29 風渡の野 目次 31


風渡の野  30 
23.
 宿屋の前で、どっと笑い声が上がった。
 今夜はどの店へ行こうか、旅商人の一行が相談しているのだ。しかし、その声は兄妹の耳には聞こえていなかった。
 小さな灯りを囲むように三人は卓についていた。身動きもしない、その後ろで不安な影が壁にうつって揺れていた。
「あなた方を狙って、追っ手が出されたでしょうな」
 ラシードはアーシアが差し出した水を飲み干した。
「予定を変えて、セラではなくタジルへ来たことは不幸中の幸いだった」
「何故、追ってくるなんて思うの?」
 アーシアは両手を握りしめた。その様子に、ラシードは言っていいものかと躊躇した。しかし、ティールの目も答えを待っていた。
「長の命を絶つのは、支配者に成り代わるためです。ウォリスの次にあなた方の命を奪おうとするのは明らかだ」
「どうして」
 アーシアの藍色の目に怒りが閃いた。「どうして、そんなことをするの?!」
 自分たち、エフタの人間が何をしたというのだろう。何故、狩の獲物のように追われ、逃げなければならないのだろうか。
「何故でしょうな」
 だが、ラシードは短く答えただけだった。
「が、彼らはまず間違いなく追ってくる。そして、ここを見つけ出すのも時間の問題です」
「私たち、セラには行っていないわ。見つかるわけない」
 この言葉に、ラシードは薄く笑った。
「私は見つけたのですよ。噂を頼りにね」
「でも……」
「ここを出立して、セラに寄った商人がいる。彼らは風変わりな二人連れの話をするかもしれない。少なくとも、心当たりがないかと問われれば思いあたるだろう」
 アーシアとティールは不安な顔を見合わせた。この町で自分たちがどれほど目立っていたか、今はもうよくわかっていた。
「今すぐタジルを出て、身を隠していただきたい」
 兄妹を見比べて、ラシードはきっぱりと言った。「事の次第がわかるまで、山へ帰るわけにはいかんのです」
「父が死んだというのは……」
 ティールはしぼり出すように尋ねた。
「それは確かなのですか?」
「まず、間違いないでしょう。知らせに来たカデルが言うには……」
 ラシードは苦い声で説明した。アルセナでの虜囚に対する習慣、カデルが最後に目にした、塔の上の長の姿……。
「塔の上?」
 ふいにティールが顔を上げた。
「白い服を着て、塔の上にいた、と?」
 その声の鋭さに、ラシードは眉を寄せた。
「ティール殿?」
「兄さま?」
「何故、気がつかなかったんだ」
 ティールは呆然として呟いた。顔を上げてはいたが、あとの二人の姿など目に映ってはいなかった。
「私は見たんだ、エフタを発つ日に。白い上衣の父上の姿が遠見の塔にあった。風に裾が翻っているのを見たのに……」
  不吉な予感の見せる幻影。それを思い出してティールは身震いした。「何故、気のせいだと決めつけたんだ?」
 そして、不意に込み上げた怒りそのままに拳を卓に叩きつけた。
「エフタへ……すぐ帰らなければ!」
「いけない」
 立ち上がったティールを、ラシードは肩を掴んで押さえつけた。
「今、帰ってもいたずらに命を落とすだけです」
 アーシアも夢中で兄の腕にしがみついた。ティールは二人を振りほどこうと身をよじって叫んだ。
「父が死んだというなら、私が戻らなければ」
「兄さま!」
「こんなことになるとわかっていたら、山を降りたりしなかった!」
 その時、ふいに扉が押し開かれた。
「……取り込み中かい?」
 三人はぴたりと動きをとめた。
 場違いなほどにのんびりした声。うっそりと現れたのはまだ若い男だった。薄汚れた身なり、日に焼けた顔を見てアーシアは息をのんだ。
「あなた……」
 それは、パルトの店から追い払われた、あの若い風渡りだった。


24.
 アーシアを見つけるなり、風渡りはにやりとした。
「どんぴしゃ、だな。この娘っこだ」
 そう言って部屋に滑り込んでくる。そして腕組みをして、
「な、当たりだろ、ラシード」
 と、得意げに三人を見回した。アーシアは目を瞠った。
「知り合いなの?!」
「昔なじみです」
 ラシードは頷いた。
「商隊といっしょに旅をしていた頃に知り合った、風渡りの……」
「ホーク、だ」
 名乗った風渡りは意外にも親しげに笑った。その姿を兄妹は呆然と見つめた。
 汚れているが質はよさそうな厚地の肩布。ただし、何をしたのかと思うほど派手に破れてそのままになっている。身なりにかまわないのかとも思ったが、真っ黒な髪には色石が編みこまれ、目をひく飾りになっている。
 なんて、変なかっこうなのかしら。
 アーシアは首をかしげた。山の民はもちろんのこと、タジルで会った職人とも商人の身なりとも似ていない。
 そんな品定めをされているとは知らず、ホークはにやけた顔でラシードに向き直ると手を出した。
「さあ、約束のをくれ」
 ラシードは目を細めて相手を見つめた。そして、ため息とともに懐から大きな銀貨を取り出した。ホークはふいっと口笛を鳴らした。
「おいおい、気前がいいな。釣りは持ってねえよ」
 だが、ラシードは銀貨を握ったまま離さなかった。ゆっくり首をふると、
「タジルを出て、最初の野営地まで、だ」
「護衛しろっていうのか? それにしちゃあ安すぎるぜ」
 ホークはおおげさに肩をすくめたが、ラシードは気にした様子もなかった。
「そうか。では、あいにくだったな、こちらも細かい持ち合わせがない」
 と、報酬をしまい込もうとした。
「おい……!」
 ラシードはちらりと風渡りの顔色を見た。自分の腕前をよく知るふてぶてしい顔だが、目が金から離れない。
「受けるか、受けないか。どっちだ。はっきりしろ」
 風渡りは昔なじみの顔と銀貨を苦々しく見比べていたが、やがて、
「ラシード、あんたが雲隠れしてた間も相場ってもんは変わってるんだ」
 ぶつぶつと呟いた。「まけてやるのはこれっきりだ」
 そう言ってすたすたと戸口へ向かった。
「おい、何のんびりしてんだ。まさか朝飯食ってから、なんて言うんじゃねえだろうな。支度する暇はねえ。今すぐ、身ひとつで来い」
 意外ななりゆきに言葉もなくしていたティールは、はっと顔を上げた。
「待ってくれ。行けない、イバ牛を置いては行けない」
「悠長なこと言うなよ」
 だが、ティールも引かなかった。
「あれは私たちだけのものではない。村の財産だ。それを二頭も捨て置いていくわけにはいかないんだ」
「ティール殿」
 横からラシードは辛抱強く言った。
「牛より大事な方だと、エフタの皆が思っているのです。誰もあなたと引き換えの牛を惜しんだりはしない」
「おい、ラシード。どうするんだよ」
 つきあいきれないとでもいうように、風渡りは手にした小刀を回して玩んでいる。それを見てアーシアはむっとした。
「行くわよ。今すぐ。あなたの助けなんていらないわ」
「悪いが、おれを雇ったのはあんたじゃねえ」
 あっさり言って、風渡りは肩をすくめた。
「金を払うなら別だが、そうでないなら子供は黙ってろ。仕事の邪魔……」
「なら、しなくていいわよ」
 アーシアは足を踏ん張り、相手を睨み見上げた。
「タジルから出るだけなのに、護衛なんて必要ない」
「そうかい。だが、どうやって町を出るつもりなんだ?」
「え?」
「町の大門は、夜の間は誰が行っても開けやしねえよ。扉を叩いて、ちょいと開けてくれとでも言うつもりか?」
「あの……」
 まさか、そんなことができると思ってはいない。
 だが、その他に何を考えていたわけでもなかったから、アーシアは唇をかんだ。
「じゃあ、どうするつもりだったのよ?」
「何のために風渡りを雇うんだ。こいつを使って、だな……」
 と、小腰の剣の柄を叩いてみせた。だが、ラシードは首を振った。
「ホーク、だめだ。誰にも見られたくない。お前の腕前を試したいわけではないのだ」
「そうか? 手っ取り早いぞ。ハールのげっぷより簡単だ」
 ティールの目がまん丸になった。アーシアは呆れただけだった。
 ラシードは驚きもせずに聞き流し、
「明け方にセラへの荷が運び出されるだろう。それにまぎれて大門を出よう」
「……半年前なら悪くはねえ案だったが。今は無理だな」
「何だと?」
 風渡りは目を細めて顎を撫でた。
「このところ、どういうわけか見張りが厳しくなった。夜が明けりゃ、役人の目は誤魔化せねえしな」
「商人ならばどうだろう」
 ティールはおそるおそる口を開いた。「旅商人の一行に成りすませば……」
 だが、風渡りはせせら笑って、この案を切り捨てた
「こんなのほほんとした顔の商人がいるかよ? 第一、商売品も持たずにここを出て行く商人なんぞ、いるわけねえだろうが」
「だが」
「いや。無理な……」
 その時、アーシアは顔をあげた。
「わかったわ」
 三人は娘の顔をぼんやりと眺めた。「……何?」
 それを見回して、アーシアは頷いた。
「私、知ってる。役人にも兵にも見られずに、タジルを出て行く方法がある」
29 風渡の野 目次 31
inserted by FC2 system