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何てことだ。
彼は心の中でうなり声をあげた。本当にうなるわけにはいかなかったのだ。
かつて一族きっての狩人と呼ばれた、このおれが。獲物をつけまわしてもう二晩。手も足も出せずに木立に隠れているなんて、どうかしている。
このまま駆け出して、獲物ののどに喰らいついてやれたら……。
そう考えて彼は牙をむいたが、すぐに気をとりなおした。
時間はあるのだ。まちがいなく仕留められる瞬間を待つことにしよう。
青銀色の毛皮が目立たぬように、木立に身を隠していたのは一匹の狼だった。
遠い昔に仲間からはぐれ、たったひとりで生きてきた。彼は腕のいい狩人だった。ひとりで狩をするのは難しい。とはいえ、今はもうすっかり慣れてしまった。
追い回した体力を取り戻せるだけの食べ物を手に入れなければならない。だから、あせらず慎重に。それが彼のやり方だった。
この二晩というもの、狼は羊の群れと羊飼いを追っていた。
最初はすぐに食べ物にありつけると思った。だが、相手も抜け目なかった。
羊飼いは、木立の方へ目を配りながら羊を追っていく。がっしりと太い杖をこれ見よがしに振って歩く。狼は腹立たしげに前足で地面を引っ掻いた。
獲物を追いはじめてまもなく、彼は奇妙なことに気がついた。
最初、夜になれば人間は巣に帰るだろうと思っていた。人間も狼と同じように群れで暮らすものだから。ところが、この人間は日が落ちても月がのぼっても、石の巣に帰ろうとはしなかった。
何故、こいつはひとりでいるのだろう?
そう考えて、彼はいくども首をひねった。また、別のことにも気がついた。
どうやら、あの羊の群れは羊飼いのものではないらしい。時々、近くに住む農民が羊飼いのもとへやってきて、新しく生まれた仔羊を預けて帰っていくのだ。これには彼も驚いた。
馬鹿な。
あの人間は、自分のものでない羊を預かって守ってやっているのか? 何のために? 何故、自分のものは自分で守らせないのだ。
他人事ながら、狼は呆れてものもいえなかった。何故そんなことをするのか、さっぱりわからなかった。
だが、この奇妙な人間に彼は興味をおぼえた。群れからはぐれてひとりでいる姿に、感じるところがあったのだ。
この自分とよく似ている。
彼は目をほそめ、木立ごしに羊飼いを見た。よく似ているのに、すること為すことがわからない。まるで、水面に映った己の影のような、別の世界の生き物だ。 |
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羊飼いはあいかわらず用心深かった。
追うものがいることを知ってか知らずか、羊が散らばらないように気を配っていた。
そして、ひっそりと月がのぼる。
羊飼いは細い笛をとりだした。風だけが渡りゆく野を見下ろしながら、夜がすぎるのを待って吹き続けるのだ。
それが、狼の目には滑稽でならなかった。
何てかぼそい遠吠えなのだ。あれで、なわばりを守るつもりなのか?
狼は獲物のことも忘れて、羊飼いを見つめた。
あいつは吠え方を知らないのかもしれない。仲間がいないから、誰も教えてやらなかったのかもしれない。
狼はいつしか狩をするつもりもなくなってしまった。これ以上、あの羊を追っていても食べ物にはありつけない。そう悟ったのだ。
ただ、自分とよく似た哀れな人間のことは心にかかった。
狼は頭をあげた。
しようがない。置き土産に聞かせてやろう。遠吠えとはこうするのだ。
ヴォオーーヨーウゥ……
羊飼いは、ぴくりと眉をあげた。
月がただ淡い光をはなっていた。風の音が夜にこだまするようだ。遠吠えの主が木立からあらわれる様子はなかった。
だが、それでも用心するに越したことはない。羊飼いはそう考えて、羊を人里の方へと追いはじめたのだった。
「いい話じゃねえか」
店のあるじはしんみりと言った。「何だか、胸にぐっとくる」
そうして、話してくれた男の方をみると目を丸くして、
「おや、すっかり空になっちまったな。気がきかなくて面目ないね」
と、新しい壺をとりだした。
「いや、いいのだ」
男はぽつりと言って席を立った。
「帰るのかい? 最後まで聞いていけばいいのに」
あるじは雫酒の杯を示した。だが、男はそれにも首をふり、店を出て行った。
外は雪が降り出していた。
天を見上げて、男はほうとため息をついた。
仲間とすごすのはいいものだ。一杯空けるひとときは、なにものにも代えがたい。だが、ひとりになるのもいいものだ。
男はぶるっと身震いして、外套をかきあわせた。
自分を呼ぶ遠い声が聞こえる気がする、こんな夜も悪くはない。 |
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