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風渡の野 10 | ||
19. | |
雪おろしの済んだ畑で、畝作りがはじまった。 土を掘り起こし混ぜてから、植える作物にあわせて畝を整える。まだ雪おろしも終わらない畑もあれば、すでに土を盛りあげようという場所もある。 早く春を迎えようとばかりにレンディアの村人たちは鍬を奮っていた。 その畑の間の道を、上がったばかりの朝日を浴びて歩いていくのは春の使者と城臣たちだ。 この畑にはタラ根、あちらにはヒラ麦を。今年の夏は暑くなりそうだと見ているが、エフタでの予想は如何なるものか。 それに答えて春の使者は、去年の成果と今年の植付けの予定を語っていた。 それをのどかな春らしい風景だと村人たちは喜んで見ていたが、そのうち誰かが声をあげた。 「おや、使者がお一人しかいないぞ」 「本当だ。肝心のエフタの姫は?」 「多分、上の畑をご覧になってるんじゃないのか? 今朝早くに、セディムさまがイバ牛に鞍を置いていたから」 牛小屋を持ち場に働いている男が鍬に寄りかかりながら言った。 「最初は二頭引き出そうとしておられたが、結局、長の牛だけだった。エフタの姫はご自分の牛に乗ることにしたようだからな」 土を掘りあげていたノアムは、汗を拭き拭き畝から身を起こした。 「もう一頭はどれだって?」 「確か、尾白の牛だったか」 それを聞くと、ノアムは思わずにやりとした。 「それじゃ、行く先は畑じゃないな。上の狩場だ」 「だけど……姫の方だぞ」 「ああ。だが、尾白に乗るつもりだったなら山道だ。畑じゃないさ」 何でまた、狩場なんぞ? 女の姫に見せてどうするというんだ。男達は首を傾げたが、ノアムだけは笑みを隠した。 やるじゃないか、セディム、と昔ながらの兄貴分の顔になった。 エフタの姫は山歩きの好きなはねっかえりらしい。野菜の株だの苗だのを見せるよりは、余程気が利いている。それに上の狩場は昔からセディムの気に入りの場所だ。 こういうのを、何とか言ったな。 城臣たちがよく口にする諺があるのだが、ノアムにはどうにも思い出せない。少しばかり考えてから、小難しい言葉などよくわからん、と苦笑いした。 もう一度、鍬を持ち直して畑を見渡せば、ノアムにとっては馴染みのある風景が広がっていた。 「登れますか」 その声とともに、牛のくつわをとるようにセディムの手が伸ばされた。 ディスは先導に従って大きな岩を軽々と登り越える。その背に乗ったアーシアは振り落とされまいと、牛の太い首にしがみついた。 「大丈夫です。この牛も山歩きには慣れてますから」 空は晴れていた。冬の間、息をするたびに胸を刺した冷気もいくらか和らぎ、蒼天のもとでは心地良い。 二人はもう小半刻も、あちこちに雪の残る岩場を登り続けていた。勾配は登るほどにきつくなり、二頭のイバ牛は右に左に、つづれ織のように斜面を辿る。 「無理なら今のうちに言って下さい。降りられなくなってからでは困る」 先を行く牛の背からセディムは言ったが、その顔は足場を見定めようと山を見上げて振り返りもしない。 「大丈夫……です」 不機嫌な目つきで、アーシアはセディムの背を見据えた。そして、イバ牛の体勢が安定した瞬間に堪えていた息を吐き出した。 「だけど、上にはいったい何があるの?」 「上?」 セディムは初めて振り返って笑った。 「上には何もありません」 その朝早く、二人は牛小屋の前で顔をつきあわせた。そして狩場を見に行こうというセディムの提案で牛に鞍を置いたのだった。 最初、レンディアの山に慣れた牛がいい、とセディムは薦めたのだが、アーシアは首を振った。ディスが気に入っているし、エフタの牛ならどんな山でも歩けるはずだ。 何故そんな心配をするのだろうと思ったアーシアにも、じきにその理由がわかった。 城を後にしてまもなく道はなくなり、やがて足場にするべき岩を見分けられるのはイバ牛だけになった。背中に乗った人間たちは、ただその動きに体を合わせ、任せて山を行くより仕方なくなった。 アーシアは半ば意地もあって強気に答えたのだが、エフタの周囲にもめったに見ないほど急な岩場だった。 イバ牛たちが足を休めることができたのは、それからしばらく登ってからのこと。最後のひと岩を乗り越えて彼らが立ったのは、険しい斜面にいくらか張り出した岩棚だった。 アーシアはほっとして牛の背からすべり降り、ひと仕事終えたディスは苔を探して歩き回りはじめた。 「ここは?」 アーシアは汗にもつれた髪をかきわけ、はずむ息を抑えながら尋ねた。 「何もないなら、どうして……」 セディムは疲れた様子もなく、牛を放してやりながらアーシアに向き直った。 「下を見て下さい」 「下?」 アーシアは振り返った。足元には今、上がってきたばかりの目もくらむような急斜面が続いている。 が、まず目に入ったのはその高さではなかった。 「何て……きれいなの」 思わず声を上げ、アーシアは岩棚の端に立った。 左に東の峰、右に白の峰を見遥かすところに、二人の立つ岩棚はあった。 陽光は峰から谷へ差し込み、低く残る靄をとかしていく。山々を渡る風はうなり声をあげており、それを貫くように山ヒタキが高く鳴いていた。 景色を言い表す特別な言葉など、山に暮らす者の常で二人は知らなかった。しかし、からりと乾いた青空を背に、雪の山並みはいかにも美しかった。 |
20. | |
「どうです、悪くないでしょう。これがレンディアですよ」 そう言ったセディムの声には自信と穏やかな情愛がにじんでいた。 「城や畑だけではない。あの尾根の尖ったところから……」 峰の向こうまで、とセディムは山の全景を示した。 「曲がり尾根あたりまで、全てがレンディアの狩場です」 「ずいぶん広いのね」 目を落とせばレンディアの城と村、そしてそれを取り囲むように連なる段々畑が見える。畑の土は陽を浴びて、やがて来る秋を思わせるような黄金色に染まっていた。 そこに点々とみえる麦粒ほどの大きさのものが、立ち働くレンディアの村人なのだと気づいて、アーシアはため息をついた。 登ってきた高さにも驚いたが、あの麦粒それぞれが何かしらの物思いを持っていることに今更のように心ひかれた。 「ところどころで畑の高さが随分違うのね。あれでは麦を運ぶのが大変でしょ」 「あれはレンディア建国の頃の名残ですよ」 セディムは驚いた様子で答えた。畑をひと目見て、それに気づく者はレンディアにも少なかったからだ。 「アレイオスの時代に作られた畑の形が、そのまま残っているのです。麦を運ぶ時は迂回して、細い切通しになった坂道を登るしかありません。畑の段差は、大きいところで人の背丈の三倍にもなる。到底登れる高さではない」 「登るって……?」 いったい何の話か、とアーシアは目を見開いた。 「まだ平原から追っ手がかかることを恐れていた時代の話です」 アーシアのぽかんとした顔を面白そうに見ながら、セディムは眼下の畑を指差した。 「何か事が起これば、下の畑を捨てるつもりだったのでしょう。そうすれば切通しだけを守れば、誰もレンディアへ入ってくることはできないですからね。まあ、それも昔の話です」 今の時代には不便なだけなのだが、とセディムは苦笑した。 「ここへはよく来られるのですか?」 風に吹き散らされる髪を抑えながらアーシアは尋ねた。 「時間があれば。もっとも長が一人で出歩くな、と城臣たちはいい顔をしませんが」 そう言ってセディムは何気なしに左肩をすくめた。 「ここへは峰の雪だまりを見に来るのですよ」 「あそこ?」 アーシアの指差す先を、セディムは身をかがめて同じ目の高さで確かめた。 「そう、雪の形がイバ牛と似ているでしょう。春の終わりには、もっと形がはっきりして来る。そうでなければ冷たく短い夏になると言われています」 それを聞くと、アーシアは眉をひそめた。レンディアもエフタも同じ、夏が短ければどんな冬が待っているか、よく知っていたからだ。 「その時には冬に備えて、寒くても育つ根菜を植え足す。あとは狩人の腕が頼りだ」 「でも……」 アーシアは秋のエフタの様子を思い起こした。 「でも、そんな夏なら獲物も痩せてるわ」 「そうなれば、人も痩せることになる。こればかりはどうしようもない」 何か言いたそうなアーシアにちらと目をやり、セディムは言葉を継いだ。 「その命を取るか否かを決めるのはハールです。ただ、できることは何でもする。冬の食料を切り詰めたり、狩の足をのばすといったことです。だから、狩人たちは見切りをつけて帰る頃合を定めるのに、いつも迷います。エフタでも同じでしょう」 アーシアは頷いた。確かにそれは幼い頃からよく知っている事柄だった。 例えば根菜の植えつけ、冬の間の小さなパン。だが、狩の間に男達が思うことなど、これまで聞いたこともなかった。 何故、こんな話をするのだろう? アーシアは、畑や山を指し示すセディムの横顔を見上げた。 父も兄も、この長と同じようなことを考えているのかもしれないが、アーシアには話したことはない。女子供に聞かせる話ではないと彼らは言うのだ。 「それでも、ここはいい」 セディムの言葉に、アーシアは我に返った。 「ここに立つのが私は好きなのですよ」 「雪だまりを見るのが? いい夏でなくても?」 「そうです」 セディムは答えた。 「城にいて、城臣たちが持ってくる書きつけだけではわからないものが見えてくるからです。冷たい夏でも、広い縄張りを持つ獣が肥えていればどこに食物があるかわかる。彼らの巣の深さから、冬の様子をうかがう事もできる。冬がどんなに厳しくても、それをやり過ごす術も山にあるものだ。それに……」 そこまで説明して、セディムは困ったように次の言葉を探した。 「それに、遠くの峰は、何と言うか……そうですね。さっきあなたが仰ったように、きれいなものだ」 その晴れ晴れとした顔を、アーシアは見つめ返した。 城の、あの長の間の椅子に身を沈めていた時とは別人のようだ。他愛ない話をすれば、兄と同じくらい若く見えるのに、と不思議に思ったのだ。 「あの、セディム……さま」 アーシアはとまどいながら口を開いた。 「先にお会いした時は……尾根でも、城でも、失礼なことを言いました。謝ります。ごめんなさい」 セディムは心底驚いた様子だった。 「気になさることはない。それを言うなら、私も充分失礼だった」 妙な言葉だが、言った方も言われた方も気づいていなかった。 「兄からお噂は聞いてましたけど、どんな方かさっぱり思いつかなくて。でも、お会いしたら、考えていたほどお年の方ではなかったし……ええと」 「ティールは……」 いったいどんな話をしたんだ、とセディムは言葉を飲み込んだ。いずれにしても事は手遅れというものだ。 「あら、兄は悪口なんて言いません。いい方だ、素晴らしい長だっていつも話してます」 「そうならありがたいが」 「本当です。ただ……」 アーシアは唾を飲んだ。 「できれば、婚礼の話はなかったことにして頂きたいんです」 |
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