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風渡の野 5 | ||
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頭が重い。 そう思って目覚めるのは、アーシアには珍しいことだった。 夕べ、泣きながら眠ったせいだ。それに少しばかり寝すぎたのかもしれない。山ヒタキの声がするけれど、あれは早起きする鳥ではないはず…… そう思ったとたん、アーシアは寝袋をはね上げて身を起こした。 そして天幕から転がり出ると、すっかり力なく燻っている炉を見つけた。そのどこにもティールの姿はない。 「兄さま?」 しかし聞こえるのは鳥の音だけで、答えはなかった。 アーシアは眉をひそめて不満げに呟いた。「絶対、起こしてって言ったのに」 炉のそばに見慣れた水袋はなく、どうやらティールは朝食のための水を入れに行ったらしい。アーシアはほっと息をつき、気が抜けたように一人、岩陰に腰をおろした 静けさの中、頂上の雪だまりから吹き下ろしてきた風が耳元で音をたてる。その冷たさが心地良く、アーシアは起きぬけの呑気な顔つきのままで遠くの鮮やかな稜線を見やった。 陽はすでに山の端を離れ、あたりを見回しても夜の気配のする影はどこにも残っていない。 そして、ふと夕べの兄の話を思い出した。 「兄さまは、どうしてあんな話をしたのかしら?」 明るい空の色とはうらはらに、昔語りの切なさは夜が明けてもアーシアの胸のどこかにひっかかって、溶けて消えてはくれなかった。 レンディアの長との婚儀のことと関係があるのだろう。それはすぐに察しがついた。感傷的な話を聞かせれば、少しは妹の気も揺らぐと考えたのだろうか? 「そんな簡単なことじゃないのになあ」 そう考えてアーシアは思わず頬をふくらませた。わからずやの父長や、古臭い城臣とは違うと思ったのに。 「兄さまならわかってくれると思ったのに。がっかりだわ」 ふとアーシアは炉のそばに置かれた弓矢に気づいた。 留守の間に何かあれば使えるように、ティールが置いていったのだろう。 手に取ると、久しぶりの感触にアーシアの気分は浮き立った。 女は狩などしない。そう言われて弓矢を取らなくなってから、どれくらいたつだろう? 兄に合わせてしつらえられた弓弦はアーシアには固かったが、それでも引けないほどではない。 「ディス、おいで」 アーシアは勢いよく立ち上がると、苔を舐めている黒牛を呼んだ。 これはいい気晴らしになるかもしれない。 「久しぶりだけど、地リスくらいは獲れるんじゃないかしら」 うまく捕えられたら旅の食料の足しになる。レンディアへのみやげにしてもいい。そう、婚礼を断るお詫びに置いていってもいいかもしれない。 牛の背から辺りを見回しながら、アーシアは一人決めしていた。 アーシアが幼い頃は、借り物の弓に矢を番えては兄の後ろをついて回ったものだった。 それを、初めてたしなめられた時のことは、今も覚えている。女の子がいつまでも弓を持っているなんて、みっともないというのだ。 昔からの決まりですよ。 何故なのかと尋ねても、それが城臣や乳母の小言のしめ言葉だった。 それからというもの、アーシアの疑問は峰を覆う雪のように、胸に消えずに残るようになった。 どうして女だから、と何でも決まりどおりにしなければならないのだろう? 小王国では子供に山歩きの仕方を教える。天候の見方、どんな雲が出たら急いで帰らなければならないか。もしも迷ったらどうしたらいいのか? もちろんアーシアも教わった。しかし、幸か不幸か、実地に役立ったことはない。女は遠出の山歩きなど許されないからだ。 また、子供達は男も女も弓矢をおもちゃ代わりに育つ。何かあれば自分の身を守れるように、というわけだ。 しかし、七つ八つを過ぎてからも弓矢を手にうろつく娘など、実際にはいない。 娘達はいつからか弓を板杼(いたひ)に持ちかえて、機の前に座るようになるのだ。 ほんの昨日まで、子供らしくイバ牛のめんどうを見なさい、といいながら、ある日突然、女は牛に乗る必要などないと言われるのだ。 アーシアには訳がわからなかった。どれもこれも女だから。 「それなら最初から、弓矢など教えなければいいじゃない」 アーシアが腹立たしげに傍の潅木の枝を折ったが、ディスは気にする様子もなく斜面を辿る。 そんな中でも昔から、兄だけは自分の味方をしてくれた。 大人ぶって注意はするけれど、よほどのことがなければ父や乳母には内緒にしておいてくれたのだ。 だから今回のことも、もしかすると父に口添えしてくれるかも、とアーシアは期待していた。それなのに…… 「兄さまは『従兄上』が気に入ってるものね」 アーシアは珍しいため息をついた。 |
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