読書記録 → 2へ

歴史・文化(世界一般) 1

 

「キリスト教を問いなおす」 ちくま新書
土井健司 著 

   キリスト教を問いなおす (ちくま新書)


「平和を説くキリスト教がなぜ戦争を起こすのか」このような疑念を抱く人は少なくない。このような疑問を取り上げ、主にキリスト教と無縁な日本人にむけて書かれたキリスト教思想の入門書。

第一章 平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか 
第二章 キリスト教の説く「愛」とは何か 
第三章 「神」の問題から神へ
第四章 信仰、祈り、そして「あなた」との出逢い 
まとめ ―結びに代えて―


 著者は牧師であり、大学で教鞭をとる神学者でもあります。

 半分は、期待に違わず。
 目次にあるような、誰も聞きたくなる事柄が、学生の質問に答えるようなかたちで説明されていきます。著者による、ひとつの答えの提示です。
 でも、半分はちょっとがっかり。
 説明の多くが、単にキリスト教論理の解説であったから。私には納得できる答えではなかったです。

 日本人の宗教観って、理論の積み重ねではできていないと私は思います。あえてそこに「学問として」「理による」説明を与えようとするなら、キリスト教独自の論理から一度離れなければ、読者は納得できないと思うのです。日本人向けの入門書というなら、日本人が精神性(霊性という方がいいかな)について考える足がかりを明示して欲しかった。それは、神道・仏教・土着化したキリスト教でもいい、民間信仰でもいいと思う。

 もしかしたら、その「足がかり」と言えなくもないのかな、という言葉はありました。
「神と人間」の間に、「あなたと私」というごく親しい関係を築く点にキリスト教信仰の本質が現れている、という説明。この親近感は、日本人にはとてもしっくりくるものだと思うのだけど、どうでしょうか。


 この本を手にとったきっかけは、キリスト教思想をやわらかい言葉で(ここ肝心)、且つ、感情的でない理論(ここ一番肝心)でもって語ってくれる本を探していたから。
 神学なんて勉強する頭脳はないので、わかりやすい本が欲しい。でも、言葉の定義づけに終始して、精神性に触れていってくれない本は求めてない。そうかといって「とりあえず信じろ」式はもっと嫌い。
 これって、そんなに大それた要望なんだろうか??
(2011.5.24)


「ダライ・ラマ、イエスを語る」 角川書店
ダライ・ラマ 著  中沢新一 訳 

   ダライ・ラマ、イエスを語る (角川21世紀叢書)


原題「The Good Heart」。1994年にダライ・ラマ法王をカトリック教会へ招いて行われたジョン・メイン・セミナーの記録。――ここに書かれたキリスト教の福音書についてのダライ・ラマの注釈は、21世紀に諸宗教が対話を続けていく上での助けとなるものであり、この本は「対話のモデル」になろうとしている。

はじめに
第1章 調和への願い
第2章 あなたの敵を愛しなさい
第3章 山上の垂訓―八福
第4章 平等心 
第5章 神の国 
第6章 変容 
第7章 伝道 
第8章 信仰
第9章 復活
キリスト教を理解するために
キリスト教用語集
仏教を理解するために
仏教用語集


 もう何年も前から読んでいるのですが、難しくて感想がまとめにくく、そのままにしてありました。でも、いつまでも抱え込んでいてもしょうがないので、覚書として紹介。

 巻頭には、セミナー開催の経緯やこの試みの目指すところがローレンス・フリーマン神父によってまとめられています。巻末には、仏教徒とクリスチャンそれぞれ向けに用語集があります。
 セミナーの記録部分(1〜9章)は一冊の半分くらいしかありませんが、書かれている内容はとても濃いもの。
 聖書の有名な説話をとりあげて、法王が仏教徒としての見方を示されたり、ブッダの言葉と比較したり。ディスカッションでは法王がキリスト教の考え方を確認されたり、キリスト教徒の参加者が生まれ変わりの概念を尋ねたり――とても読みこなせてはいませんが、ほんとうに深い話でした。

 今、いちばん興味を惹かれているのは、キリスト教と仏教の相似点、相違点について語られたところ。

 5章では、信仰を「からし種」の成長に譬えた聖書の説話が取り上げられています。
 種から芽が出て、茎、実をつけるように、信仰も段階を経て育つ。播き時や場所によっては芽を出さなかったり、出ても根を張らずに枯れてしまう、という話です。

 私はこの説話には「土も改良して、水もこまめにやらないと苦労が水の泡だよ。難しい! 大変!」と感じていたのですが。ここについての法王のコメントはこうでした。

 私のような仏教徒には、生きとし生けるものには多様性があり、受容の度合いはそのものによって異なる、という仏教の教えと似ているように思えます。
 たとえば仏教では、ブッダの慈悲には偏りはなく全ての生き物を包み込んでいると信じていますが、これは太陽が善人にも悪人にも照るという「マタイによる福音書」の喩えと似ています。しかし、そうでありながら、人間の側の受容度が違うのだから、霊的な成長は人によって異なるのです。


 ああ、こういう受け止め方ができるんだ、と目からウロコでした。

 話はここから「人の多様性に応じられる宗教の多様性が大事、どの宗教も温かい心を持つ人をつくるという目的は同じ&人の心の傾向は多様であると認識することが宗教間の対話の基礎」といった感じで進み、
 さらに、「宗教によって異なる点も認識しておくべき。倫理的・霊的な修行の分野では、仏教とキリスト教の対話は互いを豊かにできると思うが、哲学・形而上学については袂を分かたなければならないだろう。創造主の概念を仏教徒が受け入れられないように、キリスト教徒も縁起の概念は受け入れられないだろう」……と。なるほど、確かに。
 主催者のローレンス神父が巻頭で語るように「キリスト教徒にとってもっとも貴い福音書をダライ・ラマに預ける」という賭けに対して、法王が敬意をもってこれを扱われたことがどの箇所からも伝わってきました。この信頼と敬意そのものも対話のモデルなのかもしれない。


 私は子供の頃にプロテスタント教会に通ったせいか、今でも仏教よりキリスト教の方がしっくりくるので、とても印象深い本でした。
 聖書から引用されているどの説話も、私にとっては砂場遊びと同じように親しいものでしたが、それを彫像に譬えるなら、これまでとは異なる角度から照らされて、異なる表情を見せているように感じました。
 もちろん「羊の体にヤクの頭をつける」つもりはありません(笑)。でも、この本はこれからも何度も大事に読み返すことになるだろうと思います。

 巻末の解説で、訳者の中沢新一さんがこの本の面白さをわかりやすく語っておられるので、そのまま抜書きします。

 ダライ・ラマの名を冠した数多くの本の中でも、この本はずばぬけて面白い、と私は思った。
 他の本のダライ・ラマは、安定した確かな内容を、親しみやすい口調で語り出すところに、いわば持ち味があった。
 ところが、この本のダライ・ラマは足場の不確かな前方の闇の中に大胆に身を投げ出すようにして、考えながら語り、語りながら考え、自問し、応答し、即興のひらめきにすべてを賭けて、ひとつの挑戦に積極的に応えようとしているのである。そのために、私たちは何度もハラハラしながら次の答えを息を飲んで待つ、といった体験をすることになる。
 この本のダライ・ラマは、ほんとうに新鮮なのだ。

 こんなにも霊性の伝統がずたずたにされてしまった日本で、もういちど奔流に押し流されない人間の精神の威厳を立ち上がらせるために、まだ破壊されつくしてはいない生きた魂をもった人間たちによって創造的な対話がはじめられることを心から願いながら、私はこの本を市場社会に送り出す。


(2011.11.23)


「原理主義から世界の動きが見える
−キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の真実と虚像−
PHP研究所
小原克博 中田考 手島勲矢 共著 

   原理主義から世界の動きが見える (PHP新書)


「原理主義」という言葉に、なぜ人々は魅了されたり、嫌悪を感じるのか。一般にテロや紛争と結び付けて語られがちなこの言葉は時に誤解されながら多くの人に浸透し、政治にまで影響を及ぼしていく。「原理主義」の意味するもの、言葉の誕生の背景などを三つの一神教の文脈から考える。

第一章 なぜいま「原理主義」を問うのか
―原理主義と一神教によって開かれる問題の地平― 小原克博

「一神教」を理解するための基礎知識
「原理主義」を理解するための基礎知識
 
第二章 座談会:日本人にとっての原理主義 

第三章 キリスト教と原理主義
―変遷する原理の過去と未来― 小原克博

「原理主義」に対する現代的理解
「原理主義」が生まれる歴史的な背景
社会に認知される「原理主義」
福音派と宗教右派
原理主義の過去と未来

第四章 イスラームと原理主義
―歪められた実像― 中田考

「イスラーム原理主義」という概念
「ウスーリーヤ」と「ウスール学派」
イスラームにおける権威の構造
イスラームにおける「聖典」
「イスラーム原理主義」再考

第五章 ユダヤ教と原理主義
―シオニズムの源流を求めて― 手島勲矢

ユダヤ学の文脈から「原理主義」を読み解く
預言の終焉と聖典の成立
シオニズムの源流
終わりのないシナリオ


 一神教にも多神教にも、どの宗教にも絶対的な良し悪しはなく、異なる視点や行動原理があるだけ。一般に「原理主義」という言葉はイスラム教やテロリストと結びついて使われがちだけれど、実態、学問的には間違っている。では、何故そんな表現が使われるようになったのか――。

 ――というような話でした。かなり端折ってるけど(^^;)

 三&四章を読むとアメリカの政教分離って何、と思い、四&五章を読むとパレスチナ問題を思う。取り上げられているキリスト教、イスラーム、ユダヤ教の中では私にはキリスト教が一番馴染みがあるので、三章が面白かったです。

 原理主義(fundamentalism)がキリスト教の一潮流を呼んだ言葉として生まれたこと、その定義づけをそのまま他宗教にあてはめようとすること自体がおかしい。「イスラム原理主義」とは、そう呼ばれる思想自体の問題というよりも、むしろアメリカ/キリスト教思想/「近代」思想に反する点をあげつらって紐付けされた言葉にすぎない。アメリカのキリスト教が進化論の誕生以降に分派、変革を繰り返して政治に影響を及ぼしてきた中で、なりゆきのように生まれた実体のない言葉だということには嘆息です。

 四章、五章ではイスラム、ユダヤ教の神学的なことが多く書かれていて、正直、私の頭ではついていけませんでした。でも、それぞれを信じる人のざっくりとした考え方や、そこからどんな行動が導き出されるのか、という筋道は論理的に示されていたように思います。

 印象的だった文章は――。

 思想の自由を掲げる「近代」も教条主義から解放されているわけではない。「宗教」であれ「近代」であれ、自分の抱える二者択一の選択の不安を直視しないなら、それは「教条主義」であり、その中心に「神」はいない。ただ、恐ろしく独りよがりな「人間」がいるだけである。(p244)

 全体主義であれ、社会主義の一党独裁であれ、自由主義であれ、どんな政治にも(レトリックとしての)宗教的、精神的な理想主義の側面が認められる。つまり、そういった側面が政治には必要だからである。ただ、その理想がすばらしいほどに、それを旗頭にしてある人・グループ・民族が、政治において画一的に妥協なく、その理想の実現を追及するとき、それが社会内部に矛盾と歪みをもたらす。



 そして、この本の本筋からは少し寄り道になりますが。
 「日本人と原理主義」について、何か所か語られているのも面白かったです。明治時代の日本が近代化(つまり西洋化)を急ぐ中で、天皇崇拝強化を選んだこと。それが暴走していった時に、止める力がなかったこと。
 また、現代の日本人にはキリスト教思想は無いが、それでも西洋生まれの近代思想によって育ってきている、というところが興味深いことでした。
(2011.5.21)

 

「新・民族の世界地図」 文春新書
21世紀研究会 編

   新・民族の世界地図 (文春新書)


世界の主な民族紛争、宗教・言語からみた民族問題などを概観。「正義と悪」の二元論ではわからない、世界の「今」を見る。2006年発行。「民族の世界地図」(2000年)の改訂版。

第一章 民族と言語 
第二章 民族と宗教 
第三章 民族の移動
第四章 先住民族・少数民族 
第五章 民族対立・紛争 
第六章 中東・アラブとユダヤ 
第七章 エネルギー争奪戦



 民族とは何か、という定義から、宗教会派と民族問題の関係、言語の広がりなど基本的な説明。また、巻頭には「第二次大戦後の世界の紛争地図」があり、ルワンダとソマリアがごっちゃになりがちな私などにはありがたいです。
 北アイルランド紛争、グアテマラ内戦、南北朝鮮問題、ネイティブアメリカン、アイヌ、ダルフール問題、チェチェン、パレスチナ問題などなど――個々の解説はとてもあっさりしていますが、むしろこれだけの数を新書で取り上げたというところがすごい。「国」という概念で世界地図を分割することの無理な側面が感じられました。これは社会人一般にお奨めな本だと思います。

 権利の衝突、文化や言語の衝突、根拠の無い偏見、宗教の不寛容――民族紛争、問題にはいろんな側面がありますね。

 特に印象的だったのは――。
 今の多くの民族紛争の原因が、19世紀の帝国主義によって撒かれたという点。特にイギリス! カシミールといい、イスラエルといい、ソマリアといい……。手を出しすぎだし、舌も多すぎだろう、と思う。何枚持ってるんだ、舌。

 部族社会とか植民地政策というキーワードだけで片付けるわけにはいかない。だが、「部族」にまつわる差別的な概念と、「部族」はつねに対立するものだという偏見が、植民地権力の側からおしつけられたものであることは間違いない。
(218p)

 これはアフリカの民族紛争の項の一文。
 そもそもは概ね平和に暮らしていた人々の間に争いを起こし、陰で宗主国が権利を掠め取っていた。その争いや憎悪が100年経っても終わらない、などと誰か考えただろうか。


 もうひとつは、少数民族の言語についての章。
 少数民族の言葉の運命は、その国の言語政策に左右されるのと、話し手が母語をどう意識するかによって変わる、という。

 話し言葉としては長らく廃れていたが復興したヘブライ語。マン島語は最後の話し手の没後、復興。
 バスク語を話す人々はフランス、スペインにまたがって居住、地方によってバスク・アイデンティティの持ちようが違う。
 東ティモールは元ポルトガル領、その後インドネシアに占領、近年になって事実上の独立を果たしたが、世代によって話し言葉が違う(ポルトガル語、テトゥン語、インドネシア語)。

 また、本の内容ではないけど、最近目についたニュース記事からの抜書きも載せておきます
(確か毎日だったような。元記事は無くなってしまいました)

「絶滅危機のブルトン語、フランスは多様性と向き合えるか」
「自分の言葉や出身や伝統を捨て去れば、フランス人であることの素晴らしさを享受できるという考えだった。しかし2代目、3代目は、現実にはそうなっていないことに気付いている。私の両親はすべてを捨てろと言われ、そうすれば仕事に就き、近代的な生活ができると言われたが、長い間それは実現しなかった」
2008年には地域言語を「フランスの文化遺産の一部」と認定する憲法改正案が議会を通過。



 それぞれ事情は異なるけれど、民族の固有言語と公用語の選定、現実に生計を立てるための言語がそれぞれ違うという状況は想像するに余りあります。

 最終章は中国やインドの台頭によって加速化されるエネルギー争奪戦について。
 資源戦争をいうなら、石油や天然ガスだけではなく食料や水をめぐるそれも読みたかったけど、これは別の本をあたってみます。

 読み終わって「新しい地図を見たい」と思いました。
 国境だけではなく、その上に「濃・淡」「粗・密」なものがもやもやと流動、対流している新しいタイプの3D世界地図が欲しい、と。
(2011.1.21)

 

「食と文化の謎」 岩波書店
マーヴィン・ハリス 著  板橋作美 訳

   食と文化の謎 (岩波現代文庫)


原題「Good to Eat - riddle of food and culture - 」。インドでは牛を食べない。イスラム教徒は豚を避ける。ダイエット国アメリカでも低カロリーの馬肉は食べない。人間が何を食べ、何を食べないかどうして決まるのだろうか。人類学・経済学・医学・生物学・栄養学などの膨大な知見と楽しいエピソードを満載。最善化採餌理論によって食と文化の謎を解く、異端の人類学者の文化論。

(目次は岩波書店 同時代ライブラリー版)
プロローグ 食べ物の謎
第一章 肉が欲しい 
第二章 牛は神様 
第三章 おぞましき豚
第四章 馬は乗るものか、食べるものか 
第五章 牛肉出世物語 
第六章 ミルク・ゴクゴク派と飲むとゴロゴロ派 
第七章 昆虫栄養学 
第八章 ペットに食欲を感じるとき
第九章 人肉食の原価計算
エピローグ 最後の謎

 人の食は何故こうも多様であるのか? 社会による好き嫌いは何故起こり、何故ところによって異なるのか?

 ――こんなテーマでした。
 翻訳のせいか、もともとシニカルな英語なのかわかりませんが、何となく読み辛かった。わからない点が多いので、あらすじは密林から転記してます。

 前半、肉に関する五章はとても面白かった。
 人は雑食ではあるが、何でも食べるわけではない。また、生理学的な理由だけで「食べる・食べない」を決めるわけでもない。食物選択の原則は「コスト&ベネフィット(代価と利益)」である。
 また、動物性食物(肉)は栄養を効率よく摂る事ができるので、文明の発展度、多種多様にかかわらず、重要視されてきた。

 肉食の好悪には、根源的には、栄養効率の良さ(エサの量・成長期間と肉量)、地理的要素(日照や湿度が成長に向くか、森林の減少)、人間とのバランス(人口と栄養源のバランス。人と農耕地を奪い合う関係になる動物を飼育するか否か。そのメリットは?)が関係すること。
 そして、人間の文明活動との関係、といえる要素もある――生業との関係(農使役のための動物を食べない、ミルクや毛皮などの副産物も含めた代価&利益の計算)、宗教との関係(聖典や教義の禁忌にふれるか)、そして戦争への利用(馬)、政治への利用(インドの牛)、経済との関係(流通システムや売価設定)。

 地理的要素は「
肉食の思想 ―ヨーロッパ精神の再発見―」でも語られてました。あちらは基本ヨーロッパの話ですが、こちらは「人の活動との多様な関係」に注目しているのが面白いです(後半の昆虫食から人肉食など、話は広がってます)。


 ヨーロッパにおける馬肉とアメリカの牛肉の話は特に印象的でした。
 馬は戦争と権威を象徴するために(栄養効率が悪いわりに)多く飼われ、食用にはされなかった。飢餓状態でも馬肉食は一般には行われなかった、それがナポレオン戦争時代には栄養価を評価されて食用になる。しかし、他の肉が豊富になるとまた馬肉食は下火になっていった。
 馬肉そのものを原因とするのではなく、他の要因によって馬肉食が否定、肯定されてきた、という点が興味深かったです。

 そして、牛。
 かつてアメリカでは、牛よりも豚の方が広く食べられていた。しかし、森林の減少、広い牧草地の出現で牛に取って代わられる。そして、アメリカの市場経済発展やライフスタイルの変化と、牛肉生産システムは分かちがたく結びついているため、アメリカ人にとって牛肉は「食べるに良い食物」になった、という。
 ハンバーガーの原料であるひき肉の法的規定(使用部位や添加物について)を引いての話――ファーストフードのハンバーガーと高級レストランのステーキの隠れた因果関係――は衝撃的。

 ファーストフード企業は、安いハンバーガーをつくるのに飼育牛のむだな脂身が必要だし、飼育牛業界は、飼育牛のコストをさげるためにハンバーガーが必要なのだ。その関係は象徴的で、あなたがステーキを食べれば、他のだれかがハンバーガーを食べられるようになるし、その逆に、あなたがマクドナルドでハンバーガーを食べると、他の誰かがリッツで食べるステーキに助成金を出していることになるのだ。


 面白い本です。ただ、何から何までコスト&ベネフィット、生存上の損得で説明しているように思えるところが納得しにくい。
 後半に挙げられた北米やオセアニアの人肉食(戦争カニバリズム)では、もっと文化、宗教からみた説明が欲しかったと思いますし、人とペットとの関係を「有用か否か」と延々と定義し続けるところも疑問でした。狭義のペット以前に、さまざまな文化の中での人と動物全般との関係を知りたかった。
 六章で書かれた、人種によってミルクを分解する酵素を持っていないことは知られていますが、他のカルシウム吸収機能や肌の色の遺伝にまで話が広がると、もうこの本で扱うべき範疇ではないのでは、と私は感じました。

 訳者あとがきによれば、著者のマーヴィン・ハリスは、日本の学者の間では異色(というか異端)な人類学者、と考えられているらしい。どうしてなんだろう〜。上に書いたように引っかかる点はありますけど、感情的な抵抗はありますけど、概ね「自然な視点」だと思います。論理の道筋に異論があるなら、そう言えばいいだけのことだと思う。まさか、卑しくも学者が「気色悪い」から異端視するわけではないでしょうが……。
 「そういえば、そうだよなあ」、「何故なのかなあ」というところに直球を投げてくるような本。これを読まないのは惜しいと思われました。
(2010.11.20)

 

「人名の世界史」 平凡社新書
辻原康夫 著

   人名の世界史 由来を知れば文化がわかる (平凡社新書)


姓を持たない、成長にしたがって名を変える、親の名を継ぐ、など世界中にさまざまな人名文化がある。宗教や社会慣習、歴史背景によって変遷してきた名前とその由来を紹介する。

第一章 「姓」とはなんだろうか 
第二章 英語圏の姓 
第三章 ヨーロッパ人の姓
第四章 キリスト教徒の洗礼名 
第五章 東アジアの姓名 
第六章 その他の地域の姓名


 日記にも書きましたが、人名のことが気になって図書館から借りてみました。

 日本人に馴染みのある日本&韓国&中国の姓名からはじまって、欧米の名前についてページが多く割かれています(なので、このジャンルに入れておきます)。いちおうアフリカとかインド、南太平洋にもふれてありますが、少ないのが残念でした。
 また、姓+名という形から大きくはずれた名づけ意識までは、あまり踏み込んでいなかったようです。でも、面白かった。

 日本の名前については、姓(かばね)、氏、苗字の違いから説明。このあたりはっきりとは知らなかったので、「へえ〜」連発でした(笑)

 儒教文化圏の「家」意識と名前の継承、ギリシャ・ローマ時代にさかのぼる欧米の命名、「誰それの子」式、そして反対に「誰それの父(母)」という命名方式もあるとは初めて知りました。

 面白かったのは、19世紀にノルウェーからアメリカに移住した人が、入国審査官と地方の書類受付係の二重のミスでいつのまにか英語風の名前にされてしまった、とか。
 また18世紀、オーストリアのユダヤ人に対して、徴税目的で姓の登録を義務づけ、人々が名前を「買った」という話。当然、良いイメージの名前は高額で、貧しい者は「ごみ」だの「ロバの頭」などという名になってしまう。のちに1948年のイスラエル建国後は大規模な改姓運動が起こったそうです。

 また、父称制で血統そのままのような長い名前がつくのは、紀元前9世紀くらいの中東にさかのぼるそうで。そういえば、聖書のはじまりはいつも(?)これだよなあ、と思い出したりしました。
(2010.3.14)

 

「人名の世界地図」 文春新書
21世紀研究会 編

  人名の世界地図


キラキラ・ネームが続々誕生している日本に対し、欧米の命名は保守的だ。現代においても、民族、宗教、地域社会などに根差して名前が付けられている。名前と発音から、どういう出自の人なのかを推理できるのだ。つまり、それほど人名には民族の出自や文化が色濃く反映されている。

第1章 名前にこめられた意味
第2章 聖書がつくった人名の世界地図
第3章 ギリシャ・ローマ ―― 失われたものの伝説
第4章 花と宝石に彩られた女性名の反乱 
第5章 コナー、ケヴィン ―― ケルト民族は生きている 
第6章 ヴァイキングたちが運んだ名前 
第7章 名前でも迫害されたユダヤ民族
第8章 姓氏でわかった中国三千年史
第9章 先祖の名とともに生きる朝鮮半島の人たち
第10章 アジア・アフリカの人名地図
第11章 黒人奴隷におしつけられた名前


 昔から持っていて、似たような書名の別の本と勘違いして、すでにここに挙げたものと思ってました(^^;) 密林のリンクはカラー新版へ飛びます。

 ローマ、ギリシャ文明起源からキリスト教にまつわる名前が多いですが、その他の地域も幅広く取り上げられていて面白いです。ただ、中盤は名前(とその元)の羅列が多くて、もっと背景である文化の説明も読みたかったな。

 私があまり知らなかったせいですが、朝鮮半島の名前のつけ方は興味をひかれました。
 朝鮮半島では、陰陽五行にしたがって名前に定められた「行列字」を必ず入れること、同じ世代は同じ文字を入れ、世代ごとに上と下に交互に「行列字」を使うそうで(もっとも、現代はそのルールもゆるやかになってるらしい)。
 ニュースや現代史でおなじみの名前を思いうかべて納得。名前ひとつにも背景があり、それが個人の支えとなったり枷になったりするのだなあ、とあらためて感じました。
(2023.10.10)

 

「意外な世界史」 PHP研究所
井野瀬久美惠 著 

   意外な世界史―歴史を楽しむ発想法


古代エジプト人のネコ好きは何故か?タージ・マハール廟は愛妃のためだけに作られたのか?産業革命の背景にあった木綿ブーム・・・。世界史でおなじみの人や事件の、あまり知られていない経緯や背景を取り上げている。

歴史教科書では、史実を歴史の流れの中に位置付けるという書き方がされる事が多いのですが、それとはひと味違う話題の取り上げ方が面白いです。歴史の流れを意識しながらも、その立場に自分が立ったらどう思うか、という視点が貫かれてます。本文自体が歴史のウラ話的着目なのだけれど、間に入っているコラムがいい。本文を読みながら「この人ってどんな人?」「どんな時代だった?」と疑問に思うようなことを細かく取り上げてます。
(2003.5.24)

 

佐原真の仕事 4
「戦争の考古学」
岩波書店
金関恕 春成秀爾 編 

   戦争の考古学 (佐原真の仕事 4)


人類はいつから、何故戦争をはじめたのか。人類に「殺しの本能」はあるのか。世界各地の戦争の起源、弥生時代の石鏃やヨーロッパ、西南アジアの投弾など武器の変遷についての考察がおさめられている。

 扱われている事柄も地域も幅広いです。私にはかなり難しかった。とりつく手がかりをさっぱり見つけられない感じでした。

 その中で興味をひかれたこと。まず、弥生時代の集落で逆茂木を備えたり、堀にごみを入れて敵の侵入を防いだ、という話がありました。完全に防御できるわけではなくとも戦意を殺ぐという作戦は、戦いの歴史の中でこんなに古くから行われていたのだと驚いたのでした。
(実は、現実効果は別としてもプレッシャーをかける→「空き巣対策」みたいだなあ、とふと思ったりもしました)
 そして、 投弾と弓矢のそれぞれの特徴と、騎馬の登場によって投弾が廃れていった、という話も面白かったです。

 こんな調子で、ほとんど読みこなせてない状態で言うのも妙な話ですが、疑問に思うところもありました。
 戦争が行われるようになったのは450万年もの人類の歴史のごく最近8000年のことと語られ、「4.5メートルの中の8ミリにすぎない」と表現されています。でも、それぞれの時代の社会の変化のスピードはずいぶん異なっているから、同じように語ることができるものなのでしょうか。戦争を起こすにも回避するにも、その社会の求める目的がある。社会の在り様と戦争は結びついているのですから、8000年が人類の歴史の中で占める割合は、この数字よりもっと大きいのではないかと思いました。
 もうひとつの不満は「戦争を回避する工夫」の歴史についてあまり触れられていないことでした。『なかったものを証明するのは難しい』ということでしょうか。慣習や制度は発掘できないので、そもそもこんな疑問はお門違いなのかもしれませんが。でも、「人類の殺しの本能について」なんて大変な話題だと思うので、もう少し後の時代の話も交ぜて欲しいと思ってしまいました。この本には既刊の論文は載せていないとのことなので、他の本には別の視点が書かれているかもしれませんが。

 門外漢の思いつきとして。現代の兵器を考古学的に見ると、そこにどんな社会が存在すると思われるのか(笑)、尋ねてみたいです。
(2006.5.24)

 

「モノの世界史」 原書房
宮崎正勝 著 

   モノの世界史―刻み込まれた人類の歩み


農業の始まりから、文字、都市、貨幣の誕生。そして、戦争や交易によって異文化が交わり、新しい物や習慣が生み出されていく経緯を追う。人類の誕生以来、作り出されてきた「モノ」や「システム」から世界史を読む。

 5W1Hのうちの『いつ(When)』が、歴史を扱う本にしてはとても少ない。かわりにWhyとWhatが多いところが気に入りました。ええ。年号が覚えられないんです(涙)。
 「モノ(システムを含む)」がどのように生まれ、変化して、生活にどんな影響を与えたか。それを追うことで、歴史の流れを捉えようとした本です。土器から現代のインターネット、ハンバーガーまで同列に並べて語られるのが面白い。こういう視点、大好きです。
 モノの変容を中心に話が進むため、時代を行きつ戻りつすることもありますが、おおまかに八つの時代に分けて語られているので流れがつかみやすい。世界史全体を鳥瞰することを目的にしているので、それぞれのエピソードはあっさりとしか書かれていません。高校の教科書くらい駆け足かも。
 書かれている出来事や国名などは、どれも学生時代からのおなじみです。しかし、注目点を年号や人名からモノに変えるだけで、これほど歴史が違って見えることに驚きました。

 ペルシャ、メソポタミア文明の時代から、モンゴル帝国やイスラム帝国全盛期を読み進み、視点が地中海に向いてくる。イスラム帝国の進出でアジアと切り離されたイタリア。そこで「ルネサンス」「大航海時代」と書かれると、何故そこに至ったのかがお腹から納得できて、面白い。こんな本を十代のうちに読みたかった、と思いました。

 以下は特に興味を引かれたこと。
 農業の始まりから都市の誕生。文字と数字の伝播。船と航海術の進歩によって沿岸をつなぐ貿易から大洋を渡る貿易に変わったこと。ヨーロッパ全盛期を支えた植民地システム。鉄道と航路の結びつき。食べ物(ジャガイモ、麺類など)が普及する流れ。などなど。

 不満だったのは、「普通の世界史と違う視点」と銘打って石器時代からはじまる割には、アフリカや中南米は欧米の視点からしか書かれないこと。狩猟採集文化については、まったくというほど書かれていないことです。西洋史(あるいは西洋史に貢献した文化史)の本のようですね。
 私はよく知りませんが、狩猟採集文化で育まれた考え方も独特なはずですし、アフリカ・中南米には「発見」される前から独自の社会システムがあった。
 最終章で地球環境問題やら民族紛争まで語るなら、もう少しだけ話の幅を広げて欲しかった、と思いました。
(2006.7.25)
読書記録 → 2へ
inserted by FC2 system