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風渡の野 19 | ||
1. | |
ぎいっ、と重い音に、アーシアは目を覚ました。 見慣れない天井と石壁の色。その壁に、窓からの朝日が暖かな色の四角を描く。 そして、再び響いた音とともに、窓が一瞬翳った。 アーシアは飛び起きると裸足のまま窓辺へ走り寄った。 ゆっくりと規則正しく、大きな羽のようなものが窓をかすめる。それは昨日、この宿に入る時に見上げた風車の羽だ。 ああ、だから、と考えて、アーシアは思わずくすりと笑った。だから、朝は窓を開けちゃいけないって、宿の人が言ってたんだわ。 振り返れば、部屋の奥にまで朝日が射しこんでいる。そして、まだ光の届かない影の中の寝台では、ティールが掛布にくるまって身動きもしない。 帰ってきたのは明け方近かったのだから、無理もないだろう。 カバラス山脈を深くまで分け入ってきた者について、何か手がかりが欲しい。そう考えたティールは前の晩、酒場を歩きまわった。 街道を行く商人や、その護衛を勤める風渡りなら平原じゅうの出来事をよく知っているし、酒場の女たちなら小耳にはさんだことを聞かせてくれるかもしれない。 そんな掴みどころのない目的のために、いったい何軒の店の扉をくぐったのだろう。 酒も喧騒も苦手な彼にとっては気疲れするばかりだっただろうが、これもエフタのためとあれば仕方がない。 兄の性格をよく知っているから、アーシアはめずらしく妹らしい気遣いをみせた。青い服の男について手分けして尋ねて歩こうか、と言ってみたのだ。 だが、これはあっさりと断られた。町の酒場など女子供が行く所ではない、というわけだ。 それより、何故そんなことを知っているのか、と兄から逆に問い詰められるはめになった。レンディアの城での立ち聞きは、宿を決め、荷物をほどく頃にはすっかりばれていた。 アーシアは音を立てないように気をつけながら、窓辺の椅子に登った。宿屋の前の通りはそろそろ人通りが増えはじめていた。 昇ったばかりの太陽がまぶしかったが、すでに荷車や旅装束の商人の行き来するのが見える。 何て、たくさんの人なのかしら。 驚きと感心、好奇心でアーシアの目は落ち着かなかった。昨日、はじめてタジルの町を歩いた時から、ずっとこんな調子だ。 タジルは町全体が石造りの壁に取り囲まれており、その大きな門には荷車や徒歩の商人がひっきりなしに出入りしていた。 その流れの中を、アーシアは兄にしがみつくようにして歩いた。 いったい何の祭りの日だろうとアーシアが尋ねると、ティールは笑った。そして、工房都市では毎日こんな様子なのだと答えたのだった。 こんなにたくさんの人が、祭りでもないのに出歩くなんて、とアーシアは驚いた。エフタとレンディアの秋祭りを合わせても、こんな騒ぎになるとは思えない。 「……今日も、明日も、毎日がこんな風なんだわ」 荷車のきしむ音や見慣れない服の人々、その彩り。渦を巻くような喧騒の中から耳に飛び込んでくる物売りの呼び声に、アーシアは居てもたってもいられなくなった。 窓辺の椅子から飛び降りて、あっというまに着替える。慣れた手つきで金色の髪を一本に編んだ。二本に編むより早いから、この形が気に入っていた。 身支度ができると、アーシアは兄が丸くなっている寝台に駆け寄った。 「ねえ、兄さま。ちょっと出かけてきていいでしょ」 返事はない。 「遠くには行かないわ。前の通りをちょっと歩くだけ。あの青い天幕の店、見た? 多分、飾り石を売ってるのよ。ねえっ」 力いっぱい揺さぶられ、ティールは不機嫌にうめいた。 目に見えない相手と争うように腕を振り回す、その様子をアーシアは少しばかり勝ち誇ったような顔で見下ろした。 「お腹もすいちゃったし。お店で、青い服の人を見なかったか聞いてあげるから」 ティールはむくりと起き上がった。 「アーシア、そんなことはしなくていい」 「どうして? 聞いて回るなら、一人より二人の方がいいじゃない」 だが、ティールは寝ぼけた頭を振りながら言い継いだ 「いいか。目を開けて耳も開けて。ただし、口は開くな」 「何よ、それ」 「言葉どおりだ。従兄上との話を聞いていたなら、わかるだろう」 ちくりと皮肉を言う。起きぬけでも、ティールの頑固ぶりはいつもながらだった。 「タジルは見た目どおりの平穏な場所じゃない。どんな人間が歩いてるか、知れたものじゃない。そんなところでエフタやレンディアの事情を喋って回りたくないんだ」 「いいわ。じゃあ余計なことは言わない」 「それと、表通りが見えないところへ行くな」 「それじゃ……」 何も見られないとアーシアは不満を言いかけたが、あわてて言葉を飲み込んだ。 「それなら、いいってことよね」 ティールは答えるかわりにうなって、温まった掛布の上に倒れこんだ。アーシアにはそれが返事だった。 |
2. | |
宿の扉を開けて、慣れ親しんだものを探しそうになって、アーシアは思わず笑った。
冴えた風の匂いも、雪の白もここにはない。あるのは濃い空気と絶え間ない賑やかな音だ。 と、目の前を子供たちが走りぬける。遠くから呼ぶ声が上がる。思わず振り返ったアーシアの傍を、荷台いっぱいに農具を積んだ荷車が行き過ぎていった。荷の重さに呻く車輪が町角を曲がりゆく。 それを見送って、アーシアは微笑んだ。 どうせ町を見るなら、追っていってみようと考えたのだ。 荷車が角を曲がると、そこは大きな広場になっていた。アーシアは息をのみ、足をとめた。 朝も早いというのに、天幕や屋台がずらり並んでいる。 香ばしい匂いや湯気が上がる屋台、目もくらむような色があふれる屋台は織物を商っているのだ。 追うつもりだった荷車はすでに人波の向こうに消えていたが、アーシアは気にもとめなかった。 風車の音、大勢の人の声が絶え間なく続いている。そして、そこにカン、コンという何か明るく澄んだ音が響いていた。 あれは何だろう。 大通りをぶらぶらと歩きながら、アーシアは右、左に目をやった。だが、見えるのはところ狭しと並んだ天幕と人だかりばかり。 天幕の後ろに連なる石造りの家々は、エフタとは違う濃い色の石の建物だ。家と家の隙間に、また別の家を押し込んだように続く建物はまるで壁のよう。後ろがどうなっているのか、アーシアには想像もつかない。 その壁の向こう側から、音は上がっているのだ。 鋭く、固い響きが、幾重にも重なる。まるで空からこだまが返るかのように、打ちつけては鳴り返す。不思議な音だった。 その前の日、山を降りたアーシアとティールが最初にしたこと。それは持ってきた毛皮や鳥の羽根を売って、銅貨を手に入れることだった。 オリスの背から下ろした、ひと包みの毛皮の中にはアーシアの獲物もあった。 正確に言えば、アーシアが捕らえたウサギをレンディアの城臣が、既になめしてある物と交換してくれたのだ。 「これが、お前の分だ」 そう言って、ティールはアーシアの手のひらに何枚かの銅貨を落としてくれた。それをそっとつまんで、アーシアは裏や表を見比べた。 「小さいのが一スール。十枚で、この大きい銅貨と同じ値段になる」 と、ティールは噛み含めるように言った。「使い方は知っているな」 「たぶん」 アーシアは神妙な顔で頷いた。だが、初めて目にする銅貨は何とも頼りなくて、どこかにまぎれて失くしてしまいそうだ。 「お店で値段を聞くのでしょ。それで、少し安くしてくれないか、聞いてみるんだわ。余りは返してくれるのでしょう」 と、市から帰った者のみやげ話を思い出しながら言った。 「そう。でも、値段を聞いて渡す銅貨を間違えないように気をつけるんだぞ。何も知らないと思って、釣りをごまかす者もいるかもしれない」 どうせなら。 アーシアはそっとため息をついた。どうせなら違う模様を彫ればいいのに。 小さい銅貨も大きい方も、どちらも男の横顔を彫ってある。これでどうやって見分けろというのか。 違う人間のようだが、わかりにくいのに変わりはない。これは誰かと尋ねたが、ティールも知らないようだった。 「カラーモ!」 「いい味だよ、ちょっと寄って行きな」 威勢のいい呼び声に、アーシアは我に返った。 立ち並ぶ縞の天幕、その下に山と積まれた真っ赤な果物。隣では鍋のようなものが鈴なりになって小さな天幕をきしませている。さらにその向こうに山積みになっているものは、何に使うのか想像もつかなかった。 あちこちで聞きなれない言葉が飛び交う。 小王国の言葉も、もとは平原のものだから聞いてわからないものではない。それでも袂を分かって数百年を経るうちに、平原には新しい言葉や言い回しが根づいたようだった。 その喧騒と人の流れの中に、アーシアはもみくちゃにされていた。 どうして、皆あんなに叫ぶんだろう? 何かあったのかしら、とアーシアは必死で辺りを見回した。 だが、道ゆく人は連れと喋ったり笑ったり、命に関わるような事が起きたわけではなさそうだ。 四方八方へ、通りを横切る人たちは誰も足早で、アーシアは突き飛ばされないようにするのに精一杯だ。 目当ての青い天幕は確かに人の流れの向こうにある。だが、一向に近づいてこない。すれ違い、追い越し、行く手を遮る人たちに肩をぶつけて、アーシアは何度も謝った。 「アマ テーレ! さっさと運んどくれ」 「こないだの麻布、途中が破れてたぞ」 「粉が足りないよ。アマ トール メ カラーモ、もうひと袋持っといで」 「どうだい、きれいだろう。たったの三十スールだよ」 慣れない人混みにぼんやりしていたアーシアは、自分に話しかけられているのに気づいて目を瞠った。目の前には淡い緑色の石が揺れていた。 「耳飾りだよ。街道沿いの町じゃ、ちょっとした流行りもんだ。ティラだものな」 そう言った飾り物屋の主人は、皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。 「……何、ですって?」 「ティラ。そうだろう? 南の町じゃあ四十は下らないよ。どうだい?」 きれい、って意味かしら。それとも……。 アーシアは唾を飲んだ。聞いたこともない言葉だけれど、まさか言っただけで買うことにはならないだろう。 「ティラ、ね。でも、いいわ。耳飾りなら持ってるから」 主人はアーシアの耳の下で揺れる青い石を見定めた。 「確かにいい品だね。今どき珍しい細工だ。もし、売るなら良い値をつけてあげるよ」 アーシアは仰天した。 「い、いいわ。あの……母の形見なの。売らないわ」 商人は気にする様子もなく頷いて、新しいのが欲しくなったらまたおいで、と後ずさりしたお客を見送った。 |
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