28 風渡の野 目次 30


風渡の野  29 
21.
 アイル。
 この言葉は、上古には人々のハール信仰の中心に生きていた。
 ハールはその子供たちに力を分け与えて、この地を去っていった。だから、アイルは人間にとって、自分たちの因るところを証すものだった。
 ハールに仕えた御娘の子孫にはより豊かな力が与えられ、世を統べるようになった。これが、かつて平原に栄えた古王国のはじまりだった。
 王一族は背は高く姿は美しく、活力にあふれて命は長かった。一人の王に三代の家臣が仕えることもあったという。
 また、ハールの塔があったと言われるところからは、河が流れ出て地を潤した。
 人々はそれをハールの恵みの河だと考えた。その水によって草野原は実り、多くの命が育まれたからだ。アイルにちなみ、河は古い言葉で『イル』と呼ばれた。
 しかし、アイルはいつしか薄れはじめた。
 人間たちの間から力が失われ、ついには王族の中にさえアイルを持たない者が生まれるようになった。
 イル河の水は涸れはじめた。麦は実る前に倒れ、つづく年には病が地にはびこった。わずかな収穫は飢える者を生かすのではなく、争いの種となって、いっそう多くの命を奪った。
 こうして古王国は長い混乱の時代を迎えた。
 国は分かれ、王一族はちりぢりに去っていった。ある者は南の海へ、ある者は平原を渡って山の奥に住みついたという。

「それが小王国の始まりだ」
 ティールはぽつりと言った。
「だから、アイルを持つ者が小王国に生まれても不思議ではない。実際、レンディアには居たそうだから」
 その目には灯りが映ってゆれていた。

 平原にとどまった王族たちは、バクラと呼ばれることになる新しい王朝を建てた。
 しかし、混乱は終わらなかった
 いくつもの小さな国が生まれては消えていった。生き残った国もある。アルセナもそのひとつだ。
 平原の歴史は小王国の年代記の中でも語られている。そこから「戦」という文字が消えることはなかった。
『何故、これほど長く、手ひどいやり方で戦を続けるのだろうか』
 幾代も昔の長の残した言葉。それは幼いティールの胸に染みとおった。
 一年の半分も雪におおわれる小王国と比べれば、平原のなんと豊かなことだろう。
 新芽の萌える枝がある。花がこぼれ、実った麦が金に波うつ……その畑に血が流される。
 人々は世界からアイルが失われていくことを嘆き、ハールの子である最後の王族を祀り上げ、しがみつく。それでいながら神が人に与えた知恵と技をつかって殺し合っているのだ。
 古い書物は読めなくなったところも多く、ティールは戦の様子を知ることはできなかった。あるいは平原との関わりを捨てようとした長たちが、しだいに遠い地の出来事を記すのをやめたのかもしれない。
 バクラとアルセナ。
 平原の混乱の時代を生きのびた国が、何故戦わなければならないのか。ティールには戦の故などわからなかった。
 だが今も、現に戦の続くこの平原で、剣なくして生きていけるのだろうか。
 ティールはレンディアで見た、あの大剣の姿を思い出していた。強い光も、鞘に収められた時の冴え冴えとした刃の音も……。
 あのひと振りを求めて、平原中から人々が集まる。
 欲と願いと駆け引きが町中にあふれていた。この流れを止めることなど、どうしてできるだろう……。

「エフタにも?」
 アーシアの問いに、ティールは目をあげた。「え?」
「エフタにもアイルを持っている人がいたの?」
 アーシアの顔は好奇心でいっぱいだった。そのまなざしが眩しく思われて、ティールはただ目を伏せた。
「帰ったら、父上に聞いてみよう」
 その言葉に、アーシアの顔色がかわった。
「もう帰るの?」
「ああ」
「でも……!」
 アーシアは皿を押しのけるように身を乗り出した。
「まだわからないこともあるんじゃないの? もう何日かかけて……」
 だが、それを遮ってティールは穏やかに、しかしきっぱりと言った。
「これ以上、留まっても何か聞かれるとは思えない。それより、わかっていることだけでも、早く父上に……」
 その時、扉の外でこつり、と窺うような音がした。二人は顔を見合わせた。
「誰だ?」
 だが、その問いかけに応える気配はない。
 ティールは音もなく立ち上がった。そして、アーシアに部屋の奥へ行くように目で促し、狩用の小刀を握る。それを見て、アーシアは息をのんだ。
 ティールはそろそろと卓を回って、アーシアを背後にかばうようにした。
 扉を見張りながら、ティールは錠を下ろさなかったことを悔いていた。まさか宿屋の中にまで、物盗りが来ようとは思わなかったのだ。
 賊相手に何の役に立つかわからないが、小刀を握りなおす。アーシアも炉の横に置いてあった火掻き棒をつかんだ。
 そのとき重い扉がきしみ、暗い廊下から影が滑り込んできた。
「……!」
 手にした鉄棒を振りかぶろうとして、アーシアは目を瞠った。構えられたティールの手もとまった。
 入り込んできた賊は卓の灯りに身をさらした。
 堂々とした体格、重そうな剣を下げた姿。それを二人は身動きもできずに見つめた。
「あなたは……」
 絞りだすようにつぶやき、アーシアは床にへたりこんだ。薄汚れた姿で忍び込んできたのは、確かにレンディアで見た顔だった。


22.
「ラシード……殿?」
 ティールも呆然とつぶやいた。
 男はほっと息をつきながら、
「思い出して頂いて助かった。その物騒なものをしまって下さい」
 そうして、アーシアに手を貸して立ち上がらせた。
 震えながらつかまった、そのもう一方の手に太い鉄棒が握られているのを見て、ラシードは苦笑した。
「どうして……」
 緊張がほどけて、ティールは小刀を取り落としそうになりながら仕舞った。「ここで、何をしておられる?」
「よろしいか、お二人とも落ち着いて聞いて頂きたい」
 そういって振り向いたラシードの目は厳しかった。
「エフタへ、アルセナの兵士がやって来たのです。城は奪われ、村中が兵のもとに置かれました」
 二人はぼうとして相手の顔を見つめていた。
「何、だって?」
「兵士?」
 何のことだかわからず、それでも、まずティールが気を取り直した。
「村の皆は、父は無事なのですか? 兵士とは? どうして……」
「急を知らせてきたのはカデルという男だった」
 ラシードはエフタの長の子らを見た。
「村の者は脅されてはいたが、無事だったようだ」
 カデルの無骨な面立ちを思い出して、アーシアはほっと息をついた。が、ティールはラシードから目を離さなかった。
「……だが、何故、それをあなたが伝えに来たのですか?」
 その奇妙な声音に、アーシアはぞっとして兄を見上げた。若者のまっすぐなまなざしを、ラシードも受けとめて答えた。
「お父上が捕らえられたのです。そして、おそらく命はない。エフタを継ぐ身のあなたを守るように、長より頼まれて来たのです」
 アーシアは叫び声をこらえた。ティールは何もいわず、ただ目を瞠っていた。
 そして、知らせたラシードはレンディアの城に在る人を思い出していた。


 長の部屋の扉を叩く音がした。
「入ってくれ」
 声をかけて、セディムは振り返った。戸口に姿を現したのはラシードだった。
 煮出したばかりの薬湯の匂いを漂わせて、たった今まで怪我人を看ていたのだろう。
「カデルの様子はどうだ?」
 薬師は勧められる前からどっかりと椅子に腰を下ろして、長の問いに答えた。
「今は眠っています。一服盛ったのが、効いたようですな」
 聞けば物騒な物言いだが、薬師の顔はほっと緩んでいる。それを見てセディムも厳しい目を和らげた。
「さて、セディム様。話とは」
 その顔は長の命を待つ城臣たちと同じ、聞く前から応えるつもりの気構えを漂わせている。それを、セディムは厳しい顔で見つめた。
「……平原へ降りてもらいたい。ティールとアーシア殿を探してくれ」
「わかりました」
 薬師は驚きもせず答えた。
「あの若者のこと、まっすぐタジルへ向かったに違いありませんな。こういう時は素直なのがいい」
 それが聞こえているのか、いないのか、セディムは眉を寄せた。
「エフタがどうなるか、いや、アルセナの意図がわかるまで。ティールには身を隠してもらった方がいい。立ち回りそうな場所などいくらでもある。見つけられるか?」
「見つけましょう。アルセナ兵より早く」
 そうしてくれ、何としても、という言葉は、口に上せるまでもなく二人の間にあった。 セディムは苦々しく言い継いだ。
「エフタの長、その人だ」
「そうでしょうな」
 ラシードはぽつりと答えた。ティールがそう呼ばれる日は、祝福の言葉とともに訪れるはずだった。
「パンと水を支度して戴けますかな」
 ラシードは立ち上がった。
「どれだけ要る?」
「八、いや七日分を。平原に降りれば、あとは何とかします」
「ラシード」
 セディムは薬師の肩に手をかけた。
「すまない。こんなことを頼むつもりではなかった」
 ラシードは一瞬不思議そうな目をして、すぐに笑った。
「人遣いが荒いのはケルシュも同じだった。妙なところばかり似てこられたな」
「……!」
「まあ、いい。それより、忘れないでいただきたい」
 本気を冗談でかわされて不満げな長を、ラシードは押しとどめた。
「山の民も誇りを守らねばならない。だが、安易に戦ってはいけない。そんなことをすれば、レンディアは自滅します」
 その言葉にセディムは目を瞠った。ラシードの声は穏やかだが、どこか冷ややかさがあった。
「何をするべきか、よくよく考えて下さい。地の利を生かして……決して真っ向からぶつかってはいけない」
 セディムは答えなかった。
 安易に流れてはならない、とは亡き父もよく口にした言葉だった。それが、これほど重みを持ってセディムに突きつけられたことはない。
「用意ができればすぐに発ちます」
「頼む」
 セディムは再び長らしい表情に戻った。
「エフタの先の望みは、あの二人にあるのだから」
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