風渡の野 目次


風渡の野  6 
12.
 アーシアは兄の矢筒から一本抜くと、空へ向かって放った。
 矢は青空に弧を描いて、頼りない風の音をさせながら、またどこかへ落ちていく。そうしておいて雪鳩へ歩み寄ると、アーシアは眉をひそめた。
「足を狙うなんて」
 雪鳩の足に刺さった矢は、奇形の枝のように醜く見える。
 見知らぬ狩人がこの生き生きと美しい鳥を弄んでいたと考えると、アーシアの目に怒りが閃いた。傷が治るかどうかはハールが決めることだが、このままにしておいていいはずがない。
「逃げるのよ。このままみじめに殺されてもいいの?」
 アーシアが刺さった矢を抜き、声を上げて弓を振り回すと、雪鳩は大きな岩によろめき上がった。
「早く。ここからなら飛べるでしょ」
 人にそう言われる前に、鳥は馴染んだ風の流れを見つけたらしい。追われる必要もなく雪鳩は岩の上を飛び歩き、そしてそこから身を躍らせた。
 あやうく斜面に叩きつけられるかと思った姿は、すんでのところで翼を広げて身を起こす。
 その次の瞬間、雪鳩はアーシアの頭上を羽音をたてて横切ると、雪の峰を目指し青空を旋回していった。
 消えゆく勇壮な姿に、アーシアが安堵のため息をもらした時だった。
「他人の獲物に手を出すとは、どこの流儀だ」
 聞きなれない声に振り返ると、岩の上からきつい目でこちらを見ている青年の姿があった。古びて汚れた狩衣は、エフタのそれとは違う意匠だ。
 どうやら放ちそこねたらしい矢を右手でもてあそんでいる。
「谷じゅう回って、ようやく追い詰めたところだったのに」
「追い詰めた、ですって?」
 アーシアはかっとなった。
 卑怯な人間と口を利きたいとは思わないが、勝手な理屈を聞かされて黙っている気もない。
「獲物だというなら苦しませずに、ひと矢で射抜けばいいでしょう」
 そう憤然として言い放ち、自分の獲ったウサギを手にして示す。
 少女と獲物の取り合わせが意外だったか、それとも全身に怒りをにじませているのに驚いたか。狩人は一瞬躊躇したが、何か気をひかれたようだった。
「なるほど。子供ながら優れた狩人らしい。ご指導いただけるとはありがたいな」
「あいにくですけど」
 子供、といわれてアーシアはむっとした。そして、時に城臣たちも縮みあがる冷ややかな目線を投げた。
「私程度の腕では狩人が務まるとも思えないわ。私より腕が悪い射手がいたなんて考えたこともなかったですけど」
 しかし、皮肉られた相手の男はこたえた様子もない。何が可笑しいのか笑いを堪えてさえいる。
「その肩掛けから察するとエフタから来られたようだが。これからレンディアまで行くのか?」
「ええ。噂どおりのところならいいと思うわ」
「どんな噂を?」
「礼儀正しくて、穏やかで、腕のいい狩人が多いそうだわ。あなたはご存知ないでしょうけどね」
「はあ、確かに初耳だ」
 とぼけた様子で答えた男は、身軽にイバ牛の背に上がると手綱をひいた。
「気をつけた方がいいぞ。レンディアの狩人はこんなところを女子供がうろついてるとは思わないからな」
「何ですって?」
「獣と間違って、ひと矢で射ぬかれたら困るのではないか?」
 そう言うや、狩人は身を翻して岩場を駆けていってしまった。それを目も口も大きくあけたまま見送ったアーシアは、ようやっと呟いた。「何て失礼な」
 傍らではディスが、大きな舌で苔をべろりと舐めとっている。
 呆然と立ち尽くしたアーシアの後ろから、遠い声がした。振り返れば、斜面を登ってくるオリスとその背中にはティールの姿が見えていた。

「何でもないわよ」
 二人は早々に荷物をまとめ、その日の道程を辿り始めた。しかし、並んだイバ牛の背中では、ずっと口論が続いていた。
「じゃあ、何で合図の矢を上げたんだ」
 ティールは苛々と幾度も尋ねた。
 水袋を一杯にして、さて天幕に戻ろうかと思ったところで、ティールはアーシアが空へ放った矢を見たのだ。
「山狼でも出たかと思って、急いで帰ったんだぞ」
「狼なんていないわよ」
 アーシアは居心地悪そうに答えた。「雪鳩を見つけただけ」
「雪鳩?」
 それとレンディアの狩人、とはアーシアは言えなかった。
 兄が戻って、あらためて自分の姿を見直したアーシアはがっくりしたのだ。
 起きたばかりでもつれたままの髪、肩掛けはウサギを捕えようと弓をひいたせいで半ば背中にずり落ちている。父が見たなら何と言うか、容易に想像ができた。
 あの村人は獲物を逃した顛末をレンディアじゅうに話してまわるだろう。そして、そこへ到着した春の使者2人が、エフタの長の子と名乗るというわけだ。
 いい笑いものだわ。
 そう考えるとアーシアは居ても立ってもいられずに道を急いだ。妙な噂が広まる前に、レンディアの城へ乗り込んで言うべきことを言わなければ。
「何もないなら、それでいいけれど」
 忙しく頭を働かせる妹の横で、ついにティールは諦めた。アーシアが口を開かないと決めたなら、どうしたって筋の通った話など聞くことはできないのだ。
「そろそろ身支度はちゃんとしておくんだぞ。今日明日にはレンディアの狩場に入るんだから、誰か村人に会わないとも限らない。肩掛けはまっすぐ……」
「被り物もまっすぐ。髪は丸く結って、でしょ」
 アーシアはそわそわとして答えた。「わかってるから、早く行きましょうよ」
 古い友国を訪ねるにふさわしいいでたちと口上を、と妹が言い渡されていることはティールも知っている。さすがに緊張しているのかも、と兄はひとり納得していた。

 その山道より外れた雪の斜面で。狩人は空手のまま、イバ牛の背に乗っていた。
 横では、まだ子供と言ってもいいような少年が獲物を牛の背に括りつけている。
「何だったんですか、あれは?」
「さあな、エフタの若い狩人というわけでもなさそうだ」
 そう言って、セディムは弓を肩にかけた。
「誰だかご存知ですか?」
「まあ、察しはつく」
 セディムはそう答えて軽い足取りで牛を歩かせていたが、そのうち肩を震わせた。
「セディムさま?」
「私は腕が悪いそうだ」
 そうして、とうとうこらえ切れなくなったように、くっくっと笑い出した。
 獲物を逃したわりには上機嫌だ、と少年は怪訝な面持ちだった。
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