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風渡の野 17 | ||
33. | |
カデルの押し殺した声の他には、何も聞かれない。 ある者は苦々しい顔をして、ある者はカデルと同じように顔をゆがめている。誰も口を開かず、そうしてこの静かな地に似合わない、忌まわしいできごとを受け止めようとしていた。 「旗が立っていたと言ったな」 顎に手をあて考えながら、長はぽつりと尋ねた。「どんな絵だった?」 「はっきりは見てねえんです。風が弱かったから……」 顔を上げることもできずにいるカデルは、よわよわしく鼻を啜った。 「た、多分、鳥の羽のような絵でした」 「色は?」 横合いから、ラシードが尋ねる。 「黒い鳥……それに白。いや、そうじゃない。黄色だったかも。黒と……」 不意に、その声が揺れた。 「違う、思い出せねえ。思い出せねえ!」 「わかった、カデル。落ち着け」 薬師は長に向かって首を振った。これで、終いということだ。セディムは立ち上がると、エフタの男の肩に手を置いた。 「カデル、よく知らせに来てくれた。礼をいう。まずは、ここで休め。傷を治せ」 穏やかな声に、その言葉に、カデルは何度も頷くように身をゆすった。だが、落ち着いていたのはその時だけだった。悪い夢のような光景が、その瞼にくりかえし訪れるのか。 セディムと城臣たちが部屋を出た後も、身をよじるような嗚咽が聞こえていた。 「あの男、城に置いておくので?」 長と城臣たちは、長の間にふたたび顔をそろえていた。 アレイオスの伝承を色とりどりに綴った壁掛けを背にして長が、その前に円を描くようにして城臣たちが座っている。 誰かの問いに訝しげな長を見て、ヤペルは説明した。 「カデルはノルドの嫁さんの縁続きです。ノルドのところへ行かせた方が落ち着くのでは?」 「あの状態で?」 セディムは首を振った。 「あのまま村へなど行かせてみろ。彼は抱えた不安を全部口にする。そうして村じゅうが混乱するだけだ。何がどうなっているのか、我々が掴むまではここに留めておく方がいいだろう。ところで、ラシード」 それまで部屋のすみに沈むように座り込んでいたラシードは考えごとから顔をあげた。 「カデルの見た旗に心当たりはないか?」 「……黒い鳥の図。アルセナの第二皇子の旗です」 うっそりと答え、反応を見るようにラシードは城臣たちを眺め渡した。 「そして、金の尾羽の絵だったなら、直属の兵士だ」 「兵とは、たいそうなことだ」 トゥルクが呟いた。言葉は場違いに呑気なものだったが、そう言った顔はさすがに険しい。 長のすぐ前に座っていた、古参の城臣四人は眉を寄せていた。前の長の代から城に勤めて、セディムの片腕となってきた者たちだ。 だが、その古い記憶を辿っても、平原の兵士が小王国にやって来たなどということは、かつてなかった。 車座の残りはセディムが長となってから城へ上がった者たちだ。彼らは古参の手前、控えていたようだが、とうとうデレクがきつく言い放った。 「いったい平原の人間が何用だ」 その目は怒りと、よそ者への不信感で暗く光っている。 「平原の流儀など知らんが、戦のないところに兵士が来て、いったい何をしようというのだ」 「確かに、第二皇子といえば遠くシル河の戦場に張りついてるはず」 と、ラシードも腕を組んだ。「それが、こんな辺境で何をしているのか」 それを聞き納めながら、セディムは厳しい顔で低い椅子の背にもたれた。長い指が椅子の腕を叩く。 アルセナ。それは遠い戦場や商人たちの行く先として、話題に上る名前だ。その姿がここに現れることなど、決してなかったはず。 「……ユルク、彼らはこれからどうすると思う?」 かつてセディムにさんざん手を焼かされたユルクは、城臣の最年長。今では長の相談役という立場にあった。長の横で口を閉ざしていた彼は、年老いてなお鋭い目を伏せて答えた。 「エフタの城を手に入れ、村を服従させる。戦場にいるのが筋の人間にはたやすいことでしょう。その目的はエフタだったのかもしれないし、それだけではないかもしれませんな」 「……ここへも来ると?」 その長の目を、ユルクは見返した。「そうでないとは誰にも言えません」 「エフタはどうなる?」 誰かが声高に言う。 「村を襲った狼どもを追い払う力はあるのか」 「狼ではない、剣を持った人間だぞ」 「我らが盟友は腰抜けではない!」 そう叫んだ男は怒りで青ざめていた。「矢のあるかぎり、獲物を射抜くまで諦めることはない」 「そうだ。城には長も居られるのだ」 「……ウォリスの命はない」 ひやりとした声に、城臣たちは口を閉ざした。声の主に視線が集まる。 「どういうことだ、ラシード」 セディムの声は固かった。その長をちらと見たラシードの目は暗かった。 「カデルは長が白い服を着ていたと言った。手を縛られていたとも。どちらもアルセナでは処刑する虜囚に対する仕打ちです」 「白い服とは……」 「見せしめのためです。胸を貫き、血の色を見せるため……」 城臣たちは息をのんだ。こみあげるものに、セディムは思わず口元を拭った。 |
34. | |
窓の外で風の音がした。 夕暮れが近づく山の静けさに、いっそう大きく聞こえるのだ。夜は晴れるだろうと、城臣たちはその音を聞くともなしに聞いていた。だが、彼らの思いはそこにはない。 一同は静まり返り、固唾をのんで長のひと言を待っていた。 「……嵐が来るのを、ただ待っているわけにはいかない」 セディムはゆっくり口を開いた。 「まず、外の男達に説明だ。エフタが平原の兵士の手に渡った、長も捕えられた、と言え。すぐには信じられないだろうが、全員が心してもらわなければ」 「我々は、レンディアはどうなりましょう」 「まずは身を守ることを考えよう」 誰かが祈りの言葉を呟いた。ハールがその子の命を守り、尽くすべき手を示してくれるように。彼らの顔を、セディムは眺め渡した。 「下の畑の周りに住んでいる者を城へ。なりゆきによっては全員が城へ避難しなければならないだろう」 その言葉を受けて、ヤペルは他の城臣たちに指図する。 集まっている村人への説明をトゥルクに命じた。古参で村人からの信頼も厚い、明朗な話し方をするトゥルクは、不安げな村人への説明にふさわしい。そして避難の支度、糧食の用意はデレクとルタン……。 長の示した考えに則って、ヤペルが他の城臣へ指示をする。城臣たちはそれぞれの責任で村のまとめ役の男たちを呼び寄せる。そうして彼らを中心にして、他の男たち、女子供が長の命に従うことになる。 レンディア中が動き出す。 それを見守りながら、セディムは腕を組み別のことを考えていた。その脳裏には、先に見た光景が焼きついていた。 イバ牛に跨ったカデル、その背中の見慣れない矢。そう、あの矢は背に刺さっていた。立ち去るカデルを狙って放たれたのだ。 セディムは思わず身震いする。そして、誰にも見られなかったならよいが、と考え、身をひきしめていた。 アルセナの兵士たちはきっとここへ来る。そして、その後はどうなるのか。そう考えて、セディムは苦い顔をした。 「ショル」 長の部屋から次々に出て行く城臣の、一人が振り向いた。腹の出た、普段は陽気に笑うショルも、さすがに厳しい顔つきだった。 「何でしょうか、セディム様」 「スレイと村の男を何人か選んで、西の橋へ行け」 そこで、セディムは息を吸った。「縄蔓を切って、橋を落とすのだ」 傍らから驚いたヤペルが割って入った。 「セディム様、それは……」 「あの辺りは切り立った地形だ。橋と道を落とせば、兵士たちもここへ来ることはできない」 その言葉に、ショルは呆然となった。 「エフタを見捨てるのですか?」 「そうと決まったわけではない」 セディムは遮った。 「だが、今のエフタには手の出しようがない。まずはこちらの身を守るべきだ」 「……わかりました」 ショルは唾を飲み、長の言葉を噛みしめながら部屋を出て行った。 後にはユルクとヤペル、それに薬師と長だけが身を固くして座っていた。彼らの耳にはショルのひとことが残っている。 エフタを見捨てるのですか。 否、とは答えきれなかった、そのわけを思ってセディムは眉根を寄せた。代々の長も、似たような決断を迫られたことはあっただろう。だが、その相手が雪や嵐でなかったことなどない。 ハールの意思はどこにあるのか、ことさら信心深いわけでもないセディムも、祈り尋ねてみたかった。 「さて」 そう言って、腰を上げたのはラシードだった。 「私は怪我人の様子を見てこよう」 「ラシード」 その薬師を、セディムは呼び止めた。一瞬、ためらうような間があったが、当人も気づいてはいなかった。 「あとで私の部屋へ来てくれ。頼みたいことがある」 |
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