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「それでは、わたしが代わりに。遠い港町のはなしをしてさしあげよう」
そう言ったのは旅商人だった。
「……ヴァルカ、オルデール」
彼はそっと呟いた。
「古い言葉はうまく言えないのだが。南の港町では、よく聞かれる言葉だ」
その横で、これも旅慣れたらしい風渡りがうなづいていた。それは、港に入った船があることを伝える、船乗り同士の挨拶なのだという。
「船がつくたびに言うのかね?」
あるじは尋ねた。
「いいや。古いかたちや昔風の帆装の船だけだ。もし、思い当たる船ならば港へ見にいくように、と言うのだ」
ラ ヴァルカ アノリア オルデール
なつかしい船が帰ってきた。
もし、彼女を知っているなら、海へ急げ、と。
その昔、ひとりの若い船乗りがいた。
彼の乗る船は誰よりはやく風をとらえ、滑るようにはしることができた。その様子は風にのって飛びすぎる雲か、波を切るツバメと呼ばれたものだった。
船足の速いのには理由があった。その船には「海の娘」が乗っていたからだ。
波間に生まれて、泡と遊び育った海の娘。
彼女が守りみちびく船は、どんなわずかな風も逃すことはない。どんな時化にも沈むことはない。海の娘が船首に立てば、どんな荒波も分かれて彼女にいく道をしめした。
また、海の娘は美しかった。
波うつ豊かな髪を編み、目には海の色を湛えていた。時に漣のようにやさしく、時に吹きすさぶ風のような清冽な気性だった。若い船乗りは海の娘を愛していた。
娘もまた船乗りをいとおしんだ。
こどもの頃から同じ船に乗り、同じ風をうけてはしった。同じ水平線を見て育った。どこまでも、いつまでも一緒にいこう。そう誓い合ったのだ。
だが、男の胸にかかる一片の雲があった。
それは、二人が乗る船が男のものではないということだった。彼もまた他の船乗りと同じように、自分の船を手に入れたいと思っていた。
優美な弧をえがく船体と突き出した船首。そんなみごとな船がほしい。そして、その船首にこそ、海の娘に立ってほしいと願っていたのだ。 |
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この船を下りよう、と船乗りは決めた。
何とかして、自分のちからで自分の船を手に入れる。そうしてもう一度、海の娘を迎えにくるのだ。
だが、これを聞いた娘は怒った。誓いを破るのか、と。
「どこまでも一緒に行こうと約束したのに。他の誰も愛することはないと誓ったのに」
「そうではない」と、船乗りは言った。「ただ、自分の船を持ち、それにお前に乗ってほしいだけだ」
だが、荒波のごとく哀しみ怒る海の娘をなだめる風はなかった。
岸に船乗りを残したまま、ある朝、娘の船は港を出て行った。男はただ見送るしかできなかった。
それからというもの、船乗りは必死になってはたらいた。いつか船長を求める船と出会うことを夢見て、わずかな稼ぎをかさねて、時を待った。
そして、ようやく心にかなう船を見つけた頃のこと。彼は港の酒場で噂話を耳にした。とある古い船のはなしだった。
昔風の帆装が珍しかったから、よく覚えているのだ、と話し手は言った。その船は嵐をついて外海へ出て行き、そして、帰っては来なかったという。
船乗りは耳を疑った。その帆の色も船首のかたちも、自分がかつて乗っていた船そのものだったからだ。
「嘘だ。あの船が沈むはずがない」
彼は語る相手の胸ぐらをつかんで叫んだ。「海の娘の船が沈むわけがない」
だが、相手は首を振った。
「ひどい嵐だった。何故あんな中に帆をあげたのか、わからない。確かなことはひとつだけ。あの日から、誰ひとりあの船を見た者はいないのだ」
「それから、どうなったんだい?」
杯を置くのも忘れて、客のひとりが呟いた。旅商人は答えた。
「そんな噂を船乗りは信じなかった。いつか、どこかの港に船が帰ってくるのを信じて、今でも待っているのだそうだ」
「今でも? だって、昔のはなしだろう?」
「彼の誓いを忘れたかね」
商人は杯をすすった。
「いつまでも一緒にいこう。そう言って海の娘と約束したのだ」
船乗りは海と約束した。だから、いつまでも古い船の帰りを待ち続けている。その船の名も、男の名もとうに忘れられてしまった。
だから港の酒場では、船乗りたちは今も古い言葉であいさつをかわす。そうして、そこにいるかもしれない「船乗り」に知らせをきかせてやるのだという。 |
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