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風渡の野 32 | ||
27. | |
裏通りのいっそう暗い、深い夜闇――足元を照らすのは、先に立つパルトが手にした小さな灯りだけだった。 その光の輪を追うように後の四人は足を早めた。 「おいっ、見えねえよ」 「静かにしろ」 黒い人影たちは今にも足をからませそうだ。誰かが転んで騒ぎになっては目もあてられないと、パルトは歩調をゆるめた。 そのすぐ後ろの暗がりの中で、アーシアは唇をかんでいた。 (灯りがもうひとつあればいいのに) タジルに来てからずっと見たかった場所にいるというのに、灯りの輪が照らしだすのはどこまで行っても鈍い色の石畳だけ。これでは町の門を出るまで、それに気づきもしないだろう。 「アーシア」 かすかな風のような声をかけられて、アーシアは我にかえった。 そっと肩を押されて振り向くと、ティールが前を見るようにと囁いた。黒々と続く家並みに目をこらすうちに、つい立ち止まってしまったのだ。 兄の言葉に黙ってうなづくと、前を行くパルトの背中を見失わないようにアーシアは歩きだした。 もし灯りがあったとしても、好きなだけ辺りを見ることなどできなかっただろう。周囲に気をとられて忘れそうになっていたが、そもそも彼らはここに居てはならない者だ。パルトが携えた小さな手灯さえ、今は覆いをなかばまで下ろして光を遮ってあった。 夜気にはのどを刺す煙のような匂いがまじっていた。 うっかりするとむせそうになるのを堪えて進むうちに夜目がきくようになり、通りはおぼろげながらその姿を現してきた。何も見落とすまいとアーシアは目を見開いた。 二階造りでもないのに妙に背の高い建物、長い壁ばかりが続く一角がある。壁の向こうには黒々と丸い形がそびえている。絶え間ない水の音とともに動き続けている影は水車らしかった。 やがて、いくつかの窓に灯りが見られるようになった。夜も更けたこんな時間まで働き続ける者がいるのだ。パルトは曲がり角ごとに足をとめて先を確かめた。 「足音に気をつけろ」 パルトはささやき振り返った。 「火を落としていない工房だ。夜番は耳がさとい」 風渡りが毒づきたそうな気配であったけれど、それでも口はきかなかった。 ある建物からは何かを打ち砕くような、規則正しい生業の音がする。軽い音は乾いた薪を割る音と似ている気もした。 だが、こっそり中を覗く気にもなれず、アーシアは煌々とした窓の下を身をかがめて通り過ぎた。 職人の気配のする建物から離れると、緊張のあまり額に汗がふきだしてきた。それをぬぐいながら、アーシアはあらためて周囲を見回した。 さっき通った裏道とは雰囲気が違う。あそこでは、見慣れないものもあったが人の生活の匂いには馴染みがあった。それが、ここではどうだろう。 まず目に入ったのは、くずれかけた小石の山。 それがいくつも連なって黒いぎざぎざの影を地面に落としている。その後ろには、何に使うのかわからない棒のようなものが壁に立てかけてある。 さらにその奥をのぞきこんで、アーシアは思わず足をとめた。 またたく星を背にして、木を組み合わせた塔が丈高くそびえている。すぐそばの小屋の屋根をも越える高さだ。木の枠組みは上にいくにつれて細くなり、途中の横木に連なるように取りつけられた太い棒は――アーシアはふと首をかしげた。 たぶん、これは動くのだ。 前だか上だかはわからないが、棒を動かす仕掛けであることは間違いない。ふと、エフタの城の大きな織り機が思い出された。敷物をつくるためのもので、糸を張るのも模様を織るのも三人がかりというしろものだ。だが、それと比べてもなお大きい。 何に使うものなのか想像もつかないが、昼間は休む間もなく動き続けているに違いない。そして今は、まるで眠りをむさぼる山の獣のようだ。 何かの拍子に目を覚まして動き出すのではないか。そうしたら、どんなうなり声を上げるのだろうか。 『やめとこうや』 ふいに、ユーラの店で会った職人の言葉が思い出された。 『俺も答えなきゃならなくなる。あんたも聞かなきゃならなくなる』 黒々と地を這う影を踏むのもおそろしく、アーシアは身震いして走りすぎた。 そこには山での生き方との接点などない、町の生活が息づいていた。 一行が足を止めたのは、月も高く上った頃だった。だが、その光はおぼろになって流れていく雲にさえぎられ、足元を照らしてはくれなかった。 「喋りてえよ」 ようやく人の気配のないところへたどり着いたことに安堵したのか、ホークがつぶやいた。 「もう少し我慢することだな」 そういうパルトも緊張がほどけたのだろう、すこしばかり声が穏やかになった。 アーシアもほっと息をついて、壁によりかかった。横を見ると、ティールも似たような様子で目を瞠っている。兄妹は顔を見合わせた。馴染みもないものの山に驚き、言葉もなかった。 パルトは辺りを確かめ、まだ息をはずませている一行をふり返った。 風渡りはもの珍しげに首をめぐらしており、その横ではラシードが布にくるんだ剣らしい荷を背中からおろしている。それに気づくと、パルトはいぶかしげに目を細めた。 「……わしが行って、裏門の様子を見てこよう」 最初、ティールを手招きしようとしたが、彼は思い直したように風渡りに向き直った。 「あんた、一緒に来てくれ。他の者はここでじっとしとるんだぞ」 彼らは足音もたてずに暗い道の向こうへ姿を消した。 |
28. | |
残された三人は石壁のもとに腰を下ろした。思えば宿を抜け出してから、ずっと走りつめてきたのだ。 力ぬけて座り込んだアーシアの横ではラシードが立膝をついている。その目は今しがた来た道とパルトが消えた闇の奥とを交互に見つめて油断なかった。 「なるほど」 ラシードは首を振ってつぶやく。「ここが工房都市の台所、というわけだ」 「あなたもここへ来たのは初めてなのですか?」 ティールは意外そうに目を細めた。旅慣れているラシードでも知らない場所があるのだ、と驚いたらしい。ラシードは分厚い肩布のかげで頷いた。 「私だけではなく、あの風渡りも。こんなことでもなければ、ここを目にする機会など一生なかったでしょうな」 「一生?」 アーシアは横から口をはさんだ。 簡単に来られる場所ではないとは聞いていたが、そこまで珍しいこととは思っていなかった。その顔を見てラシードは微笑んだ。 「お手柄、ですな。ホークのずさんな計画よりよほどいい。エフタの城臣たちもほっとすることだろう」 その言葉に、ふいにアーシアの胸はしめつけられた。 どうして、こんなことになったんだろう。 気がゆるんだとたん、涙ぐみそうになってアーシアはあわてて口元をおさえた。嗚咽がもれそうだった。 父や城臣たち、幼馴染。そして、つややかな毛並みのディスの姿も思い出された。黒い風のように狩人とともに岩場を駆けるのが似合いのイバ牛が、こんなところに置き去りにされるとは。 「アーシア」 その肩に手がおかれた。 「大丈夫か?」 見上げたティールの顔もまだ白いままだったが、声は意外なほど落ち着いていた。アーシアは黙ってうなづくと、自分のこぶしに歯をたてた。 まだ安心するわけにはいかない。町を出るまではしっかり顔を上げていなくては。だが、そのあとは? 不安に歯をくいしばった時。ふいにアーシアは顔をあげた。 パルトとホークが姿を消したのとは反対方向。曲がり角の向こうの方から、声が聞こえたような気がしたのだ。 「アーシ……」 「黙って。兄さま」 いぶかしげなティールの脇をすべりぬけ、アーシアは壁の角からそっと顔をのぞかせた。 「……!」 突然響いた笑い声に、アーシアは息をのんで頭をひっこめた。そのすぐ横を、小さな灯りを携えた人影が通りすぎる。 「さあ、どこへ行く?」 「いやいや。今日はやめとこう」 つきあいが悪いぞ、と背中をどやしつけながら行くのは炉番あがりの職人だろう。 このまま石壁に融けてまざることができたらどんなにいいか。見つからずにすみますように、と念じてアーシアは目を瞑った。その願いが通じたか、灯りはふらふらと揺れながら、次の角を曲がって見えなくなった。 アーシアはほっと息を吐き出して、もう一度通りをのぞき見た。行き過ぎる影はない。そして。 息をひそめていた、ほんの少しの間にアーシアはもうひとつのことに気づいていた。だんだんと強くなる煙の匂いの中に、かすかな歌がきこえる。 「ちょっと見てくる。兄さま、ここで待ってて」 「アーシア? 何を……」 おし殺したティールの声は、妹の耳に届く前にかすれて消えた。その時にはもうアーシアは通りを渡り、あっというまに路地奥の闇にもぐりこんでいった。 「いつも、あんな風でおられるのか?」 後に残された兄とラシードは間のぬけた体で路地を見つめていた。 「見知らぬ町だから、まだましな方です」 やきもきと頷いて、ティールは腰を上げる。不安と苛立ちですり切れそうな気分に違いない。 「これがエフタでのことなら、今頃姿を見つけることなどできはしないでしょう」 「私が行って、連れ戻してこよう」 妹を追おうとするティールの肩に、ラシードは手を置いた。 「ホークたちが戻ってこないか、見張っていて下さい」 |
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