17 風渡の野 目次 19


風渡の野  18 
35.
 城の前には男たちが集まっていた。
 畑仕事も手につかず駆けつけてきたのだろう。所在無げに立ち尽くす手には、まだ土のこびりついた鍬を持っている。
 彼らにむかって長からの命を待つように言い置いて、城臣たちは城の中へ消えた。だから、おおかたは立ち去った後だった。
 だが、それでも不安を隠せない顔で残った者もいる。エフタの使者とは縁続きであるノルドや年若の狩人たちだ。
 じきに話を聞けるはず、と彼らは幾度も長の間の窓を見上げた。そうやって待つしかない時間をもてあますうちに、憶測ばかりが膨らむのも仕方のないことだった。
「まさか、エフタの中での不和じゃあないだろうな」
 一人が仲間の顔を見回して、落ち着かない声で呟いた。
「馬鹿を言うな」
 叱咤の声がすぐに飛ぶ。だが、不安であることにかわりはない。苛立ちが声に滲んだ。
「諍いごとであっても、弓矢を持ち出すなど考えられん」
「それに忙しい植えつけの時期だぞ。くだらん争いなど、そもそも長が許すわけもないだろうが」
「だが……」
「矢を放ったのは、ふもとの狩人ではないか?」
 誰かの言葉に、男たちは静まり返った。「何だって?」
「ふもとの村の男ではないのか。毛皮か羽を手に入れようと……」
 そう口にした当人も、意味を考えているうちに次々と不安を思いついたに違いない。土埃に汚れた顔色はみるみる悪くなっていく。
「だから、カデルと争いになったのかも」
「こんな季節に?」
「青鷹の冬の尾羽を獲りに来たのかもしれんぞ」
 その言葉に村人たちは顔をしかめた。
 青鷹や雪鳩の冬の羽は、ふもとの市で高く売れるもの。それを勝手に捕らえて持っていかれるなど、小王国にとってはゆゆしいこと。
 それに狩人が来たとなれば鳥だけでは済まない。ウサギや山リスといった食用にする獣も狙われるだろう。
「狩場が荒れるぞ」
 山の民の財産である羽ももちろんだが、食料となる獲物を奪われることはさらに問題だ。
「黙って見ているわけにはいかん」
 それに同意の声が広がる。まだ、そうと決まったわけではないという言葉はざわめきにかき消された。
 その時、城の重い扉が開き、トゥルクが現れた。
 目の前の騒がしい男たちを眺めまわすと、城臣は鷹揚に口を開く。
「何じゃ。あることないことを女のようにおしゃべりか」
 途端に男たちは顔を見合わせ、口を閉ざした。
「トゥルク」
 と、ノルドが前に進み出る。
「カデルに、エフタに何があった?」
 不安にかられて憶測したことを恥じている様子だった。だが、尋ねずにはいられない思い詰めた表情でもある。
 その肩を軽く叩くと、トゥルクは答えた。女房の親戚の命に別状はない、そして。
「さあ、皆を呼んできてくれ。セディム様からの命を預かっとるんだ」

 城の前に村中の者が集められた。
 そして、想像すらできなかったことをトゥルクから聞かされている彼らの頭上。夕陽の差し込む窓辺から、セディムはその光景を見守っていた。
 セディムはトゥルクに、村の者には事実だけを話すようにと言い渡していた。
 矢傷の使者のことも、アルセナの兵士のことも伝えるように。だが、エフタの長の命については憶測に過ぎないと口止めをした。無用の混乱を招きたくはなかったのだ。もっとも城臣の誰も、もはやそれを疑ってはいなかったのだが。
 眺め渡した顔、顔、顔。驚き、とまどい、怒りと怯え。何より問いたげな表情が、長の目についた。
 いったい何故なのか?
 そう思うのも無理はないと、もう幾度めにか考えながら、セディムはユルクやヤペルと交わした話を思い出した。
 長の間から城臣たちが出て行った後、膝をつき合わせた彼らの口にまず上ったのは、もしスレイが間に合わなかったら、ということだった。
 西の橋を落とせば、兵士たちはレンディアへはまず来られまい。橋を架けなおすための材料など、春先の小王国のどこを探したってないのだから。それは三人が頷いたことだった。
 だが、もし間に合わなかったら?
 エフタを襲った兵士が同じようにレンディアへ攻めてくる。
 それを止めるためには山道に弓矢を手に、狩人たちを潜ませなければならないだろう。村中を避難させながら、そんな人手を割けるものだろうか。
 まして、すでに諦める覚悟をした下の畑のかわりに、城の周囲に植えつけを急がなければならない時期だ。小王国を脅かしているのは兵士ばかりではない。冬に食料が足りなければ、兵などいなくてもレンディアは斃れるだろう。
 橋を落とせるか、否か。それがレンディアにとっての岐路だと三人は捉えていた。
 そのもの思いから、セディムはふと目を上げた。
 村人の人垣の向こう、畑のひと角が見える。そこに植えられているのは、この冬の終わりに帰郷したラシードが携えてきた平原の麦だ。植え替えたばかりの苗の淡い色に、セディムの目は和らいだ。
 これは望みだ。
 平原のはるか東から運ばれた麦は、この辺境に根づくのか。期待であり、希望であり、運んだラシードにとっては誇りとなるかもしれない麦。その色は、まだ隣のヒラ麦の苗と見分けることはできない。
 その茎に勢いがつくのはいつだろう。葉は色濃く育つのだろうか。
 その時、背後の扉を叩く音がした。
 もう少し、緑を眺めていたい。そう待ちわびる視線を無理やり畑から引きはがし、セディムは振り返った。
「入ってくれ」
 そこに立っていたのは、ラシードだった。


36.
 村はにわかに慌しくなった。
 長の命で城へ避難するのは、村の約半数ほど。だが、動揺はレンディア全体に抑えようもなく広がった。
 男たちは家の鎧戸も扉も閉ざして、留守の間の嵐や獣に襲われることのないように備えをする。女たちは手早く荷をまとめた。悪天候の時に避難するのはよくあることだから、手馴れた様子だ。
 むしろ手がかかるのは幼い子供たちだ。何故、どこへ行くのかと大人にまとわりついて尋ねる。それを年上の少年や少女が「大遠征」へ行く、と称して、ひとまとめに城へと引き連れていった。
 彼らが去ると、村は途端に閑散とした。夕闇に沈みつつある石葺きの家々を、大人たちは落ち着かない様子で見渡していた。
 城には食料の蓄えもあるのだから、身の回りの品を持てばよいはずだった。だが、トゥルクは食料だけは余さず持ってくるように命じたのだ。
 この避難は予想外に長引くのかもしれない。
 言葉にできない不安に誰もが固く口を閉ざしたまま、城への坂道を足早に上っていった。

 陽の落ちた後の山は、みるみるうちに闇に沈んだ。
 普段ならば、夜が行きすぎるのを耐えているかのような山の沈黙。だが、今夜はそれをかき乱すように、ひづめの音が重く山道に響いていた。
 数頭のイバ牛がレンディアを出て北西へ向かう。その背の男たちは、エフタへと続く夜道を精一杯急いでいた。
「足元を照らせ」
「手綱を緩めろ。イバ牛に任せる方がいいぞ」
「西の橋へ、明け方までに着かないといけない」
 そう言って、仲間たちを急きたてたのはスレイだった。
「他にもやらなきゃならない事があるんだぞ」
 だが、互いに気持ちを奮い立たせていても、彼らの足は鈍りがちだった。夜の山道をイバ牛に走らせるなど、愚か者のすること。そう言われて育ったレンディアの狩人には無理もない。
 しかも、その目的が彼らの気持ちを萎えさせていた。

「橋を落とす?」
 その命を聞かされると、若者たちはスレイを取り囲んで呆然とした。城臣から命ぜられてスレイが選んだ、逞しい若者数人だ。
「村中が総出で、七日もかけて渡す橋だぞ」
「道だってそうだ」
「大昔から、エフタとレンディアをつないできた道なのに」
「何故だ?」
 一人がスレイに喰ってかかった。
「何故、長はそんなに急がれるんだ。話し合ってエフタを助けることもできるかも知れないのに、橋を落とせばおしまいだ。どうして……」
 怒りだか、絶望だかわからないものにかられた姿に、スレイはあっと思いあたった。
 彼の妹は、去年エフタへ嫁いだばかりだ。それを忘れてこの男を選んだ自分に、スレイは腹を立てた。
「わからん」
 苦い顔で、短く答えた。
「長や城臣の爺さんたちが何を考えているのか、そこまでは俺も聞いていない。だが、長は必要なことなら何でもする方だ。皆もよく知ってるとおりだ。それで充分だろう」
 きっぱりと言い切ったスレイを見て、他の男たちはためらいながらも頷いた。
 先の男は暗い目をしてうなだれていた。彼にだけは、さすがにスレイもためらいを覚えて、村に残るように言った。だが、男は首を振り、仲間とともにイバ牛に鞍を置いた。

 長は、セディムは、レンディアを守りきるつもりなんだろうか。
 道すがら、馴染んだイバ牛の動きを体でとらえながら、スレイは考えていた。仲間の足を急きたてる以外は口を開くことはなかったが。
 いくら考えても、スレイにはセディムの心中はわからなかった。
 長がヤペルに、ヤペルが城臣の誰かに命ずる。その誰かが、スレイのところへやってきて橋を落とせ、道を崩せと言う。長の真意まで伝わるものではない。
 道を絶ち、アルセナの兵士の足を留める。それはわかる。だが、エフタは? 盟友を見捨てても、村を守るというのか。
 スレイの脳裏に、二頭のイバ牛の姿が浮かんだ。春先の山の斜面を迷いない足取りで降りてくるイバ牛と、その背の長と少女。
 まさか、セディムは戦うつもりがないのか?
「……そんな奴じゃない」
 スレイは思わず呟いていた。セディムはそんな臆病者じゃない。

 やがて、山道はいっそう細くなり、切り立った崖沿いに心細げにのびていった。雪のせりだして残る断崖を頭上にして、それでも道は続いている。
 男たちは松明を掲げる者の他は牛の背に乗り、列を為してそろそろと進んでいった。並んで行けるほどの道幅はなかったからだ。
 遠い稜線が夜空にうっすらと見分けられるようになる頃、男たちは峡谷に辿り着いた。
 幅はさほど広くはないが、両岸は切り立った深い谷。底には一年中融けることのない雪を溜め込んでいる。そして、その上に呆れるほど頼りなく見える細いつり橋がかかっていた。
「急ごう」
 ただ、それだけ口にして、スレイは石鉄の斧を取り出した。
 幾重にも編んで束ねた縄蔓の橋。地面に固く打ち込まれている部分は、大人の両手でも掴めない太さだ。それに向かって、彼らは斧を振り上げた。
 交互に打ち下ろす刃が、固く締まった蔓に食い込む。そして、あっけないほど早く、蔓はきしみ声をあげて切れた。橋は風を切る叫び声とともに谷へと落ちていく。
 男たちはその底を覗き込んだ。風に吹き上げられた雪片が舞うさまを見るうちに、不安に胸が締めつけられた。
「行こう」
 男たちは口元を覆う布を引き上げ、帽子をかぶり直した。
「念のために道を閉ざしながら村へ戻るぞ」
 彼らは来るときに目印をつけてきた曲がり角や隘路に着くたびに牛を降りた。そうして踏み鋤で道を崩し、岩を積んで道を断った。もう、誰も口をきこうとはしない。
 閉ざされた山道の傍ら、そこに春の使者が結んだばかりの赤い布きれが揺れているのは皮肉なことだ、とスレイは首を振った。
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