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歴史小説 3

「鬼平犯科帳 1」 文春文庫
池波正太郎 著 

   鬼平犯科帳〈1〉 (文春文庫)


江戸時代の重罪、火付けや強盗、賭博を取り締まった火付盗賊改方。その長官・長谷川平蔵は人情篤い苦労人であり、一方で盗賊たちには「鬼の平蔵」と怖れられていた。活気ある江戸の風景と、そこに身を潜める盗賊たちの世界を描いた時代小説。

 するっとお腹になじむ文章が心地よく、盗賊たちの渋ーい人間関係に酔いながら一気に読みきりました。
 時代物の見慣れない言葉(「御新造」とか「組頭」とか)にはとまどいましたが、するする読むうちに何となくわかって参りましたよ。

 ただ、何か期待のしかたが間違っていたのか、物足りない……あの、思ったほど鬼平が出てこない気がするの(涙)
「天網恢恢、疎にして漏らさず」となるのを、鬼平が眺めている話……といったら端折りすぎか。遠山の金さんくらい働いた方が、ラストシーンにただよう苦さ、あっけなさ、一抹の寂しさといった雰囲気がしみじみ味わえると思うのですけど。

 たぶん、私にははまりきれない世界なんでしょう。
 とある刺客は正直いってお間抜けだと思ったし。むっちり美人に興味はないし。うまい話には裏があるんだよ、やめておおきよ、おとっつぁん、と何度思ったか。身も蓋もない感想です。

 面白かったのは、鬼平と若き日の道場仲間・岸井左馬之助の思い出話がほろ苦い「本所・桜屋敷」。
 岸井左馬之助、私的には平蔵よりかっこいいと思うのです! 「浅草・御厩河岸」では、鬼平をしのぐ活躍……と思いますし。

 この二人の話はもっと読んでみたいなあ。24巻まであるらしいので、気が向いたときに、気が向いた巻を手にとってみようかと思います。
(2010.2.1)

 

「坂の上の雲 1」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

   坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)


明治維新を遂げ、近代国家の仲間入りをした日本は息せき切って先進国に追い付こうとしていた。三人の男達――秋山好古・真之兄弟、正岡子規を中心に明治の群像を描く。

 NHKのドラマが面白かったので、手にしてみました。
 実は昔から父親の本棚にあったのですが、故にかえって父世代の本という思い込みがあって読んだことなかったのです。でも思えば、私が子供の頃の父の年齢に近くなったわけだから、ちょうど良いと言えば良いわけね orz

 面白かったです! いやー、もっと早く読むべきでした。松山弁のおっとりした雰囲気と、一方で筋の通った骨太な気風といったものが感じられて、清々しかった。
 経済も政治も教育も、何もかもが手探り状態だった明治の日本。3人の若者たちは、時代が動いていく勢いから振りとおされまいと必死であったようにも見えるし、反対に世の中が整うのが待ちきれないでいるようにも見える。彼らは世間と競争しているような気持だったのかもなあ。

 傑物・好古兄さんは陸軍の士官としてヨーロッパへ。気も頭もまわるらしい弟・真之も紆余曲折の末に海軍へ入ることに決定。そして、才気がありすぎて逆に何をすべきか悩んでいた子規は胸を患ってこれからどうしよう、というところで1巻終了。続けて読みます。
(2011.11.8)


「坂の上の雲 2」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

   坂の上の雲〈2〉 (文春文庫)


急速に近代化を進める日本。その発展の先には帝国主義の西洋各国が戦いを繰り広げる世界が待っていた。やがて日清戦争勃発。好古は騎兵を率い、真之もまた洋上に出撃する。一方、子規は近代俳句を確立しようと研究と詩作に病身を削っていた。

 日清戦争から日露戦争直前までを描いた巻。当時の政治や軍事技術の進歩を俯瞰するような固め(?)の語りが多いので、ドラマを期待する私にはちょっと敷居が高い巻。でも、そんな読者にすら「読ませて」しまうのはすごいなあ。あっというまに読み切ってしまいました。

 日本の「目指せ、近代化」が、ちょうど世界の帝国主義エスカレート期にあたっていたことが、無謀ともいえる二つの戦争の背景にはあったこと。また、「国家が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国家を持っている」と揶揄されていたドイツに影響を受けた軍参謀本部の考え方が、のちの太平洋戦争まで日本を動かす力を持っていたことに複雑な思いがしました。
 また、この時代の日本人に国家、国民という意識を持たせるために「天子(天皇)に仕える国民」ということを政府が喧伝していたこと。しかし、戦勝の事実の方があっさりと国民意識を形づくってしまった、という言葉は印象的。痛みとともに得た経験ほどものいう物は無い、ということでしょうか。

 そういえば、この時代の戦争風景には意外なものが多くて驚きました。
 TVを見た時にも思ったのですが、戦闘の場を離れれば敵兵と一緒にお酒を飲んだり情報交換するなんて、ありなんだ。これは、今の時代の戦争よりも私が好きな帆船時代の戦争のイメージに近いです。
 あと、他国の軍艦が「観戦」するために海戦の場に派遣される、なんてことあったんですね。スポーツじゃあるまいし。また、米海軍に派遣されていた真之が戦闘後のアメリカ/スペイン両軍艦を調査したことも。そんなことは極秘事項だろうと思っていたので意外でした。ま、それを言うなら、造船所で職工として働いたロシア皇帝がいた、というエピソードに一番驚きましたが。


 さて、肝心の人間の方ですけど。
 真之がアメリカ留学中にスペインの無敵艦隊や、それが破れてのちのスペインの凋落を学ぶ場面の深い言葉。

 問題は一戦の敗北ではあるまい。その奥の深いところに民族的性格、活力の方向といったものがあるのではないか。

 文明の段階段階で、ぴったりその段階に適った民族というのが、その歴史時代を担当するのではないか。



 そして、軍人として研鑚を積む真之を感嘆させたもう一人の闘士のことも。
 病床の子規を見舞った真之は、子規の書いた俳句・短歌の革新論の激しさと強さに「きもにこたえるものがあった」と驚かされます。俳句や歌のことはさっぱりわからないのですが、子規の「生きた言葉」の説明には、ほうと思いました。

「たとえば、旧派の歌よみは、歌は大和言葉でなければいけんという。グンカンということばをわざわざいくさぶねという。
 いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ。淳サンが号令をかけるときに、いくさぶねのふないたをはききよめよというか」
「軍艦の甲板を掃除せよということか」
「水兵が笑うじゃろ。笑うのは、結局は生きた日本語でないからじゃ」


 歌とは歌の言葉で歌うもの、という当時の常識の中で、まったく新しい歌のありようを考えていたというのは大変なことだと思うのですが、それをこんな簡単な喩えで言ってしまうんですねえ。

 最後の章はまるまるロシア事情でした。
 ヨーロッパでもアジアでもない(ある、ともいえる)不思議な国。グレートゲームの登場人物。ああ、このどこかにドルジーエフがいたんだな、と別の読書と繋がってきて面白いです。

 ところで、ネットでよく見る「司馬史観」って何ですかね。ひとまずは、小説だからいいじゃない、というスタンスで読み進めます。

(2011.11.13)


「坂の上の雲 3」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

   坂の上の雲〈3〉 (文春文庫)


日清戦争から10年、南下するロシアの脅威に日本は恐れおののいた。両国の激突はもはや避けようがない事態になりつつあった。

 前半は日露開戦にいたるまでの状況が軍人や政治家らのさまざまな視点から描かれ、開戦後の後半では旅順沖の海上や、旅順の少し北の南山での陸戦が書かれていました(←これは、自分向けの覚書。すみません。もう、自分がどこにいるかわからない)
 私は人物の話が読みたいので、やはり前半の方が好きですねー。このくらいの時代(近代)になると戦争を読むのはやはり辛いですから。

 日露開戦までの話は読みごたえありました。
 当時の国際状況から見れば、ロシアは極東だけではなく中央アジアでも英国と睨みあっており、ロシアの南下政策への各国の危機感というのは相当なものだったのでしょうね。まして、開国して数十年の日本がロシアに抱いた恐怖感というのは、個人に譬えればパニック状態だったのかもしれないと感じました。
 その中で、「先手を打たねば日本は滅びる」「いやいや、結ぶべき手はある」「英国と?」「まさかのロシア?」「しかし、金がない」「戦争になるなら、あらかじめ調停の道も備えて……」と政治家たちが悩みながら、結局は戦争へ向かわざるを得なかったことが重苦しかったです。

 一方で、政府と軍本部の方針で行動しなければならない人たちの姿が印象的でした。
 登場するとほっとするのは、やはり秋山好古ですね。前半の演習参観のためのシベリア行のエピソードはまったく豪胆で、鋭くて、人好きがして、参りました(笑)

 「騎兵はええ」
  と、好古はテーブルを叩いてかれらの友情に感きわまったりした。
 「とくにロシア騎兵は、ええ」


 さいですか。
 また、ロシアに長く駐在した広瀬が親しくなったロシア人士官へ「国同士が戦争しても、個人としての友情は変わりない」と手紙をしたためたこと。また作戦で海に沈める(障害物として軍艦の航行を妨げるため)船にロシア語でメッセージを残したことも。
 こういうことは今ではちょっと考えられないですが、やっぱり戦争の在り方が今とは違ったから生まれたエピソードなのでしょうね。

 お気に入りは、真之の上官である島村参謀長。
 この人は「軍人にはめずらしいほどに功名主義的なところがなく」「常に人に功をゆずることでつらぬかれた」「天性ひろやかな度量のあった人物」だったそうで。
 後半の、旅順沖での場面が好きですねえ。旅順港にこもって出てこないロシア艦を旗艦「三笠」からうかがう幕僚ら。真之や島村は旧式の双眼鏡しか持たず、東郷ひとりが日本海軍でただ一つのツァイス製双眼鏡をのぞいている、というところ。

  このため、三人のうち東郷がつねにまっさきに敵を見つけた。
 「ホウ、見えますか」
  大きな体の島村が、感心したように声をあげたのは、一種の人徳だったかもしれない。このため、幕僚の気分がやわらいだ。


 ええと。どこがいいのか、と聞かれると困るんですけど。
 あえて言えば、人の手におさまるような小さな道具の良し悪しが、戦況の一場面をかたちづくる妙、というか。そして、緊張はらむ状況なのに、それも一瞬忘れて道具の良し悪しに驚いているのが面白いのです。

 そして、物語が戦争へとひた走っていく中。
 わずかなページで書かれた子規のひっそりとした最期、その庭の静けさや彼を喜ばせた物売りの声が鮮やかに感じられました。
(2011.11.26)


「坂の上の雲 4」「5」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

   坂の上の雲〈4〉 (文春文庫)   

   坂の上の雲〈5〉 (文春文庫)


ついに日露戦争が始まる。日本海軍艦隊は、ロシアのバルチック艦隊が到着する前にできるだけ太平洋艦隊の戦力を殺いでおこうとするが、旅順港に潜んで出てこない相手に苦戦する。また、その旅順を陸から攻める陸軍も近代要塞を相手に壮絶な戦いを続けていた。

 旅順攻略戦の区切りまで、ということで、2巻分合わせての感想です。

 3巻は海軍の話で(私的には)楽しんだのですが、このあたりは読むのがしんどくて、一か月もかかってしまいました。陸の話は重い。でも、途中で放り出していい話とも思えなくて、旅順要塞陥落まで腰を据えてつきあうことにしたのでしたorz

 それにしても。陸軍が、まあ救いようもなくぼこぼこに書かれてるのです。陸戦の様相は悲惨、の一言しか出ません。
 3巻にちらっと出てきましたが、たった一日の戦闘で日清戦争を通して使われた数を上回る弾薬が使用されたとか。弾の生産が追いつかないとか。戦争しながら金策のために外国を駆けまわるとか。そもそも、いかに力不足(認識不足)の戦争であったかが書かれています。対ロ強硬派はどうやって戦争するつもりだったのか、素朴な疑問でした。

 旅順要塞攻略の司令官としての乃木の判断力や参謀のたてる作戦がいかなるものであったかは、この本だけでは何とも言えないのですが。
 日本が初めて近代要塞を相手に戦った方法があまりに前近代的であったこと。仲間の屍を文字通り踏み越えて進む兵士たちの姿、そしてその先には予測どおりに死しか待っていなかったことは惨劇としか言いようがありません。

 漠然としたイメージですが。この物語の時代の「国家」とは大きな車輪のように見えました。
 前の巻で、日清戦争を経て日本人に国家への帰属意識が生まれた、と語られていますが、それは「国家」という巨大な車輪にしがみついて前進することを覚えたようなものなのかな、と思う。国民は日清戦争の勝利に喜ぶけれど、やがて車輪は回り、彼らはかじりついた「国家」の名のもとに踏みつぶされて死ぬことになる――それが旅順要塞攻撃の風景だったように思えたのでした。

 ついでに、並行して見ていたTVドラマの感想も少しだけ。「まさか、これは映像にはしないだろう」と思った壮絶な戦闘場面も撮られていて、さすがに見ていて気持ちが沈みました。
 本当に丁寧に作られたドラマだと思いますが、ひとつ難が。やっぱり、児玉源太郎役=高橋英樹は違う、と思った。いや、高橋さんは好きなんですよー。遠山の金さんだし、聞けば城や石積み好きなんだそうです!(そこか)
 でもね――かっこよすぎる、のですよ。
 確かに児玉の独断ともいえる方針転換が戦争の潮目を変えたことは確かですが、それは後の時代から見た印象だと思うのです。当人も、周囲からみても、当時は「やるべきことをする」だけだったのではないかな、と。ついでにいえば、高橋さん演じる児玉は豪胆すぎて、絶対に終戦後に死にそうにはないから(爆)


 冗談はともかく、本に戻ります。

 思わぬ楽しみだったのは、好古さんのどうにも下手なお歌と(笑)、脇役に味のある面白い人物が多いこと。
 ロシア海軍のフォン・エッセン。巡洋艦ノーウィックを駆って、敵ながら気骨を見せてくれおるのう、と思っていたら、ちゃんと昇進して再登場しました。
 日本軍では、戊辰戦争の生き残りで「戦には匂いがある」というのが口癖の梅沢少将。旅順港の封鎖中、駆逐艦の艦長らを一斉に入れ替えると決定したあとで、自分も替えてくれと自ら申し出た島村参謀長。
 そして、封鎖任務から解かれてようやくドック入りした艦を、気負って修理する職工たち。休息も食事もそこそこに働く姿を当の艦の乗組員が気の毒がってお茶を運んだり、ついには艦長から後の仕事のためにも体力をとっておけ、と言われてしまったのでした。

 たくさんの人間の姿が描かれて時代の空気を醸し出す、という小説は好みです。
(2011.12.15)

 

「坂の上の雲 6」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

   坂の上の雲〈6〉 (文春文庫)


冬の満州・黒溝台で日露両陸軍は睨みあっていた。大作戦の予兆ありという報告は、しかし総司令部ではまともに取り合われず、好古は苦戦を強いられることを覚悟する。一方、バルチック艦隊はアフリカ東岸のマダガスカルで足止めされたいた。

 いきなりTVの話で恐縮ですが。
 ものすごい端折り方ですね、NHK。黒溝台と奉天の会戦をまとめちゃったんだ。エピソードやセリフは原作から持ってきてあるけど、文脈がまったく違うから印象も違います。それに、好古が『ついぞ言わなかった』言葉を言ってしまってはいかんのではありませんか? ひどいなあ。
 それに、6巻でかなりページ数を割かれてるヨーロッパでの諜報活動も入れて欲しかった。面白いのに。映像化されなかったのは、明石が接触した女性革命家の名前が長くて読めないからに違いない(爆)ブレシコブレシコフスカヤ……不運な女性だ。
 バルチック艦隊の苛々させられる航海はドラマでは省いて正解だったと思いますけど……どうせ長いドラマなのだから、あと4〜5話かけてきちんと映像にして欲しかったと思ってます。

 ま、それはともかく。
 読み応えあったのは、TVでざっくり削られた(まだ言ってる)明石元二郎のヨーロッパでの諜報活動でした。

 ロシア帝国の内部は腐敗して国内でも不満が燻っているし、圧政に苦しむ属国ポーランド、フィンランドでも革命運動家たちが力を蓄えてきていた。「ロシア、憎し」と「愛する祖国ロシアのため」という二つの考えの人たち。そのどちらからも見放された皇帝の足元で、革命の火を待つ薪が積まれていきます。

 断片的に描かれた多くの人たちも印象的です。
 ロシア軍というが、その兵士のうちかなりの数が徴兵されたポーランド人やコーカサス(カフカス)人であること。それを語った若き脱走兵。間諜としての才能に欠けながら、これしかできることがないと命をかけるロシア人。ロシア貴族に生まれ、革命の女神と呼ばれた女性革命家――。彼らの姿、思いがずっしりと胸に迫ります。

 また、もし敗戦となれば日本はどうなるか――こういう人たちと会った明石が語る危惧には寒気を覚えました。

 日本は、ポーランドやフィンランドにはなりたくない。東京の宮城にロシアの総督をむかえるなどはごめんである。

 横須賀や佐世保に軍港が建設され、対馬に要塞を築く。憲法は停止されて、国会議事堂は高等警察の本部にされ、ヘルシンキの中央広場と同じように、日比谷公園に伽藍が建築されるだろう、という著者の言葉も生々しい。
 明石は諜報の専門ではなかったけれど、機運を読み、自分の役割と人々が望む方向とを見失うことがなかった、ということはすごいですね。確かに、大臣の器だったのかもしれない。

 さて、ロシアの内務大臣プレーヴェは「革命の毒気を払うには、ちょっとした戦争が必要」と言ったそうですが。その程度にしか見られていなかった日本軍の内情も書かれていました。
 あまりに国力が無くて予備軍が存在しない、そのことは総司令部のごく限られた人間しか知らされていなかった、という話は衝撃でした。
 そういう、語ることを許されない事情から、乃木軍に「多くを期待していない」という冷ややかな言葉が言い渡されたわけですが、ドラマからはすっぱり抜けてました。
 そして、この期に及んでまだ「東京では座敷で戦争しているのか」と児玉を激怒させた政府が出してきたのが、「このまま戦争が終わっては収穫ゼロ。何とか、何かを得たい」という出来心計画。これがどうなるかは、次の巻です。

 ちょっと気に入ったのは、乃木の参謀の一人となった青年・津野田。イギリスの観戦武官に「日本人にはめずらしく快活な青年」といわれたそうですが、こういう人が登場するとほっとします。
(2011.12.24)

 

「坂の上の雲 7」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

   坂の上の雲〈7〉 (文春文庫)


各地の戦闘できわどい勝利を重ねながらも、日本軍の力は次第に衰えていく。武器、兵力の劣るにも関わらず包囲作戦を選んだ日本軍は常識を覆すことができるのか。

 前半は奉天会戦。後半はようやく東シナ海へ到着したロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊の様子でした。

 正直、この本で奉天会戦を俯瞰しても、勘違い、思い込みばかりが印象強烈すぎでした。
 味方同士で足を引っ張り合い、鴨緑江軍を乃木軍と思いこんだり。勝ってる戦からわざわざ撤退したロシアの司令官クロパトキンの描写は辛辣。彼を文字通り、右に左に躍らせよう、という児玉の作戦はある意味当たった、戦術の定石をある意味覆した……そ、それでいいのだろうか?? 
 もちろん、その日本軍もたいへんな苦戦だったことは「この会戦で負ければ日本は滅びる」と前線の参謀を叱りとばした児玉の言葉からも窺えますが。

 私には戦闘そのものよりも数人の兵士の手帳から断片的に見える風景が印象に残りました。

 飯盒ノ飯ヲ食セントシ、出シテ見レバ、最早朝ノ厳寒ニ凍リテ小石ノ如クニテ食シ難ク……
 (工兵・飛田定四郎 島根出身)

 二十六日は終日降雪霏々として、積むこと七八寸、望めど涯りなき満州の平野はただ見渡す限りの銀世界となった。この夜、総攻撃前進の命令くだる…… 
(歩兵中尉・猪熊敬一郎 群馬出身)

 手記の一文も残さずに死んだ兵士の方がはるかに多かったはず。日露戦争で日本という国は何かを得たのだろうけど、一人一人の兵士には何か報われるものはあったんだろうか。

 そして、戦況が進むにつれて、この戦争を観察しているアメリカやイギリスの世論にも微妙な変化が表れてきます。

 英国にとって日本の存亡などはどうでもよく、ただロシアという驀進している機関車にむかって大石を抱えて飛び込んでくれる機能的存在として日本を見、そのために日本を選んだにすぎない。

 ルーズヴェルトは日本が勝つことをのぞんでいたが、同時にその世界政策からいって大きく勝ちすぎることを望んでいなかった。勝利が大きすぎる場合、日本かつてのロシアの座を占めることになり、要するに何のために日本の後押しをしてロシアを屈せしめたかという意味を失うことになる。


 ひどいけど、世の中きっとこんなものだろうね。。。

 そして、負けたわけではない、でも勝ったとはいえない不思議な状況の中、児玉は「点けた火を消す」ことを促すために東京へ。

 このころ、よ〜うやくバルチック艦隊がアジア到着。航海があまりに大変だったので、思わずウォッカの一杯もおごってあげたくなってしまうのは私だけだろうか? もちろん、真之はそれどころではないのだけど。
 そして、そのロシア艦隊見ゆ、の報を携えて小船を出した宮古島島民の姿が書かれていてよかった。結果的には第一報とはならなかったそうですが。だからこそ言葉にして、物語の中にしっかりと焼きつけられてよかったと思う。

 次が最終巻。和平調停がもっと早くできたら、死なずに済んだ人も大勢いたのでしょうね。
(2011.12.30)

 

「坂の上の雲 8」 文春文庫
司馬遼太郎 著 

   坂の上の雲〈8〉 (文春文庫)


明治38年5月、バルチック大艦隊と連合艦隊の大海戦が始まろうとしていた。日露戦争の終章、日本海海戦を描いた最終巻。

 無事、読了! です。長かったけれど十二分に堪能しました。

 日本海海戦は、日中、夜間そして翌日、と段階を追って書かれています。時間経過の感覚が陸戦とはだいぶん違うし、複数の艦の行動が並行して書かれているので巻末の図解はありがたい。というか、無かったら読めません(涙)
 ロジェストウェンスキーが単艦同士で戦う旧来の海戦概念を持っていたのに対して、東郷は艦隊をひとつの単位として捉えた、その違いが勝敗を分けた会戦でもあったという説明は印象的でした。

 ドラマでももっと海戦シーンが見たかったなと思いましたが……しかし、電車内で手に汗握って日本海海戦を貪り読むOLも十分怪しいので、ここらで踏みとどまっておこうと思います(笑)

 そういえば、戦艦朝日の艦長・野元とユング大佐に触れた一節には目をひかれました。
 かつてロシアに駐在していた野元とユングは親友同士、しかし互いがどの艦に乗っているか知らないまま戦っていたのだそうで。同じような立場であった広瀬のことを思い出しました。
 そして、日本に着く前に死去したユングの水葬に野元が立ち会えたということはよかったといえるんだろうか。そして、「人一倍軍人としての誇りが強かった」ユングが自分の艦が日本へ持っていかれるところを見なくて済んだこと、その場で親友と再会せずに済んだことも、慰めといえるんだろうか。

 また、真之が戦闘後に自艦の中とロシアの旗艦に乗り込んで見た死屍累々という光景には、戦争に敵も味方もないものだな、と気持ちが沈みました。
 好古が身を置く陸上の戦場とは彼我の距離感もつかわれる武器もかなり違いますけど。戦術士官としてこのような戦闘の場を「作った」ことが重くのしかかっていたのか、真之は戦後、供養のために僧になりたいと言い続けたそうです。そして、故郷に帰った好古の胸の奥に長く残っていたものを思わせるラストでした。

 それから、全巻を通して思ったこと。長くなってすみませんです。

「この戦争を日本がどう総括し、のちの時代に残したか」――これについての著者の批判的な視点が、特に終盤に強く感じられました。
「天気晴朗なれども…」という有名な電文はどのように書かれたか。敵前回頭は冒険的な戦術であったのか。完全な勝利に水をさすような証言をしたくないと口を噤んだ人たちについて。また、戦後に編まれた官製の日露戦争史について。本文だけでなく、あとがきでも厳しく追及されていました。

 ……きわどい勝利を拾い続けたというのが日露戦争であろう。
 戦後の日本はこの冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。……
(中略)……日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。


 勝者を偶像化してしまう、というのは、いつ、どこでもあることだと思うのですが、その中で、いってみれば善意や遠慮ゆえに偶像化に加担してしまった人がいたことに複雑な気持ちがしました。つまり、上官への敬意や戦勝に傷をつけまいとして、自分が知っていることを口外しなかった人たちのことです。
 関わった人たちがいかに苦しんでもぎとった勝利だったか――知っているからこそ、その成果を貶めるような真似はできない、そんな気持ちだったのでしょうか。
 著者は、この戦争を論理、客観性をもって記録しておくべきだった、という考えのようです。私もそれには賛成。でも、仮にそのように日露戦争が分析されていたとしても、証言する立場の彼らはやはり沈黙しただろうと思う。いってみれば、美質といえる心情のために歴史認識を誤ってしまう、というのは何て皮肉なことだろうか。
 ……なんて、こんな風に考える自分に気づいて、やっぱり日本人は情緒でものを見るかもしれないなあ、と思う。

 そして、登場する人たちが「戦争が終わったら」と語る言葉が忘れがたかったです。
 好古の歌といい(4巻だったかな)、戦争後何をしたいか問われた時に引退して故郷へ帰ると答えた乃木といい、「なるべく世間からひっこんで邪魔にならぬように暮らす」といった黒木といい――。
 軍人当人らにだって、いろいろな思いがあったのですよね。そして、その陰では何万という無名の人が同じように「戦争が終わったら」と考えていた。

 しみじみ、何故こんな戦争をしなければいけなかったのだろうな、と考えることは堂々巡りばかりです。

 一つの時代が過ぎ去るというのは、その時代を構築していた諸条件が消えるということであろう。消えてしまえば、過ぎ去った時代への理解というのは、後の世の者にとっては同時代の外国に対する理解よりもむずかしい。
(三巻より)

 100年前の人たちを理解することは難しい。ただ、懸命であったことはひしひしと伝わってくる小説でした。
 そうやって守られたものは目には見えにくいけれど、今の自分の生活を地中深くで支えてくれているのだな、と思ったのでした。
(2012.1.10)


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