10 風渡の野 目次 12


風渡の野  11 
21.
 どこか高みで、鳥の音が響いた。
 だが、それにも気づかずセディムは目を瞠った。
「どういうことです?」
「私は知らないものを見たいんです」
 アーシアは相手の不可解な顔を見て、自分の言葉が唐突すぎたことに気づいた。
「知らないところへ行ってみたいの」
「……レンディアを見に来たように、ですか?」
「ええ。もっと遠くへも行きたいわ」
「しかし」
 セディムはアーシアの言葉の意味を掴もうとしていた。
「これから平原まで行かれるのでしょう。それでいいではありませんか」
「工房都市まで、です」
 と、アーシアはきれいな形の眉を寄せた。
「それも、用事が済んだらすぐ帰るのですって。つまらない。次はもっと遠くの町にも行きたいわ」
「次?」
「ええ。秋の狩の後に」
 その計画を思い描いたか、明るい声だ。
「でも、婚礼を挙げたら旅に出るなんてできないでしょう。だから、お断りしたいの」
「なるほど」
 セディムは頷いた。
「確かに、長の妻となられた方には務めが多い。城の切り盛りやら、女達の先頭に立って祭りの支度を整えたりもする。旅に出る暇などないでしょうね」
「……あなたはいい方ね」
 アーシアは驚いた顔の相手にかまわず言葉を継いだ。
「ここがお好きなんでしょう。レンディアの畑も人も、大事にしてらっしゃる。それは私にもわかります。だから、あなたはレンディアのためになる人と一緒になる方がいいと思うわ。私はだめ。遠くへ出かけるつもりなんですから」
 セディムが返す言葉もなくしていることなど、アーシアの目には入らなかった。
「父や兄の言うことはおかしいわ。間違ってると思う」
 そうして、牛が踏み固めた雪の上をぶらぶらと歩き回った。
「私が礼儀をわきまえないと言うけど、ただ知らないだけよ」
 あの狩の織絵を思い浮かべて、アーシアは悔しそうに話した。
「父や兄はずるい。女は村から出ないものだ、なんて言って。それでいて外へ出て何かすると、世間知らずだって怒るんだから。勝手だわ。私だって、知っていたら失礼なことなんて言いません」
 この無作法とも言える言い草に、セディムは思わず笑みを隠した。
 思慮深さで知られるエフタの長に、その後継ぎに、こんな言い方をする者などアーシアの他にいるはずもない。
 それにしてもはっきりした明るい口ぶりは、不快なものではなかった。
「ねえ、レンディアの狩人はどうやって雪鳩を追うのですか? 好きな方向へ、何人もかかって追い詰めるのでしょう?」
 しかし、セディムは真剣な顔を横に振っただけだった。
「これはレンディアの伝統の技ですからね。そう誰にでも教えるわけにはいかないですよ」
「そうなの」
「いや、もちろん……」
 つまらなそうなアーシアを横目で見て、セディムは言い継いだ。
「レンディアへ嫁いで来られるというなら、話は別なのですがね」
 突然、陽が翳るようにアーシアはしかめっ面になった。
 では、結構です、という棘のある声に、セディムは笑いをかみ殺した。
「しかし、何度も旅に出るなどと父上はお許しにはならないのでは?」
「そうね」
 アーシアはあっさり認めた。
「でも、方法は考えるわ。何としても行きますから」
 そのきっぱりとした横顔を見ながら、セディムはため息をつくしかなかった。
「なるほど、仰ることはわかりました」
 セディムは何か考え込むように、言葉を探しながら言った。
「ふもとへ下りるというのは、行き慣れた者にとっても楽しみがあるようですからね」
 そして、ふと顔を上げて牛を呼んだ。セディムの牛は苔を探しに、どこかへ行ってしまいそうな気配だったのだ。
「……どうです。婚礼の話は帰りまで置いておく、ということでは」
「帰り?」
「これは私にとっても大事な問題なのですよ。私も時間を頂きたい。平原の帰りにもぜひ寄って行って下さい。旅の話はいつだっていい酒の肴だ」
「そうね」
 アーシアは神妙に頷いた。「私だけでは決められないことを忘れてました」
「それに。もしかしたら、あなたも平原など一度でたくさんだと思うかもしれない」
「そんなことは……」
 言いかけて、アーシアはとまどった。昨日の立ち聞きのことが思い出された。
「確かに、何があるのかはわからないけど。行けばもっと知りたいと思うはずだわ」
 そう言い張るアーシアを、セディムは面白そうに眺めた。
「だが、忘れないで下さい。レンディアのことは、レンディアでなければわからないのですよ」
 そうして、二人はもう一度、レンディア全体を遥か下に見渡したのだった。


22.
 レンディアの城の一角から立ち上る煮炊きの煙は、朝から途切れることがなかった。
 普段、小王国では食事の支度は日に二回、朝と夜にしかしないものだから、これはごく珍しいことだ。畑から、狩場からこの煙を見た者は、今宵の春の祭りを思って心躍らせていた。
 畑の角々には長い竿が立てられ、そこに女たちが赤やら白、青の小旗を結びつけていく。旗の色の順番が違う、結び方がゆるい、大鍋を火にかけたいのだけれど、いつになったら場所が空くだろうか。
 そんなことを賑やかに話しながら、女達は働いていた。
「どうしたんだ、気に入った娘でもいたか?」
 村人の様子をぼんやり眺めていたティールは、肩を叩かれ我に返った。振り返ってみれば、立っていたのは幼馴染のスレイだった。
 幼いティールがレンディアへ来る度に一緒に遊んだ友人は、今は腕のたつ狩人の若者だ。そして、今でも会えば互いに軽口を叩く仲だった。
 そんな話ではない、とティールは笑った。
「レンディアへ来る度に思うのだけれど、従兄上はやはり立派な長だな」
 そう言いながら、ティールは朝から目にしてきた畑を、そして過ぎた秋の狩を語る城臣の言葉を思い返した。
 去年はレンディアでは予想より秋が短かった。狩人たちは、長の指示で例年より遠くまで足を延した。それもあって彼らは必要なだけの獲物を得ることができたのだという。
「城を見ても、畑を見てもわかる。レンディアにはいい一年だったろう、と。従兄上はするべきことを一つも見落とさないし、することに無駄がない。やはり聡い方だ」
「何だ、何だ。長の衣を継ぐ前から自信をなくしたのか」
 そう言ってスレイはティールの背中をどやしつけた。
 ティールの言葉はいつも静かで生真面目だ。スレイはそれを聞きながら、友人がいずれエフタの長となるのだということを久しぶりに思い出した。
 昔から決まったことではあったけれど、その意味は会う度に次第に重みを持ってきた。かつてはセディムにも気軽に話しかけていたのに、あの冬の日から長と敬いながら呼ぶようになった。
 そんな日が、この友人との間にもくるのかもしれない。そう思うと、スレイはどこかほろ苦い思いを抱かずにはおられなかった。
 ティールは困ったような笑みを浮かべたまま、スレイの肩に返礼といわんばかりに軽くこぶしを突き返した。
「元より自信などはない。やれることをやるだけだ。だが、もし……」
「もし、何だ?」
 ティールはためらいながら答えた。
「もしかしたら、妹の方がエフタのためになるのではないか、と思うことがある」
 スレイは幼馴染をまじまじと見つめ返した。「……女の長?」
「いや。特に長に、というわけではないのだけれど」
 そうしてティールはぶらぶらと畑の間の道を辿り始めた。スレイは無言で、その後について歩くしかなかった。
「アーシアは、妹のことを言うのも何だが、勘も頭もいい」
「例えば?」
「どんな牛でもたいていすぐに乗りこなす。弓矢の腕も、女にしてはいい」
「しかし、女では狩の先頭に立つというわけにはいかないだろう?」
「だが、もっと腕が上がれば、私が行くより役にたつ」
 そんな、と言葉を飲み込んだスレイの横で、ティールは続けた。
「それに事の判断が早い。あれは、何というのかな、ろくに説明も聞かないうちに事の骨子をつかんでしまう。そして、ああしたい、こうしようとすぐに行動を起こすのだ。しかも大概、やることが間違っていない」
 尾根先に上がった合図の矢。それに、山で最初の若芽を見つけた朝、アーシアはいつにも増して頑固だった。
 理屈や道理ではなく、勘とでもいうような、何か。
 ティールは足を止めて、友人の顔を見た。
「別に自分の代わりに父の跡目を継がせよう、などというわけではないんだ。ただ、エフタのために働くのに、私よりふさわしい者なのではないかと思うこともある」
 スレイはごくりと唾を飲んだ。
「……俺には、何というか、うまく言えないんだが」
 正直なところ、ティールが何に気を揉んでいるのか、スレイにはわからなかった。そもそも長になる、とはどういうことなのかがわからない。そんなことを考えたこともなかった。
 しかし、友人の言葉に反発を覚えたのは確かだった。その理由を探りながら、スレイはゆっくり口を開いた。
「お前は……間違ってると思う。長ってものが、何を考えているのかはよくわからん。セディムが、どう考えて命を下しているかなんて想像もつかない。俺やノアムは従うだけだからな。
 ただ、イバ牛についてなら俺にだって言える。すぐにつきあい方を覚えるからって、いい狩人とは限らないだろう? 確かにそういう奴もいるさ。ディンやセディムがそうだ。だが、それだけじゃない」
 スレイは足を止め、ティールと真直ぐ向かい合った。
「世話をして牛の癖を掴み、牛も乗り手をよく知ってる。そうやって長い時間かけて信頼を築くのも才のうちだ。いざ獲物を前にした時、そういう事がものをいうというのは知っているだろう?」
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