、このまま丸のみすることにします(笑)
「残照2007」の佐藤部長代理にはまったく覚えがなかったので新鮮(すみません、忘れただけかな)。珍しく医師個人の見解よりも立場に拠った発言をして、そこに葛藤を覚えるキャラクターだったせいかも。さて、彼はどの本に登場していたのか。
 後半は大変なファンサービスです。ずいぶん破天荒をやっておられる著者みたいで、そこが作家一本でやっている他の多くの小説家とひと味違ってますね。こんな風に業界を越えて仕事する人がもっといたら面白いのに。

 Ai導入などはっきりした主張を持っている著者だから、いつか言いたいこと、書きたいことを書き終えたら、すっぱり書くのをやめてしまうかもなあ、と漠然と感じました。きっとファンにとっては考えたくないことでしょうが。
(2015.11.30)

 

「日々の考え」 幻冬舎文庫 
よしもとばなな 著

   日々の考え (幻冬舎文庫)


遠くの電線にとまっている鳩をパチンコで撃ち落としたり、人に言えないようなエロ話を披露する素敵な姉との抱腹絶倒の日々―。ユニークな友人と見つける小さいけれど、人生にとっては大きな発見!そして、心ない人へは素直な怒りもたぎらせる。読めば元気がふつふつとわいてくる本音と本気で綴った爆笑リアルライフ。

 そう古い本でもないのに、なんとなく鋭さがなくて物足りないな、いちいち話にオチをつけなくていいのにな、と思っていたら、あとがきを読むと男友達と別れてどんよりしがちな時期だったらしい。スミマセン、それでこんな楽しげなエッセイを書けるとは、さすがプロです。

 オカルト、下ネタと私があまり得意ではない話が多かったのですが、巨大化した亀との生活、信じられないほどおかしな店員さんの話など、話題を選り好みして読んだら(え?)結構楽しかったです。
(2016.5.26)

 

「News from Paradise」 大誠社
文・写真 よしもとばなな、パトリス・ジュリアン

   News from Paradise―プライベートフォト&エッセイ


ばななとパトリスがそれぞれのパラダイスを探し続けた2年間の日々。2003年から2005年にかけて2人の間で交わされた文通と、プライベートフォトを収録。

 何気ない日常――街、人々、子どもたち、仕事について語った手紙のやりとりをまとめた一冊。日々の暮らし方に並みでないこだわりのある二人のおしゃべりは深く、でも軽やかで楽しかったです。やりとり、というには、時々間が空くのですが、急ぐ必要もない。独り言のようになった言葉をすくいあげ、別の方向へ滑り出す返事を出せるのも手紙ならでは。メールではこうはいかないのです。誰もがこの二人のように毎日を生きることは難しいかもしれないけど。

以下は気になった言葉たち。


経験から言えるのは、人生には自分が正しい道を選んでいることを確信させてくれる偶然の巡りあわせがある。まわりで起こる出来事のすべてが、同じ方向を指し示していることがある。
 (パトリス)

人は、その人に刻みつけられた幸福の原型を、いつまでも追いかけ続ける限定された生き物に過ぎないのかもしれない。 
(ばなな)

再現ではない、再生なのです。いろいろなものが壊れていったこの時代では、それだけでも「戦い」のように思えますが、ただ周囲に断固としてこの感覚を示し続け、善き人生を全うする、それしかないんだなと思います。
 (ばなな

線引きというのはとても大切で、そうやって境界を定めることこそが、あらゆる自由を尊重しあう最良の方法だと思うのです。
……「私の自由は、他人の自由が始まるところで終わる」
 (パトリス)

やさしく受け身でいることと愛情を表現することとを混同してしまっている。何かのために自分のすべてをかけて闘うことをちゃんと引き受ける。それはもっとも美しい愛の表現だと僕は思います。
 (パトリス)

「あなたがお金をかせぐのに忙しくて 自分でするひまのないことを あなたにかわって やってくれる人をやとうために なぜあなたが わざわざ さらに忙しく働いて さらにお金を もっともっと かせがなくてはならないのですか?」
(ばなな。北山耕平『自然のレッスン』より)
(2016.5.5)

 

「英国解体新書」 中公文庫
岩野礼子 著

   英国解体新書 (中公文庫)


クリケット場に集まる紳士の群れ、コテージ・ガーデンの広がる田舎家、おいしい紅茶と機知に富んだ会話で楽しむティー・タイム。だが、英国は本当に、日本人が憧れるような「大人の国」なのだろうか? ピーターラビットやナルニアに心引かれてロンドンに渡り、単身で在住する女性アーティストが、英国の文化と人をリアルな眼差しで捉えた、辛口エッセイ。

 著者はイギリス在住のエッセイスト、なのかな。
 憧れのイギリス、そして住んでみてわかるイギリス、といったエッセイ。歯切れよく、イギリス児童文学とかけたユーモアが楽しく、しかし、日本人のイギリス好きにひやりとした嘲笑を見せる文章には嫌な気持ちにもさせられたので、別の本も読む気にはならないかな。

 話の流れで、嫌な感想を先に書いてしまいますが。「イギリス在住で働いてる作家は、何故こうも現地社会に噛みつくのか」と思ってしまった。この著者も、以前読んだエッセイストも、イギリスの有色人種蔑視のエピソードを挙げてはいかに反撃したかを事細かに書いていて。
 心情はわかるけれど、くどいなぁと思った。そういう社会のおかしさは、感情的に書いても仕方ない。住むと決めた場所の不条理とどう向きあうかを決めてから、仕事として文章化して欲しい、と感じたのでした。

 良かったところも書きましょう。
 1章で書かれた「おせっかい」の話が面白かった。日本人のおせっかいは細部に気を回し、英国人のそれはパトロナイジング(Patronizing)だというのです。おせっかいの方向性が国によって違うなんて考えたこともなかった。これは異国人として、良くも悪くもおせっかいを焼かれ、さらに良くも悪くもそれを裏切るほど現地に馴染んだから言えることなのかなと思います。

 また、クリスマス近くになると恵まれない人のための振る舞いがよくあるそうですが、友人が食べ物を渡そうとしてホームレスから断られた話も。ようは、あちこちでクリスマスディナーが施されるため要らない、ということなのです。

善意を受ける者は、必ずと言っていいほど、与えてくれる人間を憎むものだ――それが人間性の抜きがたい性癖なのである」そういえば、チャリティ(慈善)と偽善の顔はよく似ていると言われる。


 からい、からいです。
 イギリス大好きなだけの人にはわからない、辛口な視点が貴重なエッセイなのかもしれない。

(2016.7.1)

 

「一〇三歳になってわかったこと」 幻冬舎 
篠田桃紅 著

   一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い


100歳を超えても、人生は自分のものにできる。100歳を超えたから見える世界がある。生きている限り、人生は未完成。今も第一線で活躍している美術家・篠田桃紅が、時には優しく、時には厳しく人生の生き方、楽しみかたを伝授する。

第一章 100歳になってわかったこと
・百歳はこの世の治外法権
・古代の「人」は一人で立っていた
・いい加減はすばらしい
第二章 何歳からでも始められる
・頼らずに、自分の目で見る
・規則正しい毎日から自分を解放する
・1+1が10になる生き方
第三章 自分の心のままに生きる
・自分が一切である
・危険やトラブルを察知、上手に避ける
・あらゆる人に平等で美しい
第四章 昔も今も生かされている
・よき友は、自分のなかで生きている
・悩み苦しむ心を救った日本の文学


 美術、文学について、また自身が日々の暮らしについて思うことを綴ったエッセイ。

 ともかくシンプル。軽やかで明快、どの話題でも執着とは無縁の語りで、きっとまさにそういう方なのだろうな、と感じました。103歳、大正2年生まれってこういう心中なのか、と感嘆するばかりです。
 気になった言葉をメモ。こういう読み方をするしかない感じです。

 私は歳には無頓着です。これまで歳を基準に、ものごとを考えたことは一度もありません。何かを決めて行動することに、歳が関係したことはありません。自分の生き方を年齢で判断する、これほど愚かな価値観はないと思っています。

 これくらいが自分の人生にちょうどよかったかもしれないと、満足することのできる人が、幸せになれるのだろうと思っています。

 美しいものは、多少の好みはありますが、どの国の人も美しいと感じます。そうした敬愛の念を抱けるものが地球上で増えれば増えるほど、共通の心を持つ人は多くなり、価値観の違いや自己の利益を第一にした戦争は少なくなっていく。

 「いつ死んでもいい」と心から思っている人はいないと思います。自分に言い聞かせているだけで、生きているかぎり人生は未完だと思います。

 まだ誰もやらないうちに、それをやった、ということが大事です。まだ誰もやらないうちにやった人は、それだけの自信を蓄え、自分の責任でやっています。

(2016.5.15)


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