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風渡の野 30 | ||
23. | |
宿屋の前で、どっと笑い声が上がった。 今夜はどの店へ行こうか、旅商人の一行が相談しているのだ。しかし、その声は兄妹の耳には聞こえていなかった。 小さな灯りを囲むように三人は卓についていた。身動きもしない、その後ろで不安な影が壁にうつって揺れていた。 「あなた方を狙って、追っ手が出されたでしょうな」 ラシードはアーシアが差し出した水を飲み干した。 「予定を変えて、セラではなくタジルへ来たことは不幸中の幸いだった」 「何故、追ってくるなんて思うの?」 アーシアは両手を握りしめた。その様子に、ラシードは言っていいものかと躊躇した。しかし、ティールの目も答えを待っていた。 「長の命を絶つのは、支配者に成り代わるためです。ウォリスの次にあなた方の命を奪おうとするのは明らかだ」 「どうして」 アーシアの藍色の目に怒りが閃いた。「どうして、そんなことをするの?!」 自分たち、エフタの人間が何をしたというのだろう。何故、狩の獲物のように追われ、逃げなければならないのだろうか。 「何故でしょうな」 だが、ラシードは短く答えただけだった。 「が、彼らはまず間違いなく追ってくる。そして、ここを見つけ出すのも時間の問題です」 「私たち、セラには行っていないわ。見つかるわけない」 この言葉に、ラシードは薄く笑った。 「私は見つけたのですよ。噂を頼りにね」 「でも……」 「ここを出立して、セラに寄った商人がいる。彼らは風変わりな二人連れの話をするかもしれない。少なくとも、心当たりがないかと問われれば思いあたるだろう」 アーシアとティールは不安な顔を見合わせた。この町で自分たちがどれほど目立っていたか、今はもうよくわかっていた。 「今すぐタジルを出て、身を隠していただきたい」 兄妹を見比べて、ラシードはきっぱりと言った。「事の次第がわかるまで、山へ帰るわけにはいかんのです」 「父が死んだというのは……」 ティールはしぼり出すように尋ねた。 「それは確かなのですか?」 「まず、間違いないでしょう。知らせに来たカデルが言うには……」 ラシードは苦い声で説明した。アルセナでの虜囚に対する習慣、カデルが最後に目にした、塔の上の長の姿……。 「塔の上?」 ふいにティールが顔を上げた。 「白い服を着て、塔の上にいた、と?」 その声の鋭さに、ラシードは眉を寄せた。 「ティール殿?」 「兄さま?」 「何故、気がつかなかったんだ」 ティールは呆然として呟いた。顔を上げてはいたが、あとの二人の姿など目に映ってはいなかった。 「私は見たんだ、エフタを発つ日に。白い上衣の父上の姿が遠見の塔にあった。風に裾が翻っているのを見たのに……」 不吉な予感の見せる幻影。それを思い出してティールは身震いした。「何故、気のせいだと決めつけたんだ?」 そして、不意に込み上げた怒りそのままに拳を卓に叩きつけた。 「エフタへ……すぐ帰らなければ!」 「いけない」 立ち上がったティールを、ラシードは肩を掴んで押さえつけた。 「今、帰ってもいたずらに命を落とすだけです」 アーシアも夢中で兄の腕にしがみついた。ティールは二人を振りほどこうと身をよじって叫んだ。 「父が死んだというなら、私が戻らなければ」 「兄さま!」 「こんなことになるとわかっていたら、山を降りたりしなかった!」 その時、ふいに扉が押し開かれた。 「……取り込み中かい?」 三人はぴたりと動きをとめた。 場違いなほどにのんびりした声。うっそりと現れたのはまだ若い男だった。薄汚れた身なり、日に焼けた顔を見てアーシアは息をのんだ。 「あなた……」 それは、パルトの店から追い払われた、あの若い風渡りだった。 |
24. | |
アーシアを見つけるなり、風渡りはにやりとした。 「どんぴしゃ、だな。この娘っこだ」 そう言って部屋に滑り込んでくる。そして腕組みをして、 「な、当たりだろ、ラシード」 と、得意げに三人を見回した。アーシアは目を瞠った。 「知り合いなの?!」 「昔なじみです」 ラシードは頷いた。 「商隊といっしょに旅をしていた頃に知り合った、風渡りの……」 「ホーク、だ」 名乗った風渡りは意外にも親しげに笑った。その姿を兄妹は呆然と見つめた。 汚れているが質はよさそうな厚地の肩布。ただし、何をしたのかと思うほど派手に破れてそのままになっている。身なりにかまわないのかとも思ったが、真っ黒な髪には色石が編みこまれ、目をひく飾りになっている。 なんて、変なかっこうなのかしら。 アーシアは首をかしげた。山の民はもちろんのこと、タジルで会った職人とも商人の身なりとも似ていない。 そんな品定めをされているとは知らず、ホークはにやけた顔でラシードに向き直ると手を出した。 「さあ、約束のをくれ」 ラシードは目を細めて相手を見つめた。そして、ため息とともに懐から大きな銀貨を取り出した。ホークはふいっと口笛を鳴らした。 「おいおい、気前がいいな。釣りは持ってねえよ」 だが、ラシードは銀貨を握ったまま離さなかった。ゆっくり首をふると、 「タジルを出て、最初の野営地まで、だ」 「護衛しろっていうのか? それにしちゃあ安すぎるぜ」 ホークはおおげさに肩をすくめたが、ラシードは気にした様子もなかった。 「そうか。では、あいにくだったな、こちらも細かい持ち合わせがない」 と、報酬をしまい込もうとした。 「おい……!」 ラシードはちらりと風渡りの顔色を見た。自分の腕前をよく知るふてぶてしい顔だが、目が金から離れない。 「受けるか、受けないか。どっちだ。はっきりしろ」 風渡りは昔なじみの顔と銀貨を苦々しく見比べていたが、やがて、 「ラシード、あんたが雲隠れしてた間も相場ってもんは変わってるんだ」 ぶつぶつと呟いた。「まけてやるのはこれっきりだ」 そう言ってすたすたと戸口へ向かった。 「おい、何のんびりしてんだ。まさか朝飯食ってから、なんて言うんじゃねえだろうな。支度する暇はねえ。今すぐ、身ひとつで来い」 意外ななりゆきに言葉もなくしていたティールは、はっと顔を上げた。 「待ってくれ。行けない、イバ牛を置いては行けない」 「悠長なこと言うなよ」 だが、ティールも引かなかった。 「あれは私たちだけのものではない。村の財産だ。それを二頭も捨て置いていくわけにはいかないんだ」 「ティール殿」 横からラシードは辛抱強く言った。 「牛より大事な方だと、エフタの皆が思っているのです。誰もあなたと引き換えの牛を惜しんだりはしない」 「おい、ラシード。どうするんだよ」 つきあいきれないとでもいうように、風渡りは手にした小刀を回して玩んでいる。それを見てアーシアはむっとした。 「行くわよ。今すぐ。あなたの助けなんていらないわ」 「悪いが、おれを雇ったのはあんたじゃねえ」 あっさり言って、風渡りは肩をすくめた。 「金を払うなら別だが、そうでないなら子供は黙ってろ。仕事の邪魔……」 「なら、しなくていいわよ」 アーシアは足を踏ん張り、相手を睨み見上げた。 「タジルから出るだけなのに、護衛なんて必要ない」 「そうかい。だが、どうやって町を出るつもりなんだ?」 「え?」 「町の大門は、夜の間は誰が行っても開けやしねえよ。扉を叩いて、ちょいと開けてくれとでも言うつもりか?」 「あの……」 まさか、そんなことができると思ってはいない。 だが、その他に何を考えていたわけでもなかったから、アーシアは唇をかんだ。 「じゃあ、どうするつもりだったのよ?」 「何のために風渡りを雇うんだ。こいつを使って、だな……」 と、小腰の剣の柄を叩いてみせた。だが、ラシードは首を振った。 「ホーク、だめだ。誰にも見られたくない。お前の腕前を試したいわけではないのだ」 「そうか? 手っ取り早いぞ。ハールのげっぷより簡単だ」 ティールの目がまん丸になった。アーシアは呆れただけだった。 ラシードは驚きもせずに聞き流し、 「明け方にセラへの荷が運び出されるだろう。それにまぎれて大門を出よう」 「……半年前なら悪くはねえ案だったが。今は無理だな」 「何だと?」 風渡りは目を細めて顎を撫でた。 「このところ、どういうわけか見張りが厳しくなった。夜が明けりゃ、役人の目は誤魔化せねえしな」 「商人ならばどうだろう」 ティールはおそるおそる口を開いた。「旅商人の一行に成りすませば……」 だが、風渡りはせせら笑って、この案を切り捨てた 「こんなのほほんとした顔の商人がいるかよ? 第一、商売品も持たずにここを出て行く商人なんぞ、いるわけねえだろうが」 「だが」 「いや。無理な……」 その時、アーシアは顔をあげた。 「わかったわ」 三人は娘の顔をぼんやりと眺めた。「……何?」 それを見回して、アーシアは頷いた。 「私、知ってる。役人にも兵にも見られずに、タジルを出て行く方法がある」 |
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