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風渡の野 4 | ||
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闇に沈んだ山に、ぽつりと赤い灯りがともった。野営の小さな炉辺の火だ。 夜が更けると、まずアーシアが天幕にもぐりこんだ。夜の間は炉のそばで、ティールが寝ずの番をする。春先は飢えた獣が山をうろつくかもしれないからだ。 明け方になったら番を替わると、アーシアは言い張った。 一人で使者に立つ時は、たまに居眠りをする程度で山を行くのだから必要ない、とティールは言ったのだが、アーシアは頑固に首を振った。「だって旅に出れば皆がするでしょ?」 要は一度はぜひやってみたい、ということだ。 明け方になったら必ず起こして、と念を押したのだが、アーシアはいつまでたっても寝つかれなかった。 「ねえ。昔の話をしてよ」 そう言って、アーシアは寝袋をあごまで引き上げた。 仮ごしらえの小さな天幕の外には星が瞬いているはずだが、燃え続ける炉の赤にかすんですっかり見えなくなっていた。 昔、幼いアーシアが寝つくまで昔話をしてやるのはティールの役回りだった。 本来なら乳母がしてやることだったのだろうが、実際家の彼女が星に昇った姫だの、風に乗って旅する王子の話をするには無理があった。 まあ、絵空事ですからね。 うっかりと、そうしめくくって何もかもを台無しにしてしまってからというもの、幼いアーシアはせがむ相手を変えた。 こうして語る方も眠い目をこすりながらの物語りは少年ティールの役目となったのだ。 昔むかし…と、ティールが口を開くと、アーシアはふと眩暈をおぼえた。幼い頃の、あの炉のそばへ帰ったような気がした。 秋の終り。風にうっすらと雪の気配もまじるようになった頃の話だ。 エフタの若者が、ひとり隣国への山道を辿っていた。 腰の小袋にはまだ新しい匂いの薬草がひと束、布にくるまれて入っていた。その夏の終りに、毛皮と引き換えにふもとの市で手に入れたものだった。 まもなく雪も降ろうという時期に山を踏み分けようとする若者を、村の友人達は引きとめた。 この数日、獣の姿を見たか?空に鳥の影を見たか? いや、冬支度を整えて、巣穴に引きこもったところだろう。人も、もう出歩くような季節じゃない。 「やめた方がいい」 村の誰もがそう言った。「春まで待てないのか?」 しかし、若者には急ぐ理由があった。 手に入れた薬草をレンディアへ、病がちな許婚の元へ届けたかったのだ。 畑仕事に疲れると、よく岩陰に座っていた、あの白い頬の娘。花の咲く春には婚礼をあげる約束を交わしていた。 だから、長い冬がくる前にこの薬草を届けたい。そう言って、若者は牛に鞍を置いたのだ。 友人達が彼を止めたのには、もうひとつ理由があった。 雪より早く、と考えた若者は、小王国をつなぐ慣れた道を行くつもりはなかった。 エフタの村より更に高い、峰と稜線を越えていく古い道。確かに道のりは短いが、今は辿る者もいない廃れた道を若者は選んだのだ。 それを聞くと、年長の者達も眉をひそめた。 大岩から上は、ハールの世界だ。人が足を踏み入れてはならない。そう言って、誰もが首を振った。 確かに、かつてはその辺りに住む者もいた。だが、今はすべてが氷に飲まれてハールの庭に還ったのだ。 しかし若者は耳を貸そうとはしなかった。冬の厳しさも、神への畏れも知っていた。 「だが、行かなければならない」 そう言って、彼はハールに祈りを捧げた。 「我が父よ、あなたの子にあなたの庭の道を示して下さい」 そして、そびえるツルギの峰を見上げた。「どうかレンディアまでの道を開いて下さい」 その時だった。 それまで空を覆っていた雲の中に風が吹いた。峰の後ろの雲が割れ、まるで季節が戻ったかのような、ひとすじの青を覗かせたのだ。 若者は天に向かって酒を振り、それから杯を飲み干してイバ牛に跨った。 こうしてハールの子は、神の庭へと分け入っていったのだ。 |
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