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現代小説 7

 

「虹」 幻冬舎
吉本ばなな 著

   虹―世界の旅〈4〉 (幻冬舎文庫)


レストラン「虹」で、素朴で丈夫な心で瑛子はフロア係に専心していた。だが、母の急死で彼女の心は不調をきたし、思わぬ不幸を招く。踏みつけにされる動植物への愛、身に迫る禁断の想い…。瑛子は複雑な気持を抱え、念願のタヒチに旅立つ。

 タヒチの風景がとても美しいおはなしでした。海辺で動物や水と戯れる日々の中で、置いてきた東京の暮らしを主人公が思い出す、という構成になってます。

生きていくためには、淡々と仕事して、地面をじっと見つめて……と彼女は考えていて、それはそれでいいのですが。どこか違う思いがタヒチの風景の中で芽生えてくるのが面白いです。

 ただかたくなに目を閉じてその考えに食らいついているので精一杯だった。そうやっているうちに、あたりまえの、ただそこにある柔らかいもの、私自身の大らかさや柔軟な心からも、必死であるあまりにいつのまにか切り離されていた。

 ほんとうの望み、本心は、当人でさえ時に見誤るものなのかも――そんなことを考えてしまいました。

 ただ、この本、ちょっと私の好みではなかったです。たぶん、私自身が海で泳ぐのが好きでないから(というか泳げないし)。そして、後半のちょっと意外な展開も、考えてみれば回想なんです。知らない事があるままで一冊読まされたみたいで、なんかずるいなあ、と思ってしまったところは「ダ・ヴィンチ・コード」と同じ。
(2011.12.10)

 

「High and Dry(はつ恋)」 文春文庫
よしもとばなな 著

   High and dry(はつ恋) (文春文庫)


14歳の秋。生まれて初めての恋。相手は20代後半の絵の先生。ちょっとずつ、ちょっとずつ心の距離を縮めながら仲良くなっていくふたりに、やがて訪れる小さな奇蹟とは…。毎日を生きる私たちに、ひととき魔法をかけてくれる、美しい魂の物語。

 主人公の夕子、14歳にしては大人びてるなあ、というのが一番の感想。
 単身赴任(?)でまったく登場しない父親。「母らしさ」をときどきあっさり放棄してしまう母親。そんな家庭で当然大人びて育ってしまった夕子の「子供をやってるのもたいへんなんだ」という葛藤が可愛らしいです。思えば、いまどきこんな関係の母娘ってよく居ます。

 その夕子が、ひとまわりも年上の絵画教室の先生に恋して物語が始まります。
 だけど、キュウくん先生と話す夕子があまりに落ち着いているし、彼の作品を見る目が肥え過ぎている気がして。14の子の目とは思えないので、お話世界に入り込むことができませんでした。
 たぶん、著者の考え方や視点がそのまま表れるような作風の作家さんだから、そうなるのでしょう。それが魅力でもあり、入り込めなさにもつながるような気がします。

 ひとつ、とてもリアルな感じで好きだったのは、父親の留守中に切れた蛍光灯を見上げる母と夕子の姿。もしお父さんがいたら、あっというまに買ってきて、ささっとつけてしまうんだよね――そう思ったとたんに、母娘二人して寂しくなってしまったのでした。
 ああ、誰かの不在ってこういう感じだよね、と思いました。
(2012.1.29)


「イルカ」 文藝春秋
よしもとばなな 著

   イルカ


インフルエンザで寝ついたことがきっかけで、キミコは家族や恋人、自分の人生を違う視点で見るようになった。住み込みの手伝い、そして友人の家の留守居を引き受けて新しい生活へすべり込んでいくキミコの体には新しい命が宿っていた。

 病み上がりの時って、たしかに思考がリセットされますよね。あらためて周囲を見てみると、何てたくさんのものが自分を待っていてくれるのかと気づくことがある。
 たとえば、たくさんの人の声。静かな夜。おぞましい物ども。体にしみるご飯の味――。それらを静かに見つめる視線を感じる本です。

 淋しさはウイルスのように全身にしみこんでいって、体から抜けていくのに時間がかかる。毎回もうだめだと思うけれど、毎回けろりとして立ちなおる。私が私であるということは、なんとすごいことだろうと思う。治癒と時間の関係については、いくら考えても奇跡だと思わざるをえない。それ以上の善なる力はこの世にないとさえ思う。

 よいものと悪いものは、代わる代わる海の波のように繰り返し寄せてくる。だから、一波かぶっても、次を待つことができるのだろうと思いました。
(2011.4.20)

 

「ひな菊の人生」 幻冬舎文庫
吉本ばなな 著

   ひな菊の人生 (幻冬舎文庫)


生まれついて父はいない。そして母も事故で亡くしたひな菊を支えたのは、親友のダリアだった。ダリアと過ごした日々の思い出はひな菊の人生の奥底に根を下ろし、大人になった今も彼女に寄り添っている。奈良美智とのコラボレーションで生まれた物語。

 なんだか子供の頃のことを思い出す、不思議がいっぱいつまった本でした。

 話すように笛を吹いて友達を呼ぶ、子供のひな菊の心細さ。そして、できるだけ身ひとつで暮らしていこうとする大人のひな菊の潔さ――。正反対に見える心情が不思議な温かさで書かれていました。
 思えば、ひな菊がとつとつと語る友達のダリアが、一度も生身では登場しないのも不思議。これほど深くひな菊の心の底に生きているというのに。

 植木とラジカセだけを持って、がらんとした新居に立つひな菊の姿には静かな晴れやかさがあって、とってもきれいでした。
 何にもないところから、新しい音楽が始まるように新しい生活がはじまる。やがてここにも、どんどこ運び込まれる冷蔵庫や、不意打ちに届けられる写真の束のように新しいしがらみが降り積もるのだろうな。嬉しいことも胸の痛むようなこともある。それを「さあ、どうしよう?」という顔で見つめているひな菊の姿が目に浮かびました。潔いとはこういうことなのかもしれない。

 奈良美智さんのイラストもすてきでした。一番気に入ったのは、ひな菊が月明かりを浴びながら、空に近いベッドでねむっているイラスト。

 そして、気に入った言葉は――。

 別れの時が来ると、いいことばっかりだったような気が、いつもする。思い出はいつも独特の暖かい光に包まれている。私があの世まで持っていけるのは、この肉体でもまして貯金でもなく、そういう暖かい固まりだけだと思う。そういうのを何百も抱えて、私だけの世界が消えてしまうというのだといい。
(2011.8.20)

 

「王国  その1 アンドロメダ・ハイツ」 新潮社
よしもとばなな 著

    王国〈その1〉アンドロメダ・ハイツ (新潮文庫)


山で薬草茶づくりを教わって育った雫石は「いつでも人を助けなさい」という祖母の助言を胸に町に下り、不思議な力を持つ占い師・楓のもとでアシスタントとして働くようになった。

 人を癒す、特別のお茶をつくる祖母。持ち物に触れることで、その人の求めるものを理解して助言する楓。楓をサポートする片岡。雫石を受け入れる、町の居酒屋や不動産屋の人たち――。
 いろんな人に守られている雫石の無色透明さが穏やかな気分を誘う、不思議な読み心地の本でした。

 設定は突飛だし(笑)、書かれる出来事も不思議なことばかり。ただ、「嘘くさい」と思わないのはなぜだろうな。「ああ、こういう人たちもいる」、「こんなことも、きっと世の中にはあるね」と感じさせる現実感が漂っていて面白かったです。雫石が何かにつけて「匂い」を鋭く捉えているせいかもしれません。

 おばあちゃんの自由な生き方、語る言葉が物語の真ん中にあって、ふわふわと捉えどころのない雫石をつなぎとめています。

 人のいるところには必ず最低のものと同時に最高のものもあるの。憎むことにエネルギーを無駄使いしてはいけない。最高のものを探し続けなさい。流れに身をまかせて、謙虚でいなさい。いつでも人々を助けなさい。憎しみは、雫石の細胞までも傷つけてしまう。


 さて、「王国シリーズ」だそうなのだけど、どうやって続くのかな。その2も借りてこようと思います。
(2011.6.1)

 

「王国  その2 
 痛み、失われたものの影、そして魔法」
新潮社
よしもとばなな 著

    王国〈その2〉痛み、失われたものの影、そして魔法 (新潮文庫)


イタリアへ行った楓の留守宅を預かって、雫石の一人の生活が始まった。山を下りてきた目には、都会の植物、人々の生き方は意外な驚きに満ちていた。

 シリーズ2冊目。お話が軌道に乗った、という雰囲気でした。
 といっても、話はゆっくり進むのではないです。びっくりするほど大きな車輪が音をたてて動き出したような力強さ。ゆたかな意味をもった言葉があふれた一冊でした。

 山奥で祖母と二人で生きてきた雫石の目にうつる都会の風景、生き物の姿がじっくり描かれてます。
 商店街の人々の暮らしぶりは「運や流れ、個人の力が有機的にくみあわさった生きたもの」。都会は人ばかり。風や空からの力がないから、何でも自分でけりをつけなければいけない。ずっと未来のことを心配しなければならなかったり、そのために望みを押さえつけたり、社会の型にのみこまれている人たちは「よどんで、臭くなってる」と雫石は思っている。

 でも、それをただ疎むわけではなく、そこにあるものとして受け止めている雫石の目の澄み方がすごい。

 でも、そのことに対してなぜか絶望や失望は感じなかった。あんな人たちがたくさんいるのに、どうしてこの世は終わらない? そのことにこそ、私は大感動してしまった。
 あんなよどみを、あんなくささを飲み込んでもびくともしないなんて、そしてあの人たちが夜に光るコケ類のようにちゃんとそれぞれの美しさを持って生きることを許されているなんて、世界とはなんと包容力があって、すごい浄化作用を持っているのだろう。



 こんな世界の中で、ていねいに生きようとする雫石の言葉は、もはや「おばあちゃんの暮らしの知恵」だなあ、と思うのでした。たとえば、がさつさが心を鈍らせるから、買ったものの箱はていねいに開けたり。人との心無いつながりをつくらないようにしようと決めたり。
 そして、イタリアに行ってしまったおばあちゃんの存在感や、サボテンのプロである真一郎君のスケールの大きさが感じられるエピソードもありました。

 まったく、隅から隅まで濃ゆい言葉でいっぱいの一冊でした。香りのエッセンスオイル、というより、その力強さにおいて、お腹にとどく濃縮はちみつエキス、といった感じです。訳わからんですね。
 しみじみと、この作家さんは「心のパン」を書く人だなあ、と思いました。次の巻が楽しみです。
(2011.9.1)

 

「王国  その3 
 ひみつの花園」
新潮社
よしもとばなな 著

   王国〈その3〉ひみつの花園 (新潮文庫)


新生活のための家探しに夢中になった真一郎と雫石。だが、真一郎の亡き友人の家を訪問したことから、二人の関係は思わぬ方向転換をする。そして、雫石のもとにイタリアの祖母からひびの入った翡翠の蛇が送られてきた。

 シリーズ3冊目。2巻から名前だけ出てきた、真一郎の親友が残した庭。その身震いしそうな美しさに支配されているような巻でした。すごい存在感。こういうものを見ちゃったら、人生変わるよなあ、と納得。
 その庭のあとの展開はネタばれになってしまうので、感想も書きにくいのですが……ただ、ほんとうを見抜く力とか生命力の強い人はこういう経験をせざるを得ないのだろうな。がんばれ、雫石。

 好きだった言葉は――。

 ひとりひとりの人間がその人本来の姿に戻ったら、こわいくらいの力を発揮する。誰によって、何のために檻に入れられているのかはわからないが、いつだって鍵は開いている。ドアもばーんとあいているからだ。出ないと決めているのは、他ならない自分自身なのだ。

「雫石ちゃんが元気になると、影響を受ける人が必ずいるんだ。それが人間っていうものなんだ」

(2011.10.1)

 

「王国  その4 
 アナザー・ワールド」
新潮社
よしもとばなな 著

   王国〈その4〉アナザー・ワールド


視力の弱い占い師のパパ、薬草茶作りの達人のママ、そしてパパを愛するパパ2…。3人の親の愛を一身に浴びて育った片岡ノニは、陽光降るミコノス島で運命の出会いをした。その相手は、“猫の王国の女王様”と死に別れた哀しみの家来・キノだった。

 シリーズ最終巻。ほんとうに「アナザー・ワールド」だ。読み始めてしばらくは別の本か、巻を飛ばしてしまったのかと思った。雫石の娘ノニの物語です。

 最初、あのきらきら輝くような3人のお話を読みたかったので、拍子抜けしたのは確か。でも、読み進んですぐに、その輝きを少し遠くから見ているだけなのだな、とわかりました。

 前の巻まで元気だった人たちが、今はもういないことはやはり寂しい。だけど、彼らの残したものはちゃんと輝いている――というのは、星空を眺める時とよく似ています。叶うことなら、このようにさいごの日を迎えたいものだと思うのですが。

 いつものように、いいな、と思った言葉を書いておきます。

 
植物だって、ただいい感じに癒したり、きれいに咲いたり、命を投げ出したりしてくれてるわけじゃないのよ。どろどろの土から養分を吸い上げて、隣の草を枯らし、ただはびこって、種をまき散らして、なにがなんでも生きてるのよ。動物の糞に混じってでも。そして醜い争いや命のぶつかりあいや、自分を害するものを棘で刺したり、毒を吐いたりしてるのよ。人間だって同じじゃない?……(中略)……自分は自分のよしとすることを、静かにもくもくとするしかないし、自分のよしとしないことが起きたら、静かに離れればいい。

(2012.1.12)


「ファイナルシーカー レスキューウィングス」 MF文庫
小川一水 著

   ファイナルシーカー レスキューウィングス (MF文庫ダ・ヴィンチ)


あらゆるレスキュー隊があきらめた時、“最後の切り札”として出動するレスキューの最高峰、航空自衛隊救難飛行隊。彼らは警察・消防・海上保安庁が救助不可能と判断した、最悪の条件下で出動する、日本最高の救助のエキスパートたちだ。子供の頃に海で助けられた経験から入隊した高巣英治と仲間たちを描く。

 最近の作品よりもぎゅっと詰まった感じがする文章。緊迫感のある内容と合っていて、いい読後感。
丁寧に取材されて書かれたことも伝わってきます。

 山岳事故や災害時の遭難者救助をおこなう航空自衛隊の救難飛行隊。一般に「前線」と思われている戦闘機パイロットたちよりも、実は出動回数が多い。
 厳しい訓練を受け、多額の国費をかけて育成された彼らは、時には遊び気分で冬山に登った者に「タクシーがわり」に呼び出されるという理不尽な目に合うこともある。それでも疑問やとまどいもなく、呼ばれれば人命救助のために飛び出していく姿には頭が下がります。英治にはちょっと特殊な「能力」があって、救助活動のとき発揮されます。これは無くてもよかったな。ライトノベルゆえの設定と思えば、それほど気になるものでもありませんが。

(2012.6.9)


「という、はなし」 筑摩書房
吉田篤弘 文 フジモトマサル 絵

   という、はなし


「読書の情景」をテーマに描かれたイラストとそれに添えられた一篇。イラストからおはなしへ、伝言ゲームのように書かれた24の掌編集。

 渋い色合いで描かれた本を読む動物たちの絵と、ちょっと理屈っぽいお話が絶妙の組み合わせ。気に入ったのは、

「待ち時間」
 携帯電話が増えて、いまやなくなってしまったもの。

「待つ」ことは、しばしば人を苛々させるところがあったから、名残惜しむ人の声がいまひとつ上がらず、いとも簡単に快適な生活の犠牲になってしまったのだろう。
「でも、なかなかいい奴だった」
「やきもきさせられたし」
「……でも、あれって本当に無駄なことだったのかなぁ」



「何ひとつ変わらない空」
 アンテナが話してくれた空の事情。

「いま思うと、まだほどよい時代だったんです。ああ、西の空にNHKの『みんなのうた』が飛んでゆくなぁ、とはっきり確認できたんですから。いまは何ひとつ判然としません。私たちアンテナには見るに堪えない混乱と猥雑さです」


(2012.8.18)


「にぎやかな部屋」 新潮文庫
星 新一 著

   にぎやかな部屋 (新潮文庫)


マンションの一室。住んでいるのは高利貸しの亭主と占い師の夫人、そして一人娘。そこに金目当ての妙な男たちがやって来て、大騒動が持ち上がる。さらに、死後に人間にとりついてその出来事を皮肉に見守る霊魂たちもからんで…。詐欺師、強盗、霊魂たち―人間界と別次元が交錯する、軽妙なコメディー。

 この著者の本はなぜか読んだことが無かったので、図書館で借りてきました。
 軽快な会話でとん、とん、と進むコメディー。後半の荒唐無稽ぶりが懐かしい雰囲気だ、と思ったら、発行は昭和55年でした。戯曲調のスタイルで書かれているので、ちょっと特殊な作品ということになるのかな。ここは好みが分かれそうだとおもいます。
 私は……ちょっと会話が多すぎて疲れたな。タイミングが悪かったのかもしれませんが。

江戸時代から霊魂やってるノミ小僧がいい味でした(笑)次回は普通の小説を読んでみることにします。


(2012.9.16)

 

「ティメー・クンデンを探して」 勉誠出版
ペマ・ツェテン 著
チベット文学研究会 編   星泉、大川謙作 訳

  チベット文学の現在 ティメー・クンデンを探して


近代化による新しい文化と、伝統的なチベット文化の狭間で揺れながら生活する若者たちの「いま」を描く、チベット現代作家の初めての作品集。同級生が突然高僧の転生と認定された少年の物語「ウゲンの歯」、羊飼いの少年とアメリカ人の出会いを描く「八匹の羊」、役者を探す旅に出た映画監督の放浪劇「ティメー・クンデンを探して」など、11作品を収録。

人間と犬
沈みゆく太陽
二人のカン
誘惑
昼下がり
八匹の羊
死の色
タルロ
ウゲンの歯
ツェタンへ行こう
ティメー・クンデンを探して


 映画「オールド・ドッグ」の監督、と思ってたら、もともとが作家さんらしい。映画の方が後なのね。
 ごくわかりやすい言葉づかいでありながら、複雑で深い暗喩がちりばめられて重層的なのは映画とよく似ています。また、静かで抑制のきいいた文章も好みでした。

 一番好きだったのは「二人のカン」。
 雪の日に拾われた女の子の赤ん坊は、色白で体が透き通っていたので「カン(雪)」と名付けられた。彼女は成長して、ある日自分と瓜二つの若者・カンと出会う。彼もまた雪の日に拾われた子どもだった。ある年、村は雪害で家畜を失い困窮する。二人のカンは自分の透明な体を見世物にして金を稼ごうとする。

 まるで童話のように幻想的で、でも痛々しいほど美しいお話。
 自分の身を見世物にすることを躊躇しないカン。ですが、珍しいもの見たさに押しかけた観光客はゴミを散らかし、彼ら目当ての商売をする者たちで草原はすっかり騒々しくなる。そして、村人たちは最初はカンたちに遠慮していたものの、見世物で大金が稼げると知って態度を変えるようになります。

 読み手は美しいカンたちに感情移入するのですが、よく考えてみれば、私たちはむしろ傍若無人に草原を踏みにじる観光客に近いのかもしれない。そして、観光客相手に金を稼がなければならない者たちもまた、雪山から見れば大差はない存在なのです。

 観光地となったチベットを旅する若者を書いた「ツェタンへ行こう」と併せ読むと、また別の暗喩を感じることもできます。


 「タルロ」はどこかコミカルで、形式ばったお役所を揶揄しているとも受け取れる作品。
 ある村で身分登録証の更新が行われますが、「タルロ」という名がいったい誰のことなのか、村長ですらわからない。やっと「辮髪」とあだ名される男のこととわかり、彼は町に顔写真を撮りに出かけます。写真屋の娘に勧められて、タルロは髪を洗って身ぎれいにするのですが――。

 羊飼いのタルロは町に不慣れで、写真屋や床屋の娘の言うままに髪を切ったり、写真を撮ります。しかし、結果的に出来上がった写真は当のタルロとはまるで別人、というオチがおかしい。
 彼はスピード現像もドライシャンプーも知らないけれど、375匹の羊を完璧に見分けます。では、登録され、証明書に記載された「タルロ」はいったい誰なのか?
 タルロが毛沢東と司馬遷の言葉をすらすらと暗証してみせる場面があり、何か意味がありそうなのですが、わからないのがもどかしかった。

 他の作品もそうなのですが、風景の描写がすばらしいのです。
 草原の匂い、夕日が沈むまでの時間、乾いた風まで感じられるようでした。そして、中国在住で表現の自由が確保されているとは言えない環境の中で、チベット人が抱いているだろう心情や悩みがごく自然に描かれていることにも驚きました。

(2013.12.30)


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