風渡の野 目次


風渡の野  3 
6.
「アーシアさま、これでよろしいですかな?」
 そう言った村の老人は、イバ牛の背の荷物を軽く叩いて見せた。
 まだ朝日も姿を見せていなかったが、城の前には見送りの村人が集まっていた。アーシアとティールが春の使者として隣国を訪ねるという噂は、前の晩のうちにエフタの村じゅうに広まったのだ。
「ついにティールさまも音をあげたか」
「いや、長殿だ。秋の祭に、春の使者に、とあれだけせがまれれば……」
「どれ、見物だ。アーシアさまはきっと上機嫌だぞ」
 城の大扉の前にはティールの乗る若い牛オリスと黒い毛並みの牛が引きだされて、出発を待っている。 大方の村人の予想どおり、アーシアは歌うように笑いながら牛の背をこすってやっていた。
 アーシアが一番の晴れ着をあきらめたので、牛の背の荷袋には次に気に入っている上着が入れられていた。
 しかし、丁寧に支度された何よりも、若いアカヤナギの枝こそアーシアの大事な荷物だった。
「これで大丈夫かしら? レンディアまで三日もあるのに、枯れたりしない?」
「大丈夫ですとも」
 牛に荷をつけていた老人が力強く頷いて見せた。
「根元をくるんだ布を乾かしちまわなきゃあ、平気ですとも。わしもこうやって何度もレンディアまで行きましたぞ」
 水を足してやるなら朝のほうがいい、葉が萎れてきたら根元を切れば、またしゃっきりするでしょう。彼はアーシアに枝の世話の仕方を細かく説明した。
「わしも使者になった時には、そりゃあ気を遣ったもんです」
 老人は若い日の晴れがましい使者の役目を思い出して目を細めた。
「葉も若芽も青いうちに持っていけば、ちょっとしたお祭騒ぎに迎えられますからな。宴もそりゃあ盛り上がって……」
   すると、村人の中から冷やかすような声があがる。
「サレック、本当はアーシアさまについて行きたいんじゃろう?」
「おう、勿論よ」
 そう言ってサレックは胸を張った。
「わしももう二十も若けりゃ、一緒について行って差し上げるところ。まったくこの腰ときた日には……」
「大丈夫よ」
 アーシアは皺だらけのサレックの手を強く握った。
「教えてもらったとおりにする。大事に持っていくわ」
 その時、長とティール、そして城臣のアルドムが大扉に姿を見せた。
 ティールは革の外衣に新しい弦を張った弓を背負い、すっかり旅支度を整えていた。
 アルドムはイバ牛を見て口をあんぐりあけた。小ぶりの新しい荷袋が黒牛の背に載せられている。
「何と、これは……わしが荷をつけた時には、オリスに……」
 アルドムは口をぱくぱくと開けたが、言葉はろくに出てこない。
「アーシアさまの荷はオリスにつけましたのに」
「今朝の話か?」
 ティールは城臣の呟きに耳を留めて尋ねた。
「いえ、夕べのことですわ。夜も夜中、アーシアさまもおやすみになった後に」
「早すぎだ」
 おろおろと手を揉むアルドムにティールは耳打ちした。
「アーシアは早起きだ。一本取られたな、アルドム。アーシアは前からあの黒牛に目をつけていたんだ。何が何でもあれに乗るつもりさ」
「ですが、あれは頑固な性質でして。アーシアさまには少々荷が勝ちすぎませんかな?」
 それを聞くとティールは笑った。
「アーシアなら乗るさ。何せ牛の扱いにかけては私より才がある」
「父さま」
 アーシアは振り向くと、父の姿に気づいて駆け寄ってきた。
「行ってきます。すっかり支度したから、何も心配しないで大丈夫です」
「大丈夫、だって?」
 得意満面のアーシアに、ティールは横から口を挟もうとした。その支度のために、乳母が夜半までつきっきりだったことをからかってやろうとしたのだ。
 その気配を察したアーシアは、すました顔で兄の脇腹を突いて囁いた。「兄さまほどの夜更かしはしてないわよ」
 出発する二人も見送りの村人も、皆がどこか浮かれている中で、長と城臣だけはいつもの厳しい面持ちを崩さなかった。
 長は灰色の上衣の手をあげてティールの肩に置き、古い見送りの言葉を口にした。
「旅の道をハールが祝福して下さるように」
 そうして両手でティールの頭を支え、額をあわせ祈った。
「するべきことを為すことができるように」
 ティールは目を瞑った。その言葉を心に刻むのが、祈りを受けたものの務めだからだ。長はまた、愛娘にも同じように祈りを捧げた。
「行く道を見失うことのないよう……」
 何に思いあたったか言葉を切り、長は娘を見つめた。アーシアは雲間から顔を出す陽のように微笑んだ。
「大丈夫です。兄さまもいるし、レンディアまでは一本道だもの」
 ティールは慣れた所作でオリスの背に上がり、アーシアもそれに劣らぬ身軽さで黒牛に跨った。
「春の知らせだ」
「新しい年だ!」
 牛が歩を進めると、村人たちの間から歓声があがる。アーシアたちはその中をゆっくり進んだ。
「いってらっしゃい!」
「小王国にハールの恵みを!」
「新しい芽吹きを!」
 手を振り、帽子を振り回す村人たちに見送られて、二人は細い道を下りはじめた。
 ちょうど峰の横から顔を出した陽が、山道をさっと撫でた。そのとたん、岩陰の雪の名残が眩くきらめく。
 ぽっかりと黒い地面が顔を出す場所があるのに気づいて、アーシアは振り返った。
「ねえ、兄さま。あそこもじきに……」
 そう言いかけて、兄の牛が遅れているのに気づいた。
「どうしたの?」
 数歩後ろで、ティールはエフタを振り返っていた。
 城はちょうど新しい陽に照らされたところだった。白い壁は温かな色を帯び、新しい一日の活気がここからでも感じとれた。
「塔の上から、父上が見送っておられたようだ」
 ティールはぼんやりとした様子で答えた。「遠見の塔に、白い衣が見えた」
「それ、違うわよ」
 アーシアはすっぱりと言い切った。「今朝は父さまは、灰色の上衣だったもの」
 ティールは首を振った。言われてみればその通り、見間違いか思い違いだろう。それにしても女というのは衣のことはよく覚えているものだ。
「それより、兄さま。さっき飛んで行った鳥を見た?絶対、山ヒタキだと思うわ」
「まさか。早すぎだ」
「でも、見たんだもの!あの細縞の羽」
 ありえない。でも、見間違えようのない春の鳥の姿だ。
 そんなことを言い合いながら、二人は最初の峠にさしかかろうとしていた。

 

7.
 道標となる小さな旗がひるがえる道はエフタを出てから上る一方で、半日も歩くと辺りはまだ融ける気配もない白いものに覆われていた。
「ディス、あの印旗まで行きましょうよ」
 そう言って、アーシアは牛の背からそっと首を叩いてやった。
 村を出てから、まずアーシアがしたのは黒牛に名前をつけることだった。
 アーシアの選んだイバ牛は、乗り手の決まらない他の牛たちと同じように、ただ「黒いの」「尾の長いの」と呼ばれていた。
 もちろん、女のアーシアが乗り手になれるのはこの旅の間だけだろう。それでも命を預ける牛に呼び名がないのはよくないと、ティールが名づけるように勧めたのだ。
 それを聞くとアーシアは有頂天になった。まるで自分の牛を選ぶ狩人のようだ、というわけだ。
「昨日の不機嫌はもう治ったのか?」
 ティールはその様子を見ながら苦笑した。
「メリナだけでなく乳母やまで私のところへ来たんだぞ。どうにかしてくれ、と泣きつかれた」
「あら、だって。いつまでもくさくさしてても勿体ないわ」
 そう言ってアーシアは遠くの峰を眺めて背筋を伸ばした。いつにも増して明るい春の空を見ながら、いつまでも文句を言っていられるわけがない。
 レンディアの長のことなど、しばらく放っておこう、せっかくの本物の旅が台無しだもの。アーシアはしばらく考えたあと、古い言葉で「風」という意味の名前を牛につけてやった。
「兄さま、あの峰の名前は?」
 アーシアは朝から何度めになるのか兄を呼び、尋ねた。
「あれはお前も知ってるよ。東の峰だ」
「城から見るのと、形が違う」
「レンディアに近づけば、また変わって見えるさ」
 雪を頂く尖った峰は陽の光をあびて、いつもより近くに見えた。
 いや、本当に近づいているのかもしれない。道標の旗を辿るうちに、いつの間にか辺りの山の形が変わったのに気づいて、アーシアは驚いた。
   ディスは名前にしてはどっしりとした足取りで雪を踏み分けた。雪の中から点々と顔を出す潅木には赤い小旗が結びつけられ、まるで雪の表面に秋の実の汁を滴らせたようだ。
「本当に、誰も通らないのね」
 まっさらなままの雪を見て、アーシアは呟いた。
 秋の狩が終われば、エフタとレンディアを行き来する者などないことは、子供の頃から知っていた。
 冬がいかに長く、仮に食料が尽きたとしても、山の民は隣国に助けを求めることはしない。
 ハールだけが何時やむかを知っている雪嵐の中で迷うことを恐れて、そして村二つして共倒れになることを恐れてのことだ。
 それでもこうして雪を踏み分けると思わずにはいられない。
「だから、こんなに春の使者が喜ばれるのね」
 冬の嵐に痛めつけられ、千切れかけた小旗を見ると、二人はそこで足をとめた。
 新しい旗を注意深く枝に結ぶと、アーシアは古い切れ端を腰の袋にしまい込んだ。古い切れ端は旅の終りにはひとまとめにして土に埋め、無事に帰れたことを神に感謝する慣わしだ。
 濃い赤。これは旅人の命をつなぐ色だ。
 雪の上でも夏の嵐の中でも目について、山を行く者を導いてくれる。旅人は道々この旗を見て、朽ちかけたものは新しい旗に取り替えていく。
 ここに人が住みついて以来、こうして山の道は守られてきた。
 ティールは妹の言葉を聞きながら、何度か辿り慣れた道の景色を見回した。
「今夜はこのあたりで夜を明かそう。この先、風よけになるような岩場はないから」
 ティールはそう言って牛の背から滑り降りた。
 遠くの峰のひとつに向かって太陽は急ぎ落ちていくようだ。暮れはじめた山からは、いつのまにか鳥の姿も消えていた。
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