22 | ← | 風渡の野 目次 | → | 24 |
風渡の野 23 | ||
9. | |
夕闇がタジルの町並みを覆う頃。昼間の喧騒は潮のようにひいていき、かわりに酒場のともしびが通りを賑やかに飾り始めた。 そのともしびの間を縫うように、ティールは店構えを見比べながら彷徨っていた。 似たような足取りの男たちは酒や料理の味にこだわって店を決めかねているのだろうが、それはティールにはどうでもよいことだ。 平原をつらぬく街道沿いの噂話。それが夜歩きの目当てだった。 やがて、鉄の唐草飾りをつけた看板に目をとめると、その扉を押し開けて身をすべり込ませていった。 「いらっしゃい」 迎えた女の声は明るかったが、店の中は薄暗かった。 油煙と煙草のしみ込んだ壁は、元の色もわからないほど黄ばんでいる。その壁にまぎれそうな色合いの服の客たちを見渡して、ティールはほっと息をついた。 平原に降りてきてから三晩目。今夜はいける。そう踏んだのだ。 酒といえば、礼を失することのない程度にしか口にしないティールにとって、酒場の空気を読むのは難しかった。 最初に入った店は驚くほど早く店じまいした。日が落ちてから数時間ではなかったろうか。 また来とくれ、という言葉とはうらはらに、胡散臭そうな目つきの主人に追い出されて、ようやく気づいた。そこは本当に馴染みの職人ばかりが通う店だったのだ。旅商人だか何だか、得体の知れない若造はありがた迷惑だったわけだ。 気をとりなおして入った次の店は、最初のところよりはましだった。 はるか南から旅してきた商人、風渡りたちが気炎をあげる。だが、夜が遅すぎた。 数えきれないほど酒壺がめぐった後では、筋の通った話をできる状態の者は少ない。話しかけてはからまれた。しかも拳を振り上げられながら、だ。噂話を聞くどころではない。 ろくに口もつけなかった酒代だけを払って出てくる羽目になった店もあった。そうやってティールは酒場通りをあてどなく歩き続けたのだ。 「おい、マルの実、持ってきてくれ」 「もう一杯、もう一杯!」 狭苦しい店の中で声が飛び交い、主人をせかしている。 部屋の真ん中の浮島のような大きな卓に隙間を見つけて、ティールは腰を下ろした。 一人きりの旅商人や長居するつもりもない客が来ては帰っていく大卓は、実は一番目立たない場所だ。店中の気配に目を配れるというのも都合がいい。 それにしても。何とたくさんの人がいるのだろう。 ティールはあごに手をあて、ものめずらしそうに辺りを見回した。その様子を故郷の者が見れば、妹姫とよく似た目をして、と笑っただろう。 あちらでは知り合ったばかりの商人が遠方の情報を話し交わしている。 顔つきはどちらもにこやかだが、言葉以上の話を読み取ろうと、目にはしぶとい光を宿している。 噂に聞いた怪しげな商売をしようというのか。ティールが知るセラの市場の商人とは、どこか雰囲気が違う。 そうかと思えば、店の隅の職人仲間の卓には若い風渡りがもぐりこんでいる。うまい話があるのだが、と口説いては煙たがられているようだ。 「いらっしゃい」 頭の上から降った声に、ティールは我に返った。 続いて、酒のつまみの干し果の皿が置かれた。申し訳程度の一品を運んできたのは、小柄で太った娘だった。 「何にする……あら」 娘はティールの顔を見て、心外そうな声を上げたが、すぐに笑みを取り戻した。 「ベルソアから新しい火酒が届いたところよ。それともサビアかロタがいいかしら」 だが、どれがどんな酒なのか、さっぱりわからない。 見上げた娘の顔は明るく、今にも笑い出しそうな表情だ。馴染みの職人が酔って騒ごうものなら、どやしつけて店から放り出しそうな逞しさもある。 こんな娘のいる店なら、いいかげんに薄めた酒で ―― ティールにはその方がありがたかったが―― 代金をもぎとったりはしないのだろう。 「どれも知らないんだ」 ティールは白状した。「だから、君の勧めるものを頼む」 それじゃあ、と娘は振り返って、父親らしい店の主人に注文を通した。 「ロタ、ひとつ。……それほどきつくないから」 ティールは眉を寄せた。酒場に似合わない勧め方だと思ったのだ。そして、にこにこと続ける娘の言葉には仰天させられた。 「だって、あんまりお酒に強くないんでしょ。それほど食べないし」 「……どうして……?」 その顔を見て、娘はからからと笑った。 「昨日は隣の店とその向かい。おとといは通り向こうのアトリの店に行ったんでしょ。ろくに飲めないのに何が楽しくて来るんだろうって、爺さん笑ってたわよ。何者だろうって皆、噂してるわ」 ティールは声も出なかった。 別段、素性を隠すつもりはない。商人、職人、風渡り……この町にいるどんな生業の男とも似かよっていないことはわかっていた。 だが、こうも目立っていたとは思いもしなかった。知りたい話を何ひとつ聞けないうちに、この状況はあんまりではないだろうか。 「はい、どうぞ」 鮮やかな色の果実酒。それを勧められるままに、ティールはごくりと飲んだ。妙に喉が渇いていた。 それを見守りながら、酒場の娘は難しい顔をして見せた。 「イベリスから来た商隊は今朝のうちに出発しちゃったわよ」 そして、ティールのおっとりとした物腰を見て首を振る。 「悪いこと言わないから、村へ帰りなさいよ? そりゃあ、旅商いはいい儲けになるけど、村の畑を継ぐのが一番よ」 どうやら家を飛び出し、ひと旗あげようと仕事を探す若者の一人と思われたらしい。さほど歳も変わらないだろう娘の、姉のような口調にティールは微笑んだ。 その笑みをどう受け取ったのか。娘は、だめだめというように手を振り、説教しようとした。だが、忙しくなった店の奥から主人の呼び声が上がった。 まあ、ゆっくり考えて、と言い残して、娘は客たちをかき分けて去った。 店はティールが入ってきた時よりもいっそう賑わいはじめていた。 喧騒に負けまいと張り上げる声が、さらに大きな笑い声を呼ぶ。酒精のまわった手もとはしだいにあやしくなり、酒壺と卓が高い音をたてる。 早くも足許のおぼつかない者もいるのだが、それでも杯をまっすぐ保っているのはお見事としか言いようがない。 「ここ、いいかい」 上機嫌の三人組がティールの肩を叩く。見ればいつのまにやら隣の椅子が空になっていた。ひとつ席を詰めて、座らせて欲しいということだ。 ティールがさりげなく頷いて席を移ると、三人はもう内輪話に興じていた。 |
10. | |
「だから、頼むぜ。お頭に口きいてくれや」 どうやら風渡りらしい。馴染みの三人というところからすると隊商について行く風渡り仲間なのだろう。 風渡りの多くは一人で旅をする。生まれも育ちもまちまちで、後ろ暗い過去の男も少なくない。馴れ合って行くのが厭でならないという者もいる。 二、三人の隊商ならば一人の護衛で十分だ。腕の立つ者なら相当の額の報酬を求めることもできるのだ。儲けを分け合うなど馬鹿馬鹿しいことだろう。 だが、時には腕や気風のいい者が頭目となり、数人の仲間を率いて仕事の口を得ることがある。大きな隊商を遠くまで送り届けるような場合だ。 人柄を慕われているような頭目の名は、商人たちにもよく知られている。 あの男が率いる風渡りたちならば……と、高い報酬に応じる場合も多い。そんな事情から、名を知られた頭目が仲間を募ると噂が立つと、風渡りたちはこぞって売り込みに行くのだ。 いったいどこへ向かう隊だろう、とティールは耳をそばだてた。 「お前は手癖が悪いからな」 ひとりは渋って首を振る。 「何だと? 俺がいつ盗っ人どもみたいな真似を……」 「違う、違う。そっちじゃねえって」 と、男は小指をたてる。「こっちだ」 「お頭は騒ぎが嫌いなのよ。この前みたいに宿屋の女が怒鳴り込んでくるなんざ、ごめんだ」 どうやら話は内輪も内輪、ティールの願う方向からすべり離れていく。いたしかたないと諦めて杯をすすった時だった。 渦巻く笑い声、ろれつの回らない歌声。その中から、どうして聞こえたものだろう。 「……今の季節に、何でそんなことをするんだか……」 静かな声がティールの耳を捉えた。 そっと杯を置き、声の主を求めて振り返ったティールは旅商人の姿を見つけた。 「道が良くなるのはありがたい。だが……春と……」 喧騒の中から、不意に湧き上がってきた言葉。 それに引き寄せられるように、ティールはそろそろと席を移った。 壁際の小さな卓で火酒をすすっているのは口髭をたくわえた商人、そして鄙びた色合いの服を着たやや若い痩せた男だった。 髭の方は低い声で訥々と語る。痩せた方は落ち着きなく頷いたり首を傾げたりする。しかし、どちらも油断のない目つきで、しぶとい商売にも慣れた風だ。 道が良くなる……? ティールは平原の地図を思い浮かべた。 平原を南北に貫く幾筋かの道、さびれたものもあれば、ひっきりなしに隊商が行きかう街道もある。 さらに、それらをつなぐ細い道筋、離れた農村へとつながる道も数多い。いったい、どこの話なのだろうか。 「そんな大仕事は冬だけやればいいことだろうに」 「いいじゃないか。道は広く、平らになって。俺たちも旅がしやすいだろうが?」 「だが、今やらんでもよかろう?」 髭の男はため息をつく。 「植えつけだ、草むしりだ、と手のかかる時期なんだ。畑に戻ってもらわんと……そら、こっちも商売を広げないと喰って行かれんだろう?」 意味ありげな言葉に、そうさなあ、と相手の男も唸る。火酒の壺を傾けたが、何も出てこないのをみると悲しげに眉を寄せた。 「それじゃ、西の街道で帰るか? どうする?」 「失礼するが……」 その二人の卓へ、ティールは歩み寄った。 「それは、いったいどこの話なのですか? 道が良くなるとは?」 商人たちはぴたりと口を噤んで、顔を上げた。 相手が何者であれ、まずは用心、という身についた態度だ。だが、明るい純朴な目の若者は、商売の邪魔にも助けにもならないと見てとったのだろう。 「オルタ(やあ)」 気もなく答えて緊張をほどいた。 商人であれば、たとえ見知らぬ同士でも遠方の情報を尋ね合う。だから、男たちはティールの問いにも答えてくれた。 「アマラのそばだよ」 髭の商人は不機嫌に唸る。 「ベルソアからのお達しで、冬じゅうかけて道を整備しておったんだよ」 ベルソアとは、とティールは頭の中の地図に指を走らせる。平原のほぼ中央、アルセナの首都のことだ。 「あの道は歴史があるといえば聞こえはいいが、はっきり言えば……ほら、さびれとるだろう? 獣道とさして変わらん場所もある。だから、近くの村から人手を集めて掘ったりならしたり始めたと聞いて、ありがたいと思ったよ。だが……」 商人はぐっと杯を空けた。「いったい、いつまで続けるつもりか?」 「冬はいい。農民の食い扶持だ。だが、植えつけの時期になっても男手が畑に戻らんなど、これまでにはなかった」 「今の季節に、ですか」 ティールは眉をひそめた。平原の畑仕事はよくは知らないが、苗を植えるか種蒔き時か、いずれにせよ忙しい時期のはずだ。 「ああ、この春先にな」 と、男は忌々しく言い捨てた。「ついでにいえば、そうまでして何故、道を広げるのか解せない」 「……何か、戦と関係があるのでしょうか?」 「そうかもしれんねえ」 痩せた男も横で頷いた。 「アマラから大がかりで人が動くのだろうよ。それが兵か貴族さまかはわからんが……」 「人が動く?」 「おそらくはね」 ティールは口を噤んだ。兵も貴族も山では馴染みのない話題だ。まして、戦などと、自分で言ってはみたものの何がどう関係するのか、いまひとつ掴めない。 工房都市の者にとっては、戦の噂は悪いばかりではないだろう。 何せこの町はアルセナに武器を売っている。属領土ということで買い叩かれてはいるだろうが、少なからぬ貨幣が落ちていることは、町の賑わいを見ればあきらかだ。 一方の商人たちも、戦の成り行きをいつも気にしているに違いない。商人には商人のやり方というものがあるのだろう。 どこで何が求められているのか、いくらで売れば儲けになるか。 いや、その売り先すら――アルセナがいいか、バクラの方が高く買ってくれようかと、秤にかけている者もいるのかもしれない。 そんなことは山育ちのティールには想像するのも難しい。考えると頭痛がしてきた。いや、少しばかり飲みすぎたのかもしれない。 ティールはめまいを覚えて青白い額を拭った。 「おい、若いの。大丈夫か」 「ええ……」 たぶん、という言葉尻は口の中で消えそうだった。 「まあ、座れ。飲み慣れないものでも勧められたか。何だ、ロタか。これしきで」 「申し訳ない……」 「見習いのくせに、さては旦那の目をぬすんできたな」 またも誤解だ。 畑に飽き足らずに夢を見る若造、ついで駆け引きも覚束なさそうな見習い商人。ようするに頼りない、世慣れない風ということか、とティールは苦笑いした。 「しようがないな。そら、上着も着てろ」 「おい、ねえさん。水をくれや」 旅慣れ、酔っ払いにも慣れているのか、男たちは親切だった。 それがティールには意外だった。平原の人間もこんな風に知らない者に手を貸すのだなどと考えたこともなかったのだ。 旅商人同士と思えばこその連帯感なのだろうか。そう考えると、ティールはどこかうしろめたい気がした。 その時、また新しい客が扉をくぐってきた。 何気なくそちらへ目をやった数人の男たち、その杯を持つ手が止まったことにティールは気づいた。 |
22 | ← | 風渡の野 目次 | → | 24 |