風渡の野 目次


風渡の野  4 
8.
 闇に沈んだ山に、ぽつりと赤い灯りがともった。野営の小さな炉辺の火だ。
 夜が更けると、まずアーシアが天幕にもぐりこんだ。夜の間は炉のそばで、ティールが寝ずの番をする。春先は飢えた獣が山をうろつくかもしれないからだ。
 明け方になったら番を替わると、アーシアは言い張った。
 一人で使者に立つ時は、たまに居眠りをする程度で山を行くのだから必要ない、とティールは言ったのだが、アーシアは頑固に首を振った。「だって旅に出れば皆がするでしょ?」
 要は一度はぜひやってみたい、ということだ。
 明け方になったら必ず起こして、と念を押したのだが、アーシアはいつまでたっても寝つかれなかった。
「ねえ。昔の話をしてよ」
 そう言って、アーシアは寝袋をあごまで引き上げた。
 仮ごしらえの小さな天幕の外には星が瞬いているはずだが、燃え続ける炉の赤にかすんですっかり見えなくなっていた。
 昔、幼いアーシアが寝つくまで昔話をしてやるのはティールの役回りだった。
 本来なら乳母がしてやることだったのだろうが、実際家の彼女が星に昇った姫だの、風に乗って旅する王子の話をするには無理があった。
 まあ、絵空事ですからね。
 うっかりと、そうしめくくって何もかもを台無しにしてしまってからというもの、幼いアーシアはせがむ相手を変えた。
 こうして語る方も眠い目をこすりながらの物語りは少年ティールの役目となったのだ。
 昔むかし…と、ティールが口を開くと、アーシアはふと眩暈をおぼえた。幼い頃の、あの炉のそばへ帰ったような気がした。

 秋の終り。風にうっすらと雪の気配もまじるようになった頃の話だ。
 エフタの若者が、ひとり隣国への山道を辿っていた。
 腰の小袋にはまだ新しい匂いの薬草がひと束、布にくるまれて入っていた。その夏の終りに、毛皮と引き換えにふもとの市で手に入れたものだった。
 まもなく雪も降ろうという時期に山を踏み分けようとする若者を、村の友人達は引きとめた。
 この数日、獣の姿を見たか?空に鳥の影を見たか? いや、冬支度を整えて、巣穴に引きこもったところだろう。人も、もう出歩くような季節じゃない。
「やめた方がいい」
 村の誰もがそう言った。「春まで待てないのか?」
 しかし、若者には急ぐ理由があった。
 手に入れた薬草をレンディアへ、病がちな許婚の元へ届けたかったのだ。
 畑仕事に疲れると、よく岩陰に座っていた、あの白い頬の娘。花の咲く春には婚礼をあげる約束を交わしていた。
 だから、長い冬がくる前にこの薬草を届けたい。そう言って、若者は牛に鞍を置いたのだ。
 友人達が彼を止めたのには、もうひとつ理由があった。
 雪より早く、と考えた若者は、小王国をつなぐ慣れた道を行くつもりはなかった。
 エフタの村より更に高い、峰と稜線を越えていく古い道。確かに道のりは短いが、今は辿る者もいない廃れた道を若者は選んだのだ。
 それを聞くと、年長の者達も眉をひそめた。
 大岩から上は、ハールの世界だ。人が足を踏み入れてはならない。そう言って、誰もが首を振った。
 確かに、かつてはその辺りに住む者もいた。だが、今はすべてが氷に飲まれてハールの庭に還ったのだ。
 しかし若者は耳を貸そうとはしなかった。冬の厳しさも、神への畏れも知っていた。
「だが、行かなければならない」
 そう言って、彼はハールに祈りを捧げた。
「我が父よ、あなたの子にあなたの庭の道を示して下さい」
 そして、そびえるツルギの峰を見上げた。「どうかレンディアまでの道を開いて下さい」
 その時だった。
 それまで空を覆っていた雲の中に風が吹いた。峰の後ろの雲が割れ、まるで季節が戻ったかのような、ひとすじの青を覗かせたのだ。
 若者は天に向かって酒を振り、それから杯を飲み干してイバ牛に跨った。
 こうしてハールの子は、神の庭へと分け入っていったのだ。


9.
「それからどうなったの?」
 口をつぐんで炎を見つめ、先を語らない兄を急かそうと、アーシアは寝袋から身を起こした。
 その様子も子供の頃から変わらない。そう考えて、ティールはそっと微笑んだ。
「彼は無事に山を越えたよ。レンディアへ、薬草を届けた」
 兄の言葉に何かを感じて、アーシアは首を傾げた。「それから?」
 ティールはちらりと妹を見ると、傍らの粗朶を炎に放り込む。雪を含んだそれは炎にはぜた。
「レンディアには着いた。だが、エフタには帰ってこなかったんだ」
 アーシアは息をのんだ。「帰らなかった?」
「そう。長い冬が明けて、アカヤナギの枝を持った春の使者がレンディアを訪れて、はじめてわかったことだった」

 あの日。
 帰路につく若者は空を見上げて言った。
 来る時は神の庭を歩いてきた。上の道を抜けることを許して下さったハールに感謝して、帰りは人の子の道を通ることにしよう。
 幸い、空は明るい。きっと雪になる前にエフタへ帰れる。許婚にそう笑いかけて、若者はいつもの慣れた道を歩きだした。
 そして、二度と故郷へは帰らなかった。
 許婚は、彼がエフタへ戻ったものと信じていた。エフタの友人達は、彼がレンディアで冬を越すことにしたのだろうと考えたのだ。
 彼が倒れ、埋もれた雪の上を、新しい枝を携えた春の使者がやって来たのだった。


「そんなのって、ない…」
 アーシアはようやく探し出した言葉を口にした。
 許婚は、きっと涙しただろう。あの日、無事を祈ったのはあなたの方だったのに。
「どうして? 何故、ハールは守ってくれなかったの?」
「神の為さることを、人の子がその訳を、わかるはずもない」
 ただ。彼の祈りは聞きとどけられたのだ。
 無事にレンディアへ辿りつき、薬草は煎じ飲まれた。娘は春を迎え、そして若者は帰らなかった。
「命を願ったのだから。引き換えにできるのは命しかない」
「そんな終わり方、嫌いだわ」
 そう言いながらも、アーシアは炉の炎から目を離すことができなかった。炎が眩しく、揺れるのが切なくて、涙の滲むのをとめられなかった。
「それじゃあ、帰りもハールに頼ればよかったの? そうすれば無事に帰れたの?」
 ティールは心の内でため息をついた。
 こんな理屈はティールの頭には、どうしたって浮かばない類のものだ。
「もう寝なさい。誰にも、何もわからないんだから」
 やがて寝入ったアーシアの頬は、涙の跡で汚れていた。

 夜が更ける中、炎から目をそらし、ティールは闇に沈む山並を見つめていた。
 誰にも、何もわからないんだから。
 自分で言いながらも、悲しい言葉だと思った。しかし、この話を選んだことを、ティールは後悔してはいなかった。
 初めての旅に有頂天で、本人は断固違うと言い張るだろうが許婚を訪ねる妹に、この話をしたかった。
 山あいの、小さな国にはこんな悲しい恋もあったのだと、知っておいて欲しいと願っていた。
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