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ノンフィクション・伝記 3

「知識ゼロからのダライ・ラマ入門」 幻冬舎
長田幸康 著

 
 知識ゼロからのダライ・ラマ入門 (幻冬舎の実用書 芽がでるシリーズ)


ダライ・ラマって何をしてる人? 何故、有名なのか? 本当に生まれ変わりなのか? その非暴力の思想やチベット問題について、イラストと図解でわかりやすく説明する。

第一章 そもそも「ダライ・ラマ」って、どんな人?
第二章 ヒマラヤに咲いた蓮華
第三章 農家の四男坊からチベットの法王へ
第四章 袈裟をまとった狼
第五章 世界を癒すスピリチュアル・リーダー
第六章 人間、ダライ・ラマの素顔


 去年読んだのに、感想をかくのを忘れてました。
 チベットとかダライ・ラマとか、ニュースで見て気になるけど勉強は嫌、気楽に手早く、おおまかに知りたい、という人にぴったり。半日でさらっと読み切れる本です。

 人物(ダライ・ラマ)を追いかけながら、チベットの歴史、チベット問題解決に向けての現在の「闘い」、チベット仏教の入門的知識、ダライ・ラマの基本的思想を知ることができます。
 そして、地球の未来からセックスとドラッグについてまで、問えば真剣に答えてくれる「マルチコメンテーター」ぶりや、我慢できずに間食してしまった(本当はしてはいけない・笑)など、一人の人間としてのダライ・ラマの魅力的なエピソードも紹介。

 私がありがたかったのは、仏教の基本知識でした(←無いんだ、本当に無いんだ)。
 特に説法の際によく使われているという「心を訓練する8つの詩」、give and takeの修行「トンレン」についての説明。
 どのように、何のために訓練=修行するのか、というイメージが掴めるのです。いや、「修行」とか「瞑想」って言葉は何となく怪しげに聞こえるではないですか。
 また、信仰の多様性を尊ぶダライ・ラマの言葉はシンプルでわかりやすい。

「一輪でも花は美しいのですが、花束はもっと美しいでしょう」

 どこかの国の歴史とか社会問題を知りたい時に、概説本も必要ですが、この本のように一人の人に注目するのも楽しく調べものができていいですね。

 まえがきに説明されているように、完全にチベット大好きの視点から書かれています。全く公平ではない本(笑)
だから、かえって「ファンの書いた本だけではなく、様々な意見を聞かねばいかんな」と思ったりしました。
(2008.11)

 

「チベット 受難と希望
 - 「雪の国」の民族主義 -
岩波書店
ピエール・アントワーヌ・ドネ 著  山本一郎 訳

   チベット受難と希望―「雪の国」の民族主義 (岩波現代文庫)


原題「Tibet Mort ou Vif」。チベットと中国という二つの文明の衝突の結果はどこへ向かうのか。二つの民族意識はひとつ屋根の下に共存できるのか。中国によるチベット統治の変遷、亡命チベット人の求める「高度の自治」や「独立」の姿を多数の証言とともに語る。巻末に年表、参考文献、人名索引。

死滅の危機 - プロローグ -
T「雪の国」に対する東方紅
1 中国の侵略
2 地獄か、楽園か
3 毛沢東主義者の狂乱
U「世界の屋根」の上の雲
1 民族主義の再生
2 支配と解体
3 いずれの日にか平和が?
かすかな希望 - エピローグ -

 この本は出版年代がややこしいので、まずひとまとめ。
 1990年に初版(1991年にサイマル出版から邦訳)、その後、原書は1993年に改訂版が出版。今回の岩波文庫版はこの改訂版の内容を反映、かつ2000年以降のチベット情勢に関する最新原稿を追加、さらに日本語版のために序文が書かれています。
 今回の復刊では、パンチェン・ラマ11世の拉致、中国のチベット政策に関する米上院、国連人権小委員会などの決議について加筆されています(他にもあるかもしれませんが、旧版を持っていないのでわかりません)。


 そして、肝心の中身について。

 まず圧倒されたのが、証言やインタビューの数。ざっと数えただけでも70人以上の証言が書かれており、その立場、考え方も多様です。欧米からの旅行者、ジャーナリスト、中国内チベット人、亡命チベット人、亡命政府要人、中国人歴史家、共産党員(チベット人・中国人)、中国民主化支持派、チベット独立派――。
 これらの証言だけでも読む価値があると思います。

 かつてのチベットはどんな社会だったのか。そして、1950年の中国軍侵攻以降に各地で進められた「改革」、カムパの抵抗とCIAとの接触、ダライ・ラマの亡命、中国を襲った大飢饉、文化大革命とその後の開放路線への転換、繰り返されるチベット人の抵抗、そして1989年の天安門事件――。
 こうした経緯が中国、チベット双方の証言を織り交ぜて語られています。本当にバランスよくまとめられているので、両方の視点で読むことができました。

 中国政府寄りの視点で読んでみると――。
 「大躍進」と謳われていた時期、文化大革命、荒廃の中から再出発、という模索の年月。開放政策で先行きも(ちょっとは)明るく見えたものでしょうが、チベット内でのダライ・ラマの権威が相変わらず高いことに危機感を募らせる。
 ことに、1987年の「五項目の和平提案」以降の出来事を書き出してみると、なるほど、中国政府にとっては起こって欲しくないことが悪いタイミングで起きていたのだとわかります。
 また、こうした流れを追っていくと、中国の民主化要求の高まりもこれまでとは違う視点で見られそうな気がします。ちなみに、最終章には中国人の民主活動家へのインタビューが載っていて、これも読み応えありました。


 そして、「開放政策」にもかかわらず、なぜチベットでは抵抗が繰り返されたのか? 何を求めているのか?
この答えもまた、たくさんの証言の中に込められています。

 中国軍侵攻の時、チベットには抵抗する機会があったのに、それを逃して国を失う。中国軍の「いずれ撤退する」などの約束は反故にされ、暴力的支配の中で抵抗がはじまる(著者は、力による性急な支配がカムパを団結させた、と語っています)。そして、文革期の苦難にも関わらず、チベット人の信仰や抵抗の意思、民族意識が消えることはなかった。
 他方、亡命チベット人社会では民主主義への道が模索されている。例えばダライ・ラマに反対できる社会への転換をダライ・ラマ自身が進める、という不思議な事態。これについては、ロディ・ギャリ氏の言葉が面白い。

「ダライ・ラマはわれわれに民主主義が不可欠だという。彼がそう言うからわれわれはそれを受け入れてはいる」

 旧来の習慣と新しい概念との間にある戸惑いがどこへ向かうのか。気になります。


 そして、巻末の加々美光行氏(愛知大学教授。現代政治思想、民族問題の研究者)の解説も興味深かったです。

 観音菩薩は衆生救済のために「肉化」した存在=化身で、これがダライ・ラマである。つまり、観音菩薩の神聖性は「肉化」にあらわされる「政教合一性」にある。
 中国の政治システムは、この「政教合一性」を受け入れることができない。
 また、ダライ・ラマの提唱する真正自治は、「精神性の自治」のようなもの。物理的な自治(例えば、香港自治のような)であればともかく、「精神自治」とは中国がかつて経験したことのない事柄である。
 ダライ・ラマは「政教合一性」、さらに選挙によるダライ・ラマ選出を語るなど「化身性」を否定しようとしている。そうなると、チベット仏教の核であるダライ・ラマの「超俗性と神聖性」も根拠を失っていく。

 チベットの政教分離はどのような影響をもたらすのか――こんな視点からの説明は初めて読んだので興味深かったです。

 あと、「肉化」とはキリスト教的な言葉だと思っていたので、ちょっと驚きました。(
「受肉(incarnatio)」……あれ? incarnateって「reincarnation=生まれ変わり」の仲間の言葉ですね
 すると、チベット仏教徒にとってのダライ・ラマの大切さは、キリスト教文化圏の人には自然に共感できることなのかも、と想像したりしました。



 読めば読むほどに、チベット近年史の複雑さ、出来事の裏にある動機や背景の奥深さを感じる本でした。まだまだわかりません。

 著者はフランス通信社特派員として北京に滞在したことがあり、中国に非常に親近感を持っておられるようです。
「中国が近い将来にその真価を世界に対して発揮することを信じている。それと同時にチベットも同じように人々から脚光を浴びるに値すると思う」と語っています。
 そして、20年も前に書かれた本ですが、まるで現在のアジアを見通していたかのような警告も。

 現在、「世界の屋根」の上で起きている出来事は、われわれすべてに関係してくる。地理上、軍事上の合流点に位置して、チベットは戦略上の争奪戦の対象となる。チベット人民が満足できる解決法が発見されないかぎりは、アジア全体が紛争地帯にとどまり続けることを懸念せねばならない。
(2009.9.20)

 

「レイプ・オブ・チベット 
 -中華的民族浄化作戦-
普遊舎
西田蔵之助 著

   レイプ・オブ・チベット―中華的民族浄化作戦 (晋遊舎ブラック新書 11)


『隣の家から悲鳴が聞こえる』――隣家、中国では何が行われているのか。2008年3月、チベットのラサでの動乱は何故起きたのか。現在のチベットを取り巻く社会問題、抹殺ともいえる文化的抑圧について、長年チベットへ通ってきた著者が現地の声を伝える一冊。

序章 2008年、チベットに何が起こったのか
一章 チベットの「終わり」の始まり ―領土的レイプ
二章 宗教は毒、ダライ・ラマは敵 ―文化的レイプ
三章 120万人の民族浄化 ―人種的レイプ
四章 「刈り取り」が始まった ―経済的レイプ
五章 チベットに自由を!


 「チベット人」「中国人」とは誰のことか、という説明にはじまり、ともかく幅広い内容、というのが第一印象。新書なのにこれだけ多くの事柄にふれてあるところに驚きました。
 でも、メリハリがついていて読みやすい。
 チベットの地理、近代史、ダライ・ラマ制度、パンチェン・ラマ拉致といった、これまでに出版されている本と重なる部分はごくあっさりと。そのかわりに、青蔵鉄道がもたらす経済問題、学校教育、僧院での「愛国教育」をはじめとした文化的抑圧と人権蹂躙など、まさにこの数年のチベットが負っているものが生々しく描かれています。
 2008年の春は、私も友人から「なんか、チベット大変みたいだけど大丈夫?」とよく聞かれました。そして、続く質問は「何故、今なの?」「何故、お坊さんがあんなことをするの?」。その答えがすべて書かれています。

 私が興味深かったのは「援蔵」という言葉。
 中国語で『チベットに手をさしのべる』という意味だそうで、「立ち遅れているチベットを助けたい」と思う中国人の若者も多いということは初めて知りました。
 しかし、その好意がかえって仇になることもあるという皮肉な話。個人的好意に疑うところはないものの、思い描く幸福の風景にずれがあれば「援ける」という言葉にどれだけ意味があるのか。

 今回の動乱が起こった背景には、「これだけ豊かになったのだから、もうダライ・ラマや仏教なんて要らないだろ?」という中国の思い上がりと勘違いがある。

 という一文は説得力ありました。

 昨年からあちこちのブログや掲示板で、中国とチベットの関係を「レイプ」、「DV」と譬えた書き込みをしばしば見ました。私は……これは、どぎつい書名だけれど、やはり的確な譬えをした本だと思います。
 でも、異なる連想をすることもあります。例えば、暴力を受けた子供が成長して、自分の子供に同じことを繰り返す図を思い浮かべもする。「幇助罪」という言葉も浮かぶ。いろいろ考えさせられました。

 うまい譬えというのは真実を突く反面、別の見方を忘れそうになる。読む方も偏見を持つことのないように注意が必要だと思います。
 いずれにしても、当人同士だけで解決できる状態ではないのが明らかになるのなら、いいことかもしれません。
(2009.3.1)

 

「受難と祈り  - チベット証言集 - ルンタ・プロジェクト 著

 
1996〜2003年におこなわれた5人の亡命チベット人へのインタビューの日本語訳。1949年以前や中国侵攻後のチベットの様子、また刑務所内でおこなわれた拷問についての証言集。(自費出版本のため、アマゾンなどでは取扱いがありません。ルンタ・プロジェクトのサイトより購入申込みできます)

ジャンパ・プンツォクの証言
ロプサン・タシの証言
ソナム・ドルカの証言
ガワン・ジャムチェンの証言
尼僧ガワン・ワンドゥンの証言


 去年買ったのですが、証言の重さになかなか読み進めることができずに、紹介が遅くなってしまいました。証言者はもちろん、インタビューして本にして下さった著者の方の御苦労も大変なものだったろうと思います。

 感想とか考察する類のものではない、話してくれる声をただ受け止めるしかない本でした。あとがきにはこう書かれています。

 これら異なる一人一人の経験が語る世界が実際に存在したことを知っていただきたいと思う。

「遠い国の話ではなく、固有の名を持つ人たちの体験を聞いて欲しい」という著者の考えが伝わることを願って、ジャンパ・プンツォクさんの証言から体験歴を書き出してみました。
(他の方は、今はふつうに生活しておられるのでweb上には載せません。抜書きだけが不特定多数の目にふれるのは良くないと思うので。証言はルンタ・プロジェクトのサイトでも読めます。関心を持たれた方はぜひ全文をお読み下さい)


ジャンパ・プンツォクの証言から

ジャンパ・プンツォク(1929(文中に28年との記載もあり)〜2004)
1929 ペンポ地方のルンドゥップ生まれ
    8歳で出家
    13歳の時に、ダライ・ラマ法王の遊び相手に選ばれる
1959 ダライ・ラマ法王の亡命直後に還俗し、中国軍と戦う。同年末に逮捕。
1960 国家反逆罪によって懲役18年、シャモ6年の判決
    (※シャモ・・・市民権の剥奪、移動や労働の自由がない状態)
    刑務所となっていたバリリトゥ寺、ゲトゥ寺などに収監
1965 コンポ地方ネェティの刑務所に収監
1978 刑期終了 釈放
1988 大祈祷法会で「チベットに自由を」と叫んだことで逮捕、3年の懲役刑
    シトゥ刑務所、ダプチ刑務所、サンイップ刑務所収監を経て釈放
1991 インドへ亡命


雪の下の炎」のパルデン・ギャツォと大体同じ時期に逮捕、投獄された方です。
 子供の頃の話では、ルンドゥップの美しい風景、農作業の様子、秋のピクニックの楽しさが伝わってきます。どうやら、母親っ子でいらしたらしい。出家した後の思い出も、読みながらつい笑みを浮かべてしまうようなものでした。

 その後、1959年、ダライ・ラマ法王亡命後のポタラ宮を守るために還俗して戦うことを決意。
 でも、僧侶たちの誰も武器の置いてある場所を知らず、やっと見つけた銃は何十年も使用されずに埃をかぶっていた、とのこと。
 当時、中国とチベットの軍備は雲泥の差だった、という話は幾度も聞いていますが、こういう状態だったのか、と呆然としてしまいました。


証言者たち

 ジャンパ・プンツォク以外の4人は、1989年〜95年までの刑務所について証言されています。逮捕された時はみんな20歳前後の若者、中でもガワン・ワンドゥンは15歳で逮捕されています。
 4人の体験歴をメモしながら読んだのですが、「いったい、中国の司法ってどうなっていたんだ」とあらためて思いました。

 まず、逮捕・拘留、拷問による尋問。
 ガワン・ワンドゥンの証言が一番はっきりしていて、「逮捕後、派出所で二時間ほど尋問を受けたあと、拘置所へ移送されてデモの主導者の名を言え、と電気棒による拷問を受けた」と書かれています。
 取調べがエスカレートしての拷問ではなく、最初から拷問による尋問が行なわれていたのがわかります。

 また、それぞれが懲役○年という判決を受けていますが、ソナム・ドルカ以外の証言は裁判について触れていません。受けていないか、形式的なものだったのでしょう。ソナム・ドルカの『裁判』も、「弁護人も傍聴人も裁判所にはいませんでした」というものだったそうです。



 彼らの証言は彼らだけのものではなく、一緒に逮捕された人や家族の言葉でもあります。
 ロプサン・タシと一緒に逮捕された僧侶、ソナム・ドルカの父親、ガワン・ワンドゥンと一緒に逮捕され、拷問により亡くなった14歳の尼僧についても書かれています。
 当時の中国の法律やら、チベット以外の刑務所の様子はわかりませんが。1986年に中国が国連の「拷問禁止条約」を批准していたことだけを考えても、非難されるべきでしょうね。

 そして、今現在も大差ない状況がこれからどうなるのか、気になります。
 2009年4月13日中国政府国務院発表の「国家人権行動計画」(2009-10年)には、「意見発表の権利」、「身柄拘束者の権利と人道的扱い」という項目があります。また、中国は国連人権理事会の理事国にも選ばれています(2009年5月)。

 ちゃんと見てますからねー。「みんなやってるから、いいじゃん」という子供のような言葉を聞かされずに済むことを願っています。
(2009.5.12)

 

「餓鬼 ―秘密にされた毛沢東中国の飢饉― 中央公論社
ジャスパー・ベッカー 著  川勝貴美 訳
  

   餓鬼(上) - 秘密にされた毛沢東中国の飢饉 (中公文庫)

   餓鬼(下) - 秘密にされた毛沢東中国の飢饉 (中公文庫)



原題「Hungry Ghosts」。1959年から1962年、中国全土が深刻な飢饉に陥った。三千万人を超える餓死者を出した飢饉の原因は旱魃でも水害でもない。共産主義の理想郷を目指した政策は何を引き起こしたのか。毛沢東や共産党指導部はなぜ事実に目を瞑ったのか。飢餓を生き延びた人々の証言をもとに、未だ真相が究明されない悲劇を描く。

第一部 中国 ―飢饉の大地―
第1章 飢饉の大地
第2章 立て! 飢えたる者よ!
第3章 ソ連の飢饉
第4章 第一次集団化 ― 1949〜1958
第5章 偽りの科学、偽りの約束
第6章 毛沢東は飢饉を黙殺した

第二部 大飢饉
第7章 飢饉の概観
第8章 河南省 ― 嘘が生み出した大災害
第9章 安徽省 ― 鳳陽について語ろう
第10章 その他の地域
第11章 パンチェン・ラマの手紙
第12章 収容所にて
第13章 飢饉とは何か
第14章 人肉を食べる
第15章 年の生活

第三部 大きな嘘
第16章 農民を救った劉少奇 
第17章 毛沢東の失敗とその遺産
第18章 いったい何人死んだのか?
第19章 地誌をいかに記録すべきか
第20章 西側の過ち



「一人の男が死んだ赤ん坊を煮立つ鍋に。彼はわめいていた。『死んだんだ。殺したんじゃない』。これが毛主席の現れる前の中国だ」

 ――これは、映画「クンドゥン」の中の中国軍将校の台詞。
 でも、今の中国政府のもとでも、同じくらい深刻な飢饉が起こっていたことはよく知りませんでした。
 この飢饉の実態については政府は今も明らかにしていない。18章に書かれた専門家のくわしい見解は省くけれど、餓死者は「少なくとも3000万人以上」。穀物の代わりに雑草や樹皮、虫、土を食べ、人肉も食べた。布団の綿や靴も食べた、という。
「この飢饉の責任は誰にあるのか」
 正直言うと、最初はまえがきにあるこの問いかけが理解できなかった。急激な、広域にわたる飢餓が人の手によって起きるのだろうかと、どこか信じがたかったので。
 しかし、書かれた内容は衝撃的だったし、飢饉に至る経緯には呆然としてしまった。


 1957年までは豊作で、政府は国民に食べたいだけ食べて生産に勤しむよう奨励した
(半年分の米を二十日で食べてしまった村もあった)。一方、農民が鉄鋼生産に駆り出されたために収穫する人手がなく、穀物が畑で腐っていた。
 その後、科学的根拠も伝統も無視した農法
(『深く耕すほど収穫が増える』として数mも掘る、『同種は生存のために協力する』という、科学よりも共産主義の理想に沿った考えで、作物を密集して植える、等)のために不作となった。食糧庫が空になっても、共産主義だから国から分配されると信じた人もいたが、そうはならなかった。
 さらに、役人が収穫高を高く偽ったことで事態は悪化した。
 農民を殴打・拷問して「あるはず」の穀物を徴収。一方では、対外宣伝のために穀物の輸出が行われた。その他にも、物々交換や家畜の個人所有の禁止、共同食堂での調理の義務付けなどで経済活動も日常生活も混乱した。
 農民は密植しても作物が育たないと知っていたから、視察が終わった後に作物を植えなおしたり、飢饉の経験をもつ者が陳情も行ったが、受け入れられなかった。
 毛沢東は食料不足の報告を信じず、党を批判した彭徳懐は反党分子と糾弾されて失脚。党幹部も「健康上の理由」などで次々に地方に引きこもってしまう。こうして、政策に歯止めをかける者がいなくなり、1960年頭には飢饉は最悪の状況になった。
 単に収穫がないだけではなく、生きる方法を奪われた――これは確かに人災に他ならない、と思った。

 それにしても、「この政策では駄目だ」とわかっていた人々の口を閉ざさせたのは、何だったのか。
 立場の低い者は上からの暴力を恐れ、高い者は下からの反逆を疑う。互いを蹴落とすことで保身をはかり、次には蹴落とされることを恐れるようになる。
 これほど混沌とした状況で「この世の楽園」が語られていたとは、なんて皮肉で愚かなことだろうか。


(他の飢饉との違いは)これが完全に人間が生み出した飢饉ということである。中国は平和な時代だった。虫害、異常な洪水、旱魃もなかった。穀倉には豊富な穀物が収まり、諸外国はいつでも穀物を供給できる状況だった。

 事実を黙殺した政府の責任は大きい。だが、この本の最終章には、他にも事実を知らなかった、あるいは知っていながら沈黙した人々について書かれている――西側諸国のジャーナリストや知識人たちだ。

 諸外国は中国で何が起きているのか、はっきりとは掴んでいなかった。
 当時、北京にいた外交官やジャーナリストは数少なく、その中で官製の視察旅行ですら参加した人はさらに少なかった。飢饉のニュースが広まることを防ぐために郵便物は検閲され、党機関紙以外の出版物が海外へ流失することが禁じられていた。
 このように限られた情報の中から飢餓状態を指摘した人もいたが、一方で飢饉はまったく無い、食糧難であっても政府によって被害が食いとめられている、と断言した人もいた。


「昔のような飢饉は存在しないと私は断言する。配給制度が機能しなかったところでは飢餓が発生したところもあるだろう。栄養失調も疑う余地はない。ならば、大飢饉は? 答えはノーである」

「(中国を飢饉から救ったのは人民公社である)誰も飢えない、というのが全国のスローガンだった。飢えのために物乞いをしたり、亡くなる人もいない。たとえ空腹でも、共同体の全員が敢然と立ち向かい、そして援助の手がさしのべられる」


 彼らはほんとうに何も見なかったのか。それとも、見ながら意図的に隠したのか? 真相はわからない。
 のちの時代から、ジャーナリストらを非難するのは不当かもしれない。全ての人が平等、誰も飢えない、という思想は人の心を引き寄せるものがあるから、たくさんの人の判断を誤らせたのかもしれない。
 それでも、何を見て(見せられて)、実際はどのようであったのかを検証することができれば有意義なことだろうに。

 何かが隠されている、ということは、何かを伝えるのと同じくらいたくさんの人に影響を与えるのかもしれない。

 毛沢東はウクライナ飢饉に学ばずに農業政策を決定して中国にも飢饉を引き起こした。カンボジアのポル・ポト政権も中国に倣って同様の政策を取り、地方の役人は「目標収穫量」達成のために農民の食料を奪って餓死させている。ポル・ポトは1965年前後に中国を訪問しているが、この時にも大躍進政策が挫折したことを知らなかったかもしれない。

 飢饉そのものも悲惨だけれど、政治の都合で真相が隠されたまま、という点が恐ろしい。文化大革命は四人組の責として批判されているそうだが、この飢饉に関しては政府はスケープゴートをたてることもできなかったらしい。

 大飢饉の責任を問うとすれば、急進派も穏健派も責任を回避することはできない。さらには中国共産党にも責任が求められ、せんじつめれば大飢饉は毛沢東を頂点とする「中国共産党の犯罪」なのである。
(解説より)

 依然、飢饉の全体像はつかみきれていない。重要な時期に最高幹部がどのように行動したのかが明らかでなく、このことが飢饉の原因究明を困難にしている。……(中略)……飢饉の全容が明らかになることは、共産党の内部資料が研究者に公開されるまで待たなければならないが、飢饉の責任を分けあった者たちが権力の座にとどまっているかぎり、公開されることはないだろう。
(まえがきより)

 当時を知る人、その子供が生きてるうちはまだいいが、その後はどのように歴史書に書かれるのだろうか。
 たくさんの中国人が、飢えながらも「いつか毛主席が助けに来てくれる」と信じていたという。彼らの死が真相とともに悼まれる日は来るのだろうか、と複雑な思いがしました。

 新しく出た文庫版へリンクしておきます。
(2010.9.11)


「ワイルド・スワン  上」 講談社
ユン・チアン 著  土屋京子 訳

   ワイルド・スワン(上) (講談社文庫)

   ワイルド・スワン(中) (講談社文庫)

   ワイルド・スワン(下) (講談社文庫)


原題「Wild Swans」。清朝崩壊後の中国で軍閥将軍の妾になった祖母。満州で生まれ、日本それに続く国民党の支配を体験し、やがて共産党員となった母。そして、中華人民共和国初期に生まれた著者。三世代の女性を通して描かれる現代中国の姿。

第1章 「三寸金蓮」
第2章 「ただの水だって、おいしいわ」
第3章 「満州よいとこ、よいお国」
第4章 「国なき隷属の民」
第5章 「米十キロで、娘売ります」
第6章 「恋を語りあう」
第7章 「五つの峠を越えて」
第8章 「故郷に錦を飾る」
第9章 「主人が高い地位につけば、鶏や犬まで天に昇る」
第10章 「苦難が、君を本物の党員にする」
第11章 「反右以降、口を開く者なし」
第12章 「米がなくても飯は炊ける」
第13章 「だいじなだいじなお嬢ちゃん」
第14章 「父よりも、母よりも、毛主席が好きです」


 ひとまず上巻まで読了。(リンクは文庫版へつけておきます。三冊構成になったようなので、感想の内容とは連動していません)

 少し前に読んでいた「餓鬼」に書かれた中国の1958〜62年の飢饉やその前後の状況について、別の視点からも読んでおきたくて手にとりました。結果からいえば、著者は幼少だったため、この時期に関する記述は少なかったのですが。
 伝記・自伝のような本なので、事実だけではなくて、中国建国の混乱期を生きた人たちの思いがなまなましく伝わる本でした。

 家族が死んでも葬式も出せないほど貧しい人が珍しくない庶民の生活。家族がそこから抜け出すために、娘を有力な人物の妾(姨太太)にするのもごく普通のことだった。
 著者の祖母もそんな女の一人で、夫の死後は無一物で放り出されるのをおそれ、子を連れて逃亡。幸運にも、誠実で徳のある男と知り合って再婚する。ちょうど時は日本軍が満州を占領、傀儡国家を建てた頃のこと。清を建国した満州人の本拠地だから、皇帝を戴くことに抵抗は少なかったようだけれど、それでも日本人の傍若無人ぶり……というか、拷問、強姦など鬼畜な行為には読んでいて胸が悪くなりそうでした。

 やがて、終戦とともに日本軍は去るものの、かわって台頭していた国民党の行状も相当酷い。反抗する者への拷問などは相変わらず、賄賂が横行する状況は清時代から何もかわらない。
 それに対して、この頃の共産党軍は女子供への乱暴はなく、強奪もしない、義賊めいた一面もあった。

 この辺りから、著者の母、徳鴻の視点で語られていくようになります。
 頭の切れる勝気な少女の中に世間への憤りが生まれてくる。また、母のように女が因習に縛られることへの反発も手伝って、新しい中国をつくる、という思想に傾倒していきます。

 日本軍、国民党に苦しめられた庶民からすると、共産党が語る理想――すべての農民に土地を与える、飢えることのない社会――が輝いて見えただろうと想像できます。もっとも、後になるとその共産党の政策によって、中国全土が国民党時代よりもひどい混乱、貧しさ、そして飢えに苦しむことになるのだけど。

 そして、共産党が中国全土を治めるようになってから。その政策や派閥闘争のさまを読むと呆然とする他なかったです。あまりに馬鹿馬鹿しく、そして恐ろしかったので。
 右派分子を何人告発する、というノルマが課せられ(人数設定に根拠はない)、私怨をはらしたり、「疑わしきは罰する」式で多くの人が連行された。反対意見を持つ党員も、毛沢東に進言して失脚した彭徳懐をみて、保身のために口を閉ざすようになった。
 「餓鬼」でも、あるはずの収穫高を納めるために穀物が奪われたことが書かれていた。無理な(無意味な)目標を脅しによって実現しようとする体質は、建国初期から既にあったのかと思うと、読んでいてうんざりしました。

 日本による満州支配や共産党・国民党の内戦の中では、政治的な立場(権力者に従順であるか否か)が身の安全に関わるから、人々は隣人や家族にまで警戒心を抱いた。
 裏を返せば。共産党政府もまた先の政権がどのように斃れたかを知っているからこそ、反乱を怖れて人々を抑えつけたのだろうと思う。
 また、たった数年で「欧米に追いつき、追い越せる」という毛沢東の妄言に人民がエネルギーをつぎ込んだことで、歯止めをかけるものもなく国全体が荒れてしまった、という言葉には何ともいえない空しい思いがしました。

 毛沢東や共産党は、間違いなく人々に期待されていたのでしょう。
 農民から著者の両親のように熱心な党員まで、理想に共鳴した人たちの期待が大躍進政策、文革で裏切られていくさまには複雑な気持ちばかりが残ります。

 気が重いですが、続けて下巻も読もうと思います。
(2010.10.18)


「ワイルド・スワン  下」 講談社
ユン・チアン 著  土屋京子 訳

第15章 「まず破壊せよ、建設はそこから生まれる」
第16章 「天をおそれず、地をおそれず」
第17章 「子供たちを『黒五類』にするのですか?」
第18章 「すばらしいニュース」
第19章 「罪を加へんと欲するに、何ぞ辞無きを患へんや」
第20章 「魂は売らない」
第21章 「雪中に炭を送る」
第22章 「思想改造」
第23章 「読めば読むほど愚かになる」
第24章 「どうか、ぼくの謝罪を聞いてください」
第25章 「かぐわしい風」
第26章 「外国人の屁を嗅いで芳香と言うに等しい」
第27章 「これを天国と呼ぶなら、何を地獄と言うのか」
第28章 「翼をこの手に」
エピローグ

 文化大革命が始まり、その頃から両親に苦難の日々が訪れる。走資派(党内で資本主義的政策を求める役人)として迫害を受け、文革を中止するように陳情した父は逮捕。母の尽力で釈放されるものの、帰ってきた時には過酷な尋問のために精神を病んでいた。
 やがて、一家は別々の土地へ離散する。著者は下放された農村で厳しい労働につき、大飢饉の時期の真相も耳にした。両親は労働キャンプに収容され、一家がともに過ごせるようになったのは2年後だった。
 そして、林彪の死やケ小平の復活により党に変化がおこり、社会はしだいに落ち着きを取り戻しはじめる。学校が再開、外国文化が人々の目につくようになる。そして、毛沢東の死と四人組の粛清。開放政策が推し進められる中、著者は西側諸国へ留学するための試験を受けることになった。


 特に印象的だったのが、著者の父。
 共産党への忠誠心と強い信念の持ち主で、かなり高い地位にあったらしいのに、たとえ家族のためでも職権乱用することもない(むしろ、他人より家族に対する態度の方が厳しい)。賄賂やコネがものをいう中国では珍しいらしい。
 心を病むほどにひどい尋問を受けても「それでも、魂は売らない」という不器用ともいえる頑固さ。こういう点は、著者の母親が実際家であるのと対照的。著者がのちにイギリスへ留学したり、父の死後にその名誉を回復したことには、母の尽力によるところが大きいようです。
 この夫婦の関係は、理想を追ったという意味では共通点はあるけれど、「信頼」とか「絆」とか簡単な一言では済ませられない気がします。

 そして、この父に厳しく育てられ、党の言葉をすべて信じていたという娘が成長して、見たものを疑い、真実を探り当てていく様子から目を離せませんでした。

 紅衛兵になるものの、目の前で尊敬する教師や友人が殴打され、殺されていく現実に苦しむ。農村で聞き及んだ飢饉の思い出話に、それが過去の中国ではなく現共産党のもとで起きた悲劇なのだと気づく。それでも、毛沢東を疑うなど埒外で、あくまで四人組の横暴が国を荒らしていると考えていた。
 しかし、

 その夜、人生の転機が訪れた。それまでずっと、私は自分が社会主義中国という天国に住んでいるのだと教えられ、それを信じてきた。資本主義の世界は地獄だと教えられ、それを信じてきた。
 けれども、これを天国と呼ぶなら、何を地獄というのか? これ以上ひどい世界がほんとうにあるのかどうか、自分の目で確かめてみたいと思った。


 著者が目にしたのはごく身近な出来事、聞き及んだ話ばかりなのですが、その中から政府の嘘言を見抜いた知性には感嘆させられます。子供の頃から毛沢東賛美を聞いて育った、二十歳そこそこの女性だったことを思えばなおさらです。

 書かれているのは過酷な体験ですが、文調が明るいのは著者がごく若い(文革期に14〜24才)せいかもしれません。
 また、教養ゆたかで貧しさの中でも高潔さを失わない人、恩義を重んじる人も多く描かれています。
 私は中国はよく知らないけれど、きっと古くからあるのだろう、中国人の美点がじわりと感じられることも多い本でした。
(2010.11.10)


「庶民が語る 中国文化大革命」 講談社
馮 驥才 著  田口佐紀子 訳

  ドキュメント 庶民が語る中国文化大革命


原題「一百個人的十年」。文化大革命――この十年の間に歴史ある文明は消え失せ、人々は互いに殺しあった。災禍はすでに去りはしたが、誰が無辜の受難者に対して責任を負うのか。この時代は中国の庶民の心に何を残したのか。10人の体験談を収録したドキュメンタリー。「一百個人的十年」(百人の十年)という題で、1987年に香港で出版された第一集の邦訳。巻末に文化大革命関係年表を収録。

1 偉大なる受難者たち
2 ある夫妻の三千六百五十日
3 負けずぎらい
4 わたしは有罪ですか、無罪ですか
5 ある老紅衛兵の反駁
6 復讐主義者
7 わが三十年
8 現代のジュリアン・ソレル
9 牛司令官
10 失われた少女


 文化大革命(1966〜76)終了のわずか10年後に出版されただけに、収録されているのは生々しい証言ばかりでした。
 批判闘争にかけられる苦しみを見かねて、親の命を奪った女性。結婚後すぐに引き離されて十年も別れ別れだった夫婦。「毛沢東語録」を写し間違えたために逮捕・暴行を受けた人。毛沢東に心酔していた若い紅衛兵――。いずれも言葉を失うような体験談。
 そして、それぞれの話の中のひとことが「その時」の空気を感じさせるのが印象的でした。

 「右派」として農村へ追われた者を、農民は「右派」の意味がわからないので「地主」と呼ばせて罵倒した。
 「(ある農村では)毛沢東の写真を、かまどの神さまを祭った場所にかけてあるんだ」
 「人間は能力があれば、それを使いたいよね、そうでしょう?」
 「あの時ああせずに、どうすべきだったというのだろう。しかし、そんなのは責任逃れにすぎないと思った」


 人情の温かさ、たくましさ、国のために働きたいという熱情を熱く感じることもありました。
 自分の話よりも妻の苦労を書いてくれ、と言う夫。獄中から家族へ仕送りする者。 人民公社の方針に逆らい、麦(?)畑の内側に隠してコーリャンを植えた農民。「もう一度わたしを四十歳からやり直させてくれたら、どんなにいいだろう」

 ……読めば読むほど混乱してくる。「革命」、「反革命」、「修正主義」、「右派」……その言葉にどれだけ実態があったのか。
 思想など、ごく一部の人間しか理解していなかったのだろう。ほとんどの人は周囲に流されるように、混乱に乗じて利益を得ようとして、あるいは不満の捌け口として参加していたのではないか。

 その中で、もと紅衛兵の体験談はとくに読み応えがありました。

 当時、20歳の師範学校学生だったこの人物は、毛沢東の思想に心酔しながらも、農村の貧しさや、文革が単なる権力闘争へ変わっていくことに疑問を抱いている。
 粛清の嵐の只中で、自分自身の目で見て考え続けている――このバランス感覚と知性に驚きました。

 体験談の最後で、彼は「自分は堕落はしなかった」、「紅衛兵であったことを恥ずかしいと思わないではないが、後悔はしていない」という。それは彼自身の結論でいいと思う。
 そして、それとは別に、政治のあり方や古くから続く封建主義、庶民の社会意識まで含めて文革を総括していることが印象的でした。ひとつの運動という見地からは文革を簡単に否定はできない、紅衛兵については歴史的に分析されるべきだ、と語っています。
 もしも、この知性と教養が他の用いられ方をしていたら、国にとってはさらに有益だったろうに。

 もし恨むとすれば、盲従を教え、単一思考しか与えず、さまざまな考え方を教えられなかったことを恨む。

 という言葉がとても重く感じられました。

 この本は現在amazon.cnでは入手できないようですが、以前に北京の書店で売られていた、というブログは見つけました。前書きに書かれた著者の警告を中国のたくさんの若者が読んでいることを願います。

 歴史のあやまちはかけがえのない財産である。このような財産を捨て去ることは、新たな盲目に陥る可能性がある。



 この本を手に取ったのは、その前にチベットの文革についての本(「
殺劫 - チベットの文化大革命-」)を読んでいたため。チベットの文革は中国内地の事情の余波ではないかと思えたので、まずは発信地の様子を知りたかったのです。「殺劫」と同じように庶民の目で語られているので、この本を選びました。

 中国人のメンタリティは‘今三つ’くらいわからないし、獏とした感想ですが。やっぱり、中国とチベットの文革では残されたものが違うように感じました。

 10人の証言者は中国が文革にいたった流れを知っていて、いつか悪夢が終わり、良い時代になることを待ち望んでいた。知識人は「あのことさえなければ、自分は祖国のためにもっと働くことができたのに」とも語る。
 彼らは、いくらむごい出来事に出会っても、それが「自分たちの歴史」となり得る素地を持っていたのでは? そこが「殺劫」に書かれたチベット人の文革体験とは違うのではないか、と思いました(「殺劫」の感想は下に)

 文革の十年間に何が行われたのか?
 著者曰く、

 もっとも完成された人格すら、強制的に「鋳なおし」を受けなければならなかった。

 とあります。ここを読んだ時に、あるチベット人が文革を表現した譬えを思い出しました。

 「紙を布に変えるように」すべてを変えようとした。


 『融かして鋳なおす』、『まったく違うものに変える』。この二つの変容の譬えにはいろいろ考えさせられました。
(2010.1.22)

 

「殺劫 (シャ-チェ)
  - チベットの文化大革命 -
集広舎
ツェリン・オーセル著 ツェリン・ドルジェ撮影 
藤野彰 劉燕子 共訳

   殺 劫(シャ-チェ) チベットの文化大革命


1966年、中国に、古い封建的文化を壊して新しい社会を建てようとするプロレタリア文化大革命がはじまり、その波はチベットにまで押し寄せた。「四旧打破」を掲げた紅衛兵や翻身農奴たちはチベット各地で寺院を打ち壊し、旧貴族や役人が粛清の対象となった。やがて、派閥間の抗争が武力闘争に発展、チベットは混乱の嵐にのまれていった。中国近代史で二大タブーといわれる「文革」と「チベット」。その二重の闇に光をあてる証言・写真集。巻末に解説「チベットの文化大革命―現在を照射する歴史の闇」を収録。

第一章 
「古いチベット」を破壊せよ ―文化大革命の衝撃―  
  やがて革命が押し寄せてくる  
  ジョカン寺の破壊  
  「牛鬼蛇神」のつるし上げ  
  改名の嵐 

第二章 造反者の内戦 ―「仲の良し悪しは派閥で決まる」―   
  二大造反派

第三章 「雪の国」の龍 ―解放軍とチベット―  
  軍事管制  
  国民皆兵

第四章 毛沢東の新チベット ―「革命」すなわち「殺劫」―  
  革命委員会  
  人民公社  
  新たな神の創出

第五章 エピローグ ―二十年の輪廻―   
  神界の輪廻


 表紙の写真は、批判集会で吊るし上げされる者にかぶせられた紙の帽子で、当人の出自や「罪状」がチベット文字で記されたもの。このように文革中のチベットを記録した200点を越える写真は、当時、人民解放軍の士官だったツェリン・ドルジェ氏の撮影。その娘であり、文筆家のツェリン・オーセルが写真の人々を探し尋ねて、証言をまとめています。
 文革についての史料は多いものの、チベットの文革についてのものは皆無といっていいらしい。この本はその空白部分を明かす重要な史料であり、中国国内では刊行できず台湾で出版されています。詳しい背景は出版社の紹介文をご覧ください。
http://store.shukousha.com/?pid=16586417
http://www.shukousha.com/item_192.html


 写真を軸に本文が書かれているので、ツェリン・ドルジェがラサを離れていた(つまり、写真がない)時期や、党政府内の事情、中ソの対立などの背景には触れられていません。
 でも、文革とは思想も理念もない(もともとはあったのかもしれないが)粛清の嵐だったということをまざまざと見せつけられる写真と証言でした。

 「造総」と「大連指」の派閥抗争。そのなりゆきによって吊るし上げする者、される者が入れ替わる混乱ぶり。もともと両者の主張に大きな違いはなく、対立は主張のための主張、あるいは権力争いに終始していたこと。やがて人民解放軍の武器庫を乗っ取って武力闘争にエスカレートしたこと、などなど。
 当時のチベットの状況がこれほど複雑だったとは知りませんでした。もつれ、絡み合う糸の醜怪な塊を見るような気がしました。
 そして、革命委員会の成立によって闘争は一応終結したものの、文革中に地位を得た者が地方政府に残ったことが、今もチベット問題を複雑にしているのではないか、という著者の考察には唸らされました。


 もうひとつ注目したのは、破壊活動や吊るし上げに多数のチベット人も加わっていた、ということ。
 「好むと好まざるにかかわらず、参加せざるを得なかった」と多くの人が証言する一方で、自らの意思で文革に参加した人もいた、と記されています。誰が加害者、誰が被害者という単純な塗り分けで描ける様相ではなかったらしい。
 1950年以降、毛沢東思想はチベットにどのように突きつけられたのか。人々の心のうちに何をもたらし、それが文革期にどのように表面に現れたのか――。それを、著者は「神の置き換え」と語っています

 1950年以降、とりわけ1959年以降の事実は、外来の新しい神が古い神を徹底的に打ち負かしたことを証明した。チベット人は呆然として眼前で起きた一切を眺め……
(以下略)

 チベットの農民にとっては、彼らと毛沢東は同じであり、いずれもよそからやってきた神様なのであった
(毛沢東とレーニンの肖像画を掲げる農民の写真より)

 この本には多くは書かれていませんが、チベットでは1950年〜文革が始まるまでに、かつてあった寺院の97%が破壊され、虐殺と拷問が行われたと言われています。いずれも「旧悪を抹消して、新社会を建設する」としておこなわれたことです。
 しかし、共産党が作りあげようとした「新しいチベット」は1960年代末に起きた一連の「反乱」事件で崩壊した、と語られています。

 文革が終わる。毛沢東が死去し、新しい権力者があらわれ、また去る。そして、1979年にダライ・ラマの使者がチベットを訪問する。こうして、チベットに新しい輪廻の輪がめぐる。
 何が灰に帰されたのか? それはふたたび戻るのか? 輪廻は新しいものをもたらすのか?


 (以下、個人的な感想です)

 鮮明な写真も衝撃だけれど、そこに写る人々の顔に表れない心情を想像して胸が塞がれました。

 そもそもチベット語に「革命」という言葉、概念がなかったため、「サルジェ(新しい+とりかえる)」という造語がされた。チベット語に訳された政治スローガンや、「万歳」という中国語の追唱すらチベット人にはまともに発音できなかった。それにも関わらず、非難を怖れて、あるいは貧しさゆえに利益を求めて吊るし上げに加わり、チベット人がチベット人を罵倒した――。

 こんな本文を読むと、チベットにもたらされた変化の大きさがわかるような気がします。
 そして今、私は文革が十年で終わったことを知っているけれど、当時彼らはこれが一生続くと考えたのかもしれない。それなら、慣れ親しんだものを捨てても、生きる方法を探す人が現れるのも当たり前なのでしょう。

 もちろん、彼らの胸のうちをほんとうに推し量ることができるのは、同じチベット人だけでしょう。彼らを糾弾するも、弁護するも同胞にしかできないことだと思います。
 しかし、その自由が今の中国にはない。ある出来事を知り、分析し、考察を述べるのは、当事者の権利だろうに。 このような本が30年以上経ってやっと世に出た、ということが何よりも当地の現状を語っているのかもしれません。

 「私は統治者の言語で著述するという特殊な世代の一人となった。しかし、これにより、私は統治者の言語で、統治者に対して、自分たちの歴史を証言することができ、「記憶」をもって「忘却」に抵抗する決意を伝えることもできるのである」
(日本語版序文)

 著者のこの決意は、当事者である中国人、チベット人にどのくらい伝わるのだろうか。原書(中国語)もチベット語版も、中国で入手するのは簡単ではないだろうから。
 そうしてみると、これらの鮮明な写真、証言の数々を日本人という第三者である自分が読んでいるのは、とても不思議なことに思えます。
 著者は日本語版に寄せた序文でこう語っています。

 著述とは祈ることであり、巡り歩くことであり、証人になることである

 その祈りが宙に霧散することのないように、この本ができるだけ多くの人に読まれることを願っています。

(2010.1.10)

 

「破天
 - インド仏教徒の頂点に立つ日本人 -
光文社新書
山際素男 著

   破天 (光文社新書)


インドの不可触民解放を訴えたアンベードカルによってはじまった仏教復興運動。その中心に立って、ブッダガヤーの大菩提寺管理権奪還運動などインド仏教のために尽力する日本人僧侶・佐々井秀嶺の破天荒な半生を記した伝記。(2000年に南風社から刊行された同タイトル作の再編集版)

プロローグ
第一部 人間失格、そして出家
 第一章 生い立ち
 第二章 再び故郷へ
 第三章 出家

第二部 インドへ
 第一章 汝速かに南天竜宮城へ行け
 第二章 インド仏教徒の中へ
 第三章 さらに民衆の懐深く
 第四章 国外追放の危機

第三部 永遠の求道
 第一章 大菩提寺奪還闘争
 第二章 不屈の前進
 第三章 無期限闘争宣言
 第四章 秀嶺を取り巻く群像


 佐々井秀嶺氏は2009/4月半ばからふた月ほど、四十余年ぶり帰国されていたそうです。山際素男氏は2009/3/19に逝去されてます。日本での再会はされなかったのですね。

 題名そのままの佐々井氏の胆力が伝わってくるような、生と性(!)と死の間に振りきれるかのような強烈な半生に圧倒されました。
 桁はずれな生き様だけれど、義理、人情、あるいは筋を通そうとする思いが中心にある。道路封鎖の座り込みや確信犯の無賃乗車、とぎょっとさせられることもありますが、まっとうな考えがインドの人の心を動かしていくさまは爽快、でした。

 こう言っていいのかわかりませんが。
 仏教の教えだけではなく、それを伝えた人の「行動と言葉に嘘が無い」ことがこれほど多くのインド仏教徒をとらえたのではないかな、と思いました。

 そして、圧倒といえば、インドという国の複雑さ。
 たくさんの宗教、言語が混沌としており、民族やカーストの区別も複雑に入り組んで重なっている。そこに政治党派の駆け引きも加わる。そして、その全体にのしかかる三千年の時間の重圧がある。何だかもう、声も出ない。

 その中での、アンベードカルとガンディーの対立を説明した章は印象的でした。
 新しい時代に向けてインド自身という大岩に取りついた、その着手した場所が違うだけで、単純な「対立」ではなかったのではないか、と感じました。独立したて、という状況でなかったら、また違う会話が交わされていたのかもしれない――。
 この本しか読んでいないので、漠然とした感想ですが。

 アンベードカルの思想についても興味がわきました。本文中に、その仏教観を伝える言葉がありました。

 アンベードカルは自分の仏教は闘う仏教だ。「私は座禅し、坐った仏陀像より、立像の仏陀像の方が好きだ」といっています。

 そして、佐々井氏の講演を聞いた方の感想ブログによれば。アンベードカルには「目をつぶって瞑想している写真は一枚も無い」のだそうです。
 この方もまた、強烈な閃光をはなつ人物ですね。
(2009.7.12)


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