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風渡の野 8 | ||
15. | |
「まずい。あれはまずいですぞ」 使者たちが出て行った後の長の部屋で、そう言って額の汗を拭ったのは城臣のレベクだった。 「どういうおつもりですか、セディム様」 「どう、とは何の話だ」 セディムは驚いて顔を上げた。 春の使者の挨拶も終わり、あとは書きつけの山を宴の前に少しでも減らそうと、卓の前に腰を据えたところだった。 「それがまずいのです」 そう言って、レベクは横に立つヤペルに縋るような目線を投げた。レベク、ヤペル、それにユルクはどうやらそれぞれに苛立ち、不安げな面持ちで長をとり囲んでいた。 セディムは居心地悪そうに身じろぎすると、傍らに立つラシードを見上げた。 「……いったい何が悪かったんだ?」 それを聞くと、ヤペルはラシードよりも早く声を上げた。 「あの方は、秋にはあなたが婚礼を挙げるはずのお相手ですぞ」 「アーシア殿のことか。それは知っている。私は当人だからな」 あやしいものだ、とヤペルはぶつぶつ呟いた。 「それでしたら、もっとそれらしくお話しして頂かなくては」 「相手はお若い方なのですから、もそっと優しく」 「決して笑ったりしてはいけませんぞ」 城臣たちの、まるでせき止められていた雪が雪崩れ落ちるような小言に、セディムは肩をすくめた。 「悪気で笑ったのではない。ティールもわかっている」 「兄君の方は結構。慣れておられますからな。ですが、妹姫はご機嫌を損ねたのでは?」 「この話がご破算にでもなったらどうします」 そう言ってレベクは痛むらしい頭を押さえた。城臣たちの気がかりはそこにあるようだった。 セディムの婚儀が正式に決まるのはいつか。彼らが長年気を揉んでいたことは、ことの当人もよく知っていたから、 「わかった。少しは考えてみよう」 そういって、セディムは城臣たちを宥めた。 「明るく気さくな方だと聞いていたから、うっかり気安く口を滑らせた。これからは気をつける。なるべくからかわないようにするから」 ヤペルは肩を落とした。やはりからかっていたのか、と、他の城臣たちも力なく頭を振った。 ラシードは、といえば、その間ずっと沈黙を決め込んで面白そうに成り行きを眺めていた。 「やはり、からかってはいけないだろうか?」 城臣たちが宴の支度に、と出ていくと、セディムはラシードに尋ねてみた。 この男も平原ではそれなり浮名も流したらしいし、ともあれ城臣たちよりは若い。 「相手にもよりますな」と、思案しながらラシードは顎鬚をさすった。 「ことによると、手が飛ぶだけでは済みません」 「面白くても、だめか?」 「後のことも熟考なさった上なら」 「そうか。……とても面白かったのだがな」 残念そうに言うと、セディムは広げていた書物を閉じた。 「まあ、まずはどんな人となりか、じっくり見極めることにしよう。いったい何に興味を示すか……」 ケルシュ、お前の教育はなっていない、とラシードは内心ため息をついた。これでは獲物を観察する狩人ではないか、と考えたのだ。 その時、扉の外に気配がした。ラシードが立っていくと、半開きの扉の前にはエフタの嗣子の姿があった。 使者の挨拶をようやく終えて、長の間を後にしたアーシアとティールは客人の間へと通された。 そして案内の城臣が扉の向こうに消えるや、二人揃って声を上げた。 「ひどいわ。あんなに笑って、ばかにしてるのよ」 「お前、従兄上と会ったのか?」 足元の荷を解くことも忘れて、兄妹は互いの顔をにらみつけた。 アーシアはこぶしを握りしめて足を踏ん張った。滑稽な子供か何かのように笑われるなど、真っ平だった。が、そのアーシアの前で、ティールも劣らず不機嫌な顔をしていた。 普段は穏やかな兄の声の強さに驚いて、アーシアは口を閉ざした。その妹を、ティールは険しい目をして問い詰めた。 初対面と思って引き合わせたのに、そうではないのか。それを旅の主導者である自分も知らないとあってはレンディアの長に対して失礼だ、というわけだ。 「何故、黙っていたんだ」 ティールはアーシアを真正面から見据えて厳しく尋ねた。 「レンディアの村の誰かだと思ったのよ」 兄の剣幕にアーシアは身を縮めた。「だから別に言わなくてもいいだろうと……」 「何があったのか話しなさい」 ティールは言い訳など最後まで言わせなかった。「全部だ」 ティールはめったに声を荒らげたりはしないのだが、礼儀に適わないことを決して許したことはない。そして、こういう兄に逆らわない方がいいと、アーシアはよく知っていた。 上着の裾をもてあそびながら、アーシアは渋々口を開いてウサギから雪鳩まで、そして立ち去るイバ牛の背の長と交わした言葉まで兄に告げた。 「腕が悪い、と?」 それまで黙って聞いていたティールは、目を剥いて呆然と呟いた。 「獲物を逃がして、そのうえ従兄上に、レンディアきっての狩人に、腕が悪いと言ったのか?」 「そうは言ってないわよ」 「同じことだ」 「悪く思う必要なんて、ないわよ」 いい加減に小言に飽いていたアーシアは声をあげた。 「捕まえるでもなく谷じゅう追い回したって言うのよ。長だとしたって、あんな風に残酷な狩をしていいことにはならない」 「従兄上はそんな人ではない」 ティールは妹の頭の上できっぱり言った。 「雪鳩を捕える前に追うのは、レンディアでの狩のやり方だ。飛べない所へ追い込んで、羽を傷つけないように足を狙うんだ。エフタではしない狩の方法だから知らないのも無理はないけれど」 謝ってくる、そう言って、ティールは覚束ない足取りで部屋を出ていった。 「謝ることなんてない、だって……!」 兄の振り返りもしない背中に空しく叫んだが、どうにも気は晴れない。アーシアはうめき声をあげながら、きちんとしつらえられた寝台に転がった。 |
16. | |
「失礼な人だわ」 顔をしかめて、アーシアは見慣れない天井をにらみつけた。 ひとり言を口にした途端に怒りはいっそう強くなり、苛々と横に転がると、今度はエフタでは見ない彫りを施した椅子やら棚が目に入った。 年に数日だけ、隣国から尋ねてきた客人のために使われる部屋は、そうとは思えないほどこざっぱりと整えられている。 使者の到着を待ちかねた長が万全の支度を言いつけたのだろうが、頭に血の上った兄妹はそのことにはまだ気づいていなかった。 事は結局のところ、アーシアの分が悪かった。 挨拶は形を成さず、兄の面目をつぶしたとあってはアーシアの反抗はただの我儘だ。だが、それでもアーシアは黙って大人しくしている気分ではなかった。 「ばかにしなくたっていいじゃない。絶対、許さないんだから、あんな人」 長という人の笑い声を思い出すと頭に血が上った。いっときでも、悪い人ではないかもなどと考えたことが口惜しかった。 あんな人、と口の中で繰り返したあげく、アーシアは勢いよく身を起こした。 「やっぱり絶対、大嫌い」 言いながら寝台から飛び降りると、アーシアは兄の後を追って部屋を出た。 挨拶のことは謝ろう。尾根で会った時のことも謝ってもいい。だけど、はっきりさせておかなければ。 「婚礼なんて、やっぱりごめんだわ」 あの調子では、兄は決して自分の味方などしてくれないだろう。だが、それでもかまわない。 アーシアはまるで慣れたエフタの城を行くような、迷いのない足取りで廊下を辿った。 廊下の石壁は、そろそろ落ち始めた陽の光を浴びて温かな色に染まっていた。 アーシアがその色に導かれるようにして歩いていくと、扉が開いたままの長の部屋から話し声が聞こえてきた。 「失礼をして申し訳ありません」 ティールの声に続いて、長がそれを笑って受け流すのが聞こえる。そう気にすることはない、おかげでこちらも楽しいひとときを、などと言っている。 何を勝手なことを言っているの、と、アーシアがその場へ乗り込もうとした時だった。 「それで? 何やら気がかりがあるようだが」 その長の言葉にアーシアは足をとめた。 気がかり? アーシアは石壁に、ふと手をついた。 そういえば出立前の父と兄、それにアルドムの様子はどこかいつもとは違っていた。何かあったのだろうか? 自分には黙っていたのか、とアーシアは眉をひそめた。話の外におかれたという歯がゆさと、兄の様子に、あの長の方が先に気づいたということが口惜しく思えた。 事の次第を知りたくて、アーシアは耳をそばだてた。 ティールはセディムの問いにどう答えようかと、きっかけの言葉を探していた。 そして考えながら、その目は何度も長の傍らの姿を窺っていた。見覚えのない男だった。 がっしりした体躯だが身は軽そうで、立ち姿の隙のなさは狩人の用心深さともどこか違う。古い肩布は確かによく見るレンディアの織り柄だが、その下の服は見たこともない形だった。 先の挨拶の折から、何故よそ者が長の間にいるのだろうとティールは訝っていたのだ。 そのうろんな視線に気づいてセディムはとりなした。 「ラシードは私の父の従兄だ。長くレンディアを留守にしていたから、知らないのも無理はない」 「先の長の?」 「そうだ。私の叔父とも兄とも考えてくれていい。話を聞かせてくれ」 ティールはラシードに非礼を詫びると、とまどいながらも口を開いた。 「昨年の秋の話です」 そう言いながらティールは父の物思わしげな目を思い出していた。 |
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