第九話 Novel おひらき
第十話 杯とり 


 窓の霜をひっかき落として、飾り職人がつぶやいた。
「降ってきたなあ。こんな夜は、とんでもないものが飛び込んでくるかもしれないぞ」
「とんでもないって、何だい?」
 好奇心いっぱいの飲み仲間の顔を見て、職人はうすく笑った。
「魔物、だよ」


 今晩のような冷え込む夜のことだった。
 ある町のこぢんまりとした宿屋に、雪から逃れるように飛び込んできた一行がいた。
「いやあ、まいった!」
 扉が開いたとたん、鋭い音とともに風が吹き込み、炉の炎を揺らす。
「降るわ、降るわ……」
「風の冷たいこと。ぶるるる」
 全部で七、八人か、客たちは狭い入り口のひと間で足ぶみして、肩の雪を払い落とした。
 宿屋のおかみさんは外套はここ、長靴を干すならそこ、とてきぱき指図して、
「で、何にしますかね?」
 すると、男たちはいっせいに顔をあげて、
「まずは熱々の麦酒!」と、叫んだ。
 おかみさんは笑った。「まずはそれだね。それじゃ、九人様ご一行はこちらへ」
 そのとたん、男たちは口をつぐみ顔を見合わせた。
「九人?」
「おれたちは八人だぞ」
 だが、おかみさんは笑って首をふった。
「だって、九人じゃないか」
 数えてみると、なるほど確かに九人居る。
「ばかな」
「分かれ道で休んだときは、まちがいなく八人だったぞ」
 お互いの顔を見、それも穴があくほど見たが、どれもよく知っている顔だ。
 さあ、さあ、というおかみさんにせき立てられて、九人の男たちは釈然としない顔で席についた。
 暖炉と壁と出っ張った柱の間に、ようやく押し込んだような細長い卓。席についた男たちは互いの顔もよく見られなくなってしまった。
「悪いね。今夜は混んでるものだから、こんな席しか無くって」
 と、おかみさんは申し訳なさそうに麦酒を配った。
 いや、いいんだよ、屋根があるだけありがたい。
 普段ならばそんな風に返しただろう客たちだが、今はおかみさんの言葉にも生返事だ。まるで、どこかに何かを置き忘れたような顔つきだった。
 いったい誰が九人目なんだ?
 見覚えのない者はいない。よく知っている顔ばかり。なのに、いるはずのない者がいる。
 そういえば、雪の夜には何とかいう名の魔物が出るのではなかったか。いつのまにか家に忍び入り、居座って、人間にとりついてしまうのではなかったか?
 うろおぼえの言い伝えに、男たちは身震いした。
「おい」
 一番奥に座った男が声をあげた。
「塩を回してくれないか」
 なるほど、と何人かが顔を輝かせた。
 魔物は塩を嫌がるという。順送りに塩をわたせば、誰が「奴」だかわかるではないか。
「どうぞ」
「塩をどうぞ」
 きらきらと真っ白な塩の入った壺が卓をわたっていく。しかし、おそろしい叫び声も何も起こらなかった。
「そうだ、スープを配ろう」
 妙に力強い声で、誰かが立ち上がった。
「おお、そうだな」と、皆の顔がほころんだ。
 火から下ろしたばかりの分厚い鍋。蓋をとると、ぱあっと香気豊かな湯気が立ちのぼった。
 複雑な香りは何種類もの香辛料がきいているせいだ。その中には魔物を追い払う香草も入っているはず。
 ほやほやと湯気はうず巻き、香りを漂わせては散っていく。それを男たちは固唾をのんで見守った……。
 やがて、ぽつりと誰かが言った。「……スープを配ろう」
 奇妙な食卓になった。
 銀色の皿は、誰も料理に手をつけないまま卓を行ったりきたりした。どろりとした煮物はたぎるほど温められ、魔物でなくても口にできないほど熱くなった。
「これを取れ、うまいぞ」
「そっちは寒いだろう。暖炉の前の席と代わってやろうか」
「とろけるくらい暑くなれるぞ」
 傍目には行儀よく、愛想よく食事は続けられた。だが、誰ひとりとして味などわかってはいなかった。
 金物、熱いもの、香辛料……他には何だ? 魔物が嫌がるものは何だっけ?
 いったい誰が九人目なんだ?
 男たちはうつろに笑い、脂汗をかきながら必死に考えた。
「おや、まあ。いい雰囲気だねえ」
 そこへ、おかみさんが水差しを置きにやってきた。
「やっぱり、腹ごしらえは楽しくやりたいね」
 そう言って笑った時だった。
「あっ」
 おかみさんは床に蹴つまづき、揺れこぼれた水がお客の肩にかかってしまった。
 そのとたん、おかみさんも男たちも目をむいた。煙か朝の靄のように、その客はすうっとかき消えてしまったのだ。
 あとにはちぎりかけのパンだけが残されていた。
 空になった椅子とこぼれた水を見つめて、誰かがほうと息をもらしてつぶやいた。「……杯とり、だったのか」
 それは、炉辺の昔話に出てくる魔物の名だった。水やら酒を飲むのは大好き。それだのに、からだに水がかかると消えてしまうものなのだ。
 そして不思議なことに、今度はいなくなった男の顔も名前も、誰も思い出せなくなってしまった。
「何だったんだろね」
 おかみさんは水差しを置くのも忘れてぼんやりと言った。
「きっと、こんなに寒い晩だから、熱い麦酒がのみたかったんだろうねえ」


 その時、酒場の扉が大きくひらき、雪風とともに飛び込んできた者がいた。


第九話 Novel おひらき
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