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歴史・文化(アジア) 3

  

図説 地図とあらすじで読む ブッダの教え」 青春出版社
高瀬広居 監修

   図説 地図とあらすじで読むブッダの教え


ブッダの誕生から入滅までを追いながら、その教えと仏教の世界観をわかりやすく解説する入門書。

第一部 ブッダの生涯
 序章 ブッダの世界
 一章 ブッダの誕生
 二章 ブッダの出家
 三章 ブッダの伝道
 四章 ブッダの入滅
第二部 ブッダの教え
 五章 ブッダの教え
 六章 ブッダ入滅後の仏教


「仏教、さっぱりわからない」と目についた疑問点だけ調べていても、らちがあかないことに気づきました(遅い)。  図書館に行って見れば……ちゃんとこういう本があるじゃないですか。「なるだけ図版が多いこと」、「チベット仏教にふれてあること」を条件に選びました。

 前半はブッダ誕生前のインドの状況から説明、そしてブッダの誕生〜入滅までを追っていきます。弟子たちとの交流、親族である釈迦族の滅亡など、まるで物語を読むようで馴染みやすいです。
 後半では、仏教の考え方(一切皆苦、中道、四諦八正道、縁起など)の解説、大乗仏教と上座部仏教の違い、中国、日本、チベットへの伝播について書かれています。

 広く、浅く書かれているのがありがたいです。これまで見聞きしたばらばらな言葉がどこにはまる物なのかが結構わかりました。
(2009.2.19)

 

「幸福論」 角川春樹事務所
ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 著
塩原道緒 訳

   幸福論


原題「Ethics for the New Millennium」。新世紀をわたしたちはどんな心構えで迎えるべきなのだろう――すべての人が幸せに生きられることを願い、その実現のための提言。

一章 人はどうしたら幸せになれるのか
二章 魔法でもなく、神秘でもなく
十章 ものごとを識別する力の大切さ
十一章 地球規模の責任感
十四章 切実な問題としての平和と軍縮
十五章 宗教にできること


 章数が多いので、いくつかだけ挙げておきます。
 「宗教書」だったら苦手だなー、と用心(?)しつつ手にとりましたが、これはきっぱり違いますね。

 世界にはわたし自身のものとは異なる多くの信仰、多くの文化があり、人に建設的で満たされた人生を送らせることができるのです。それどころか、わたしは今、人が宗教を信じるかどうかはたいして重要ではないと結論するに至っています。なによりも重要なのは、その人がよい人間であるかどうかなのです。

 何だか、この立場の人がものすごいこと言われてます。

 私は図書館で借りてしまいましたが……これは手元に置いておいて、ときどき開く本ですね。どの節をとっても深い言葉ばかりで、一気読みする本ではない気がします。実は自分の容量を越えている気がして、途中でギブアップしました。
「幸せになりたい、苦しみを避けたいという思いはわたしたちの本質なのです」
 この実現のための提案が、誰にでもわかりやすい言葉で語られています。

「たとえば、***だったらどうでしょう?」
「もし、***でなければ、こうなります」

 こんな風にやわらかい文章ですが、実例を挙げつつの言葉の意味づけ、仮定、反論、反論の反論といった流れが明快で気持ちいい。こういうところが理系の人の心をとらえるのでしょうね。

 とりあえず、気になったのは13、14章。環境問題、政治・軍縮について。

 自然環境は生存に関わることで、国の貧富にかかわらず傍観している余裕はない。
 技術によってある程度の調整はできるものの、そもそも変わる必要があるのは、環境ではなく人間の姿勢の方であること。
 環境問題は「母の寛容にも限界がある」という地球からの警告、というわかりやすい譬え。

 かつてチベット人はきれいな自然を当たり前に思っており、故国を追われてはじめて、飲めない水が流れる川があると知って驚いた、という言葉が印象的でした。

 政治などについては。
 近年、国を越えた政治・経済的協力機関(ASEANなど)がつくられる一方、文化・宗教を同じくする人々が固まっていくという一見矛盾する傾向がある。しかし、「社会政策や安全保障などを軸とした地域共同体の中に、自治権をもつ多様な民族・文化集団があるという状況」は実現可能なことだと語られています。

 これが亡命政府の中道政策になるということでしょうか。これは大集団と小集団のどちらに基準をおくかによって、その共同体の性格はずいぶん違ってくるのだろうな、と思いました。
 また、戦争を美化する思考や兵器をテクノロジーとしてのみ評価することへの警告、コスト評価、経済面からの軍縮も語られています。これには、よく聞かれる「宗教は理想と夢想ばかり」という意見はまったく当たらない、と思いました。

 どうも、容量オーバーで感想がうまくまとまらないのですが。
 十六章「お願い」の一節には、新聞やニュースで映されるダライ・ラマの姿が思い出されて、実はちょっと涙が出ました。

 ですから、わたしは手を合わせてお願いするのです。
 これを読んでいるみなさんに、このあとの人生をできるだけ意味のあるものにしていただきたいのです。
どうか妬みを捨ててください。他人を負かしたいと思う気持ちをなくしてください。その代わりに、他人のためになろうとしてください。
 なんらかの理由で他の人の助けになれないのなら、せめて他の人を傷つけないようにしてください。

(2009.7.18)

 

「思いやりのある生活」 知恵の森文庫
ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ 著  沼尻由起子 訳

   思いやりのある生活 (知恵の森文庫)


原題「The Compassionate Life」。だれもが願っている幸福な人生。あなたはどうしたら幸せを見いだせるのだろう。そのためになにより大切なのは、あなたの中にある、穏やかで優しい「思いやり」の心をはぐくむことだ。チベット仏教の最高指導者でノーベル平和賞受賞者ダライ・ラマ十四世が説く、人として生きるべき慈悲と平和の世界。

第一章 思いやりの恩恵 
第二章 思いやりを育む 
第三章 全世界に亘る思いやり
第四章 宗教的多様性 
第五章 仏教の初歩 
第六章 菩薩の道 
第七章 心を鍛錬する八篇の詩 
結び 悟りの心をもたらす


 幸福を望まない人間はいない。そのためには、親愛の情や思いやりが必要だ。その「思いやり」はどのように生まれて、何をもたらすのか。どのようにして人は自分の心を育み、その可能性を広げることができるのか。
 宗教と思いやりとの関係は? 宗教が人類に貢献するために必要な要素とは何か。さらに、宗教よりも大切なものは何か――。前半はこういったお話。そして、五章以降は仏教哲学の入門編でした。

 残念ながら、最近、自分と仏教は相性が合わない気がしているので、感想は前半4章についてのみです(上のあらすじは密林からもらってきました)。

 やわらかく、わかりやすい言葉遣いで訳された本ですが、読むほどに「これは、手ごわい」と感じました。
 言葉の選び方はもちろん、論点の切り分けの注意深さ、そこから結論を導き出す道筋の緻密さにはため息が出ました。しかも、机上の抽象的な言葉遊びではない。まるで、石を彫ったり絵を描くように、人間の心が目に見えているのではないかなあ、と思いました。

 特に2章はとても読み応えがありました。「思いやり」「愛情」の定義、それにはいくつもの種類があり、含まれる要素によって分類できること。「怒り」という感情の分析とその扱い方、等々――。
 こういう細かさで心を分析、実践、研鑚までやろうとすれば、変な感想ですが、人間の一生全部かかるというのも納得。否、生まれ変わらなきゃ、確かに時間が足りないわ。

 印象的だった言葉は――

 変わる必要があると正しく認識すれば、心は変化するのです。しかし、願ったり祈ったりするだけでは心は変わりません。結局、あなた自身の経験に根ざした動機や理由が必要です。

 自己中心の心構えは、本質的にあらゆる精神状態の根底にあります。

 怒りが特別のエネルギーを与えるのは事実ですが、このエネルギーの本質を探れば、分別を失った状態であることがわかります。自分でも怒りの結果が肯定的なものになるか、否定的なものになるか、確信が持てないのですから。

 人の性質や傾向はさまざまですので、当然いろいろな宗教が必要になるのだということがわかります。多様性は有益です。



 漠とした感想というか、思い描いたイメージですが。

 今まで「四角い」と思っていたかたちが、実は小さな丸の集合であった、とか。
 四角形を三角形に変えるために、これまではノコギリで真っ二つにすることしか思いつかなかったのに、小さな丸に分解して並べ直してもできる、と気づいた、とか。

 ともかく、これまで自分がしたことのない思考を示されたようで、面白かったです。
(2011.6.24)


「乾隆帝 ― その政治の図像学 ― 文春新書
中野美代子 著

   乾隆帝―その政治の図像学 (文春新書)


漢、モンゴル民族に囲まれた少数民族であった満州人はどのようにして彼らを支配したのか。清朝最盛期の皇帝・乾隆帝の行った工作やその意図を絵画、建築から読み取る。

T 皇胤と母胎の物語
U 仮装する皇帝
V 庭園と夷狄の物語
W 楽園のなかの皇帝


 中国の歴史も知りたいな、と思いつつ、範囲があまりに広すぎてどこにかじりついていいのか迷う。
「とりあえず、知ってる人……そうだ、カルチャーセンターの歴史講座で聞いた、派手好み文化人(本当か)・乾隆帝にしよう!」と手に取りました。
 講座では「モンゴル&チベット&乾隆帝」でしたが、この本では「漢族文化と乾隆帝」が主に語られています。着眼点が異なると、人物像もかなり違って見えて意外な感じ。

 ただ、かなり判りづらい本でして、書籍として私は評価しません。
 amazonのレビューでも同じようなことが書かれていますが、図版が不満です。カラー図版はたった1点、白黒図版も数こそそれなりありますが、読者が絵を「読める」 程度の大きさのものは20点程度。図像が題材なのに、新書シリーズの一冊として出版するという企画からして無謀だったのではないかと。しかも、図版の少なさをフォローするような本文でもないのですよね(溜息)。
 宮廷画家であったカスティリオーネ作の后妃画巻なんて、品があってすごくきれいそうなので、もっとよく見たいです。

 面白そうな話だ、とは思いました。
 乾隆帝が興味を抱いた西洋の透視遠近図法とからめて、彼が抱いただろう清朝の未来図を想像してみる、とか。あるいはマイノリティであった満人が漢人を支配するために行ったこと、皇帝の政治的な意図を庭園や絵画の中に見よう、というのは興味深いです。
 ただ、それを語る前に頼むから問題の絵を見せて! ……空しい要望でした。

 興味が湧いたのは、当時は満州文字と漢字がどんな風に使われていたんだろう、ということ。あと、奥さんのひとり、烏拉納喇(ウラナラ)皇后だけは、どうしてこんな名前なんだろう。
 易姓革命、というのはよく知らなかったので、もうちょっと調べてみます。多分、これがわかると宮城谷昌光の歴史小説ももっとうまく読めるはず。

 あと、面白かったのは年表。
 BC4000〜AD1911(清まで)の表と、その一部分を拡大した表、さらにその一部を拡大した年表が載っていて、「中国では各王朝の興亡が星の数ほど繰り返されていたんですよ」と解説されてます。
 なるほど! と思いつつも、これまで中国史に興味がなかった者から見ると、「小さな王朝が入れ替わり立ち替わり」なんて麗々しく言わなくてもいいんじゃないか、とも思ってしまう。
 というより、「俺が天子!」と言い張ったわりに数十年で命運尽きた人々がたくさん居た、単に乱世だったんじゃないの? と思われました。ま、そう言ったら身も蓋もないですが。

 どうも中国の歴史は、時代によってスケール感が違うような気がして難しいです。
(2009.5.6)

 

「中国少数民族服飾」 美乃美
中国中央民族学院/中国人民美術出版社 編

 中国少数民族服飾・普及版


1982年に日中合同出版されたもの。英題「Costume of the Minority People of China」。
中国の55少数民族の伝統的民族衣装、服飾品を写真で紹介する。また、巻末では各民族の人口や主な居住地、服飾の特徴が解説されている。

 普及版にリンクしておきます。他に「豪華版」もありました。どんななんだろう〜?
奥付は1982年発行ですが、序文の日付からすると中国では1980年発行されたのかもしれません。

 前半は各民族の服、帽子、靴、冠や首飾りなどのアクセサリー、かばんが紹介されています。刺繍やパッチワークも見事なのですが、他に鳥の羽をあしらったトン族(トンは、人偏に同)の衣装、苗族の銀細工の冠の美しさにはため息ついてしまいました。

 ただ、55民族すべてをとりあげるために、それぞれ紹介されている衣装は数点にとどまっています。
 また、人が着用したところではなくて衣装だけしか撮影されていないのが惜しいです。洋服とちがって、民族衣装はたるませたり、ぴんと引っ張って形をつくるものなので、どういう着方であるかが大切なのですが。さらには、どの衣装にどの靴、帽子という組み合わせにも定型があるはずなので、それがわからないのがもったいない。ちょっと半端な印象の本でした。

 余談ですが。気になったので、巻末に書かれていた各民族の人口を2000年現在の人口と比べてみたら、ものすごい増加率だったので驚きました。どの民族も130〜220%人口増(シボ族の400%とかトゥチャ族700%などは、いくらなんでもデータが不正確なのだろうと思いますが)。20年ばかりでこんなに人が増えるものなんですねえ。あらためて数字を見たらびっくりしました。
(2008.5.1)

 

「チベットを知るための50章」 明石書店
石濱裕美子 編著

   チベットを知るための50章 エリア・スタディーズ


国の姿を失って半世紀過ぎて、今もなお世界中で注目され評価を受けているチベット文化。開国から現在までの歴史、チベット仏教やその他の生活文化(芸術、建築など)、今日のチベット人が直面する問題を解説する。チベット文化入門書。

T 聖者たちのチベット
U 雪の国の仏教
V 暮らしの文化
W チベット・オリエンタリズム
X チベットのいま


 目次は大きい章題のみ挙げておきます。巻末には参考文献、参考HPを掲載。また仏教用語の解説もあり、丁寧に構成された入門書だと感じました。
 チベットの歴史、仏教、文化・生活、政治問題と内容は幅広いです。序文に説明されているように「チベット人の目から見たチベットの姿」を描いたもの。こういう視点を定めた理由は、「歴史的事実であるか否かに関わらず、彼らが信じる物語が人々を動かしてチベット史を作り上げてきたからである」「現実に力を持つイメージである限り、それを無視することはできない」とのこと。こういう考え方があるのだな、と興味をひかれました。

 面白かったのは、僧院で行われるディベート、建築、歌舞劇、口承文学について。

*ディベートの楽しみ(18章)
 チベットの僧院で行われる教義問答。立論者と質問者の問答の形式で、主張とその論拠を求めていく、というもの。
 映像で見たことはあるのですが、手を叩きながらの熱い議論は迫力があって、眺めているだけでも面白いのですよね。丸暗記だけでなく、問答を重ねることで隙のない知識を身に染み込ませていくという方法は効き目がありそう。さらに、こんな方法で二十年(一人前の僧になるのにこれくらいかかるらしい)みっちり勉強したら、どんな頭脳ができるんだ〜、と考えて唸ってしまいました。

*チベットの建築について(10&28章)
 マンダラの特徴(中心・高所に本質的なもの、周辺・低所に現象的なものをおく)をなぞるように作られており、たとえばポタラ宮は最上階に観音像とその化身を本尊として戴く立体マンダラになっている。
 ヒエラルキーを形に表す――こういう表現は好きです。また、村の僧院や民家の配置にも同じ考え方が見られるということは初めて知りました。

*チベット歌劇 アチェ・ラモ(30章)
 寺院の境内などで行われる歌、音楽、踊り、芝居が一体となった歌劇。
 7〜8時間にわたるのですが、観客は飲み食いしながら気楽に鑑賞するそうです。このために場所取りをしたり、上演後は自分たちでも踊りだすこともある、という。一度ほんものを見てみたいと思いました。
 もっとも、こんな伝統芸能にも変化が現れています。
 中国本土側では舞台のかたち、しぐさや台詞回しに漢化がすすんでいる。難民社会側でも、西欧などで上演することが多くなったため異民族にもわかりやすいオーバーアクションになりがちだそうです。
 昔のものをそのまま残していると思われがちな伝統芸能も、社会状況と無関係なわけがない。変化があること自体は当たり前のことですが、それが幸福なかたちであって欲しいと思いました。

*口承文学「ケサル王物語」(32章)
 ドゥンパという説唱芸人によって語られる口承文学について。
 「ケサル王物語」は、梵天からつかわされたケサル王が外道の国々を調伏していくという筋立てで、新しいバリエーションを生み出しながらパキスタン、モンゴルにまで広がった英雄叙事詩。「ケサル王がヒトラーと戦う」という新バージョン(笑)があるという話にはびっくりしました。
 また、物語の導入部や結びの句に定型があるという点が興味深かったです。
「この場所を知らなければ」「私を知らなければ、教えてやろう」という言葉ではじまる。そして、終わりは「もし、あなたがこの歌の意味を理解したなら、心に留めなさい。理解しなければ、何も説明することはない」
 こんな話の結び方をどこかで見たなと思うのですが、思い出せません。見つけたら追記するかも。


 しかし、我ながら情け無かったのですが、U部はさっぱり読めませんでした。仏教哲学。
 実を言いますと仏教にはあまり興味はないのですが、チベット問題を追いかけていていつまでも避けて通れるものでもない、と観念。「ひとまず、初心者の頼みの綱で概要を」と思ったのですが……日本語で書かれているものを読めない、なんて事態があり得るとは思わなかった。
 歴史は好きです、政治も想像の手がかりはある、嫌いな分野(軍事とか)の本ですら読めないってことはないと思うのですが。
 おそらく難易度以前に、興味の持ち方の問題だと思うので別の本から挑戦してみようと思います。一応、まだ諦めてはいません。まだ、たぶん、おそらく……。
(2008.7.6)

 

「世界を魅了するチベット」 三和書籍
石濱裕美子 著

   世界を魅了するチベット―「少年キム」からリチャード・ギアまで


チベット文化はどのようにして欧米の人々と出会い、浸透していったのか。現在、チベットは世界に何をもたらしているのか――20世紀頭に出版され人気を博したキプリングの小説「少年キム」を軸にチベット文化の普遍性を読み解き、語り明かす。

序論 チベット仏教の普遍的性格

第一部 小説の中のチベット
 第一章 白人少年とラマ僧の幸せな出会い 「少年キム」 
 第二章 ホームズの臨死体験 「シャーロック・ホームズの帰還」 
 第三章 シャングリラ伝説の始まり 「失われた地平線」 
 第四章 ヒッピーのバイブル 「チベットの死者の書」

第二部 現代欧米社会とチベット仏教 
 第五章 伝統と先進のアイコン ―ダライ・ラマ14世―
 第六章 現代の「キム」たち 
 第七章 「立ち上がれ!」 ―チベタン・フリーダム・コンサート―
 第八章 バーチャル・チベット ―映画の中のチベット―

結論 チベット文化が現代に持つ意味


 アップルコンピューター、シャーロック・ホームズ、マドンナ、「2012」、ダージリンティ、ビースティボーイズ、フィアット、「チップス先生さようなら」、エディ・マーフィ……。

 ばらばらな言葉の羅列のようだけれど、実はみんなチベットと何かしらつながりがあるのです。「え、あの作品のいったいどこに?」「あのアーティストがチベット?」と興味がわきました。
 私が一番驚いたのはシャーロック・ホームズ。でも、あの丁々発止のお寺の問答を見たら、確かにアヘンなんてやってる暇はなかったでしょうね。

 前半では、19〜20世紀のヨーロッパでチベットが神秘的な理想郷と考えられていたことが当時の本を通して語られています。
 後半は、20世紀後半以降、チベット文化に魅せられた欧米の知識人や芸術家について。チベットをテーマにした音楽や映画もたっぷり紹介されています。

 かつては、神秘主義者や冒険家の憧れをかきたてる理想郷、という獏としたイメージでしかなかったチベットが、欧米の人々の前に現実の姿を現した。彼らはチベット仏教哲学そのものに、あるいはダライ・ラマ法王が語る普遍的メッセージに惹かれていく。
 人がチベット文化への生きた入り口となった、という点がとても面白かったです。立派な思想も、それを伝える人の人格が良くなければ説得力がないわけですよね。

 また、中盤でダライ・ラマ法王の「三つの立場」などを書かれたところも印象に残りました。前半から続けて読んでいると、そのメッセージやチベット仏教の瞑想などが欧米の人にとってどれだけ衝撃的であったか、想像できるような気がします。

 印象的だった言葉は――

「騒々しい社会を逃れてこういうところへ来られるんだったら、全財産を投げ出してもいいと思っている奴がいっぱいいるんだよ。ところが、奴らはそこを出てくることはできないのだ。監禁されているのは我々なのだろうか、それとも奴らなんだろうか」
(「失われた地平線」)

「チベットを救うことは我々の社会を救うことなのです。チベットを救う時、我々は敵とも兄弟姉妹になれるという可能性を同時に救っているのです」
(リチャード・ギア)

 シャングリラの住人と下界の住人、どちらが囚われ人なのかと問いかける――この価値観の大転換は、「失われた地平線」の出版から70余年経った今は世界中に広まった。その中から、リチャード・ギアのような言葉も生まれてきたのだとすると、何かが着実に進歩している気がします(楽観的?)

 欧米の人のチベット観は「チベット 受難と希望」を読んだ頃から気にかかっていたので、19世紀ヨーロッパからその流れを追えるのが面白かったです。
 そして、空想も爆走。もしもモンゴルと仏教の出会いがもう半世紀ほど早かったら。もしもチンギス・ハーンがのちの時代のモンゴル人のように仏教に傾倒していたら……ヨーロッパの歴史もまったく変わっていたかもしれない。

ちなみに、3章で書かれた植物採集家キングドン・ウォード「ツァンポー峡谷の謎」のルートを探検された方が体験記事を書かれてます。

「ツアンポー峡谷脱出行」  角幡唯介
(ノンフィクション・ライター、探検家)
岳人2010年4月号 に掲載
http://www.tokyo-np.co.jp/gakujin/gak2010031101.html

 氏の講演会に行った人から、お話をまた聞き&ルート地図を見せて頂きましたが……よく生きて帰って来られたなあ。食料が尽きかけて、本当に危なかったらしい。完全インドア派の私は話を聞くだけで死亡しそうでした。
(2010.4.20)


「ブータンと幸福論 ―宗教文化と儀礼― 法藏館
本林靖久 著

   ブータンと幸福論―宗教文化と儀礼


仏教国ブータンの慣習や祭礼をとおして宗教世界観を見るとともに、近代化と共存する「幸福」への展望を語る。

序章 ブータンから学ぶ幸福論
第1章 私の幸福なる体験―仏教文化との出会い―
第2章 育まれてきた幸福―民族と歴史―
第3章 「国家の幸福」と「個人の幸福」―国の政策とGNH―
第4章 「踊る幸福」と「見る幸福」―宗教世界観と祭礼―
第5章 死を含む幸福―日本との比較から―
終章 ゆらぐ幸福と伝統の創造


 1〜3章は著者とブータンの関わり、ブータンの歴史、現状について。4章は、ブータンの宗教世界観を表現する祭礼(ツェチュ祭)の解説。5章は、仏教思想・輪廻思想に焦点をあて、ブータン人と日本人の死生観の違いを語る。終章は、現在のブータンが抱える難民問題、近代化と伝統の共存について。

 ブータンの本、二冊目。各章にならぶ「幸福」の文字。これだけ並ぶと、何だかあやしい気がしてしまった(私だけ?)。
でも、ちゃんと(?)文化人類学の視点から見た祭礼の紹介、現在のブータンの姿が語られています。GNHにつられて、やっぱり桃源郷イメージを捨てきれない私にはちょうどいい気付け薬でした。

 4章では「儀礼はその依拠する世界観を根底に持ち、それを可視的にドラマ化している」という視点から、ブータンの祭礼を取り上げており、この章が一番面白かったです。

 諸本尊が踊り手に降臨して土着の神を調伏することを目的とした仮面舞踏(チャム)や、物語劇など数々の演目が数日にわたって行われる。道化(アツァラ)がいて、祭りの舞台と観客を結びつける役割を担っている。観客たちは演目を見たり、露店をのぞいたり、ゲームやギャンブルをする。また、今年、生まれた子供の命名が行われる――祭り全体の雰囲気が伝わってくるようでした。

 そして、舞踏はその動きや身振りでもって仏教の宇宙観をあらわし、踊る者もそれを見る者も、祭りを通して信仰を深めることができるという考え方が興味深かったです。
 祭りの期間中、何日にもわたって、いや準備の段階から儀式が始まっている。しかも、たくさんの人間がおなじ儀式を共有しているという事に圧倒されました。宗教が生活や地域社会の一部分として感じられ、身にしみついていく――その意味の深さを思うと、めまいがしそうでした。

 他に、世界観を具象化した絵画「六道輪廻図」について日本とチベット仏教を比較した節にもひかれました。
 (極楽や地獄など)六道の個々に注目した日本では、六つの世界が屏風や絵巻物などに一枚ずつ並列に描かれ、
他方、ブータンでは「輪廻転生する」という点に注目して、六つの世界が並んで円形に描かれる――考え方や注目する点によって表現の形が変わる、というところが興味深かったです。美術品の見方も変わりそうです。

 終章では、伝統文化の保護というブータンの政策を評価しつつも、その伝統が「安心」ではなく「柵」のように見えることもある――こんな感想も述べられています。そして、こんな文章に目をひかれました。

 近代化に向き合ったときに、そのアンチテーゼとして伝統が発見され、伝統を守ることが近代化にブレーキをかける方策となっているように見える。しかし、実は伝統は近代化と共存可能なだけではなく、近代化の所産と捉えることが可能である。


 私は、何から何まで伝統文化という感じより、そこに目新しいものを加えて「これも、いい」と楽しむ姿が好きなので、この言葉は嬉しかったです。携帯電話かけちゃう若いお坊さんとか民族衣装とジーンズの重ね履きとか、かっこいいなあと思うのですよ。
 そうしてみると、政府による統制(TV番組の規制など)という方法には違和感を感じることもあります。でも、何らかの成果があるのは確かだし、またそうしなければならない面もあるのでしょう。
 何もかも「多数決で」「民主主義で」うまくいくとは限らない。ただ、時間をかけて、いい方向を見つけてほしいと思います。相容れないものを排除したり、握りつぶすほど乱暴なことはないと思うので。

 今回、初めてブータンの本に手を出したのは、チベット文化圏の幸せな風景を見たかったから。ニュースを追うのに疲れて悲しくなってしまったので、どうしても幸福なものを見たかったんです。
 もっとも、ここにも難民問題やら周辺国との関係など、理想郷ではない現実があります(まだ、よくわかりませんが)。でも、国として自立していこうと試行錯誤する姿には胸が熱くなりました。こんな思いを人に抱かせるのは、やはり大切なものがここにあるからだろうと思いました。
 2008年はおめでたい大行事もあるらしいし。かっこいい(おい)若き国王の世に吉祥あれ、です。

 ブータンの本はしばらくお休み。元気をもらったので、またチベット本に戻ります。今度はつぶれないように好きなところから読む予定。
(2008.5.16)


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