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小さき花と、夏の鳥 3

8.
「セディム、まだ残っているぞ」
 城の食卓はいつになく静かだった。
 いつもなら日々の冒険について得々と語るセディムが口を閉ざしていたからだ。
 長は卓の真ん中の大きな壷を指さしたが、セディムは首を横に振って椅子から滑り降りた。
「もうお腹いっぱいだから……」
 そう呟くように言うと、夢を見るような顔つきで部屋から出ていった。
「珍しいな、好物を残すなんて」
 長はパンを千切る手を休めて言った。
 あまりに驚いたので食事を中座したことを咎めるのも忘れているようだ。その横でヤペルはそわそわと手を揉んだ。
「まさか、どこか具合でもよろしくないのでは?」
 それを聞いたとたんに長は口を閉ざした。前の冬にハールの元へ旅立った妻のことを思い出したのだろう。
 そう思いあたったヤペルは自分の軽はずみな言葉を後悔した。
「セディムさまのことはお任せください」
 そういって城臣は胸を張った。
「さっそくノアムにでも聞いてみましょう。最近は始終一緒に遊んでいるから、何か知っているやもしれません」
 その当のセディムは大人たちが聞いたら青くなるようなことを親友に打ち明けていた。
「僕、病気かもしれない」
 畑の夏野菜を籠に摘んでいたノアムはぎょっとして手を止めた。
 少し離れたところで同じように籠を抱えた母親が気づけば、手を休めるなと怒っただろう。
 しかし、ノアムの心中はそれを気にするどころではなかった。
 幼い頃から一緒に遊んだ仲とはいえ、セディムは長の子供だ。いつかセディムがレンディアの長となる日がくる。
 その身にもし病など降りかかったら……。そんなことを考えはじめる年になっていた。
「腹でも痛いのか? 何か悪いものでも食ったんじゃないの?」
「なんだか……ここがお腹いっぱいなんだ」
 そう言ってセディムは自分の胸を軽く叩いた。
「胸が腹いっぱい……」
 ノアムはややこしい話に顔をしかめたが、葉波の向こうの母親の気配を窺いながらそろそろとしゃがみ込んだ。青々とした枝葉に隠れて、二人の姿はすっかり見えなくなった。
 ノアムはそれからセディムの背中を軽く押し、声をひそめた。
「静かに、見つからないように行けよ。見つかったら後で承知しないぞ」
 しばらくして、ノアムの母親はぽつんと畝の間に残された籠をみつけた。叱ろうにも息子の姿は畑のどこにも見当たらなかった

9.
 セディムのわかったようなわからないような譬えは、しかしノアムにはぴんときていた。わずかながら年上なだけあった。
 二人は段々畑の間のゆるい坂道を抜けて、やがて潅木が固まって生えている小道を登りはじめた。
 この上は昔スーシャと三人で遊んだ崖になっている。
 村の畑からは死角になっていて、勉強や手伝いから逃げ出してきた時には恰好の隠れ場所だ。
 急な斜面を登りながら、セディムは思いつめたように言った。
「僕が死んだら、父上は泣くだろうか」
 ノアムは思わず吹き出しそうになったが、恨めしげな目でにらまれてあわてて口を押さえた。
「病気じゃないよ、きっと」
「じゃあ、何さ」
「どんな時にそうなるんだ?」
 セディムは考えながら日当たりのいい岩の上に座り込んだ。
「みんなと遊んでる時だよ」
「牛を追って?」
「うん」
「メルもいっしょで?」
 ノアムは隣に腰を下ろして幼馴染の背を叩いた。
「お前、メルが好きなんだろう」
 意外な言葉に、セディムは思わず顔を上げた。
「違うよ、そんなんじゃないって」
「でも、嫌いじゃないだろう」
「うん。でも、そんなんじゃないけど……」
 セディムは潅木の枝が峰からの風に鳴るのに、耳を傾けた。
「でも、メルは……ちょっとだけ可愛いんだ。髪の毛がふわふわしてて。まるで枝にひっかかった草みたいなんだよ」
「セディム、それじゃだめだ」
 ノアムはがっくり肩を落としながら言った。
「そんなこと言ったらメルは怒るぞ。ほめなきゃだめだ。女ってそうなんだ」
「そうかな?」
「だって、スーシャを見ろよ。この間まで俺たちと遊んで、弓矢の腕前だってちょっとした奴だったのに。エフタの男から耳飾りをもらって、きれいだとか何とか言われたとたんにお嫁に行くことにしちゃったんだぜ」
 セディムはなるほど、と頷いた。
「しかし、ああも喋らないとなあ」
 ノアムは幼馴染の切ない気分がうつったようにため息をついた。
「何で、ああなんだろうな」
「うん」
 二人はレンディアの村を見下ろしていっとき黙り込んだ。
 大人になるのは難しい。そんな気がした。

10.

「照るとも降るとも、どっちとも言えん様子じゃな」
「何のことだ?」
 アルドムは一緒に段々畑を見回っていたユルクの顔を、怪訝な面持ちで見返した。夕空は色といい雲の形といい、明日も夏の強い日がさすだろうことを示している。
「子供たちの按配のことだ」
 それを聞くとアルドムは眉根を寄せた。
「確かにしっくりいってるとは言いがたい。メルがあのとおり大人しい子だから、少々思いやられるな」
「ノアムももう少しうまくやるだろうと思ったんじゃが」
 二人はそろって難しい顔つきになった。
 ヒラ麦の畑は夕日に照らされて、やがて来るだろう秋の穂の色を装っている。
「これからどうするのだ?」
 アルドムはせっかちそうに尋ねた。「じき夏が終わってしまうぞ」
 まあ、そう急くな、とユルクは手をあげて友人を押しとどめた。
「急かして枝に花芽が出るわけもなし」
「まあな。ではもう少し様子を見てみようかの」
 城臣二人は手をこすったり、意味もなく頷いたりして心配事を頭から追い払おうとした。
 子供のつきあいというのも、思ったより難しい。そう考えて、二人はため息をついた。

11.
 夜半の城の書庫で、ヤペルは山積みの書物を片付けていた。
 夏も半ばを過ぎれば、小王国では冬支度が始められる。食料や薪、薬草。城臣たちの手でそれらの目録が作られ、次々と貯蔵庫へ運びこまれる。
 いつもの忙しい季節がやってきた、とヤペルは自分の肩を揉んだ。
 と、その時部屋の外で動く気配がする。
 ヤペルは扉を開けた。が、不審なものは何もない。空耳かと戸を閉めかけた時、足元の影に驚いてヤペルは思わず息を呑んだ。
「何と、セディムさま」
 小山のように座り込んでいる子供を見て、ヤペルはつい大声を上げた。
「少々夜更かしが過ぎませんかな」
「ヤペル、仕事は終わったの? 待ってたんだ。大事なことを聞きたいんだよ」
 セディムは目をこすりながら立ち上がった。というより、眠さのあまり立つ気も起きないようで、ヤペルに引きずられるようにしてようやく歩き出した。
 二人は狭い階段を登り、小さな灯りのともる子供部屋へ辿り着いた。
 ヤペルは半分眠りかけてすっかり体の温まったセディムを寝床に押し込むと、口を開いた。
「さて、朝まで待てない用事とはいったい何でしょうか? 質問はひとつだけですぞ」
 セディムの質問はたいてい際限がない。質問の答えに更に問いを差し挟む。放っておけばいつまでも続くことを、ヤペルは心得ていた。
 セディムは急に眠気が飛んだように寝具の下で目を大きく開いた。
「ヤペルはどうやってマナに結婚してって言ったの?」
 これにはヤペルも驚いたが、妻も自分も若かった頃のことを思い出そうと首をひねった。
「あれは踊りが好きですから、祭りで一緒に踊ってくれと言いました」
 そういえばあの頃は仔リスのようにくるくると舞う娘だった、とヤペルは考えた。最近はずいぶん重くなったようだが、と。
「踊るだけ?」
 セディムの問いにヤペルは我にかえって小さく笑った。
「いや、新しい上着が欲しいと言っているのを聞いたので、平原で買って贈り物にしましたよ。おや、それだけではないな。飾り石なども買った気がする……」
 セディムは口元まで寝具をひっぱりながら考えた。平原まで買いに行くとなると、これはおおごとだ。
「ところでセディムさま、ミユを嫁御にするという話はどうなりましたかな?」
 ミユは二十歳すぎの村の女だ。セディムは亡き母に似ているという彼女にとても懐いた時期があった。
 しかしヤペルのからかうような言葉に、セディムはむっとして答えた。
「ミユはもうシスカのお嫁さんになったじゃない。そうしたらもう他の人とは結婚できないんだよ。知らないの?」
「おお、そうでしたな」
 まったくいつまでも子供扱いなんだから、とセディムは不機嫌になった。
 ヤペルはそのセディムを寝具ごとぽんぽん叩いた。若君が眠くなると不機嫌になるのはいつものことだ。
「さあ、もう眠りなさい。明日は早起きするのでしょう?」
「ヤペル、メルのことは誰にも内緒にしてくれる?」
 ヤペルは唐突に出た名前に驚いたが、そ知らぬ振りをした。
「もちろんですとも」
「絶対だよ。父上にも、他の城臣にも」
 考えてみればセディムの恋の相手になるような年の女の子は数えるほどしかいないのだ。食事も残すようなもの思いの原因はこれか、とヤペルは内心頷いた。
「約束しましょう。レンディアの城臣の名にかけて」
 それを聞くとセディムは安心して目をつむった。ヤペルは明かりを消して、そっと部屋から滑り出た。

 誰にも言わない。
 その約束をしたことを、ヤペルは何日かあとに後悔することになった。

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