21 風渡の野 目次 23


風渡の野  22 
7.
「鉄とは別物だ」
 アーシアは口もきけずに手のひらの上の鏃を見つめた。
 石鉄のよく磨かれた割り跡は、作り手がそれなりの時間をかけて仕上げたことを物語っていた。
 せっかく、よく出来たのをくれたらしいのに。こんな鏃ひとつだって、冬の間に城臣たちが炉で焼きながらつくる大切なものなのに……。
「でも、これもよく出来てるわよね」
 しぼみがちな声で尋ねたが、返ってきた答えは曖昧なものだった。
「ああ、悪くはないね」
「……先は鋭いし、釣り合いも取れてるもの」
「……」
 人当たりの良い商人なら相槌のひとつやふたつ打ってみせただろう。
 だが、パルトは職人だった。
 彼から見れば、石鉄の素朴な細工には不満な点が多すぎた。良いものへの賛辞を惜しむことはない。だが、劣ったものにはそれなりの言葉しか与えることができなかったのだ。
 アーシアの顔が曇った。
「あれを見てごらん」
 不機嫌なまま目を上げたアーシアは、思わず息をのんだ。
 天幕もまばらになった町の高台。そこに立つ二人の足元から水音が立ち上ってくる。タジルの町を貫いて流れる川は急ぐでもなく、淀むでもない。ゆるやかな流れだ。
 その両岸は決して豊かな土地ではない。地面を覆う草は弱弱しく、川の屈曲部には赤茶けた土だか砂だかが溜まっている。
 だが、その川の流れゆく先。点々と見える林やこんもりとした森の向こうには、淡い緑がひろがっていた。春の芽をふくらませた、麦か豆の畑だろうか。
 ところどころで色が違うのは、畑によって違うものを植えているためだろう。はるか離れて眺めていると、はぎあわせた緑の布のようにも見える。
「あの全部が畑なのだよ」
 だが、アーシアは言葉を返すことも忘れていた。その広さに目を奪われていた。
 まっすぐな地平線など、生まれてこのかた見たことがなかったのだ。
 そして、農具を売る商人の言葉を思い出す。広い畑に植えることになれば、ありがたみがわかるよ。
「広いって……」
 その言葉の意味を、初めて知った。
 あの緑のあちこちで麦用の掘り棒、芋用の鍬、手鋤が使い分けられる。それだけではない。さらに聞いたこともない作物が幾多あるに違いないのだ。
 アーシアは肌が粟立つのを感じた。
「お前さんの村の畑はきっと小さいんだろう。堀り棒も鍬も、そうたくさんはいらない。だが、ここいらの畑は違う」
「……」
「これだけ広いと小さな犂では埒があかない。大きな犂を牛に引かせて土を起こす。幅の広い刃を、わしら鉄職人はこさえる。犂を何度も回さずにすむように、畑は広く細長く作る。刃の向きは土離れのいいように仕上げてやる」
 あそこに種を蒔くのに、どれだけ時間がかかるだろう。アーシアは小王国の春の畑仕事を思いだした。
 いったい何人がかりになるんだろう。そう考えると堀り棒を欲しいという気持ちもよくわかる。土に刺せば一度にいくつも穴があく。それも麦に向いた間隔と深さで穿たれる。
 少しでも手早く、楽に作業ができるのなら誰もが欲しがるだろう。
「土や畑や人手に合わせて工夫をこらしてやる。これも工房都市のわしらの仕事のひとつなんだよ」
 アーシアは遠く広がる薄緑から目を離せなかった。
 平原の町へ来てまだ一日、出会った何もかもがアーシアには面白かった。
 いつか見てみたいと憧れていた市場、きれいな品物の数々。だが、平原には目に見えない、何か遠さのようなものも感じる。
 見かけた何をとっても、エフタのものとは似ても似つかない。耳にした言葉は、わかりそうでわからない。この世界から拒まれているような気さえした。
「……私、もう帰らなきゃ」
 振り返ったアーシアは、考え深い顔つきだった。パルトは片眉をあげた。
「もう行くのかい? 表通りもろくに見ていないだろう」
「すぐ帰るって言って来ちゃったから。心配されるのよ」
 そう答えながらも、アーシアの頭の中は他のことでいっぱいだった。どうしたら、この町のことがわかるだろう?
 ここにもまた自分の知らない理屈がある。
 それを、ただ遠巻きに眺めているのはアーシアの気性に合わなかった。
「パルト。また、会いに来てもいい?」
 そう言って、老職人の顔をまっすぐに見つめ返した。
「ああ」
「いつでも、お店を出してるの?」
「そうだな。たいてい朝のうちだけだよ」
「それじゃあ、明日は終わる頃に来るようにする。邪魔はしたくないから」
 また、いろいろ教えてね。そう頼んで、アーシアは駆け出していった。


8.
 ティールが目を覚ましたのは、アーシアが飛び出していって、しばらくたってからのこと。陽が天頂に届こうかという頃だった。
 その目を覚まさせたのも平原らしい事柄だったのだが、妹の時ほど心地よくも、楽しげなものでもなかった。
 重く、まとわりつくような空気と胸を焼く吐き気。
 ティールはもったりと身を起こした。
 見れば、部屋の反対側の寝台には蹴りとばしたままの掛布が山になっている。アーシアはまだ戻っていないのだ。
 枕もとの水をひと口含み、注意深く飲み下してティールはため息をついた。平原の、のしかかるように濃い空気に慣れるのに数日はかかるだろう。
 胸やけは夕べ通った酒場の土産だ。平原の酒の燃えるような味には辟易した。杯を口に運ぶ回数を少しでも減らそうとして料理を頼んだのだが、その慣れない脂はひどくもたれた。
 ティールは自分でも予想していたとおりの辛い朝を迎えたのだった。
「何か……」
 間違ったことをしている気がする。
 吐き気と戦いながら考えることは、ひと言めから力ない。ティールは石でも詰め込まれたように重い頭を支え、またもため息をついた。
 何か噂話を聞きたいと思えば、確かに酒場や飯屋が適当だろう。
 だが、いくつ店を渡り歩いても、思うような感触は掴めていなかった。
 捉えどころのない噂ではなく、はっきりした事柄を得たい。そう思ってあせっているのだろうか。盛り場は自分には馴染めない、ということは承知していた。だが、他にどうしようもない。
 自分にできる精一杯のことをするしかないのだ。
 そんなことを考えていたのは、明け方、寝台に倒れ込んだあとに見た夢のせいかもしれない。思い出されたのはエフタの夏の風景だった。

 狩人となってまもない頃の自分と仲間の少年たち。それにスレイの姿もあったから、あれは十三の年の風景だったろう。
 少年たちだけで出かけたその狩は、数日をすぎても思うような獲物に恵まれていなかった。
 狩人としての腕前も、小王国を支える成人としての器量もまだ備えきれていない少年たちに、ハールがそうやすやすと恵みの贈り物をするわけはない。
 そうわかってはいたのだが、気持ちがくさりがちなのはどうしようもなかった。
「獲物さえ見つけられたらなあ」
「ずっと弓を握ってるから、柄がつるつるになっちゃったぜ」
 どっと笑い声があがる。
 その中で、ティールは周囲の山を見るともなく眺めていた。
 何を待っているのか、自分でもはっきりしなかった。だが、目を配っていなければ『それ』を見落とすような気がしたのだ。
「何かいたのか? くずりか、ウサギ?」
 急くようにスレイが尋ねたが、ティールは幼馴染を振り返りもしなかった。
「いや、何もいないよ」
 ティールの夢想ぶりはいつものことだったから、仲間の少年たちは気にもしなかった。
 そして、夕方ちかく。狩小屋へ引き上げようという時になって、それまで黙っていたティールは声をあげた。
「あそこだ」
『それ』がやってきたのだ。
 最初は他の誰の目も見分けられなかったが、真っ先に走り出したティールを追って若い狩人たちは牛をせかした。
「ティール、どこだ?」
「あそこだ」
 早くも牛を並べて尋ねてきたスレイに答えながらも、ティールの目は正面を見据えて揺らがなかった。
「あの、潅木の向こう。岩の横だ」
 言われたとおりのものを見つけようと細められていたスレイの目が、みるみる大きくなった。鹿だ。それも、かなり大きい。
 茶と灰色と鈍い白の潅木にまぎれていた鹿の姿が誰の目にも明らかになった。
 獲物の姿をとらえるや、狩人たちは山の斜面に四散した。まるで鹿を中心に網を広げるようだ。その網は、目標を見失うことなく閉じられた。
 翌朝、彼らは揚々として村へ帰った。イバ牛の背には見事な牡鹿がくくりつけられていた。

 あの夏から、ティールは変わった。
 弓矢を得意としないために、あいかわらず狩に出かけるのは好まなかった。だが、それをとやかく言う言葉は聞かれなくなった。
 何よりティール自身が変わった。いつも誰より先に獲物を見つけられることは彼の誇りとなったのだ。
 目を開いてさえいれば。
 雑多な事柄の中から、ふいに何かが浮かび上がるように見えてくることにティールは気づいていた。
 求める『それ』とは何なのか。工房都市へ降りて来ながら、未だわかってはいない。
 どんな出来事が耳に入り、父の求める答えを指し示すのか、ティール自身にも、まだはっきりわからなかった。
 だが、必ず何かが姿を現すと信じていた。だからこそ、父長も他の村人ではなく自分をここへ来させたのだ。

 その時、そっと扉が開いて金色の頭がのぞいた。
「兄さま、起きてる?」
 ティールはうめき声で答えたが、それでも重い頭に痛みが走ったようだ。しかめっ面がさらにゆがんだ。
 だが、アーシアは気にもとめず、出て行った時より軽い足取りで帰ってきた。
「市場でいろんなものを見たのよ。こんなにたくさんのもの、初めて。ねえ、風渡りって何?」
「アーシア、もう少し小さく。声を……」
「ごめんなさい。お茶、飲む?」
 そう言いつつも、アーシアの目は宙をさまよっていた。
 多分、飾り石か珍しい食べ物か、気に入ったものを見つけたのだろう。
「風渡りは、平原を旅する商人が護衛に雇う者たちだ。流れ者やうさんくさい素性の男ばかりだ。見かけても声などかけるなよ」
 アーシアは珍しく黙って頷くと、いそいそと茶の袋を取り出した。エフタを出るときに荷詰めしてきたものだ。湯は階下で貰ってきたのだろう、
 ほんわりと立ち上る湯気、飲み慣れた味に、ティールはほっと息をついた。
 自分もアーシアもこの町で、それぞれ欲しいものを得られればいい。そうして、慣れ親しんだ山へ早く帰れればいい。
 あの爽やかな光と清涼さの中へ。
 そう考えることで、ティールは再び力が湧いてくるのを感じていた。
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