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現代小説 5

 

「とかげ」 新潮文庫
吉本ばなな 著

   とかげ (新潮文庫)


「どうして帰りたくないんだろうねえ」――降りそこねた電車の中で出会ったホームレスの老人の言葉が「私」の心に飛び込んできた。日常生活からこぼれ落ちてしまったような不思議なひとときを描いた「新婚さん」、記憶から消えないつらい体験を共有し、再生しようとする恋人たちの話「とかげ」など、6編のショートストーリー。

 夜の静かな空気を感じる話ばかり集められた本でした。
 耳を澄ませていたり、何かの気配を掴もうと暗闇に向かってじっと目をこらしている、そんな感じの緊張が心地よかったです。短編でよかった。長い話では、疲れてついていけなくなったかもしれません。

 好きだったのは、(著者の本には珍しく)不倫の末に新しい生活をはじめた二人を書いた「キムチの夢」。同じ匂いによって気持ちや記憶を共有するって、ありふれてはいるけれど、心動かされるエピソードでした。キムチだけど。

 もうひとつは、見る人の心をとらえて癒したり、落ち着かせることのできる不思議なオブジェをつくる恋人と「私」の絆を書いた「血と水」。
「私」が父親からの手紙を読む最後の場面の会話がなんとなくいいのです。

 「いい手紙じゃないの」
 「読んだの?」
 「違う。読んでる君の顔を見てた」


 こんな言葉を口にする人がどんなオブジェをつくるのか、想像するとじんわり温かい気分でした。
(2010.6.5)

 

「デッドエンドの思い出」 文春文庫
よしもとばなな 著

   デッドエンドの思い出 (文春文庫)


老夫婦の幽霊と暮らす男友達との恋愛。幼馴染みと遊んだ日々――。日常から見えるさまざまな「幸せ」のかたちを描く短篇集。

幽霊の家
「おかあさーん!」
あったかくなんかない
ともちゃんの幸せ
デッドエンドの思い出



 どの作品にもさりげない生活や出来事が書かれていて、それぞれ「幸せってどういうこと?」と問いかけてくる。
 この本に収められているのは5編だけですが、この著者の本はどれをとってもこのテーマが貫かれているなあ、と気づかされました。

 書名になっている「デッドエンドの思い出」もよかったのですが、どうも「ハゴロモ」と似ている気がして。私は「ハゴロモ」の方が好きなのです。
 だから、一番気に入ったのは「おかあさーん!」。

 勤め先の元社員の犯罪に巻き込まれて、主人公の日常生活がこれまでとは少しずれたところに置きなおされてしまった。何をしても、何を見ても、何かがおかしい。こんな違和感が生々しくて面白い。
 こんな状況で、もう一度生活を立て直す原点となったのが、家族とのさりげない思い出だった、というところがよかったです。
 おそらく、事件がなければ思い出すこともなかった場面が、「ものを食べる」という生き物の根源的な行為が、主人公の助けになっている――それがとても健康的に感じられて、ほっとしました。
(2010.5.14)

 

「Tales of Tibet
- Sky Burials,Prayer Wheels and Wind Horses -
Rowman & Littlefield Pub Inc
Herbert J.Batt 著

   Tales of Tibet: Sky Burials, Prayer Wheels, and Wind Horses (Asian Voices)


チベット文学短篇集。

1 Vagrant Spirit
2 A Fiction
3 A Ballad of the Himalayas
4 Encounter
5 Tibet: A Soul Knotted on a Leather Thong
6 The Glory of a Wind Horse
7 For Whom the Bell Tolls
8 An Old Nun Tells Her Story
9 A God without Gender
10 Wind over the Grassland
11 The Circular Day
12 In Search of Musk
13 A Blind Woman Selling Red Apples
14 Stick Out the Fur on Your Tongue or It's All a Void
The Weevils
The Final Aspersion


 日記には書きましたが、内容を勘違いして買っちゃいました。現代文学らしい。本当はチベットの民話を読みたかったのだけど。でも、気をとりなおしてぼちぼち読むことにします。
 洋書は時間がかかるので、一章ずつ追記していく予定。
 読み始めていきなり困ってしまったのが、中国王朝や人名。
 当然ながら、英語では中国語の音を表記しているので漢字がわからない。ゆえに、歴史上のいったい誰なのかわからない。物語であるから、架空の王朝の可能性も捨てきれず、うーん困った。
「年代からいえば清のはずだけど、それならQing ではなくてChinだよね。Qian Long ってどこの誰?」
 無理矢理に読み進めていたら、ヒントが出てきました。グルカ兵のチベット侵入、その後で書かれた「29か条の布告」原案……これでわかった、乾隆帝だ。表記を検索したら、ヒットしたのでこれは当たり。Qingというのは、英語ではなくて「清」の中国語のピンイン表記なのだそうです。

1 Vagrant Spirit (宿無し者の心) written by
Ma Yuan
「私」はラサのバルコルで一人の浮浪者と知り合った。ゆがんだ体で斜視、でもどこか憎めない男・チミは、実は自分は貴族の身分なのだと打ち明けた。ラサのとある商人の家はもとは自分が祖先から受け継いだものであり、その家を売って、謎めいた謂れをもつ銀貨を手に入れたのだという。

 まずは短編をひとつ。難しい英語ではないのですが、ちゃんと読めてない気がする。話が途中から矛盾している?

 チミの祖先の遺言は「ある銀貨を持って来た人以外には家を売り渡してはいけない」という。
 その銀貨とは、表に「乾隆帝治世第61年」と刻まれた非常に珍しいもの。乾隆帝は1736〜95年の60年間中国を治めたのだけど、その死の知らせが届く前に61年目と記した銀貨が鋳造されてしまった。その多くは回収されて融かされたが、一部が流通し、いまやコレクターの垂涎の的となっているという。
 「私」の友人、通称・ブルという男もその一人。何とかしてその銀貨を見つけたい、さらにその鋳型を持ってきた者には100枚の銀貨を払いたい、という。
 「私」とチミはその鋳型を手に入れようとする。というのも、「私」には思い当たる場所があったからだ。もとはチミのものだったという家には、いまや商人とその美しい妻が住んでいて、いつも留守がち。そして、その古い家の一階には念入りに封印された小さな扉があるのだ――。

 そして、チミと私は共謀して問題の鋳型を見つけるのですが。
 よくわからないのが、問題の家がチミの祖先のものだったのか、それとも商人のものだったのか(その商人はこの家で生まれた、という説明箇所があるのです)。
 そして、ラサ川で3人が出会ったのは、約束してたからだよね? そんなに驚かなくてもいいのでは??
 ううむ。言い伝えの肝心の部分がわからないという情けない事態です。

 そして最後にはブルの真意に気づいたチミによって、鋳型は奪い返されて……と、結末は一応伏せておきます。
 最後の最後まで、チミがブルの目的に気づいてなかった、というのが何とものんきですよ。だって、銀貨の鋳型が欲しい、といえば、偽造するのに決まってるじゃないですか。
 とはいえ、チミが無邪気にも鋳型のすべてを持ってこなかったことで、すでに邪な計画は水の泡だったのですが。

 その後、チミと「私」はすっかり疎遠になった。言葉を交わすこともなく、そしてチミは相変わらずラサのバルコルでマニ車を回し続けているのでした。The End.

 蛇足ながら、史実と違うことがぽろぽろありました。
 お話の中では乾隆帝は「第四代皇帝」「1795年に死去」と書かれてますが、実際は第六代で、1795年に引退した後も陰から宮廷を牛耳っていたそうです。フィクションだからいいのですが、せっかく話のミソが幻の銀貨なのでこだわって欲しかったりして。まあ、ちゃんと読めてないので文句を言う筋合いでもないですが。
(2010.8.11〜)

 

「Tales of Tibet
- Sky Burials,Prayer Wheels and Wind Horses -
Rowman & Littlefield Pub Inc
Herbert J.Batt 著

2 A Fiction (ある物語) written by Ma Yuan
中国人の作家である「私」は、チベットのとある小さな村・マチュを訪れた。ここはハンセン病患者の住む村だが医師もいなくて、世界から忘れられたような場所だった。村でたった一人、中国語の話せる女の家に「私」は居候することになった。

 ぽつ、ぽつ、と辞書を引きながら読むのがいいペースでした。
 四方何十キロに人ひとり住まない寒村の、時が止まったような風景。元・人民解放軍兵士らしい謎めいた男が登場したり、泊めてもらっている家の女となかなか通じない言葉を交わしたりして話が進んでいきます。

 印象的だったのは、聖なる木の下に村人が集まる風景を、遠くから醒めた目線で描写したところ。「私」がこの村ではどこまでも異邦人なのだと感じられました。
 やがて、「私」がこの村を去り、お話は何とも不思議な結末を迎えました。マチュ村とはいったい何だったのか?

 この著者は幻のような出来事を淡々と描写するのが得意みたいですね(次のお話もそのような雰囲気)
(2011.6.11)


「Tales of Tibet
- Sky Burials,Prayer Wheels and Wind Horses -
Rowman & Littlefield Pub Inc
Herbert J.Batt 著

3 A Ballad of the Himalayas (ヒマラヤのあるバラッド) written by Ma Yuan
チベットの Lingda という村を目指して、ヤルツァンポ川にそって旅をしていた「私」とガイドのノルブは、Lopaの男を見かけた。独特の毛皮の服を着て、みごとな刀を腰に差していた。その姿にノルブは幼い頃の自分と父の記憶を語りはじめた。そして、小さな村で出会った老夫婦の姿に、「私」はあることに気がついた。ノルブの思い出とは、実は――。

 Lopaっていうのはローバ族のことでいいのかな。でも、毛皮の衣装着て、腰に大きい刀を2本差してる、っていうのは、カムパの精悍なイケメンなイメージなんだけど。こんなかんじの

 それはともかく(笑)
 前2作と同じ著者。ノルブの思い出と目の前の現実が交錯する、不思議な雰囲気のお話でした。情景描写が美しいです。
 なだらかに続くエメラルドグリーンの麦畑、樹下の雪豹、雪の上の血、薄暗い小屋の中の目にも鮮やかな唐辛子、炉から立ち上るうす煙――こんな描写と、現実と記憶が入り混じる構成に夢見心地。また、ノルブの思い出話が、目の前に立ち現れる現実に裏切られていくような展開には、不安と緊張を誘われます。

 一方で、唐突とも思える場面展開についていけないことも。あと、ノルブがもしも嘘をついているなら、とある男の正体もまた謎に戻ってしまうと思うのですが(すみません、ネタバレしちゃうので曖昧にしておきます)

 見ているのは誰か? 見られているのは誰か?
 死んだのは? 生きているのは?
 復讐と懲罰。だが、それを受けるのは彼我のどちらなのか?

 こういう象徴的なお話として読むべきなのかもしれません。
 確かに、それらしいモチーフの繰り返しもあったのだけど……いかんせん、英語でそこまでは読みきれませんでした。惜しいな。
(2011.7.15)


「少年キム」 晶文社
ラドヤード・キプリング 著  斎藤兆史 訳

   少年キム (ちくま文庫)


原題「Kim」。1901年発表。19世紀後半のインド、ラホールの町かどでたくましく生きていた孤児キムは聖地を求める老ラマ僧と出会い、彼の弟子として旅をすることになった。また、多種多様な人々の生活を熟知していることを英国人に見込まれて、スパイとなるべく教育される。当時、インド洋をめざして南下するロシアとインドを植民地支配する大英帝国は中央アジアの覇権をめぐって対立、激しい謀報活動が展開されていた。キムは尊敬する高僧と求道の旅を続ける一方で、スパイとして活躍しはじめる。

 読んだのは晶文社のハードカバーですが、入手できるちくま文庫の方にリンクしておきます。
 冒険物語ですねえ! 面白かった! 100年も前に書かれた本と思うとそれだけでもわくわくします。ちょっと会話がくどいので、好みが分かれるかもしれませんが。

 地元の方言、旅商人の言葉やくせ、あらゆるカーストの事情に精通しているキム少年が、ラホールで世慣れぬ風の老ラマ僧と出会ったのが物語のはじまり。「矢の聖河」を探し求める老僧の頼りなさ(笑)をキムは放っておけなくて一緒に旅をはじめ、ヒンドゥー教徒の女領主、英国人の大佐、イスラム教徒の馬商人(実は英国側のスパイ)のマハブブ・アリと出会う。

 ラホールの喧騒、ベナレスへ向かう列車の混雑、怪しげな裏稼業の男たちがたむろする宿屋――混沌とした、でも活気あふれる町。そこで知恵を働かせうまく立ち回る、キムの活躍を追うのが楽しいです。
 そして、ラマ僧と旅に出てから描かれるインドの雄大な風景が迫力でした。乱れ咲く花、果物、草原の向こうに沈む夕日、どこまでも続く道。インドに生まれ育った著者だからこそこんなに生き生きと描けるのだろうと思われました。
 また、出会う人たちの姿がよかった。巡礼者、求道の聖者を大事にするインドの人々によって、キムたちの旅も支えられています。

「あれほどの人たちが輪廻から自由になれないのは可哀想なことだ」
「だけど、悪人だけがこの世に残っちまったら、食べ物や宿を与えてくれる人もいなくなっちゃうじゃないか」
 荷物を背負ったキムの足取りは軽やかだった。



 旅の途中で、キムの父親が所属していた英国のマヴェリック連隊と行き会う。
 ラマ僧は、連隊と相談してキムに聖ザビエル校で教育を受けさせることにする。「学校なんて」と反抗するキムも敬愛する僧の言葉には逆らえず、いっときラマ僧と別れてサーブ(インド人が白人を呼ぶ時の尊称)としての生活を覚える。
 さらに浮浪児であった時の経験や幅広い知識をクライトン大佐に見込まれて、スパイとしての教育を受ける。
 やがて、学校生活に区切りをつけたキムは、スパイとしての任も帯びつつ、聖河をもとめるラマ僧とともにヒマラヤへ向かう。

 学校をさんざん嫌っていたキムも、字を覚え、算数を学び成長していきます。
 英国人だから学校へ、という考え方にはなんとなく植民地支配者の傲慢な理屈を感じないでもありませんが。でも、それによってキムはどんな変化を遂げたのか?

彼は少しばかりの情報をもらして第三者の世話にならずとも、人間は一対一で意志の疎通を図れるのだということを知った。

 キムはこれを「何物にも代えがたい魔法」と考えます。

 さらにゲームのような勉強によって、キムはスパイとしての能力を磨いていく。
「関わっている者には保護など与えられない。死んだら、死にっぱなし。名前は名簿から抹殺される」というグレートゲームに関わっていく後半の怒涛の展開に引き込まれて、どんどん読み進んでしまいました。

 スパイとしての冒険、その役割をしっかり果たしていくのと同時に、キムとラマ僧との対話が深く思索的で印象深かったです。
 キムはグレートゲームに参加しつつも、それより大事なものと出会ったのだ、ということにほっとします。それでなかったら、地元の子供が英国人に利用されるばかり、とも受け取れる話ですから。
 なにより、キムがラマ僧に抱く愛情があたたかくて微笑ましいです。

「連れまわしすぎたし、おいしいものを持ってきてあげられないこともあったし……おれは……おれは……ああ! でも、お師匠さんが好きなんだ」

 冒険小説であると同時に、キムが大切に思う師と出会い、自分の生き方を決めていく成長の物語でもありました。

 ついでに。
 ものすごい量の会話で進んでいく小説なのですが、読みながらなぜか「赤毛のアン」を思い出しました。あれも、よく喋るでしょう(笑)。
 あれっと思ったら、ルーシー・M・モンゴメリが「赤毛のアン」を発表したのは1908年。「少年キム」は1901年発表。キプリングがノーベル文学賞を得たのは1907年。まったく同時代の人なんですね。そして実際、モンゴメリはキプリングの愛読者であったらしい。
(2010.5.28)

 

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