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風渡の野 31 | ||
25. | |
夜風に小さな灯火が揺れた。 それに呼ばれたかのように、パルトは書き物から顔を上げた。ここ、大工房の一室は、とっぷりと夜に包まれようとしていた。 外には酒場の明かりがさざめいて、上機嫌に騒ぐ声が風にのって漂ってくる。だが、この部屋の中は静まりかえり、ときおり薪がはぜるかすかな音だけが聞こえていた。 パルトはほっと息をつき、手にした書き物の束を置いた。 武具の名と数がびっしり書き込まれた紙。それらをひっくりかえしては、並べくらべる。職人あがりのパルトはこういう仕事は好まない。目を悪くしてからというもの、いっそう辛い作業となった。 しかし、大工房の長たるパルトのところには、次から次へ鉄官からの要求が届けられる。昼間、アーシアの買い物につきあっているから、なおのこと仕事はたまる一方だった。 だが、あの風変わりな娘と会うのをやめようとは思わなかった。 風変わり――そう考えて、パルトは小さく笑った。まったく、奇妙な娘だ。 最初は裕福な家の、世間知らずの娘かと思われた。 だが、それにしては自分の耳飾りの価値もわかっていない。日にやけた手をしているのに、誰でも知っているようなことを知らない。そもそも銅貨を数える様子からすると、買い物すらろくにしたことがないらしい。 しかし、賢い娘だ。 パルトはかたわらの冷えた薄茶に手をのばした。 そう、真っ直ぐな目でこちらを見つめ、思いもよらない言葉をつきつけてきた。 『ハールがくれた力で人を殺すの?』 その声を思い出すと、パルトは今も目が覚めるような気がした。 我らの技を、ハールが与えた力だと? パルトは苦い笑いを浮かべて首を振った。 そんなことはあり得ない。聞いたこともない。そんなことを言う者は、世界中のどこにだっていない。何故なら、アイルさえあれば道具など必要のないものなのだから。 かつて、ハールの力は世界にあふれていた。 その代用品にすぎないものをつくるのは卑しい営みだ。それで身を立てる職人も同じ。世の中にそう考える者は多い。 アーシアにあえて説明はしなかったが、職人は必要とされながら、時に蔑まれる。 パルトもまた若い頃から、そうあしらわれることに慣れていた。それでも一度として炉を離れようと考えたことはなかった。 パルトは部屋の奥、今は暗がりに沈んだ壁の方を見やった。もちろん何も見えはしない。しかし、そこに在るものの姿をパルトははっきり思い浮かべることができた。 あの、見事なひと振りの剣。 鎚を振るうことのなくなった今でも、技に見惚れて胸がうずく。刃紋や切っ先の鋭さには息を奪われる……。 鉄を赤める。 鎚で打ち鍛えるうちに、やがて鉄の髄が現れてくる。 打っては折畳みを繰り返す、汚れを抱いて浮いてきた滓が表面から剥がれ落ちる。 鉄はだんだん痩せていくが、質は良くなっていく……。 職人とはおかしなものだ。その様に、つい夢中になってしまうのだ。 もっと鋭く、強くならないか。ひとつ、剣ができれば、もうひと振り。さらに良いものが出来はしないか。そう思う時に、刃の下に流される血を思うことはない。 剣が悪いのではない。 これで命をつなぐ者がいるのは本当のことだ。人も我も。だが、孫のような年の少女が言うことに、心が揺るがされなかったとはいえない。 パルトは立ち上がり、窓辺に佇んだ。 我らの技を、ハールが与えた力だと? もしも、そうであるならば。 工房都市は今まで何をしてきたというのだろうか? その時、遠慮がちに扉を叩く音がした。 姿をあらわしたのは大工房の仕事を手伝っている若者だった。職人が苦手とする書類仕事を引き受けている。 「工房長、お忙しいところをすみませんが……」 「何だ」 若者はためらった。「もし、人間違えでなければ、なのですが」 「だから、何事だ」 「工房長に会いたいという、お客が来ておられます」 「何故、ここへ通さんのだ」 「呼んで来て欲しいというのです。わざわざ呼び立てるとは、どういう方かわかっていないのではないかと思いましたが」 パルトは苦い顔をした。書き物の束に顔を突っ込んでいるような者は、どうしてこうも話がまわりくどいのか。 「では、何故わしの客だと思った?」 「名前を呼び捨てにしましたから」 パルトはいぶかしげに眉を寄せた。 階下へ下りていくと、大工房の薄暗い入り口にぽつんと立つ姿があった。 「アーシア?」 振り向いたその顔は白く不安げで、それでも眼にはしっかりとした光があった。 「パルト、お願いがあって来たの」 「こんな時間に一人でふらふらと、何をしとるんだ」 パルトはたしなめたが、アーシアは首を振り、外を指さした。 「一人じゃないわ」 アーシアの肩ごしに夜の通りに目をこらしたパルトは呆然とした。 見知らぬ男たちがいた。 アーシアといくつも変わらなさそうな若者と旅装束の壮年の男。いや、もう一人は知っている顔だ。それは、アーシアとの出会いのきっかけとなった風渡りだった。 |
26. | |
「パルト、力を貸して欲しいの」 アーシアは老職人の腕にしがみついた。 「工房のある裏通りを通してちょうだい。誰にも見られずにタジルから出たいの。裏通りは職人と限られた役人しか入れないって言ってたでしょう。お願い」 「いったい……」 パルトはようやく声をしぼりだした。 「何事かね。彼らは誰だ。何故そんなことを頼む?」 「言えない」 アーシアはきっぱりと首を振った。 「理由は言えない。パルトも知らない方がいいの。だけど、お願いだから信じて。あの風渡りが一緒だけど、別に悪いことしたわけじゃないの」 これを聞くと若い風渡りは肩をすくめたが、それにはかまわずアーシアはパルトを見つめた。 「どうしても、行かなきゃいけないの」 「……」 パルトはアーシアの両肩に手をおき、もう一度その姿を目におさめた。 覚束なげに農具を扱っていた少女とは別人のようだった。青白い顔はあきらめる気などない。何を慮ってかは知れないが、事情を話すつもりなどいっさい無いのだ。 後ろに立っている青年も――口元がよく似ている。たぶん身内だろう――もの優しげな顔に、引くまいという決意を漂わせている。 できないことではない。表の大門とは違って、裏通りには人ひとりが通れるほどの小さな門がある。しかし、誰にも見られずとは……。 こんな世慣れない風の子供らが、何故やっかいなことを言うのか。 「そう、オロから鉄を運ぶ込むための門がある。確かにな。だが……職人にも見られたくないのかね?」 「誰にも。パルトの他には」 その表情に、老職人は眉を寄せた。悲しいとも苦いともつかない顔を、この娘がするとは思ってもみなかった。 「待っていなさい。上の部屋を閉めてくるから」 パルトは心を決めた。 「こっちだ!」 抑えてはいるが、鋭いささやき声でパルトは路地を指し示した。その先導にしたがって、四人は小走りに横道に入り込んだ。 石段をのぼり、細い道をたどり、タジルの街路はただでさえ曲がりくねってわかりづらい。路地に入って三度も角を曲がると、もうどこから来たのだか、アーシアにはさっぱりわからなくなっていた。 そんな場合ではないと思いつつ、 「ここはどこなの?」 息をはずませながらアーシアは尋ねた。 「さいや坂の横だよ。昼間、荷を運んでいるところを見ただろう」 昼間見た通りから一本奥へ。たったそれだけなのに、まるで違う町へ来たようでアーシアは目を丸くした。 天幕はひとつもない。石づくりの家々がひしめきあう細い路地。表通りのともしびの渦にはかなわないが、どの軒先にも炎がゆれて、光の輪を石畳になげかけている。仕事を終えた職人たちが帰ってくる道なのだ。 扉の横には、置き忘れられたらしい木の桶やら箒がある。どこからか煮込み料理のにおいがする。肉を焼くらしい音も。 軒先につるしてあるのはユーラの店でも見かけた干し野菜だ。きっと、家の女主人が明日の食卓にのせるつもりなのだろう。 突然、エフタの城の台所が思い出されて、アーシアの胸は痛んだ。 メリナはどうしただろう? 城臣のみんな、それにサレックは……。 村の面々が思い浮かんでくるのを、アーシアは唇を引き結んでこらえた。今、それを思って何になるだろう。 しばらく行くと、酒場通りの喧騒はすっかり聞こえなくなった。 齢を重ねていても、一行の中ではパルトの足元が一番確かだった。長年親しみ、行き慣れた道のくせは誰よりも知っている。片目しか光をとらえていないとは思えない。 ラシードもホークも、時おり行き止まりのわき道の闇をのぞき込んだが、決して足をとめようとはしなかった。それと比べると、年若の足並みの方が乱れがちだった。 ティールは思いがけないなりゆきに、未だ心がついていかない。アーシアははじめて通る町並みに目を奪われていた。 人が二人ばかりしか並べない細い裏通りが、いきなり幅広い坂道の横に出てくる。大きな石の階段を下りていたはずが、いつのまにか脇道へと導かれて、誰かの家の庭のすみを横切って、さらに下りていく。曲がり角に固そうな実をすずなりにつけた木を見かけることもあったが、アーシアには名前もわからなかった。 「ここが工房なの?」 息を弾ませながら問うと、パルトは笑みを浮かべた。 「いいや。ただの裏通りだ。さあ、こっちだ」 と、石造りの橋の下を指差した。橋といっても、下を通るのは細い路地だ。パルトは一行を振り返り、 「ここから先は工房通りだ。夜でも炉番の職人がいる。見られたくなければ、喋っちゃいかん」 そして、小橋のたもとの木戸をくぐると、五人はさらに暗い小路へと飛び込んでいった。 |
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