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歴史・文化(アジア) 4 |
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「物語 中国の歴史」 | 中公新書 寺田隆信 著 |
物語 中国の歴史―文明史的序説 (中公新書) 伝説と歴史が混じりあった五帝の時代から清の滅亡まで。儒教を底流にもつ中国の歴史の概説。 第一話 伝説と歴史の間 第二話 文明のかたち 第三話 偉大な皇帝たち 第四話 古代から中世へ 第五話 索虜と島夷と 第六話 長安の春夏秋冬 第七話 近世とよぶ時代 第八話 草原に吹く嵐 第九話 紫禁城の光と影 第十話 王朝体制の終焉 有名な人も事件もあっさりと説明するにとどめて、王朝の興亡、文化や宗教について、周辺地域(中央アジアなど)との関わりなどがざっくりわかりやすく語られてます。この本を一番に読めば、あんなに苦労しなかったのかも(遠い目)。 儒教その他の思想が生まれ、広まり、世を支え、という流れをつまみつつ読むのが面白かったです。 戦国時代には儒家、墨家などの思想家が活発に交流していたのが、秦になると自由な討論が抑圧されていく、とか。 ずっと時代が下って南北朝の頃には、戦乱の世にもかかわらず貴族層である知識人は活力を失わず、政治、文化を支えていた、とか。 科挙は当初はいくつも科目があったのに、のちには文学分野の才能を特別扱いして、他分野(法、理数系など)の人材が埋もれてしまう傾向にあった、など。 また、文官が宮廷の中心的役割を果たす状況が中国の伝統、という見方のようですが。「だれが中国をつくったか」の著者はそれに否定的な意見みたいです。いろんな考え方があるのだなと思って、ひとまずは両方覚えておきます。 地名も国名も覚えているうちに、と思って中国についての本を一気読みしたけれど、もう漢字に疲れました。お腹いっぱい。しばらく休みます(←根性なし) |
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(2009.7.8) |
「「正史」はいかに書かれてきたか」 | 大修館書店 竹内康浩 著 |
「正史」はいかに書かれてきたか―中国の歴史書を読み解く (あじあブックス) 中国の歴史書「史記」「漢書」などを取り上げ、歴史がどのように書かれ、あるいは書かれなかったか。そこに、当時の人々の考え方がどのように反映されているのかを読み解く。 第一章 「春秋」の虚実 第二章 「史記」の成立 第三章 「正史」の形成と展開 第四章 記録する側の論理 終章 北魏・国史事件の意味するもの 1、2、3章では「春秋」「史記」「漢書」「三国志」を読み比べて、歴史書の形式の確立し、「正史」が形成されていく様を説明する。 4章では、事実よりも「事はどうあるべきか」に重点をおいて書かれた歴史書において、著述側の論理がどのように表現されたか。皇帝の異常出生譚や反逆者の裁定、蛮夷伝について。 終章では、正史をめぐる歴史観が著述者・読者双方に悲劇をもたらした例として、北魏の国史編纂者が処刑された事件を解説する。 ただ今、中国の歴史を俯瞰中。 中国の歴史資料は誇張や解釈ありきの記述が多いと聞いたことがあったので、こういう視点の本も読んでおこうと思った次第。確かに、実例を示されるとびっくりでした。 起こった出来事を省略したり、目立たないように書いたり。主観たっぷり? でも、これが中国の歴史書の特色でもある、と書かれています。つまり、事実をありのままに書くよりも、人のあるべき道を示すことが重要視されている。 そして、現代と考え方が違うからといって非難するのはあたらないし、そうやって書かれた書物がのちの時代の人々の思想や行動の前提となっていたこともまた事実である、など。 興味深かったのは、漢の呂后の悪行が「史記」「漢書」では、どのように書き残されたか、という話。 呂后は亡き夫の愛人をなぶり、その子・趙王を毒殺したという――何かもう、同じ人間やってるのが嫌になるような恐ろしい話なんですが。 「史記」では(多分)そのままに書かれていた出来事が、「漢書」ではちょっと様子が違う。 趙王の死の事実は述べても、その死因(殺害)は書かれていない、とか。呂后の身の毛もよだつような行動は、メインの本紀ではなく列伝の目立たないところに書かれている、など。 文脈を無視して見せたいものだけ見せるとか、何かを削り落として語らない、など「決して嘘ではないけど、本当のことでもない」虚像を作り上げていく様子は、何となく昔のプロパガンダ写真と手法は同じだなあ、と思う。 記述者の真意はどうあれ、「漢書」において「権力者のために隠す」ことは正当、という方向性ができてしまった意味は大きい、という著者の言葉は印象的でした。 また、権力者の正統性を求める世界観が歴史書に影響している、という話。 「天に二日なく、地に二王なし」、正統な皇帝は一人しかいないと考える。その正統性を強調するために神話めいた話(皇帝の体に鱗がある、人並みはずれた容貌であるなど)が語られたり。 また、中国と四夷(東夷、西戎、南蛮、北狄)という考え方に基づいて蛮夷伝が書かれる。 ここにも正統論が影響していて、時代が下ると正史から蛮夷伝が消えていくのだけれど、これは差別意識がなくなったのではなくて、かつて蛮夷扱いされていた民族が中国に王朝を建てたため。 そして、最終章に書かれた北魏の話。 北魏は非漢族である鮮卑族によって建てられた国で、ただし漢民族を重用したり、民族独自の言葉や服装をやめて漢化しようとしていた。それが漢族の文官が国史の中で北魏以前の鮮卑族の風習を野蛮そのものに書いたことが、朝廷内の民族対立に火をつける。結局、編纂者もその家族も処刑され、国史は廃棄された、という話。 「正統」か「蛮」か。この考え方は、どちら側に立っても息苦しいものだったのでしょう。ふと中世キリスト教会で正統派を厳しく規定した時代に異端が生まれてきた、という話を思い出しました(「中世の光と影」)。西も東も似たようなもの? さて、この本、中国史を取り上げてはいますが、そもそもは「歴史を学ぶことについて専門外の人を対象に」語った本でした。どうりで言葉遣いや明快な展開は、門外漢にもわかりやすくて嬉しかった。 説得力のある言葉は多かったけれど、一番の収穫はこれ。 歴史は「理解」と「評価」の二段階からなるものである。 「理解」は、歴史的事実について、その間の事情や因果関係を正しく把握する段階。 「評価」は、理解された歴史的事実について、その意味を、よって立つ基準を明らかにした上で論じる段階。 まず、「理解」がなされてのちに「評価」されるべき。 「評価」が先にあれば、それは予断をもって過去を見ることで、無意味である。 二つが同時になされるなら、それこそ中国の歴史書が陥った「落とし穴」にほかならない。 すみませんです。とりあえず私も「嫌い」から入るのはやめるように努力します。 |
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(2009.6..25) |
「だれが中国をつくったか」 | PHP新書 岡田英弘 著 |
だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観 (PHP新書) 天命の正統の流れを追う「正史」は中国の理想の姿を描くもの。しかし、中国は常に「漢人」のものだったわけではない。六つの歴史書を挙げて中国人の歴史観を語る。 序章 中国人の歴史観―つくられた「正統」と「中華思想」― 第一章 司馬遷の「史記」―歴史の創造― 第二章 班固の「漢書」―断代史の出現― 第三章 陳寿の「三国志」―「正統」の分裂― 第四章 司馬光の「資治通鑑」―負け惜しみの中華思想― 第五章 宋濂らの「元史」―真実を覆い隠す悪弊― 第六章 祁韻士の「欽定外藩蒙古回部王公表伝」―新しい歴史への挑戦― 「史記」、「漢書」で中国の歴史書の形式が確立されるが、時代が変わり、鮮卑人、モンゴル人など新しい種族が中国の政治の中心となると、歴史書は次第に現実を反映しなくなっていく――。書と現実の乖離、というお話。このあいだ読んだ「中国文明の歴史」とかなり内容がかぶっています。 「中国文明の〜」もそうでしたが、シニカルな文章はこの著者独特のものらしい。辛辣だけれど説得力があるな、と思います。 面白かったのは、「元史」を語っている5章。 基になった資料が定住地のものだけだったこと(遊牧民の都だった上都の戦災のため)、各部族長が得た官職名が漢字で表記されていることなどから、ピラミッド型組織の中国式王朝と思われがちであるが、実際はモンゴル人による遊牧民帝国で中国的要素はほとんどない。「史記」以来の中国の歴史書の形式では、元朝の本質を記述できなかった――こんな話でした。 ちょっと気になったのは。 元朝は中国の「正統」を問題にしなかった。モンゴルには中央ユーラシア独自の正統がある、という認識だった――というところなのですが。 モンゴルにもそういう「正統」意識ってあったのだろうか?「中央ユーラシア独自の正統」って何でしょう。唐の太宗が西北方の遊牧諸部族から贈られたという「テングリ・カガン」の称号と関係あるのでしょうか。さて、さて? 最後の章では、清の乾隆帝の時代に書かれた「欽定外藩蒙古回部王公表伝」をとりあげて、新しい歴史の記述が生まれたと語られています。 それまでの正史はあくまで「中国の天下」の記述のみに限られており、「藩部(満州と直接統治の中国以外の地域。モンゴル、回部、チベット)」の歴史が書かれたのは、これが最初なのだそう。 また、満州語(公用語)に堪能な漢人官僚が、満州語によって書いた書であること。モンゴル人が書いたと考えられていたほど、モンゴル事情をよく伝えていたこと。たしかに「四夷」のような記述とはかなり異なっていたようです。 そして、藩部をどう捉えるかの認識が現代の内モンゴル、ウイグル、チベットの問題の始まりなのか、と地図を見ながらしみじみ。ようやっと歴史と現代がつながった気がします。 満州人を頭に、漢人、モンゴル人が属するというかたちの清王朝であったからこそ従来の歴史書の枠にとらわれないものが書かれた。著者はこれを「ひとつの文明の精華」と言われてます。ああ、めずらしく褒めてる、とついつい思ってしまいました(笑)。 |
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(2009.7.3) |
「中国文明の歴史」 | 講談社現代新書 岡田英弘 著 |
中国文明の歴史 (講談社現代新書) 神代から始まり、秦、唐、元、清そして現代にいたるまでの中国文明の歴史。その中で「中国人」とは誰で、「中国」とは何かという実体像を語る。 序章 民族の成立と中国の歴史 第一章 中国以前の時代 - 諸民族の接触と商業都市文明の成立 - 第二章 中国人の誕生 第三章 中国世界の拡大と文化変容 第四章 新しい漢族の時代 - 中国史の第二期 - 第五章 華夷統合の時代 第六章 世界帝国 - 中国史の第三期前期 - 第七章 大清帝国 - 中国史の第三期後期 - 第八章 中国以後の時代 - 日本の影響 - いきなり脱線で恐縮ですが。 今年上半期で、私的には一番の当たり本でした。すごい面白いんですけど! 著者のご専門はモンゴル、清あたりでしょうか。このあたりの記述が生き生きしていたので。 「中国」「中国語」「中国人」の定義からして驚きました。 中国は洛陽を中心に広がる商業都市網としてはじまり、市場で話されていた片言言葉が中国語のルーツ。 「中国人」とは文化上の概念であり、人種(?)としては「東夷、西戎、南蛮、北狄」と呼ばれていた民族の混合。そして、現在の「漢族」とは法規上のものであって、「どの少数民族にも属さない」くらいのものである、とか。 中華思想とは、北宋(もとは北方民族の子孫)の、新興北方民族への負け惜しみから生まれた思想。 歴史書ですら北宋が正統の王朝であることを示すために記述にゆがみがある。 北宋の頃から官僚は無給であり、収入は地位を利用して適当に稼ぐものだった(賄賂もOK)。 また、明の末期。戦費は皇帝持ちで、将軍や大臣は戦争が続くほど得をするので後金との戦争が長引いた、とか。 明、清ともモンゴル帝国の政治システムなど伝統を受け継いでいる(明の軍戸・民戸という戸籍制度や軍組織。清の八旗という部族組織)。 現代の中国語(普通語)は、清時代の「官話」(満州語と山東方言のまざったもの)の中の漢語要素がもとであり、アルタイ系民族の間に生まれたもの。隋や唐時代の「切韻」音の系統の言葉ではない、とか。 ……あれもこれもどれも驚き。 この本一冊だけ読んでもわかるものでもないので、まだまだ勉強しますが。 関心があった、清とチベットの関係については。 現代とは異なり、国境線による国の定義がなかった時代のことなので、「支配」という言葉もさまざまな解釈ができるわけで。ダライ・ラマ7世の認定をめぐるごたごたやチベット仏教の影響力の捉え方が、チベット寄りの本や話とはやや違う。でも、「重点の置き方が違うとこう見えるんだな」というところが面白いです。 この本の特徴的だと思ったのは、漢字の使われ方や「中国語」の変遷を、時代とともにずっと追いかけていること。 表意文字である漢字はさまざまな民族の言葉に対応することができて、漢字を読むと、どの日常言語からも乖離した言語ができあがる(すごく端折ってますが)。 秦の頃にはタイ語系言語を基層にしていたのが、南北朝時代にはアルタイ系の言語に変化。さまざまな発音があったのが分類・統合されて「切韻」が作られる。 元の時代になって漢字を使わない新北族に政治の本流が移っていくと、漢字以外の文字(パクパ文字、ウイグル文字など)と漢字の両方が使われるようになる 漢字と各民族の関係が、うっすらと見えてきたような気がします。 いや、いろいろ疑問だったのですよ。 どうして「フビライ汗」(これも変な書き方ですよね)が「元朝」を建てるの? 何故、「元」の字にしたの? せっかくチベットからパクパさんを呼んで字を作ってもらったんだから、がんがん使いたかったのではないの?(これはあまり普及しなかった、と本文にありましたが) 愛新覚羅はAisin-Gioro、何だか実は違う書き方があるのではないの? 等々……。 さらに、日本人は漢字混じりの日本語で読むから、なおややこしいわけですね。 もしかしたら、モンゴル語とか、少なくとも英語で音読するとすっきりわかるものなのかもしれない。――読めないけど。 |
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(2009.6.16) |
「中国史のなかの諸民族」 | 山川出版社 川本芳昭 著 |
中国史のなかの諸民族 (世界史リブレット) 中国の歴史の中で、漢民族や北方民族ほか少数民族がどのように関わりあい、文化を形成してきたのか。今日の中国のルーツを探る。 中国史上の諸民族と漢民族 漢唐間の北方民族と中国 モンゴル族の国家 女真族の国家 長江流域以南の諸民族 現代中国における民族問題 前半、とても興味深かったです。 中国の歴史とは、北方民族(遊牧・採集民)と漢民族(農耕民)の対立と交流の歴史である。匈奴と秦の時代に生まれた、この対立の南北構造がのちの歴史展開の基点になっている――と始まり、さまざまな北方民族国家(北魏、遼、金、元、清)について解説。遊牧民の部族制を基にした官制・軍制度や、中国支配の方針について類似、相違点があげられています。 ですが、読み進めるうちに次第にしっくりしない気分に。 この書名は内容に即してないのでは? 「諸民族」というほど多くの民族のことが書かれているとは思えませんでした。 前半2/3が上のような北方民族王朝についての説明ですが、征服された側の文化にはほとんど触れられていません。また、遼、金時代は遊牧民と農耕民を異なる体制で統治する――二重構造の制度だったらしいのですが、農耕民向け(?)体制の説明がないので、どんな国であったか全体が想像しにくかったです。 後半1/3は『長江流域以南の諸民族』の章。でも、名前が挙げられてるのは三民族ほど。 そして、「現在はこの地域の大半には非漢民族はいない」とし、「彼らは王朝権力に取り込まれて今日の漢民族の祖先となっていったと考えるのが妥当」と語られています。が、人がいなくなることに妥当も何もないだろう、と思ってムッとする。 冷静になって読み直してみましたが、彼らの文化が(名残であっても)どのように今に継承されたか書かれていないので、いったい何をもって、何がどのくらい「妥当」なのかわかりませんでした。 最終章は現代について。 20世紀初頭の中国は、歴史上長く続く意識=漢民族第一主義を放棄する方向を向いたものの、抗日戦争(日中戦争)や1949年新政権樹立という流れのなかで民族政策を転換させていった。 つまり、当初に宣言されていた自由連邦制の構想が消えて、民族団結と国家統合が優先されるようになっていく――ということが簡潔にまとめられています。 中華思想の説明はとても明快。 これは「中国の文化・生活様式と異なるものに対する政治的、文化的差別」であり、「(夷狄であっても)中国文化を修得すれば中華の民になれる」というもの。近代における人種差別とは異なるもの、という説明には、なるほどと思いました。 それでは「中華の民」とは、そもそも民族とは何か。著者いわく、 「ある集団構成員の中に、その属する集団に対して『われわれの』という意識が存在するか否かは、その集団が民族であるか否かの判定にあたって、最低限確認さるべき点であろう」 ややこしいですが。要は、自分が何々民族である、という自覚を持っているか否かが最低条件ってことですよね。 私の勝手な想像ですが、漢民族とは出自はいろいろあっても「中華の民」になることを目指した人々のことだったのだろうか、と思いました。 同時に、あの辺り(=中原)を治めることを企図しても、自分たちを「中華の民」と思わない民族もいたのではないかと思います。シルクロードだけではなく、川や海を通して他地域との交流も盛んであったなら、価値観や思想は多様なものだったのではないかと。 そんなわけで。「諸民族」の話、中国史の中の「漢民族」のことを知りたいと思ってこの本を手にしましたが、正直、不満が残りました。初学者向けシリーズ(世界史リブレット)の一冊としては、視点や構成がアンバランスではないかと思いました。 |
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(2009.10.16) |
「康熙帝の手紙」 | 中公新書 岡田英弘 著 |
康煕帝の手紙 (1979年) (中公新書) 中国史上、類稀なる名君として名を残す清の康熙帝。文武に秀で、探究心旺盛なこの皇帝がガルダン・ハーン討伐の遠征先から皇太子にあてて書いた私信を紹介しながら、17世紀末の東アジアの歴史ドラマを紡ぐ。 中国の名君と草原の英雄 ゴビ沙漠を越えて ― 第一次親征 狩猟絵巻 ― 第二次親征 活仏たちの運命 ― 第三次親征 皇太子の悲劇 この本、私は図書館で見つけたのですが、amazonで検索しても出てきません。絶版なのでしょうか。惜しいです。面白かった! 最初の章は康熙帝とガルダンが登場した頃の情勢について。 2章目以降は、1696年4月、10月、翌年2月におこなわれた康熙帝のガルダン討伐遠征の様子を皇太子・胤◆(示へんに乃)(いんじょう)にあてた手紙などから描写しています。(ちょうどチベットでは、ダライ・ラマ五世が亡くなったのを摂政サンギェギャツォがしたたかに隠していた時期のこと。清側の視点を知ることができました) 「皇太子に諭す。国境に近づくと、草は次第に大いによくなる。水は豊富なので、三旗が集結して行軍する。」 「ガルダンの営地に至ってみると、形跡はあまり大人数というのではない。馬はまだあるようだが、多くはない。羊は一、二頭分くらいしか足跡がない。モンゴル家屋、仏像、靴、鍋にスープを煮たままなどをみな棄てて去っている」 馬で行軍の時代ですから、草のよしあしや馬の体調についてよく記されてます。 また、第二回の遠征は秋から冬にかけてなので、狩の様子が詳しい。 弓を射るのは、友軍のうちでもやはり満州人が優れている。ある日は兎を300頭、ある日は兎はいなくて、かわりに雉を。また別の日には600頭、といった具合で二、三ヶ月続いてます。大所帯なので獲物の数も半端ではないですね。 凍った川を渡る様子、雪が風で吹き寄せられている様子など風景描写も魅力的でした。 ずいぶんと筆まめな人だったようで、数日ごとに手紙を書き、しかも同じくらいのペースでの返事を求めてます。 内容も「こちらからの手紙が到着した日時を知らせなさい」、「これくらいの太さの綱を何本送れ」などと細かい。さすがワーカホリックで知られる雍正帝の父親、「これは、血だなー」と思いました。 文章からうかがえるのは、好奇心旺盛、実際家、ちょっと粘着質?という印象。自分は皇帝、というような尊大さは感じませんでした。 北京で起こった地震について皇太子が迷信めいたことを書き送れば、欽天監(天文台)の役人について手厳しいことを言って返す。「遠征から戻られる時には出迎えに行きます」といえば、手間取ることは要らん、とすっぱり断る。合理的かつ現実家のよう。 そして、何かにつけて皇太子や皇太后を気遣って、遠征途上でみかけた珍しい植物の標本、きれいな石、食べ物を送ってあげています。どこまでもまめな人だ……。 せっかく往復書簡だったのだから、皇太子の書いた返信ももっとたくさん読みたかったです。古い手紙というのは書き手の有名無名にかかわらず面白いのですよね…… 閑話休題。 手紙があまりに生き生きとして愛情にあふれていたので、最終章に描かれた皇帝と皇太子のその後には複雑な気持ちがしました。 諸説あるようですが、皇太子は素行が悪くて廃太子に。康熙帝との関係はこじれて、「お前を生んだために母(孝誠仁皇后)は死んだ」などとなじられ、しまいには幽閉・獄中死したという。皇太子、気の毒すぎる。 皇太子の人となりはよくわかりませんが、この父親とつきあうのも大変だったろう、とは思われました。 最初、手紙にしたためられた指示や注意書きがあまりに細かいので、皇太子は十代の子供のような気がしていたのですが、生年をみれば、この頃はもう22歳の立派な成人なんですよね。 「こちらに送るものはていねいに包め。魚を送れ。果物はこちらにたくさんあるからいらない」――数日ごとにこんな手紙が押し寄せたら、大の男もグレるわ、と思われました。 でも、康熙帝が皇太子に抱いた情はとても深かったらしい。 「こちらは大臣、将校、兵士に至るまでみな元気だ。私は無事だ。皇太子は元気か。留守居の皇子たちはみな元気か」 「このところ何日も、お前からの便りもなく、気持ちが重くてたまらない」 ちょっと切ない気分になりました。 |
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(2010.2.3) |
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