3へ ← 読書記録  5へ

歴史・文化(日本) 4

 

「ギルデマイスターの手紙
 ―ドイツ商人と幕末の日本―
有隣新書
生熊 文 編・訳


  ギルデマイスターの手紙 ―ドイツ商人と幕末の日本 (有隣新書38)

1859年に横浜が開港し、「第二のカリフォルニア」になるというニュースは全世界に広がった。統一以前のドイツ諸国のなかで、ブレーメンの商人ギルデマイスターはオランダ人の名目で来日、ハンザ都市と日本との通商条約の締結を画策し、その経過や商業活動の見込みなどを故国に書き送った。その書簡19通と回想録をとおして商人の目で見た幕末の日本を紹介し、日独交流史の隠れた側面を浮き彫りにする。

第1章 ギルデマイスターの生涯
第2章 ギルデマイスターの書簡
第3章 ギルデマイスターの「回想録」


 前半はギルデマイスターの生涯と交流のあった人たちについて。そして、19通の書簡。三章は時代が下って、77才のときに家族に向けて書いたという日本時代の回想録。

 好みの書簡集だったので、つい図書館で借りてしまいました。このようにテーマが絞られた本は、ほんとうはもっと勉強してからの方がいいのですが……ま、楽しそうだからいいよね。

 1958年、ブレーメンの名家出身の青年、マルティン・ヘルマン・ギルデマイスターは勤め先のクニフラー商会の経営者に附いて「かのおとぎ話のような島国」に足を踏み入れました。それから10年日本に滞在、故郷へ貿易のための現地情報を送り、明治維新の混乱の中、帰国しています。「胡蝶の夢」に登場のポンペや司馬凌海(伊之助)とも接点があったそうです。うっかりしていたのですが、この時期にはまだ「ドイツ」という国はなかったんですね。

 ハンザ都市と日本が直接に通商条約を結ぶことはできるか、それよりもプロシアを通しての方がよいか。それをいうなら、貿易実績のあるオランダの方がいい。はたして日本は貿易で利益を見込める市場なのか――。
 こういったことについて、青年実業家ギルデマイスターの所感が書かれています。
 幕府も頭を悩ませていた通貨事情、日本へ何を売り込むことができるか、中国や日本内の政情不安定が貿易に与える影響などなど。ビジネスのエピソードももちろんですが、彼が説明する「日本」がかなり面白い。


 皇帝
(幕府将軍のこと)自身は比較的小さな権力しかありません。彼が直轄しているのは、江戸、長崎とあと数都市だけだからです。その他の国土は240の地方行政区に分かれて、地方領主がその頂点にあり、領主と皇帝の王子の中から帝国議会を選びます。世俗皇帝の他に精神的な皇帝がいて、世俗皇帝が日本の古い習慣に背かないように見張っています。

 また、鎖国を長く続けることはできないことを理解するダイミオ(大名)もいる、と書いています。

 長崎周辺に住むサツマ(薩摩)、セクゼン(筑前)、フィゼン(肥前)の領主たちはヨーロッパを手本に陸軍や戦艦を作り続けるでしょうから、幕府も脅威にさらされることになります。彼らは国中でもっとも豊かな領主で、親ヨーロッパ的で、機械工業や軍事関係の発明を輸入するのに力を惜しみません。


 攘夷の気分が蔓延しつつあったこの頃、江戸・横浜に暮らすのは気の張ることだったはず。居留地から出るときは必ず数人で行動したとか、夜眠る時もピストルを手にして休んだ、と回想録で語られています。
 そうやって異国で働く彼の希望とはうらはらに、ハンザ都市は単独で日本と通商条約を結ぶことはなく、のちにはドイツの一部になっていく――。後年、ギルデマイスターはそんな日々をどんな気持ちで振り返ったのでしょうか。


 おまけ。
 回想録では、過ぎし日の帆船での旅のたのしみを教えてくれる一文もありました。

 船旅の魅力というものは、今日の時間通りの蒸気船ではほとんどわからない。……(中略)……いつも風や天気を見つめて、12時過ぎにどこまで進んだか計測するときのみんなの緊張、海の上の生き物。それに、忘れてならないのは、見張りをして他の船を探すことだ、相手の船ははじめ水平線上に点のように見えるが、挨拶を交わすために帆を満杯にしてすぐ近くに現れる。これらはすべて帆船でなければ味わえぬ心の高揚だ。

(2012.6.6)

 

「ヨーロッパ人の見た文久使節団」 早稲田大学出版部
P・スノードン/G・ツォーベル 著  鈴木健夫 訳

   ヨーロッパ人の見た文久使節団―イギリス・ドイツ・ロシア


総勢38人の使節団が1862(文久2)年にヨーロッパへ派遣された。彼らはヨーロッパ各地でどのように迎えられたのか。文久使節団の行程をたどり、その実態を明らかにする。

1 イギリス (イギリスにおける使節団「冷静で、礼儀正しく、威厳のある態度」)
2 ドイツ  (ドイツにおける使節団の行動)
  「ベルリンの日本人」 (歓迎され、風刺された使節団)
3 ロシア (ペテルブルクにおける使節団 真面目な守旧派と陽気な進歩派)


 ヨーロッパ社会の視察と、通商条約の条件であった開港の延期を交渉するために派遣された使節団。彼らが訪れたのはフランス、イギリス、オランダ、ドイツ(プロイセン)、ロシア、ポルトガル。このうち、イギリス、ドイツ、ロシアでの歓迎の様子が当時の新聞記事などを通して語られています。

 1862年4月にマルセイユに上陸してから10月にリスボンを離れるまでのたった半年のめまぐるしい旅程。こんなに短いのは、やっぱり外交活動の結果と現地情報をはやく持ちかえらなければならなかったからだろうか? 旅程も現地で大幅に変更されたらしく、後半に訪れた国ではずいぶん予定が延期されたらしい。
 まだ日本についての情報がないために誤解や想像で書かれた新聞記事もあったようですが、使節が到着して各地を歩き回るようになるとじっくり観察して、東洋の未知の国からの貴人たちがいきいきと描かれていました。
 それにしても、まさか日本を題材にした曲「Japanefen Galopp(日本人のギャロップ)」が作曲されたり、バターの広告にまで利用されるとは、当の使節たちも思わなかったでしょうが!

 特に面白かったのは、イギリス訪問時の記事。
 ちょうどヴィクトリア朝時代真っ只中。この年にウェストミンスター橋が開通。翌年には地下鉄が開通しているので、脇差のお侍たちも工事現場を見せてもらったはず。自国の最新テクノロジーをいかに見せつけるか、イギリス人は相当意識していたらしいです。これは、到着前の新聞ですが、

 「彼らをわれらのドックや巨大な倉庫に連れて行くがいい。われらの工業都市へ連れて行き、機械の挙げる成果を見せるがいい。彼らを船に乗せ、われらの海峡守備船団の間を漕いで通るといい。…(中略)…彼らは、われらの政治と社会の無数の馬鹿げた面を見るだろう。しかし、生産の力であれ軍事の力であれ、彼らはわれらの力を尊敬するだろう」
(1862.4.16 タイムズ紙)

 そして、到着後は、使節団が妙な格好であること、それでも「何事にも驚かず、威厳があり、謹厳である」と、好意的な雰囲気だったようです。

「年配の使節は左右に目もくれずに中央通路を歩いていったが、三人目の、そして一番若い使節は生来もっと感じやすいらしく、歩きながら左右に視線を投げ、顔にかすかな微笑を浮かべていた」
(1862.5.3 リヴァプール・クロニクル)

 旅の後半になると使節たちもヨーロッパに慣れてきたのか、ドイツやロシアではグループに分かれて視察。サーカスやオペラも楽しんだらしい。年配の使節は娯楽ものは好まなかったようですが。また、とある一人の使節は相当周囲を悩ませたらしいことが窺えます。

「彼は仲間からいつもはぐれ、思いがけないところからひょいと現れる。」
「彼は戸棚の中にいるところをホテルの従業員に発見され、ガラス工場では、炉に落ちて溶けてしまわないことを切望するとチャンス氏は彼に言わねばならなかった。」
「彼はまた行方不明になってしまったが、役人たちは彼を見つけ、列車が発車する寸前に客車に乗せた」

(デイリー・ポストのコラム)


 誰だ?(爆)

 ドイツでは、ハンザ都市代表とも会談。
 しかし、使節団はハンザ自由都市の政治・経済的な形態がなかなか理解できなかったらしい。日本に無いのだから当然かも。
 ハンザ都市は日本との正式通商を望んだけれども、日本側にはまだそこまでの余裕がなかったのか、渡された資料を「オランダ語に訳すことができなから」と返却しています。この頃は、ちょうどギルデマイスターが日本に滞在していた時期。彼の尽力が実を結ばなかったのには、こういう背景があったことを知って面白かったです。

(2012.6.29)


「オールコックの江戸
 ― 初代英国公使が見た幕末日本 ―
中公新書
佐野真由子 著

   オールコックの江戸―初代英国公使が見た幕末日本 (中公新書)


19世紀半ば、江戸‐ロンドン間の文書のやりとりに蒸気船で半年近くを要した時代、一人の外交官が担う責任は、今日とは比較にならないほど大きかった。そんな時代、日英関係の仕事は、初代駐日公使ラザフォード・オールコックの手に完全に託されていたといってよい。1859年から62年まで、日本の外交にとって決定的に重要だった3年間の彼の思考と行動をいきいきと描いた幕末物語。

第1章 広東から江戸へ
第2章 上陸
第3章 神奈川問題
第4章 江戸駐在代表の生活 
第5章 アメリカ公使との確執 
第6章 1861年夏 
第7章 ロンドンへ 
終 章 歴史への奉仕者 


 幕末期の江戸にイギリス初代領事として滞在したラザフォード・オールコックについての本。彼個人の視点や経験、考え方にふれながら幕末の風景を描いています。
 いや、面白い! わくわくしながら幕末日本の風景を眺められました。

 オールコックの経歴からしてユニーク。
 外科医師として人生のスタートを切ったものの、病気がもとでキャリアを断念。領事となって上海に15年滞在したのちの日本勤務です。上海とは言葉も習慣も違う、イギリスとの連絡手段も少ない未開の国・日本へやってきた彼の驚きから紹介されています。

 曇り空のもとでさえ、その入り口は美しかった。湾の中へ進むにつれて、島影が次々と目に映る。本当に、絵に描いたような形をしたたくさんの島。美しい湾だ。 
(「大君の都」より)

 1859年、長崎の風景です。美しい町並み、端午の節句を祝う人々の賑わい。この長崎の町を洋上から見た体験がのちに生きてくるのです。

 そして、江戸ではさらにたくさんの驚きや苦労が彼を待っていました。
 言葉もほぼ通じない日本人と条約を結ぼう、という難題。要領を得ない日本の役人との腹の探り合い、駆け引きの様は興味深かったです。

 一方の幕府はといえば、国内の反勢力を手中におさめきれず四苦八苦。
 オールコックから見ると、外交という意識もなく、開国・攘夷を国内政治のカードとしてしか捉えていない、と思えたようです。もっとも、現代の政治にうんざりしている身からすると「結構、やることやってるじゃない」という気もする(汗)。
 外圧をのらりくらりとかわしたり、そうかと思えば、意外且つすばやい決断を下す役人もいたようで。神奈川ではなく、横浜が開港された経緯を追った3章では思わず手に汗を握りました。

 それにしても、極東の島国での任務の孤独なこと。
 この本を読んではじめて知ったのですが。1859年当時、イギリスの領事と外交官は制度上まったく別組織に属しており、領事は海外の自国民の保護はするけれど、任地において国を代表する立場ではなかったそうです。
 つまり、領事は遠隔地で、帰国休暇もほとんどなく働き続け(オールコックの場合は17年)、実質的に外交を担いながら「国の代表」という肩書がない。この時代、本国とのやりとりに何か月もかかるというのに――領事は報われない、というか、非常にやりにくい立場だったようです。
 オールコックは普通の領事よりは大きな権限を例外的に与えらえていたそうですが。それでも、自分の判断が今後の日英関係を左右すること、現場の苦労を知らない本国との板挟みもストレス大きかったでしょうね。

 あなたは本国政府にあって、すべての文明的な恩恵から切り離された、完全な孤独の中の生活というのがどんなものか、何もご存知ないのです。


 こんな不満を本国宛の手紙でもらすほど骨身を削って働いていたオールコックですが、それでも何故かこの極東の地に悪い印象は持っていなかったらしい。
 彼の心をとらえたのは、美しい工芸品(オールコックは美術通)、浅草の賑わい、芝居小屋。質素な身なりなのに笑顔で働く百姓。清潔な町並み。富士登山。花の木一本を見ての「ああ、幸福な土地よ、楽しき国よ!」なんて、相当の賛辞です。
 また、日本国内を旅するうちに、江戸に座っていてはわからなかった幕府と朝廷の関係、諸大名と幕府の関係もおぼろに見えてきます。

 やがて、彼の日本との関わりがもっとも深く、充実する出来事がやってきます――1862年5月に行われたロンドン万国博覧会への日本の出展、文久使節団の派遣です。
 自分が働いてきた国の美しく珍しい工芸品、卓抜した技術を故郷や世界の人に見せたい。また、世界で優秀さを認められることが、国情不安定なままで未来に漕ぎ出しつつある国にとって、大きな誇りになるだろう、とオールコックは考えていたようです。

 他の本に出てきたオールコックは「尊大で、鼻もちならないイギリス人」という描かれ方が多い。
 自分のやり方を決して曲げない、弱みを見せないのはイギリス人らしさかもしれないし、立場がそうさせたのかもしれない。だけど、それはおそらく当時としては仕方ないこと。
 むしろ、東禅寺事件であやうく殺される目に遭いながら、日本と世界とのつながりを育てたい、という思いを持ち続けていた事にうたれました。

 この年、オールコックは52才。本国へあてて引退を願う手紙を書いていますが、それでも今回の文久使節団の受け入れに協力して日英関係のために働きたい、と言っています。
 本国のハモンド外務事務次官あての手紙の一文です。


 この国の政府は、海を行く一隻の船のように、浅瀬につっこみ、波の砕ける暗礁に乗り上げ、すべての櫓をいっぱいに動かして、少しでも穏やかな、安全な海域に出ようと努力しているのです。
 前方に待ち構える岩々にぶつかって砕け散るかもしれないという危険の中で、彼らは積み荷の一部を投げ捨てて船体を軽くし、船を海になじませようとしています。…(中略)…たしかに、彼らはありうる最悪のコースを進んでいるかもしれません。しかし、船が立ち直り、困難を脱すれば、せめて一部は救われるでしょう。…(中略)…
 私が申し上げたいのは、船の舵をとり方向を定める者を、無駄な抗議や怒りにまかせた非難で混乱させないでいただきたいということです。

 オールコックが滞在中に書き溜め、帰国後にまとめて出版したという「大君の都」も読んでみたくなりました。古い出版なので字が小さいけど(爆)

(2012.10.23)


「大君の都 上」 岩波文庫
オールコック 著  山口光朔 訳

   大君の都 上―幕末日本滞在記 (岩波文庫 青 424-1)


原題「The Capital of The Tycoon」。イギリス初代駐日公使オールコックの滞日三年の記録。多難な幕末期の政治・外交をこれほど鋭く詳細に、かつ網羅的に記した書は他にない。日本の歴史に精通していた著者は,日本人の生活・社会・文化を驚くべき視野の広さで観察批判している。単なる研究資料でなく文明批評の書として読めば今日でも多くの示唆に富む。

 上中下巻、と長いので、ひとまず1冊読了。
 覚悟はしていましたが、かなり読みづらいです。岩波文庫、字が小さいし。オールコックさん、話くどいし。翻訳も、おそらく史料ということで意訳は避けているし。冒頭の上海勤務の話は拷問のようです!

 しかし、本題の日本編になると、おや……これが、なかなか面白いのです。

 庶民の生活には興味深々だったようですね。
 家具はマットレス(畳)だけというシンプルな日本の家に驚き、お駕籠の小ささに驚き、女性の鉄漿(おはぐろ)には慄いています。女性の着物姿や子守する父親、駕籠かつぎや商人たちのスケッチが収められています。
 また、貴族(大名)は行進中(大名行列)は沿道の平民の存在すら認めていないように見える、書かれています。貴族と庶民のへだたりは大きく、かえって大衆の間には自由があるのではないか、という観察が面白い。

 仕事の話としては。
 実権をあまり持たない王(天皇)と大君(将軍)という二重の政治体制、互いを牽制しあう大名たち、開国をめぐる急進派と保守派の対立といった事情も来日早々につかんでいるようです。そして、東洋の役人のやり方にはしょっちゅう腹を立てています。交渉には、いつ終わるともない形式ばった儀礼への「忍耐」、のらりくらりと先延ばししたあげくに見当違いの答えを送ってよこす役人への「忍耐」が必要らしい。

 異文化への抵抗はあるし、そこにやや見下すような感情も入っている感じもします。
が、当時の先進国・イギリス人からすれば無理もないこと。むしろ、それにしては日本が気に入ったのではないか、という印象を持ちました。

 来日まもない頃、東禅寺に滞在して一日中鐘と読経を聞いていると、ヨーロッパの曜日、時間感覚をなくしてしまう。太陽が輝き、木が生い茂る異教の地。世俗的なことや外部の世界からの邪魔は少なく、ひとり反省にふける日々である。

 ある意味では、ここでは毎日が日曜日なのだ。

 それは、ないんじゃ……。また、絵が好きだったそうで、函館の風景をこんな風に描写もしています。

 雲と日光は山の側面に、紫色やあずき色の衣を着せ、はだかのままの岬や遠くへだたった山脈をたえず変化するさまざまな色の外套で覆う。また、絵のように美しい帆をあげた船や小舟などはそれらの光景全体にふんだんに活気と動きを添えている。


 日本語にも手を焼いたようです。
 中国の文字(漢字)と独自のアルファベット二種(ひらがな、カタカナ)をまぜこぜに使っていて、しかも、草書、楷書など書体の違いがある。人称は複雑で、ものの数え方(何本、何羽、何匹など)は理解不能。習得は難しいと。
 役人との会話は英語-オランダ語-日本語と訳し、答えは同じようにオランダ語を介して通訳され、はたしてこちらの意図が伝わっているのかどうかさえわからない、という状況。ですが、それを面白がっているようでもあり、結構楽天的な人物だったのかもしれません。

 読みづらくはあるけれど、ゆっくり続きを読んでみようと思います。

(2012.11.30)


「大君の都 中」 岩波文庫
オールコック 著  山口光朔 訳

  大君の都 中―幕末日本滞在記 (岩波文庫 青 424-2)


 この巻では、大君(将軍)の謁見、富士登山の旅の様子、長崎から江戸への旅について、そして攘夷の空気の中、次第に在留外国人の身辺が危険になっていく様子が描かれています。上巻よりも「筆が乗った」らしい記述も増えて、面白くなりました(説明と反語の多さにはあいかわらず辟易しますが)。

 日本人のいいかげんな返答に、上巻では「忍耐が必要」とこらえていますが、この頃には「食い下がる」「言い返す」と動じない様子がうかがわれます(笑)。大坂では、日本刀を見られると聞いたのに、来てみればそんなものは無いと断られる。そこで、ぐいぐいと食い下がってます、オールコックさん。

「塀の中には何もないのかね」
「ございません」
「公使があの塔の上から景色を見たいと言われるのだが」
「それは危のうございます。階段がこわれております」
「君もあの塔は見た事がないんだろう。こちらで確かめてみる」
「鍵がございません。命令がなければだめです」
「誰の命令だ」
「大坂の奉行です」
「なぜ、江戸の奉行と言わないんだ。どちらでも同じだろう。それに、江戸と言った方が鍵がいっそう手に入りにくくていいじゃないか」



 ブラヴォー!
 富士登山の旅の途中で愛犬を亡くしたときは弔ってくれた日本人に感謝したり、あるいは長旅の末に富士山を見て、思わず帽子をとって礼をしてしまう。それをみた随行の者が喜ぶのをみて満足していたり。意外と在地になじんでいます。
 上巻を読んだ時にも感じましたが、異文化への態度がフラットな人だなあ、と感嘆しました。
 もちろん、東洋人の「手に負えなさ」への上から目線、のようなものはあるのですが、それでも『自分が彼らだったなら』『彼らも我々と同じ立場だったなら』という考え方ができる人だったみたいですね。これは、現代でも、持つのが難しい意識だと思うのです。まして、当時、世界の大英帝国大使ならもっと傲慢な考えをするのが普通だったのでは。

 そして、日本滞在が長くなるにつれて、いろいろな事情がオールコックに見えてきます。
 冬の畑に人がいないのは、果たして農民に暇があるということなのか。いったい、どのくらいの税が課されているのか。一見何ごともない地面の下で、ある日地震が起きるように、外国人の観察者は大きな革命や動乱の前夜でもその兆候を見落とすかもしれない。外国人自身の行動が、攘夷派の侍を刺激することもある。幕府が朝廷と諸外国との板挟みになっていることにも気づきます。
 そして、幕府が洋式の艦船を欲しがったことで、平和的な日英関係にひびが入るのでは、と不穏な予想も抱いています。下巻では、ますます攘夷の風潮が広まっているらしい。続けて読みます。

 ちょこっと面白かったところ。
 オールコックは植物好きなのか、産業として観察しているのか、樹木や草花にも注意を払っています。自分が摘んだ花が枯れたことを「外国人に摘まれるのを嫌がったのかも」と考えたり、砂地に育つ松の木の成長ぶりを観察して人間関係に譬えたりしています。面白い人だ。

 そして、九州の先進的な大名(話の流れからすれば、鍋島氏。でなければ、島津氏だと思う)についてふれたところ。
 オランダ製の石炭の蒸気採掘機を取り寄せたものの、現場に運んでから使うのをやめた。その理由が「機械をつかえば、労働者が飯を食えなくなる」だったというのです。
 「もったいない!」とオールコックはたいそう残念がっていますが、筋が通ったお殿様ですね。領民のことをよく考えていたんだな。

(2013.1.16)


「大君の都 下」 岩波文庫
オールコック 著  山口光朔 訳

  大君の都 下―幕末日本滞在記 (岩波文庫 青 424-3)


 いきなり懺悔です。最終巻らしく、国際情勢や日本との経済関係について総括されています。が、おそろしく読みにくくて挫折しました。ローマ帝国やらピレネー山脈のアンドラ共和国をひきあいに出して歴史と外交についての説が書かれ、オールコックさんからすれば「ここをこそ読むべきではなかろうか」というところでしょうが。すみません、私には無理でした。

 ざくっと眺めての感想しか書けないのですが。
 日本が否が応でも開国に向けて坂を転がり落ちはじめた感がある一方、諸外国との関係が決して友好ムードではないこと。そして、その状況下での日英関係の可能性、危険性をオールコックは語っています。その中でときどき目についたのが、ロシアの極東への影響を懸念する言葉でした。

 もはやロシアは、通商の大道から離れてオホーツクとカムチャツカで、一年の大半を凍った港のなかに閉じ込められていることはない。いまやロシアは西洋においてあれほど長くむなしく求めてきた大目的をほとんど達成したのである。…
(中略)…東朝鮮湾を手に入れれば朝鮮の北端に達することになり、そうすれば海峡をひとまたぎすると日本があり、シナ海と太平洋がすぐ前に横たわっている。これは大躍進である。


 私の少ない知識では、「日本と大陸」といえば、つい日中韓関係を考えてしまうのですが。しかし、ロシアの影響がこの頃からかなりあったこと、しかもそれは日露の直接の関係だけでなく、ヨーロッパ諸国とロシアのそれが回りまわって日本にも及んだものだったのだな、とやっと気づきました。それはそうだよ! グレートゲーム真っ只中なんだから! チベットの歴史本を読む時には思い出すのに、どうして日本史を読む時にこの言葉を忘れてしまうのだろうか。
 オールコックは1870年頃に引退・帰国しているのですが、アジアでイギリスの権益をいかに守るかは相変わらず関心の対象であったらしい。あとがきによれば、北ボルネオ会社という、かつての東インド会社のような組織の設立にも関わっていたそうです。

 もうひとつ面白かったのは、称号について。
 使節団をヨーロッパへ送り出すにあたって、日本での階級・役職をヨーロッパのそれと対応させるのに苦労したようです。日本では使節はただ「使節」であり、特命公使とか全権公使という言葉はない、と書かれています。別に、位が無いわけではなく、「特命」「全権」あたりが理解されなかったのでしょうね。
 他にも、国旗に対する敬礼の仕方や外交官にたいするお作法も学ばなければいけなかったらしい。オールコックを手こずらせた『今後の恩恵に対する日本政府の感謝のしるし』とは………わいろ、ですかね?

 ところで、「大君(Tycoon)」という徳川将軍の公称が海外で知られるようになったのには、この本がひと役かっています。日本ではそもそも使われていなかったのに、まずは外国人にわかるように対外的に使いはじめ、のちには日本国内でも使われるようになったらしい。
 面白いことに、幕府瓦解ののちは天皇がこの「大君」を名乗るようになり、万葉の時代の「おおきみ」という言葉も相俟って天皇をさす言葉として広まった。そして、そもそもは江戸の将軍を指す言葉であったことは忘れられてしまった、というわけです。

 オールコックははたして日本が気に入ったのか、そうでないのか。
 中国もあわせれば30年近くを異国で過ごして、故郷とまではいかないまでも、それなり思い入れはあったのではないかと思います。こんな、故郷を語った言葉を思い出しているくらいですから。

「美しい国ですよ――離れて住めばね」 
(アイルランドの詩人ムア)

(2013.2.2)


「増補 ・米中関係のイメージ 」 平凡社ライブラリー
入江昭 著

   米中関係のイメージ (平凡社ライブラリー)


ニクソン米大統領訪中から30年。太平洋をはさんで朝鮮半島とインドシナ半島で対峙し、歴史的和解にいたったドラマに、米中両国民の相互イメージはいかなる役割を果たしたのか。グローバル時代を主導する二つの大国、米中関係の過去と未来を描く。サイマル出版会71年刊「米中関係」の改題増補。

米中関係の内側にあるもの ― 改装版まえがき
第一部 米中関係の歴史的形成
  19世紀のアメリカと中国
  帝国主義国家としてのアメリカ
  中国のナショナリズムとアメリカ

第二部 米中反日体制の変転
  道徳外交の挫折
  アメリカ対中援助の始まり
  太平洋戦争
  マーシャル使節の意義
  中国共産党の勝利とアメリカ

第三部 敵対期のアメリカと中国
  朝鮮動乱
  米中関係の凍結
  中ソ論争とアメリカ
  アジアにおける米中の対決

第四部 グローバル化時代の米中関係
  敵対から和解へ
  文明の多様性


 1971年刊行「米中関係」、1978年刊行「米中関係史」をもとに加筆、出版されたものです。「歴史を学ぶということ」が面白かったので借りてみました。

 政治家の駆け引きや事件だけで歴史が動くわけではない。時にイメージが国の関係をつくることもある、という視点からみたアメリカと中国の関係史。日本のあずかり知らぬ事情から見るアジアの歴史も新鮮でした。ついでに、歴史の話なのに年号はほぼ皆無。いろんな年号を自分で補ったり、他の本と突き合わせて読むのも面かったです。

 アメリカが中国に対して持っていたイメージには、かなり興味をひかれましたよ。
「しいたげられた中国人民」「自主自立を求める人々」への共感はアメリカ建国の歴史を思えば深いものだろうし、実際に中国を訪れた人が現実を見て落胆したのは当然の成り行きだったかもしれない。
 国民党政府の腐敗、一方で成立間もない中国共産党の規律と伸長ぶりを見れば、こちらを支持して中国に統一政府が誕生することを望む声が出てくるのも当然。そして、のちに訪中したジャーナリストが中国共産党のプロパガンダそのままの記事や書籍を発表したのは、そんな雰囲気に影響を受けた面もあるのかもしれない。
 また、アメリカの中国に対する感情は、日本に対するそれと裏返しになっていたことが多い(戦中の親華反日、冷戦時代の反中感情)ような気もしました。

 また、国の「セルフイメージ」の持ち方で歴史はずいぶん違って見えますね。
 アメリカのそれは、ヨーロッパとは違う「若きアメリカ」、「新しい中国をつくるアメリカ」などなど。「道徳的指導者」というセルフイメージは今も健在のよう。イメージです、イメージ。
 一方、中国のそれは内戦期を経てようやく成立したのでは、という気がしました。
 大清帝国がどっぷりとまどろむうちに、西洋列強によって植民地化。「国家」としての自主自立が求められる中、知識人層がマルキシズムに傾倒し、また頼みにしていたアメリカの援助が中途半端であったことからも親ソ連に傾いていく。
その後、中国共産党が政権を握って打ち出した「世界の人民の支援を受けた中国」「ラテンアメリカ、アフリカにおける西欧革命分子の指導者」あたりが近代中国の最初のセルフイメージなのかもしれない。
 このあたり、「反帝国主義を掲げたわりには、やってることは同じじゃないの」と心中つっこみを入れてしまいましたけど。

 それにしても、アメリカってこんなにもアジアに関わってきた国だったんですね。
 しかも、第二次大戦中にしろ冷戦時代にしろ、常にヨーロッパ情勢が第一であって、アジアの国々は副次的なパーツとしか見てなかったよう。それが今のアジアの不安要素を温存してきたように見えて、皮肉だな、と思います。台湾やベトナム、南北朝鮮(その他にも)にとってはいい迷惑な話ですよね。

 思想などという抽象的なものの、抽象的な対立のもとに代理戦争が戦われたり、国がひとつ成立してしまう、なんてことはどう考えたらいいのだろうか。難しかったけれど、いろいろ考えさせられる本でした。もっと早く読みたかったな。

 歴史は、自国を抜きにした視点からも見た方がいい、と思う今日この頃です。
(2012.9.8)


3へ 読書記録 → 5へ
inserted by FC2 system