風渡の野 目次


風渡の野  5 
10.
 頭が重い。
 そう思って目覚めるのは、アーシアには珍しいことだった。
 夕べ、泣きながら眠ったせいだ。それに少しばかり寝すぎたのかもしれない。山ヒタキの声がするけれど、あれは早起きする鳥ではないはず……
 そう思ったとたん、アーシアは寝袋をはね上げて身を起こした。
 そして天幕から転がり出ると、すっかり力なく燻っている炉を見つけた。そのどこにもティールの姿はない。
「兄さま?」
 しかし聞こえるのは鳥の音だけで、答えはなかった。
 アーシアは眉をひそめて不満げに呟いた。「絶対、起こしてって言ったのに」
 炉のそばに見慣れた水袋はなく、どうやらティールは朝食のための水を入れに行ったらしい。アーシアはほっと息をつき、気が抜けたように一人、岩陰に腰をおろした
 静けさの中、頂上の雪だまりから吹き下ろしてきた風が耳元で音をたてる。その冷たさが心地良く、アーシアは起きぬけの呑気な顔つきのままで遠くの鮮やかな稜線を見やった。
 陽はすでに山の端を離れ、あたりを見回しても夜の気配のする影はどこにも残っていない。
 そして、ふと夕べの兄の話を思い出した。
「兄さまは、どうしてあんな話をしたのかしら?」
 明るい空の色とはうらはらに、昔語りの切なさは夜が明けてもアーシアの胸のどこかにひっかかって、溶けて消えてはくれなかった。
 レンディアの長との婚儀のことと関係があるのだろう。それはすぐに察しがついた。感傷的な話を聞かせれば、少しは妹の気も揺らぐと考えたのだろうか?
「そんな簡単なことじゃないのになあ」
 そう考えてアーシアは思わず頬をふくらませた。わからずやの父長や、古臭い城臣とは違うと思ったのに。
「兄さまならわかってくれると思ったのに。がっかりだわ」
 ふとアーシアは炉のそばに置かれた弓矢に気づいた。
 留守の間に何かあれば使えるように、ティールが置いていったのだろう。
 手に取ると、久しぶりの感触にアーシアの気分は浮き立った。
 女は狩などしない。そう言われて弓矢を取らなくなってから、どれくらいたつだろう?
 兄に合わせてしつらえられた弓弦はアーシアには固かったが、それでも引けないほどではない。
「ディス、おいで」
 アーシアは勢いよく立ち上がると、苔を舐めている黒牛を呼んだ。
 これはいい気晴らしになるかもしれない。
「久しぶりだけど、地リスくらいは獲れるんじゃないかしら」
 うまく捕えられたら旅の食料の足しになる。レンディアへのみやげにしてもいい。そう、婚礼を断るお詫びに置いていってもいいかもしれない。
 牛の背から辺りを見回しながら、アーシアは一人決めしていた。

 アーシアが幼い頃は、借り物の弓に矢を番えては兄の後ろをついて回ったものだった。
 それを、初めてたしなめられた時のことは、今も覚えている。女の子がいつまでも弓を持っているなんて、みっともないというのだ。
 昔からの決まりですよ。
 何故なのかと尋ねても、それが城臣や乳母の小言のしめ言葉だった。
 それからというもの、アーシアの疑問は峰を覆う雪のように、胸に消えずに残るようになった。
 どうして女だから、と何でも決まりどおりにしなければならないのだろう?
 小王国では子供に山歩きの仕方を教える。天候の見方、どんな雲が出たら急いで帰らなければならないか。もしも迷ったらどうしたらいいのか?
 もちろんアーシアも教わった。しかし、幸か不幸か、実地に役立ったことはない。女は遠出の山歩きなど許されないからだ。
 また、子供達は男も女も弓矢をおもちゃ代わりに育つ。何かあれば自分の身を守れるように、というわけだ。
 しかし、七つ八つを過ぎてからも弓矢を手にうろつく娘など、実際にはいない。
 娘達はいつからか弓を板杼(いたひ)に持ちかえて、機の前に座るようになるのだ。
 ほんの昨日まで、子供らしくイバ牛のめんどうを見なさい、といいながら、ある日突然、女は牛に乗る必要などないと言われるのだ。
 アーシアには訳がわからなかった。どれもこれも女だから。
「それなら最初から、弓矢など教えなければいいじゃない」
 アーシアが腹立たしげに傍の潅木の枝を折ったが、ディスは気にする様子もなく斜面を辿る。
 そんな中でも昔から、兄だけは自分の味方をしてくれた。
 大人ぶって注意はするけれど、よほどのことがなければ父や乳母には内緒にしておいてくれたのだ。
 だから今回のことも、もしかすると父に口添えしてくれるかも、とアーシアは期待していた。それなのに……
「兄さまは『従兄上』が気に入ってるものね」
 アーシアは珍しいため息をついた。


11.
 レンディアの長は、確かにティールの憧憬の的だった。
 春の使者の旅から帰ると、ティールは隣国の近況を熱っぽく語った。新しい水路、苗の植付けに畝の高さ。
 そんな話を長々と父や城臣に語り、その最後は決まって「従兄上の考えでは」と、しめくくられた。
 数日が過ぎ、いつもの物静かなティールに戻っても胸の中にはその熱が残っている。そして、アーシアには訳のわからない書物を熱心にめくらせているのだ。
 そのティールが、アーシアと「従兄上」との婚儀に反対するかどうか。考えれば考えるほど、ありそうもないことに思えた。
「あんなに兄さまが自慢に思うのだもの」
 アーシアはイバ牛の足取りのままに体を揺らしながら、あたりの景色を眺めていた。レンディアの長は年寄りではあっても、悪い人間ではないはず。
 多分、村のリュードかモルに似ているんだろう。それでなければ城臣ドルンの娘婿の……
 エフタの狩人たちのひげ面を思い浮かべているうちに、アーシアは眉根を寄せて、背筋を伸ばした。
 異変か命か、とディスも足を止める。はるか正面の潅木の陰に、気配がする。
「ぴんとこない」
 そう呟くと、アーシアはイバ牛の脇腹を軽く突いた。
 その意味を解したディスは軽い足取りで、斜めに駆け出した。
 思いを口に出すと、アーシアの胸には今さらのように怒りが湧いてきた。顔も知らない、実感も湧かない。それなら何故? 誰がこんな話を取り決めたのか?
 結局のところ、アーシアの不満はそれに尽きた。
 この婚儀はアーシアが生まれた時から決まった話で、誰も疑問には思わない。それが何よりアーシアの気に入らなかったのだ。

 灰色の枝の影にいたのは、冬毛のままの白い野ウサギだった。
 春先の新芽を捜して潅木の根元に姿をさらしたところを、目のいいアーシアに見つけられたのだった。
「ディス、左へ回って」
 そう言うか言わずかのうちに、イバ牛は身を翻して斜面を駆け下った。これまでのゆったりとした歩みからは考えられない身軽さだ。
 アーシアはそれに驚きながら弓を握りしめ、右手は背中にかけた矢筒のあたりを探った。
 獲物の姿を捉えれば、人も牛もすることはわかっている。
 白い的を見失わないように、アーシアは雪の融け残った斜面から獲物を追いたてた。追われたウサギは右に左に身をかわし、追手の目をくらませて時間を稼ぐ。
 手頃な岩場に走りこみ、姿を見失わせて更に逃げようとした。雪と氷に浸食されて、尖った岩の間にウサギは飛び込み、意外な角度で走りぬけた。
 が、それも狩人の計算のうちだった。
 黒い風のような、まさに名前にふさわしい姿が岩陰から現れたのを、野ウサギも見たかもしれない。しかし、その瞬間に放たれたアーシアの矢は一閃して獲物を捕えた。
 ほとり、と岩陰に横たわった獲物に、牛から滑り降りたアーシアは駆け寄った。
 ひと矢で胸を射抜かれたウサギはぴくりともしない。
「やった、本当に獲れるなんて……!」
 アーシアは思わず叫んで、弓を振った。
 が、誇らしさと共に、突然口惜しさが湧いてきた。もう、こんな狩をすることも二度とないのかもしれない。
 そう思いつくと、アーシアの肩が落ちた。こんな旅をすることもないのかも。
 アーシアは唇を噛んだ。
 どうにもならなくなった思いにとらわれていた、その時。
 岩の向こうに、大きな鳥の羽ばたきが聞こえた。
 驚いて立ち上がったアーシアの目前に、大きな白い鳥がよろめき現れた。
「雪鳩じゃないの!」
 走り出そうとしてあわてて振り返り、捕らえたばかりの野ウサギをつかむ。獲物を置き去りにするなんて、狩人のすることではない。
 それでも、しみひとつない、輝く羽の鳥から目を離すことはできなかった。生きているのをこんなに間近で見るのは、アーシアは初めてだ。
 雪鳩といえば、ツルギの峰を背後に滑空する勇壮な姿か、羽を取るために横たえられた姿しか見たことがない。
 何てきれいな羽かしら?
 見惚れるアーシアの目前を、その時、風を切って何かが飛んだ。とっさにしゃがんだアーシアは、音のした先を見て仰天した。矢だ。
 残り雪に突き刺さり、矢羽の模様も目に鮮やかだ。それに驚いたか、雪鳩も身をかわす。すると、今度はその翼の向こうに矢が飛んだ。
 アーシアはかっとした。誰が射ているのかは知らない。だが、これは狩ではない。
 獲物を弄んでいるのだ。
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