風渡の野 目次 10


風渡の野  9 
17.
 春浅い夕暮れの、ひやりとした空気が窓からしみ渡ってくる。
 落ち始めた陽の光が部屋の奥にまで腕を伸ばし、いっときだけの温みが三人を包んでいた。
「秋に、レンディアに来客はありましたか?」
 ティールの問いかけに、セディムは口に運びかけていた茶碗をとめた。
「……客、だと?」
「秋にエフタからふもとの市へ下りた者がいたのですが。彼がその帰り道に、旅人を見かけたというのです」
 その言葉に、セディムはふと眉を寄せた。
 小王国を訪れる旅人はごく稀だ。
 大方が賢者の住む庵があると信じてツルギの峰を目指して登ってくるのだが、彼らは噂の真相に肩を落とすか、あるいは諦めきれずに更に高く尾根を越えていく。
 いずれにしても客人があれば半年や一年はその話題で酒が飲めるという土地柄だ。来客があったのなら、縁談のために行き来した使者が噂を語りもらすとは考えにくい。
 そして、セディムの様子を見れば、問いへの答えは明らかだった。やはり、とティールは口元を引き結んだ。
 エフタからふもとへ降りたその村人は、冬の間、折にふれて旅の話をしたという。いい取引ができたことを自慢げに話しては、周囲の者にからかわれた。
 ある夜の酒の席では、隣国に客人があったようだ、という話もした。その一言はたまたま居合わせた城臣の耳に入り、しかし、一度は忘れられたらしい。
 やがて冬の風が和らぎはじめる頃。レンディアから使者が訪れたことで噂話は思い出され、まもなくエフタの長、ウォリスの耳に入った。
 しかし、珍しい客人の話など、使者の口からもたらされてはいなかった。
 奇妙なことだ、と、ウォリスは息子のティールに語った。

「旅人は平原風の身なりだったようです。レンディアの近くだったので、こちらへの客人だろうと思っていたのですが」
「近く、とは?」
 短く尋ねたセディムの口調は厳しく、先に使者を迎えた折とは別人のようだった。それに気づいて身を固くしながら、
「レンディアの下の沢のあたりで」と、ティールは答えた。
「遠目ではっきりとはわからなかったようですが、五、六人はいたそうです」
 セディムとラシードは顔を見合わせた。下の沢といえば、レンディアからは半日たらずの場所だ。
「……しかし」
 セディムは隣国の友人を見た。「秋に客人などなかった」
 三人の間に、奇妙な沈黙が下りた。
「妙、ですな」
 奇しくも、エフタの長と同じ言葉を口に上せたのはラシードだった。
 その横でセディムは目を細めた。ティールの方を見やりながらも、その瞳に友人の姿は映っていないようだった。
「……平原から、わざわざ何をしに来たのだろう?」
 ひと言ひと言を確かめるように口に上せ、自分自身に問いかけているようだ。
「もう狩には向かない季節だ。毛皮を獲るにも山を歩くのにも、な」
 それでなければ平原では、また聞いたこともないような賢者の噂でも流れているのか、とセディムは苦笑いした。
「それに、そこまで来ていながら、何故レンディアを尋ねてこなかったのだろう」
 三人は口を閉ざした。が、目線を交わしても、思い浮かぶ理由などなかった。
「道に迷ったのでしょうか?」
 問いかけようとしたティールの言葉は、いい終わらないうちに口の中で消えていった。
 ふもとからレンディアまで、慣れない者なら二十日はかかる。ただ迷って来るような場所ではない。
 雪に閉ざされようとしている小王国を訪ねながら、レンディアにもエフタにも立ち寄らなかった平原の男達。ただ不可解なことだった。
「レンディアの誰かが、ふもとで何か変わった話でも聞いてはいませんか?」
 しかしセディムは首を横に振り、ラシードを見上げた。
「心当たりはないか?」
「私が平原を離れたのは冬の終わりですが」
 ラシードはひげをこすった。
「ナバラ、タルキス、アマラ……どの宿場でも聞かれたのは遠いシル河での戦のことばかり。こいつは耳新しくもない話ですからな」
 それを聞いて、セディムは眉をひそめた。
 訪れる者もない静かなレンディアで、平原の町の名が口にされることはめったにない。しかも戦などとは、いくら遠い地の話と言えども歓迎される話題ではなかった。
 小王国は平原とは深くは関わらない。それはこの地に祖先が足を踏み入れた頃からの伝統だった。昔話に語られるアレイオスが、平原を捨ててここへやって来たからだ。
 ふもとの市でのささやかな取引の他に、山の民は何かを望んだことなどない。また、突拍子もない夢と期待を抱いてやってくる旅人たちも、客人としてそれなりに遇してきた。
 益を望まず、来るものは拒まず。
 ただ、静けさのうちにあることが小王国の望みだった。
 セディムは内心でため息をつき、頭を振った。
「では、その他には?」
 そう問われて、ラシードは平原で会った商人や酒場での話を思い出そうと目を細めた。
「強いて言うなら、更に遠くの話だが。イベリスにはアイルに恵まれた王子がいるという噂も耳にした。嘘か真かわからんが、気にかかることではある」


18.
「アイル?」
 ティールが目をあげた。「どこかで聞いた覚えはありますが」
「アイルはハールが人に与えた力です」
 ラシードはエフタの後継者を見て、その年若いことに今更のように気づいた。
「かつての長たちは皆、この力を持っておりました。いや、長だけではない。古い時代には誰もが備えていたものです。何と言いましょうかな……望む力。事を思い描く力という意味で」
「獲物を見つけ、矢筋を導き、雨や太陽を呼んだという、あれのことか」
 横からセディムも口を挟んだ。ラシードは頷きながらも、内心驚いていた。
 小王国の代々の長は平原を逃れてきた王族の子孫、いわばハールの子の直系だ。アイルを備えているとすれば他の誰よりふさわしいはずの二人すら、古来の言い伝えをよくは知らないらしい。
「しかし、昔話だろう」
 セディムは不審げな顔つきで、「ハールに好天を頼んでそうなるなら、誰も苦労しない」
「そう、昔の話です」
 ラシードはかすかに嗤った。
「先々代の長の大叔母君がアイルを備えた薬師だったそうだが、それが最後です。以来、それとわかる強い力を持った者など現れてはおりません。平原でもアイルを持った者が出るのは、昨今とても珍しいこと」
「……しかし、それでは」
 ティールは戸惑いながらラシードの顔を見た。
「それはいい噂ではないのですか? アイルとはハールが我々に下された恵みなのでは?」
「少しならば」
 その言葉を聞けば、セディムもティールもその意味を掴むことができた。
 ハールは釣合いが取れていることを好まれる、と小王国では信じられている。強い力が現れるということは、人にとって必ずしもいいことばかりでないことは容易に想像できる。
「……春に雪が消えゆくように、この世界からもハールの力は薄れていこうとしている。それは下の世界を旅すればわかる」
 ラシードは身に馴染んだらしい平原の服に目を落とす。
「平原は長いこと戦続き、暗い世です。誰もが憂いている。この暗さは、暁の前の闇なのか、それとも光の消えゆく前触れなのか、と」
 一瞬、若い二人は開きかけていた口を閉ざした。信心深い人々に育まれた二人に聞き捨てにはできないことと思わせる重みが、その言葉にはあった。
 セディムは背中に走ったかすかな寒気に身震いした。
 本当に風でも通ったのか、扉の外で、明かりの落とす影が小さく揺れるのが見えた。
 それを目におさめて、セディムはふと眉を寄せた。

「こちらをお暇したら、妹を連れてふもとへ降ります」
 ティールはもの思いを振り切るように、きっぱりとした声で言った。
「平原へ?」
「工房都市まで。あそこなら平原中の噂を聞いた商人が集まっています。もしかしたら何か聞けるかもしれませんから」
「そういうことならば」
 平原の記憶をたぐっていたラシードが顔を上げた。
「そういうことなら、タジルへ行かれるといい」
 工房都市はオロ、タジル、セラという三つの町から成っている。ティールはエフタを出る前に見たふもとの地図を思い出した。
「市場を見るだけならセラでもいいが、事情通や多少なりと目端のきく者はタジルに集まる。通りいっぺんでない話を聞きたいなら、あそこへ行かれるといいですな」
 それを聞くと、セディムは横目でラシードの方を窺った。
「怪しい輩がうろつくような町ではないのか」
「……大丈夫です」
 と、ラシードは興味深そうに目を細めて長を見た。
「ティール殿も、もちろんアーシア殿にも心配ありません。私が保証しよう」
「それが怪しい」
「お言葉ですな」
 そう言ってラシードは、からからと笑った。
「タジルも商いの町です。まあ、レンディアほど静かとは言い難いが、それでも客が安心して来られないような場所ではない」
 そんな二人の無遠慮な様子を、ティールはもの珍しそうに眺めていた。

 アーシアは終いまでは聞いていなかった。
 アイル、工房都市……戦?
 服の裾を翻し、足早に廊下を歩き去りながら、アーシアは耳慣れない言葉を何度も思い出していた。それはこれまで聞き馴染んだ噂話とは別の場所の話のようだった。
 平原といえば。
 飾り石、きれいな色の細い糸の布、珍しい果物。たくさんの人々や大きな建物。そのどこにも、戦などという言葉は出てこなかった。
 ああ、そうか、とアーシアは胸のうちで頷いた。
 父長が、女子どもはもう寝る時間だといってアーシアを広間から追いたてた後も、ティールが城臣たちと一緒に残っていることがあった。
「だから、兄様は知っていたんだわ」
 小さく呟いて、アーシアは足をとめた。
 石壁に飾られた織絵には、鳥を追う狩人の図が描かれている。
 何人もの狩人が白い鳥を布の下の方へ向かって追いたてている。その手にしているのは弓矢だけでなく、何か布切れのようなものを振り翻している姿もある。
 おそらく獲物を脅して追い立てているのだろう。エフタでは見たことのない意匠だった。
 私の知らないことがある。
 アーシアは今度はゆっくりと歩き出した。
 エフタとレンディアなんて、こんな近くのことですら本当には知らないんだわ。
 そうして、小さな灯りのともされた部屋へと戻った。
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