1へ 読書記録 → 3へ

歴史・文化(世界一般) 2

   

「考える胃袋 ―食文化探検紀行― 集英社新書
石毛直道 森枝卓士 共著

   考える胃袋 ―食文化探検紀行 (集英社新書)

「食」の世界―ここに知的好奇心を注ぎ、人生の多様性と楽しみを発見してきた民族学者とフォトジャーナリストの対談集。地域・民族・時代によって様々なかたちを見せる「食」の豊かさを研究し、味わい尽くそうとした、それぞれのフィールドワークの現場を語る。

口上「鉄の胃袋、あるいは碩学」との対話  /森枝卓士
第1章 「食いしん坊と料理好き」からの出発
    料理のもう一つの楽しみ/考古学から民族学へ/現地滞在調査のスタイル
第2章 魚醤・シオカラ談義
    魚醤との出会い/中国の魚醤は何故衰退したか
第3章 旅が食を、食が旅を
    絵はがき型人間と市場型人間/途中で浮気せずに食べ続ける意味
第4章 文化「麺」談
    小麦を食するためのシステム/イタリアのパスタをめぐる謎/いちばん好ましい麺とは
インターミッション(飲みながら篇)
    レッテルの貼ってない酒の愉しみ
第5章 サルから文明まで
    「共食する動物」/「食」をめぐるタブー/味つけの起源
最終章 食の現状をどう見るか
    台所の外部化/神様抜きで毎日お祭り
あとがきにかえて  /石毛直道


 各章の見出しは抜書きです。
「食材の生産や、人体と栄養などについては研究がされてきたが、調理や食べる行為は学問の対象にされてこなかった」(石毛)
「取材に訪れた国の政治や戦争を語っていても、彼らが何を食べているか知らなかったことに気づいた」(森枝)

 こんな風に、それぞれの好奇心から「食」について研究されてきた著者お二人の対談集。特に面白かったのは2章の魚醤と、4章の麺類の話でした。

 魚醤やナレズシは、アジアの水田稲作地帯の「米・淡水魚・野菜」の食文化の中で、調味や魚の長期保存のために生まれたこと。魚醤は現代では海産魚から工業的に作られるのでぴんとこないけれど、そもそもは淡水魚から作られていた、というのは意外でした。
 ついでに、「内陸部の農民にとって魚はめったに食べられないごちそうだった」というのは必ずしも当たらない、水田や水路で獲れる淡水魚が日常的に食べられていたという話にも驚きました。職業集団(漁師)による海の漁とは異なり、女子供による淡水魚の「漁」は記録に残らない。しかし、実際には食文化の中で重要な位置を占めていたという説明にわくわくする。「記録」の落とし穴、なんですね。

 また、「麺」の話はまず小麦から。
 西アジア原産の小麦は粒食できないので、食用されるようになった最初から粉にする技術と一緒に普及していった。小麦はナンやチャパティのような焼き物として中国に伝わり、そこで汁物料理と結びついてすいとんや麺になった。麺は中国から中央アジア、アラビア経由でヨーロッパへ。そこでは、ワインの搾り機の技術を応用した製麺機が作られ、スパゲティが生まれた――。
 こういう雑学っぽい話も面白いのですが、そこは学者さんの対談。もう一歩踏み込んで「何故、麺が定着した地域と衰退した地域があるのか?」。麺がイタリアにあって、スペインに無いのは何故か、というお話も。
 これには、もともとそれに類する料理、いわゆる「とっかかり」の有無が関係するのではないか、というご意見でした。丼とカレーライスの関係、なるほどー。

 最終章では少し趣が異なり、現代の食を「地域の歴史や風土に根差した文化」と「諸文化の違いを越えて広がっていく文明」という異なる性質がせめぎ合っている、という視点で捉えています。インスタントラーメンとアメリカのTVディナー、こんなわかりやすい例ででざっくり説明されるとおもわず頷いてしまう。
 また、良いことづくめに見えるスローフード・ブームの抱える問題にも触れられていて満腹、いや満足、でした。
(2012.4.7)

 

「ポケットの中の野生」 岩波書店
中沢新一 著

  ポケットの中の野生―ポケモンと子ども (新潮文庫)


子どもたちは異界からくる野生の声に敏感だ。それがゲームの画面であっても。元昆虫少年がその自然体験をもとにデザインしたゲームソフトが、いま子どもたちの野生を解放しつつある…。渾身のテレビゲーム論。

第1章 インベーダーゲーム革命
第2章 モンスターの誕生
第3章 RPGのエロスとタナトス
第4章 「ポケモン」の手柄 
第5章 今日のトーテミズム
第6章 ゲームの世界の贈与論


 リンクは文庫版へ。
 去年からNHKテキスト「野生の思考」を読んでいたので、中沢新一つながりで手にとりました。ゲームを題材に人類学的アプローチを試みた本(で、いいのかな)というのがちょっと不思議。ポケモンで遊んだことがないので少し読みあぐねましたが、面白かったです。

 昆虫採集に夢中な子ども時代を送ったデザイナーがつくったこのゲームが、なぜ現代の子どもたちの間で爆発的な人気を得たのか。時代や環境が変わっても人間が夢中になる物はたいして変わらない――その根源的な理由は何かという問いかけのようにも読めました。

 このゲームの中では、モンスターを捕まえて分類することで世界を構成する事どもの関連性が見えてくる。あらたなモンスターを見つけ、捕獲する(決して死ぬまで戦ったりはしない)、捕えたモンスターに名付けたり友達と交換する時ことによって世界はさらに豊かにふくらむ――。
 こうして、ゲーム機の中の世界はより複雑で現実に近くになっていく。これを「未知の世界との折り合いの付け方」と考えると、確かにこの本の読み解きがしっくりときます。

 著者がポケモンと出会ったきっかけは、ゲーム機片手に川べりでザリガニやおたまじゃくしを捕る子どもを見かけたことだそう。ゲームと現実がオーバーラップする瞬間をそれと知らずに掴むなんて、さすがに目のつけどころがちがう。

 世界との付き合い方は、かつてはメンコや昆虫取りだった。それがコンピューターゲームの登場でポケモンになり、さらに現実世界とリンクしてポケモンgoになるのは当然だったのかもしれないですねえ。
(2018.1.17)

 

「社会をつくる「物語」の力」 光文社新書
木村草太 新城カズマ 共著

  社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話 (光文社新書)


AI、宇宙探査、独裁の再来、思想統制、核戦争の恐怖…現代世界で起こるあらゆる事象は、小説家やアーティストによる「フィクション」が先取りしてきた。同時に、学問研究や科学技術の進歩が新たな創作への想像力を掻き立てる。まさに現実とフィクションは互いに触発し合い、発展していく。憲法学者とSF作家の希有なコンビが、『1984』『指輪物語』『飛ぶ教室』などの名作を参照しながら政治、経済、科学を縦横に巡り、来るべき社会を構想する。

第1部 法律は物語から生まれる
 ・AIと人間の違い
 ・ゲームという模擬社会
第2部 社会の構想力
 ・トランプ現象と向き合う
 ・物語とリベラリズム
 ・読書と民主主義
第3部 SFが人類を救う?
 ・「架空人」という可能性
 ・ロボットの経済政策


 章題は抜粋です。

 法律家と作家という意外な組み合わせの対談はインスピレーションにあふれて軽快で、読んでいて楽しかった。ここ最近「物語性」ということをぼんやり考えていたので、その意味でも刺激的でした。

 また、法律関係は私はさっぱり知らないので、法のなりたちや考え方をわかりやすく説明した箇所は本当に面白かったです。たとえば、AIに責任能力はあるか、権利を持つ主体となりうるか、という議論はもう現実にすぐそこまで来ている話なので興味がわきます。
 ところで。法律って要は「人間同士がトラブルなくつきあうためのルール」なわけだけど、枠組みだけだから、現実問題にどう適用できるのかは法律家によって日々考えられているんですねえ。現場で作業するエンジニアの一面という喩えが意外。
 素人としては、法律ってかなり完全無欠に近いルールであって、それを熟知した専門家(法律家)しか扱えないものであるような気がしていました。

 それはともかく。

 物語(フィクション)が現実社会の未来を示唆し、現実が生み出す事柄がまた豊かな物語世界を生み出す。その中で生きる人間が出会う予想外の状況に、法はどう対処していけるのか?
 例に挙げられている「指輪物語」が民主主義が成長していく時代に書かれたことが物語の展開に影響している、という意見は面白いですね。

 また、何かと時間がかかり、検証を重ねなければならない民主主義を運用するには一定の教育水準が求められる、という言葉には、今の日本なりアメリカなりの社会状況を思って複雑な思いもわきました。

 対談なので、勢いあまって脱線していく箇所も多くて読みづらさを感じる時もありましたが。いや、むしろそこがいい、とも思います。
 経済、政治、思想、科学――どの視点から見ても大きく変わりつつある世界をどうやって生きていこうか、好奇心と緊張感と軽やかさがあればきっと大丈夫と感じる1冊でした。
(2018.12.17)

 

「歴史を学ぶということ」 講談社現代新書
入江昭 著

   歴史を学ぶということ


9.11後、世界は本当に変わったのか?戦後の混乱期に渡米し、ハーバードで長年教鞭をとってきた歴史家は現代をどう見ているか。

第一部 歴史と出会う
 1 1945年8月
 2 1930年代と戦時中の生い立ち
 3 戦後の歴史教育
 4 米国留学の四年間
 5 大学院での修行
 6 学生との出会い
 7 歴史学者の世界

第二部 歴史研究の軌跡
 1 出会いの蓄積としての歴史
 2 私の歴史研究

第三部 過去と現在とのつながり
 1 学問と政治
 2 歴史認識問題の根底にあるもの
 3 地域共同体のゆくえ
 4 9.11以降世界は変わったのか
 5 結論:文明間の対話


 著者は米国外交史・国際史の歴史学者さんで、その歴史観や研究について主に若者向けに書かれた本。自分は歴史本を読む基礎が弱いな、と思ったので、図書館で借りてみました。

一部は著者の生い立ち。
二部は著者の研究、世界の歴史研究の潮流について。
三部は現代社会と歴史学者の関わりについて。

 読みやすいけれど、学生向けとは限らない印象。二部、三部は社会人が社会問題を見る時の助けにもなるな、と思いました。

 面白いと思ったのは、国際関係をお互いの「イメージ」に着目してとらえた、という視点。
 最初に自国のイメージや世界に対する予備知識があり(1)、その延長上に対外イメージが築かれる(2)、さらにそれが直接の出会いによって変化する、と重層的に見ていくことができる(3)、というの感じ。
 (3)にあっても、その基礎には(1)がある。でも、それが修正されてあらたな(2)や(3)が築かれることもある。各層がどんどん変化しながら動いていく――まるで生き物の新陳代謝のようですね。この考えに則った、日米中関係についての考察、そこでふれられた日本の政治理念についての行も面白い。

 明治以降の日本政府の対外政策はたいがい現実的、即時的で、理念のようなものはほとんど存在していなかった。
むしろ、日本外交の理想や思想は主として民間で作られていったのではないか。そこに国家対民間、現実主義対理想主義という構図ができあがっていったのではないか。
 国家として対外思想をつくった唯一の例外が「アジア主義」で、それを思想基盤にした大東亜戦争が日本と諸外国に損害をもたらしてしまった。



 また、「パワー」、「国家」だけでは国際関係は理解できない、という視点も面白かったです。
 文化交流、相互イメージ、経済などさまざまな要素が関係を築くもので、それは国の方針とまったく違う方向を示す場合もある。国家以外の集団(要素)――つまり国際NGO、多国籍企業、宗教、教育機関などの影響力はグローバル化の中でますます大きくなるだろう、と。

 ここを読んだ時に、アメリカがしきりに「テロとの戦い」と言いはじめた頃を思いだしました。
「ああ、やっちゃったな」と感じたのですよね。国同士と違って、具体的な終結の在りようが無い――こう、答えの存在しない問題に手を出した感じ。調停者もいないし。アメリカが世界の平和を守る! という考え方の無理を見た気がしたのでした。

 それはともかく。最終章では未来に向いた視界が語られています。
 トランスナショナルな存在・考え方に注目し、また第一次世界大戦以降延々と模索されている世界の平和秩序のあたらしい担い手候補(?)に地域共同体という考えを述べられています。
 例えばEU、ASEANのようにその試みはすで始まっていて、地域共同体の連帯のためには歴史、人権擁護、環境に対する共通の意識が必要であること。そのためには、国家の枠から離れたNGOや宗教が率先して地域的に共有されうるアイデンティティを作りあげることが望まれる、と。

 さて、日本はどうやってご近所とつきあうのだろうか。日本から宗教は消えたのか――等々、考えは尽きないです。刺激的な読書になりました。

 何となく歴史学者さんというと、昔の黄ばんだ(笑)資料をひっくり返して、そこだけ100年前の時間が流れているような勝手なイメージを持っていたのですが。こんな風に現在の政治問題が読めるとは思わなかった。歴史学者の務めについて書かれた一文が印象に残りました。


 歴史の正しい事実はひとつしかないが、その意味づけには多くの意見が在り得る。
 どの解釈が適当で、どれが明らかに間違っているかを指摘するためには意見交換が必要で、そのためには学問と言論の自由が保証されなければならない。

 現在と過去とがどうつながっているのか。現代に起こりつつある事象のうち、どれが一時的で、どれが永続的な現象なのかを見分けるのは容易ではない。そこに歴史に照らし合わせて、何らかの推察を提供することはできるのではないか。

 その場合、現実に国家が行っている方針とは一線を画す必要がある。政府の御用学者とならないためである。しかしこのことは、常に反政府的であるべきだということを意味しない。
(2012.8.9)

 

「新・日本の外交」 中公新書
入江 昭 著

   新・日本の外交―地球化時代の日本の選択 (中公新書)


軍事はもとより政治にまして経済を優先されてきた戦後日本は、世界有数の貿易黒字国・債権国となったいま「持てる国」として世界経済の不均衡を助成していると批判される。そして、戦後世界秩序の大転換の中で、経済力と軍事力の間のギャップが不信感を呼んでいる。市民国家そのものが変貌し、協調と責任分担を根本理念とする、地球化時代というべき国際秩序の下で、日本に何が可能か。戦後五十年を検証して日本の未来を考える。

序 章 五十年の軌跡
第1章 日米戦争の結末
第2章 日本外交の再出発
第3章 平和的共存の芽生え
第4章 第三世界の抬頭 
第5章 経済混迷期の外交 
第6章 「ポスト冷戦」の世界へ 
終 章 二一世紀に向かって


 1990年出版。明治維新から太平洋戦争を扱った「日本の外交」の続編。
 第二次大戦後、世界はどのように変化し、その中で日本はどのように復興、成長を遂げてきたのか。戦後の国際関係を「軍事」「経済」「思想」の多面から読み解いた概説書です。
 私はそのどれにも疎いので、ざくっと流れを読むだけでお腹いっぱいになってしまいましたが。とかく現代の歴史を話題にすれば、すぐに燻ったり、無用に熱くなったりすることが多い。こんな冷静な言葉も忘れずにおこう。

現在の世界を理解するために、バランスのとれた歴史感覚が必要とされる。
歴史には過去からの流れを引き継ぐ力と、新しいものを創り出そうとする力とが同時に存在している。このいずれをも見失うことは、現在に対する認識を誤らせ、将来への見通しも不徹底にすることである。そして未来を創るのも、過去の遺産と同時に現在の努力である。



 さて。時代ごと、切り口ごとに章だてされていて読みやすい。ソ連邦崩壊前の出版ですが、そこまでの、学校でまるごと無視されていた現代史の流れを掴むのにぴったりの一冊。
 特に面白いと思ったのは、文化交流や宗教、教育も国際関係をつくる要素として書かれていること。当たり前のことだけど、世の中の空気から市民運動が生まれたりするのだから、それもそうだな、と今さらのように思ったのでした。


 アメリカについて面白かったところを挙げれば。
 1940〜50年代、マスコミや大学で親・共産主義圏の意見が非難されたこと。言論不自由じゃないですか、アメリカも。前に映画「シッコ Sicko」をみた時に「アメリカ人、どれだけ社会主義が嫌いなのか」とちょっと驚いたのですが、こういう時代の記憶と結びついた感覚でもあるのでしょうか。
 その後、60〜70年代。この頃のアメリカから生まれて、世界へ貢献したものは多い。カウンターカルチャー、公民権運動や民族主義的な運動も。革新を求める矛先が他国だけでなく自国へも向いていたことが、結果アメリカの威信を高めたともいえる。好き嫌いはともかく(爆)、それでもその存在感はさらに長く続いたわけですね。

(80年代)アメリカの軍事力、経済力が相対的に低下している、まさにその時に、アメリカの理想や理念が一層の普遍性を帯び、影響力を増していったのは興味ある現象である。実はこの二つは密接に結びついているのではないか。世界がある意味でアメリカ化していると同時に、米国も世界化してきたかのようである。


 このあたりの時期の中国とアメリカを並べて見るのは興味深かった。
 底に思想的な対立があって、それがそれぞれベトナム戦争や大躍進政策として表面に現れていたのだ、とあらためて感じました。また時期はずれるけれど、どちらにも民族主義的な考え方があったのは不思議な気がします。実際の行動・行為はかなり違いますけど。

 ついでに、自分に関わるものとして。
 70年代のアメリカで起こった教会のリヴァイヴァリズムの熱気が、80年代に私が通っていた教会の雰囲気に影響していたのかもと思って面白かった。「日本であんな感じなら、本場(?)ではそれはそれは濃く、熱いものだったことでしょう」と想像がつくのでした(^^;)


 さて。日本の政治といえば。………「ほお、意外と頑張っていたらしい」と(爆)
 敗戦と占領。主権の回復。軍事力を持たないという法的拘束と安全保障の契約(といっていいよね)、経済の復興と国際社会の中で求められる負担。
 実際、アメリカの援助で経済を立て直し、思想的に大きく影響を受けながらも、国内では国際社会での日本の立場についてはずいぶん議論もされていたんですね。国民には大いに選択の余地も、選択の意思もあったように思えました。しばしば聞く「アメリカの押しつけ」という言葉はどのくらい当たっていたのか、ちょっと疑問になってきます。

 アジア各国との関係については、タイムリーなこともあり、もうちょっと勉強しないといけないと反省。
 戦後補償は、確かに金銭賠償や謝罪であるけれど、それがどんな駆け引きの中で決定されたことなのかも重要なのでしょうね。「賠償」と「供与」では、内容が同じでも意味が違う。中国、韓国と日本との関係が今も傷を残すのは、その駆け引きの部分が成立しきれなかったということなのかな。

 戦後、東南アジアとの関係が比較的よくなってきたのに、中国、韓国との関係が傷ついたままなのは、「国内感覚」で植民地統治されたからなんだろうか。その感覚は、もしかして日中韓いずれにも澱のように深く沈んで、たまに舞い上がってくるんだろうか。
 いずれにしろ、残る傷が長く癒えないことを思えば、戦争とは国にとってリスクの高い行為なのだと思う。その重みだけは忘れてはいかんのだろう、としみじみ感じました。

 日本の外交――書名の事柄について、著者の指摘は深くて鋭いです。
 戦前、戦後で、日本では「軍事」と「経済」の優先順位が逆転した。しかし、「思想」だけは一向に形成されてこなかったのではないか、という言葉に唸るばかりでした。
(2012.10.1)

 

「カトリシスムとは何か
 ― キリスト教の歴史をとおして ―
白水社 文庫クセジュ
イヴ・ブリュレ 著  加藤隆 訳

   カトリシスムとは何か―キリスト教の歴史をとおして (文庫クセジュ)


神の普遍的ありかたを意味するカトリシスムは、ローマ・カトリック教会の立場だけに関わることではない。古代ローマから、第二バチカン教会会議を経た2000年におよぶキリスト教の歴史をとおして、カトリシスムについて解説する。キリスト教の本格的理解へとみちびく入門書。

第1章 ローマ世界におけるキリスト教
第2章 「キリスト教的秩序」の困難な伝達
第3章 オキシデントのキリスト教世界
第4章 宗教改革期から啓蒙期にかけてのカトリシスム 
第5章 諸革命と「キリスト教世界への回帰」 
第6章 第二バチカン教会会議の教会」


 「スポットライト」の読後、カトリックの歴史を読んでみたく手に取りました。ついでに以前から気にかかっていたエキュメニズムのことも読めるといいな、と。しかし、読み進むのに苦労しました。西洋史をキリスト教を軸に見るのはユニークな読書でしたけれど。

 一番面白かったのは教会と国家との力関係。歴史本を読んでいると、連綿と続く静的なローマ教会と変化と混乱に満ちた俗世という、2本の別の流れをイメージしてしまうけれど、どっこい、2本、なんて分かれてなどいないのね。

 ヨーロッパというのは、世俗権力と宗教権力が別レイヤーに描かれた円のように重なる世界なのかと感じました。しかも中心点がずれた円。
 ローマ帝国崩壊後のように世俗の権力が弱まった時代には、ぺテロの後継者を自任するローマ教会こそがヨーロッパ世界を体現する。宗教改革を経てプロテスタントが登場すると版図拡大の争いとなる
 啓蒙思想、産業発展、近代国家ができてくると劇的に変化する世俗的価値観が、宗教権力を揺さぶるようになり、教会を中央集権的な構造に変化させていく。しかし、教会の弱体化は避けられない。この頃から教会にとって世俗世界との関係が、近づくにしろ距離を置くにしろ重要なものになってくる。
 そして、19世紀末から20世紀以降はその権力の性質に変化が、つまりカトリック教会にはより「霊的」な役割が強く求められるようになってくる――。

 ざざっと歴史を辿りながら、あちこちで想像をめぐらすのが面白かったです。
「イコノクラスム」って、単に偶像崇拝をめぐる論争ではなくて、神の「肉化」「受肉」解釈に関わることだったのね。よく知りませんでした。そうしてみると、その後のイタリア・ルネッサンスの見方もちょっと変わりそうです。
 また、「新世界」の発見って、まるでゲーム盤がいきなり巨大化したかのような衝撃だったのだな、と感じました。
 そして、世俗との関係を模索する教会って、ある意味で、正統性を定義して異端を生んできた中世の教会の運営(?)手法を裏返しにしたようなものなのかな、とつらつら考えたり。

 そして、20世紀に入ってからの章を読むと複雑な思いもしました。
 近代以降、今に至るまで、教会側は世俗世界にいかに対抗するかを考え続けてきたけれど、世の中はそれほど宗教権力と向き合ってこなかった(もちろん、政治家はローマカトリックにしろ、ユダヤ教、イスラム教にしろ、忘れていたわけではないけど)。それが、今ここにきて宗教権力というものが急に注目を浴びてきたわけで。
 もしかしたら、これから何百年ぶりかの宗教-世俗権力闘争の時代が始まっていくのだろうかと思うと、空恐ろしい気もします。
 宗教の本質は「霊性」(キリスト教的な言葉ですが)とか「魂」、「心」にあるのであって、対立というのはごく表面的な事柄に過ぎないのでは、と私は思っているのですが、それが多くの人の中に浸透していくには長い時間がかかる。
 というか、これまでキリスト教徒や仏教徒、イスラム教徒のやる気(笑)ある人々が何千年かけて模索してきてうまくいかないのに、果たして進展などするのかしら、と不安にもなるのでした。

 ああ、何だか「スポットライト」の謎にはちっとも近づけません。

 最後に、ちょっと疑問というか、引っ掛かった点。
 あとがきでもちょっと触れられていますが、キリスト教の普遍性、正統性を表現するカトリシスムという用語が、途中からイコール、ローマ教会ということになってしまったこと。
 カトリシスムという言葉はプロテスタントが出てきたあとに生まれた言葉らしいので、しかたないのかもしれませんが、ロシアやアフリカの教会の立場から帝国主義時代や冷戦時代に見えるものもあったのではと思ったのです。

 まあ、相当すっ飛ばして読んだので、ワガママは言えません。
(2016.7.18)

1へ 読書記録 → 3へ
inserted by FC2 system