19 風渡の野 目次 21


風渡の野  20 
3.
 飾り物屋を後にして、アーシアは足早に大通りを過ぎて行った。まだ、動悸がおさまらなかった。
「驚いた」
 そう呟き、何とはなしに耳朶に触れた。
 この耳飾りは十の歳に、父が渡してくれたものだ。今は亡き母の姿を語りながらアーシアの耳につけてくれたのだ。
 しとやかで、岩陰の白い花のようだったという、その人にはきっと似合ったことだろう。確かにきれいな色の石ではある。
「だけど、どうして?」
 何故、店の主人は石を欲しがるのだろう。耳飾りを本人が使うはずもなく、売るにしても、すでに店いっぱいの飾り物を持っているのだ。
「もう、あれ以上は要らないでしょうに」
 必要ないものを買う。売るものを買う、ということが、アーシアにはよくわからなかった。
 貧しいからではない。
 唐突に、レンディアで聞いた言葉が思い浮かぶ。
 貧しいからではない。持ってる者の方がより多く欲しがるものだ、と。
「あれはこのことだったのかしら……」
 アーシアは混乱しきった頭をひねった。それにしては、話してくれたラシードという男の声はひどく苦かったけれど。そして。
 あらためて足を止め、天幕の列を眺め渡した。思わずため息がもれた。
 何て、たくさんの物なのだろうか。
 見たこともない果物の山、鍋や壺、色とりどりの服と帽子、敷物……。その品の良さや手の込んだ細工にも驚いたが、今は何よりその数に目を奪われた。エフタ中の衣装を集めてもこんな山にはならないだろう。
 そして、店先の袋からあふれそうになっている穀物や木の実。冬の間、食べ物を切り詰めて余った、というわけでもなさそうだ。人々の顔は丸く、血色がいい。
 今は春。じきに新しい野菜が葉を茂らせるだろう。その次には果物が生り、それを食べて肥えた動物の肉がここに並ぶのだろう……。
「お……おなかすいた」
 呟いたとたん、空腹の痛みが強くなった。市の風景に夢中になって、何も食べていなかったことに気づいた。
 アーシアは腰の袋から銅貨を取り出し、注意深く数えた。手持ちは五十スールほど。だが、多いのか少ないのか、よくわからない。
 そして、耳飾りが三十スールという言葉を思い出して、アーシアはぞっとした。まさか、食べ物もそんな値段なのだろうか。また、今朝ほどのティールの様子を思い出すと、冷たい霧のように不安が湧いてきた。
「あと何日くらいかかるのかしら?」
 パンはいくらなのだろう? 水は? 第一、宿代は? メリナにも何かお土産を買いたいけれど、この銅貨で足りるのだろうか……。
 その時。考え事を遮るように、傍らでとんでもない罵声が上がった。
「商人が儲け話を断るなんてことあるかい! ハールが尻で笑うぜ」
 ぎょっとして、アーシアは顔を上げた。
 朝に晩にと祈りを捧げるその名とは、あまりにそぐわない言葉だったからだ。
 だが、目の前の果物屋の主人は、何もなかったかのように売り物を樽に積み上げている。
 聞き間違えだったのかしら、と見ると、傍らに背の高い風変わりな格好の男が立っていた。
「おいおい、賽銭を稼ぐと思やハールご当人だって喜んで引き受けるだろうよ」
 世慣れた風に文句をつける、最初は着古した服の壮年の男かと思った。だが、頭に巻かれた派手な色の布――やはりぼろぼろだったけれど――の下にきらめく目は、まだ若い。
 ぐっと突き出した手に、斧を握っている。足元には同じような品が束ねて小山になっている。どうやら手間賃を払って、他の物に作り直したいらしい。だが。
「断る」
 そこに座っていた老人は、頑固に首を振った。
 差し出されたものにうろんな目線を投げただけで、手を出そうともしない。ごつごつとした手、額にきざまれた皺。アーシアはふとエフタの城臣の面々を思い出した。
 老人の膝の前には小ぶりの斧や小刀が並んでいた。だが、大きな革の前掛けをつけているということは、商人ではなく職人なのか。
 その姿は若者の前ではいかにも小さく見えるのだが、表情は若々しい。アーシアを驚かせた罵詈雑言に動じることもなく、白い眉の下の隻眼は若者の顔を睨めつけていた。
「あんた、この斧をどこで手に入れた?」
「アマラの先さ」
「こいつはわしの息子の打った手だ。わしはあんたに売った憶えはない」
「おおかた忘れちまったんだろ」
 老人は目を細めて若者を見上げた。
「その訛りは……あんた、イベリスからの風渡りだろう。森もない南へ行く者に、こんな形の斧など売らん。第一、何故風渡りが商人のように鍬っ刃なんぞ欲しがる」
「つべこべ言うんじゃねえ」
 若者は唾を飛ばしてわめいた。
「鍛冶屋は鍛冶屋らしく、こいつを打ち直しゃあいいんだ。それとも、手間賃が気にいらねえか? ハールとどっこいの業つくばりが」
 アーシアは驚きで声も出せず、その姿をまじまじと見上げた。なかなか見目は悪くない男なのだが、口が悪すぎた。
 老人はなおも首を振る。
「断る。これは誰から奪ったんだ?」
「人聞き悪いこと言うんじゃねえ。商人がくれたのさ」
「くれた、だと?」
 ふいに、若者は落ち着かなげに手をこすった。
「……まあ、もうくたばってたけどよ。おおかた盗人にやられたんだろ。せっかくの斧、このまま道端で錆びちまうのも気がすまねえだろうと思って、行きがかった縁で貰ってやったんだよ」
 そこで、日にやけた顔の中でぎらっと目が光った。
「いいさ、鍛冶屋はあんただけじゃねえ。よそへ行く。儲けの種を逃したな、くそ爺めっ」
「誰も打たんよ」
 あっさりと老人はかわした。
「まっとうな鍛冶屋なら、風渡りの小遣い稼ぎなんぞに手は貸さん」
「野郎!」
「あなた、お行儀悪いわ」
 若者が老人の胸ぐらをつかんだのと、冷ややかな声がしたのはほぼ同時だった。
 突拍子もない言葉に驚いて、若者は傍らを見下ろした。
「なんだ、この小せえあまっこは?」


4.
 若者は毒気を抜かれて呆然としている。そこへ、
「背ばかり育ったのより、まだましよ」
 アーシアはぴしりと言い放った。
「さっきから聞いていれば何てみっともない。人に物を頼むなら、それらしい言葉遣いをしたら?」
 相手の胸までも届かない背丈では、さすがに見下ろすというわけにはいかない。それでもアーシアはぐっとあごをそらした。
「それに、彼は手間賃の話じゃないって何度も言ってるじゃない。口だけでなく耳も役立たずね」
「お嬢ちゃん」
 若者はけんか腰の目つきでアーシアを覗き込んだ。
「俺はな、あんたがよちよち歩きする頃から、この腕と口で食ってんだ。あんたに生意気言われる筋合いはねえよ」
「生意気なのはそちらだわ」
 風渡りの聞くに堪えない雑言も、力任せで押し通そうとするのも不愉快だ。アーシアは息を吸った。
「お願いします、おいくらですか、でしょ。世話がやける子供だわ」
 その言葉に、まわりの商人たちはどっと笑い崩れた。
「若いの、風渡りの若いの」
 涙を拭き拭き、果物屋が言う。
「いい加減におさめたらどうだ。娘っ子相手に分が悪いのはあんたの方だよ」
 と、周囲を指し示す。見れば、何事かと足をとめた旅商人たちが成り行きを見物していた。
「工房都市の者と折り合いの悪い風渡りなぞ、敬遠されるぞ」
「帰りの仕事にありつけなくなるぞ」
 若者は手も早かったが、機を見るのも素早かった。勝算薄しと見るや、自分の斧をさっと取り上げた。
「縁起でもねえ。俺はまっとうな風渡りだぜ」
 と、取り囲んだ見物人を見回した。
「商売は町の外でする。町の中じゃああんた方と同じ、ごくありふれた客だ。売ったり、買ったり、な。爺、邪魔したな。ハールのご加護で長生きしろよ」
 と、さっぱり有難みのない科白を吐いて、若者はそそくさと人垣の向こうに消えた。
 通りすがりの見物人たちも、またあちこちへと散っていく。途切れていた物売りの声も響き始め、荷車がきしみ声を上げて通りすぎていった。
 アーシアはぼうっと人ごみを眺めていた。
 不慣れな町の見知らぬ人と話すなど、しかも文句をつけるなどめったにあることではない。今頃になって足が震えてきた。
「ありがとうよ……お嬢さん」
 老人が口を開いた。言葉を探すようにゆっくりと、あたたかい声だった。
「風渡りっていうのは皆が皆、口で言うほど悪い奴らじゃないんだが……」
「大丈夫だったかしら? また、文句をつけに戻ってきたりしない?」
「少なくとも、この通りには戻って来んだろうよ。耳も口も感心できんが、目は開いてたようだからな」
 それを聞くと、アーシアはくすくす笑った。老人の目も愉快そうにきらめいている。
「ねえ、どうして引き受けなかったの? 鉄で何かを作るのが、この町の人の仕事なのでしょう?」
「あんた、ここへくるのは初めてかい?」
「ええ。昨日着いたばかり」
「じゃあ、礼と言ったら何だが。町を案内してやろうか」
 アーシアはとまどい、兄の顔を思い浮かべた。
「あの……知らない人とあまり喋るなって言われてるの」
「風渡りならいいのかい?」
 アーシアは思わず笑った。
 平原の町も、そんなに悪い人ばかりではないのではないかしら。
 アーシアがそう考えていると、横の店の主人が口を出す。
「連れの人は、あんたが知らない町を一人で歩くのが心配なんだろう? それなら、なおさらパルトと一緒に行った方がいいよ。タジルのことには誰より詳しいし……」
「あんたはわしを助けてくれた。今度はわしの番だ」
 アーシアの顔がほころんだ。
「アーシア、よ」
「古風だね。神話の英雄のお妃の名だ。どうやらお妃は腹も空いとるようだな」
 アーシアは思わず赤くなった。気がぬけた途端に腹がくうくう鳴ったのだ。
 パルトは目を細めて、
「まずは屋台で腹ごしらえだ。それから、鉄道具通りを見に行こうじゃないか」
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