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風渡の野 25 | ||
13. | |
夜の帳がいまだ青く残る頃。 タジルの静まり返った家々の扉から人影が滑り出てきた。手に手に明かりを携えて、灰色の上衣をまとった姿は鍛治職人たちだ。 彼らは通りを抜け、坂を上り、町の小さな神殿へと向かう。そこには石造りの塔があって、あふれるほどの花と供物に覆われていた。先に詣でたものが祈りとともに捧げたものだ。 火の色を見間違えることがないように。 打ち損じることのないように。 彼ら職人たちの、祈る言葉は違おうが願うことはひとつだろう。新しい一日を、ハールがお守り下さるように、と。 やがて、朝の気配が近づいてくる。 最後の闇をひと息に裂こうと、町に最初の鎚の音が響いた。すると、それを待ち構えていたかのように、あちこちの工房から応えが上がった。 町が動き出す。こうして工房都市は新しい一日を迎えるのだ。 タジルの丸い広場から四方へのびる大通り。馴染みの客も多いこの通りに、最近珍しい常連がいる。 毎朝、天幕から天幕へ歩き回って品定めをするのに、何ひとつ買わずに立ち去るのだ。歳は十五、六の若い娘で、工房都市では見慣れないいでたちだった。 市場の商売人たちは、きっと許婚に会いに来た娘だろうと噂していた。普通は男の方が行くものだろうと言えば、誰かが首を振る。 いいや、そうとも限らない。工房の若衆なら炉を離れられないものだ。それに業を煮やして娘の方で乗り込んできたのだ。 「そうかもしれんなあ」 誰かが笑った。「あっちと思えばこっちと、よく歩き回る娘だから」 してみると相手はどこの工房の男だ、と噂話はその常で、真相の倍以上に膨らんでいった。 だが、当人は噂になっていることにもまったく気づいていなかった。見るべきもので市場はいっぱいだったからだ。 「オルタ」 「オルターラ、アーシア」 天幕のひとつへ、アーシアはふわふわした足取りで入っていった。そして、顔見知りになった女主人と挨拶を交わした。 しっかりした太い腕でもって店を切り盛りするユーラは、三十ばかりのほがらかな顔の女だった。若いとはいえないはずだが、アーシアの話にけらけらと笑い転げると年もさして違わないように見える。 アーシアが手ぶらなのを見て、ユーラはからかうように言った。 「アーシア、また今日も見るだけ?」 「ええ」 「市場で買い物しなきゃ、どこで買うってのさ」 「あら、買うわ」 アーシアは意外だ、とでも言うように目を丸くして、それから笑いながら答えた。「でも、よく見てからね」 「それはそうだね」 いい買い物をなさい、と女も笑った。 「今日は何を食べるかい? 新鮮な青菜が入ったから、肉と一緒にパンにはさむとおいしいよ」 アーシアの顔がぱあっと明るくなった。「おいしそう。それにする!」 女主人は慣れた手つきでパンを切り、肉や野菜を支度はじめた。そろそろ中天に近くなった太陽を避けて、アーシアは天幕の陰の椅子に腰を下ろした。 もうじき、昼食を頼みに職人たちがやってくるだろう。 この隅の卓に座り込んで、彼らの話を聞くのがアーシアは楽しみだった。 最初は、屈強な男たちがぞろぞろやって来る様子にぎょっとしたものだった。だが、落ち着いてよく見れば、人のよさそうな顔ばかりだ。 話し声はばかに大きかったが、――鍛冶職人とは皆そうらしい――怒ってもいないし、喧嘩を売っているわけでもないそうだ。 女主人がにらみを利かせているせいか、うまい料理を前に不機嫌になる暇もないのか、職人たちの行儀は良い。 町の雑踏にも慣れて、わくわくするようになった。そして、鉄を打つ、聞き馴染んできた音に、アーシアは鍛冶職人の話を思い出していた。 鉄を打つ。 アーシアは最初、その言葉にどうにも慣れなかった。 これまで、「鉄」は「割る」ものだった。冬の炉辺で、細工に長けた城臣が石鉄を熱しては狙いどおりの大きさや形に割り出す。その様にアーシアはいつも見惚れていたのだ。 「鉄を打つって? どうするの?」 アーシアがこっそりとユーラに尋ねた言葉が、たまたま傍の卓についていた職人の耳に入った。 「嬢ちゃん、見たことねえのか」 しょうがねえな、と言いたげな、そして抑えてはいるが隠しようもなく得意げな顔だった。炭のついた上衣の袖を振りながら、職人は熱心に説明してくれた。 鉄は石からできること。隣の町オロでは昼夜を問わずに炉が燃えて、石を熱し続けること。そうすると、いらないものが融けて流れて、後には鉄の黒い塊が残るのだという。 「そいつがオロから運ばれてきたら、俺たちの仕事が始まるんだ」 「打つ?」 「ああ。もう一度火にくべてな、打つんだ。お天道さんのような色になってくると、滓が浮かび上がる。もっと鍛え続けると、残ってた石の滓が剥がれ落ちて、いい鉄になっていくのさ」 「良くない鉄もあるの?」 「ああ。オロの近くでとれるのはいい鉄になる石だ。だがな、それを打つ腕前も大事なんだ」 職人は難しそうな顔をしてみせた。 「南の町にも鍛冶屋はいるらしい。だが、物を見たがね。まったく話にならんよ。刃先はすぐ欠けちまうし、第一、仕上げがうまくない」 城臣のタルドとそっくり。 そう考えて、アーシアは微笑んだ。 唾を飛ばして説明する職人といい城臣といい、細工好きの者はどうして皆こうなのだろう。『仕上げ』が気にかかって仕方がないらしいのだ。 その様子を職人は可笑しそうに眺めて尋ねた。「工房を見てみたいかい?」 「ええ……」 もちろん、と言いかけて、アーシアは慌てて口を押さえた。 「そのう、行きたいんだけど。表通りが見えないところへ行くなって言われてるの」 職人の杯を持つ手が止まった。意外なことを聞いたというように、アーシアの顔をまじまじと見ていた。 「そうか。そうだな……」 と、水で割った果実酒をすすりながら呟いている。 「その方がいいかもしれないな。あんたの連れは、頭の回る人だ」 「どういうこと?」 身を乗り出して尋ねようとしたアーシアを、彼は大きな手を上げてとどめた。 「やめとこうや、嬢ちゃん。俺も答えなきゃならなくなる。あんたも聞かなきゃならなくなる」 そして、アーシアがぽかんとしているうちに、職人は席を立って行ってしまった。 あれは、いったい何だったのだろう。 |
14. | |
「お待ちどおさま」 たん、と軽い音とともに皿が置かれた。 その皿に乗り切らないほど大きなパンを両手に持って、アーシアは幸せそうに目を細めた。 「いただきます」 見たこともない野菜と風変わりな味つけの肉はアーシアの気に入った。 慣れない香りのもとは何だろう、何が入ってこんな味になるんだろう。ユーラに尋ねたが、秘伝の味つけだからと笑ってかわされてしまった。 明日は兄さまも連れて来よう。 そう思いながら、アーシアは黙々と食べ続けた。おいしいものは誰かと一緒に食べたい、それに市場の品物も見てもらわなければ困る。 エフタの女たちへのみやげものはアーシアが選ぶことになるだろう。だが、畑仕事や狩で使うものの品定めは、ティールの役割だ。 あと何日、ここにいるつもりなのかはわからない。毎晩、酒場通りで聞いてくる話など、ティールは何ひとつ教えてはくれないからだ。 だが、パンの値段を見てもわかる。そうそういつまでも、ここに居座っていられるはずがないのだ。 明日こそ、一緒に来てもらわなきゃ。昼まで寝てる場合じゃないのよ。 アーシアは力強くパンを噛み締めた。 店の中はしだいに混み始めていた。 小路や裏通りの工房から、続々と職人たちが集まってくる。明け方から働き続けていた彼らは汗を拭き拭き、午前中の仕事の進み具合を話しながら天幕へ入ってくる。 今朝の火の色、オロからついたばかりの鉄の質、新しい注文を持ってきた旅商人の噂話……。彼らの邪魔にならないように、そして見知らぬ男たちの間にいるのは落ち着かなくて、アーシアはユーラのそばに寄っていた。 「まあ、今日は込みそうだね」 ユーラは楽しそうに言うと、アーシアを振り返った。 「もし、野菜の支度を手伝ってくれるならパン代は安くするけど。どうするね?」 アーシアは頷いて籠と野菜を受け取った。エフタへの土産物に、と目をつけている色糸を少しでもたくさん買いたかったのだ。 野菜の瑞々しい茎と葉の部分をちぎり分ける様子に、ユーラは満足そうに頷いた。 これはアーシアが気づいた平原の不思議なことのひとつだった。 エフタでは、食べ物のために引き換えのものを渡すことはなかった。ヒラ麦も狩の獲物の肉も村のものだからだ。村の者が皆で手に入れるのだから当然のことだろう。 それでは、平原では誰が食べ物を手に入れるのだろうか。 女主人は店に立っていた。職人たちは誰も畑仕事などしないのだという。そして、誰もが銅貨を手にして店へやってきた。 それとも、これは特別なことなのだろうか、とアーシアは青菜をむしりながら考えた。 エフタでは糸を紡げば村の物になる。だが、いくらかは自分の手元に残しておいてもかまわないとされている。 また、アーシアには経験はなかったが、狩人には獲物の一部を自分の物とする権利がある。肉は冬のために保存して、しかし毛皮はティールが手に入れたのを見たことがあった。 働いて、糸や毛皮を手に入れる。それはエフタでは生活の中のささやかな潤い、特別の楽しみだ。 それと同じことなのかしら。 毛皮を渡してお金をもらったり、お金を払ってきれいな色の糸を買うのだもの。でも、毎日毎日が贅沢? そんなはずはない……。 物、銅貨、働くこと……それがぐるぐるとアーシアの頭の中を回り続けた。 「アーシア、もう十分だよ」 はっと気づいて顔を上げると、ユーラが呆れたように覗き込んでいた。膝の上の籠から、濃い緑の野菜がこぼれかけていた。 「青菜だけ食べるわけではないんだけどねえ」 「ごめんなさい。ちょっと多かった?」 「ちょっと、ねえ」 アーシアは慌てて籠を揺すった。見た目ほど量があるわけではないと思ったのだ。だが、嵩は減っても、ちぎった枚数に変わりはない。 「まあ、いいよ。酢漬けにしておこう」 「無駄になった?」 「いいんだよ。酢漬けにして食べるんだから」 酢漬けって何だろう、とアーシアは首を振った。何て、たくさん。何て、こんなに知らないことがあるんだろう? 気がつけば、狭い天幕の中は客でいっぱいになっていた。 「ユーラ、まだかい?」 「四人前とサビアひと壺。急ぎで頼む」 女主人は腕の上にうまい具合に三枚の皿を載せ、アーシアを振り返った。 「今日もパルトのところへ行くのだろ? その壺を運んでくれたら、あとはもういいよ」 「え? まだ何もしてない……」 「青菜はもういいって」 ユーラは笑って目配せした。「パルトによろしく言っとくれ。たまには顔を出せって」 アーシアは頷くと、口までなみなみと果実酒の入った壺を運んだ。 職人たちは運ばれてきた料理をがっついて、アーシアのことなどろくに見ていない。話しているのは炭だの石のことばかりだ。 それはそれで聞いていたかったけれど、もう太陽は天頂にかかっていた。 パルトが待っているかもしれないと、アーシアは道具通りを駆け出していった。 |
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