風渡の野 目次


風渡の野  7 
13.
 エフタとレンディアを初めて旅する者は、その景色の違いに、これが同じ小王国かと驚きの声を上げる。
 レンディアの大岩を曲がったアーシアも息をのんで棚畑を見渡した。
「エフタより、広いみたい」
 二人の眼下には薄日の差す谷が広がっていた。
 エフタの周りは急斜面と断崖ばかり、村の小道一本すら曲がりくねって途切れがちだが、レンディアの周りの枝尾根は随分となだらかに見える。
 もちろん歩いてみればそれなり険しい道なのだが、それでもどこかエフタとは違う。心なしか谷風も穏やかに思えた。
 アーシアがそう言うと、これまで何度もこの道を歩いたティールは頷いてみせた。
「レンディアはエフタより高いところにあるけれど、峰の雪だまりから吹く風からは遮られているんだ」
「エフタより暖かいってこと?」
 それを聞くと、ティールは面白そうな顔をしてみせた。好奇心が強いのは、この兄妹のよく似たところだった。
「夏はね。そうは言っても少しのことだけれど。ただ、レンディアの冬は厳しい。風向きにもよるが、雪嵐で石壁が削られることもあるそうだ」
 アーシアはふと考え込んでから、ゆっくり口を開いた。
「春の使者にエフタが立つことが多いのは、そのせいなの?」
「そう。三年に二回はエフタが使者を出すのは偶然じゃあない」
 アーシアは、エフタでの春の宴を思い出していた。この前は、確かに一昨年前のこと。城臣たちは風まわりが変わる年だと喜んで使者を迎えたものだった。
 今、アーシアの眼下に広がる景色は、ほとんどがまだ白いものに覆われている。この半年は若芽どころか枝一本、ここでは見られなかったに違いない。
「アーシア、被り物を直しなさい」
 そのあらたまった声に、アーシアは我にかえって頭に手をやった。
 ティールはまっすぐ前を向き、先程とは人が変わったように口元を引き締めていた。
「ここは古くからエフタの盟友だった国だ。敬うべき友国だ。くれぐれも失礼のないように」
 そう厳しく言うと、ティールはイバ牛の手綱を手に取った。こうして二人は雪を踏みわけ、まだ冬に眠ったままのようなレンディアの城を目指した。

 棚畑のあちこちでは、村人たちが融けかけた雪をかき集めてはどけていた。
 取り除いた雪を桶に入れて運び上げ、連なる畑の更に上に小山のように積み上げる。この小さな雪山は、春の間に次第に小さくなりながらレンディアの畑を潤すことになるのだ。
 子供達も桶を手に、大人に混じって立ち働いている。そして見慣れない旅装束を尾根先に見つけたのは、そんな子供の一人だった。
「ししゃだよ、エウタのはるのししゃだよ!」
 明るい叫び声に、忙しく立ち働いていた村人たちは振り返った。そして、一番はずれの畑で働いていた男は、尾根道から降りてくる二頭のイバ牛に駆け寄った。
「久しぶりだな」
「ノアム、何年ぶりだろう?」
 ティールはオリスの背から滑りおり、旧友の肩を抱いた。ノアムもそれに応えながら、嬉しそうに目を細めた。
「少しはでかくなったな。城へ行けば、長も驚くぞ。朝からずっと待っておられる」
「待って?」
 ティールは不思議そうに眉を寄せた。
「ああ。遅くても今日の午後には着くはずだと言って、宴の仕度は昨日から言いつけておられた」
 何故わかったんだろう、とティールが言いかけた時、その後ろで軽い咳払いがした。
「今年の使者は、実をいうと私じゃないんだ」
 そう言って、ティールは後ろを指し示した。
「妹のアーシアだ」
「新しい春の慶びを」
 そう言ってアーシアがイバ牛の上から軽く会釈すると、その背で折り取った時と変わらず青い若枝が揺れた。
 今年もハールの恵みのあるように、と決まりの挨拶を述べ、ノアムも礼を返した。
「初めてお目にかかります」
 お噂はしばしば、と言いかけたのだが、その風聞の中には初対面の話に向かないものもあったから、ノアムはただ笑みを浮かべるにとどめた。
 そして、いつのまにか集まってきた子供達を振り返り、
「城までひとっ走りして、エフタからの使者がお着きになったと伝えるんだ。誰が一番足が早い?」
 ぼく、ぼく、わたし、と、子供達が一斉に叫んだのを、ノアムは両手を広げて追いたてた。
「わかった。誰が一番か、決めてこい」
 その言葉が終わりもしないうちに、彼らは団子になって走り出した。団子は次第にばらばらになりながら、雪の残る道を駆け下っていった。
「さあ、長がお待ちだ」
 ノアムを先頭に、使者たちはレンディアの畑の間をゆっくり歩いた。
 段々になって連なる畑のあちこちから、仕事の手を休めた村人の歓声があがる。声とともに帽子が、首に巻かれていた布が打ち振られる。すぐ傍の畑からは出迎えに寄ってくる者も多かった。
「春の慶びを」
「新しい芽吹きを!」
 宴を待ちかねたのか、歌を口ずさみ始めた村人は、使者が通り過ぎたとたんに妻らしい女に首を掴まれ、畑に連れ戻されていた。
「……して、よかった」
 アーシアは兄に話しかけた。歓声にかき消された言葉を聞こうと、ティールは身を傾ける。
「若芽が青いうちにレンディアに着いて、よかった」
 アーシアは声を上げた。「こんなに喜ばれるなんて」
「サレックに礼を言うんだな」
「もちろん忘れないわ。大切に持ってきて、よかった」
 アーシアは熱気に浮かされたように、周りを見回した。
 それは決して見慣れない風景ではなかった。レンディアから使者が着けば、エフタでも同じようにして迎えたのだから。
 ただ、迎えられる側に立つのは、アーシアには初めてのことだった。

14.
 ティールは数年ぶり、そしてアーシアが初めて訪れる隣国の城は、二人が育った所とよく似ていた。
 石壁の色も窓の形もそっくりで、ただ、そこに掛けられた織絵の意匠の違いが、ここがエフタではないと語っている。
 しかし、それらは城臣に先導されて歩くアーシアの目には映っていなかった。アーシアは先程から口上の出だしのひと言を、何度も繰り返し思い出していたのだ。

  古き世より、天を分ち戴いてきた同胞へ
  新しき春を迎えられたことをお慶び申し上げます

 使者の挨拶を文句のつけようもなく言い済ませ、長の娘らしく責を果たしてから言いたいことを言うのだ。
 アーシアが時々呟いているのは、挨拶の文言だけではないと知ったら兄は仰天したことだろう。

 どうぞ、こちらへ、と、二人が案内されたのは長の間だった。
 植物の柄を織り出した敷物や、木の椅子に施された彫刻が多少の彩りを添えているが、他には飾りらしい飾りもなく、全体に無骨な印象の一室だ。細やかな細工を愛するエフタの長の部屋とは大分趣が違う。
 そんなことを考えながらアーシアが兄について部屋へ入っていくと、数人の城臣たちが広げてあった書物を脇に片付けながら客人に一礼してみせた。
 その真ん中で、これまで外を見ていた窓際の人影がこちらを向いた。
「雪残りの道で、難儀されたろう」
「ご無沙汰しております、従兄上」
 晴れやかな役目にふさわしく微笑み、口上を述べようと待ちかまえていたアーシアは、相手の顔を見て立ちすくんだ。
「春の知らせをお待ちしていた」
 そう言って、にこやかにこちらを見ているのはあの狩人、礼儀知らずの村人……のはずだった。
「今年の使者を務めさせていただきます、妹のアーシアです」
 ティールは妹をさし招いて前に立たせた。
 しかし当人は青ざめ、続いて赤くなりながら、う、あの、と言いよどんでいる。幾度も復唱したはずの文句を頭の中から探し出そうと、アーシアは必死になった。
「あの、古き世……より。そのう……」
 しかし、思い浮かぶのは具にもつかないことばかりだった。
 何で? よりによって長ともあろう人が。何でふらふらと山歩き?
 アーシアは自分こそよく言われる文句を口にしそうになり、あわてて飲み込んだ。
「天を分ち戴いて……」
 妹の窮状を見てとったティールは、後ろから耳打ちした。
「天を、分ち戴いてきた……同胞へ。あの、新しき春の慶びを……申し上げます」
「我らの父ハールに感謝を捧げ、若枝の使者をお迎え申し上げる」
 レンディアの長はよどみなく答えて、使者に微笑んだ。アーシアは腹立たしくて、泣きたくなった。
 レンディアの長は、長衣をはおっているせいか、立場にふさわしい威厳を漂わせている。
 アーシアは相手の変わりようにも驚いたが、今の自分が、思い描いていた使者の姿とかけ離れていることに、いっそう苛立っていた。
「これより、と……」
「常しえに、この地に」
「そのう、この地に新しき実の咲くこと、恵みの花の、花が……?」
 もうだめか、と観念してティールが目を瞑ったのと、盛大な笑い声がしたのはほとんど同時だった。
「あ、従兄上?」
「ティール」
 肩を震わせて笑っていたのは長だった。
「もう少しうまく教えねば、全部聞こえているぞ」
「はあ」
 まわりの城臣たちはあっけにとられて声も出せないでいる。レンディアの長は、涙を拭き拭き言った。
「そなたは芸事には向かないな」
「芸事、ですか?」
「ああ。ほら、後ろに立って、前の者に物を食べさせてやるのがあるだろう。あれだ」
 この言葉に居並ぶ城臣たちは仰天した。しかし、それには気づかず、長はひとしきり笑ってから居ずまいを正した。
「使者殿、使者殿。若枝とともに古き盟友のご挨拶はしかと受け取った」
「そうですとも」
 横合いから、城臣の一人があわてて口をはさんだ。
「まさに噂どおり、春の花のようなお姿。お越し下さったことで、お使者の役目のおおかたは済まされたというもの」
「まあ、まずは部屋でくつろがれよ。長旅と狩の後では疲れておいでだろう」
「狩?」
 合点のゆかぬ顔の城臣に、長は実に嬉しそうに説明した。
「この姫はこう見えて腕のよい狩人なのだ。ウサギなどお手のもの。私もご指南頂こうと思ったほどだ」
「従兄上……それは」
 長はアーシアに向きなおり、
「曲がり尾根でお会いしたのは昨日の朝だったから、ずいぶん早く到着なさった。レンディアの者、総出で歓迎いたします」
 ありがとう、お世話になります、と言葉をしぼり出しながら、アーシアはがっかりした顔を隠すのが精一杯だった。
 印象鮮やかに挨拶を述べ、ついでもうひとつの用件も切り出そう、という目論見はあとかたもなく消えうせた。
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