32 風渡の野 目次 34


風渡の野  33 
29.
 人の声、歌の出どころをさがして、アーシアは暗い路地を辿った。
 声は高く低く響いて、やがて言葉が聞きとれるようになってきた。同じ節回しで同じ詞をくり返している。

 昼も夜も
 風の途絶えることのないように
 ハールの気がかわることがないように、何を捧げよう?
 花が良かろうか、それとも酒が良かろうか……

 歌声の近くまで来て、アーシアは足をとめた。壁の陰から半身をのぞかせて先をうかがう。その向こうはがらんとして何もない広場だった。
 昼間、パルトと歩いた広場は天幕と品物にあふれていた。しかし、ここには何もない。ただ、のっぺり広いだけの場所だ。アーシアの立つところからは階段数段ほど低くなっており、全体は浅い皿のようなかたちをしている。皿のふちに指をかけたように、広場の奥には大きな石の塔が立っていた。
 人の背丈の三倍はある高い塔――上では火を焚いているのだろうか。炎の音と、星と見まごうような火の粉が舞っていた。
 塔の上部を支えるように架けられた橋と、その根方には男たちが十人ばかり立ち働いている。歌っていたのは彼らだった。その時、歌が途切れると、
「もっと炭を運べ」
「おう」
 野太いどなり声が響いた。
 ふいの大声に、のぞき見が知れたかとアーシアは身をすくめた。しかし、男たちの目は夜空を照らす塔から離れない。半身はだかで汗みずくになりながら、手押し車とともに行ったり来たりしていた。
 アーシアはほっと息をもらすと、暗がりに目をこらした。
(あれは、何?)
 石の塔のあしもとは陰に沈んでいた。陰の中にはいっそう黒いものが――あれが炭だろう――小山に積まれ、それでも足りないとばかりに次々運びこまれてくる。
 よく見れば、皆が皆で歌っているわけではなかった。荷を運ぶ男たちがいる一方、石橋の上に陣取って動かない者もいる。両足踏ん張り、腕組みしていたその男はかたわらに立てかけた棒を手にとった。人の背丈より長いそれを塔につき刺し――いや、塔にうがたれた孔に挿し込んだ。
 その時、塔の上の星空が揺れた。ゆらゆらと瞬き、遅れて炎が躍り出た。思わずアーシアは息をのんだ。こんなに大きな火炎をエフタで見たことはなかった。塔の口からあふれ上がった炎はすぐにおさまった。しかし、その熱はアーシアの立つところでも感じられそうだ。
「あれが工房三都市の台所か」
 背後の声におもわず悲鳴を上げそうになって、アーシアは口をおさえた。後ろに立ったのはラシードだった。
「驚かさないで」
 アーシアは眉を寄せた。だが、
「『炉に火を入れたら寝ずの番』というわけだ」
 と、ラシードは呟いた。不機嫌な抗議など聞こえもしなかったようだ。
「あれは何をしてるの?」
「炉で石を燃やして鉄を作っているのですよ」
 そう答えるラシードの目は、丈高い炉に吸い寄せられて離れない。ちょうど長い棒が引き出されたところで、仄赤くなっているのが見えた。
 何故、石が燃えるのだろうか。それでは暖炉など造れないだろうに――そう考えて、アーシアは目を細めた。
「どうして石が……」
 尋ねようとして、はっと息をのんだ。
 遠い光に照らされたラシードの顔つきは固かった。何か思い出そうとしているようだ。
「鉄の石を火にくべると、聞いたことはある。だが、あの炉は……?」
 どこかで風車のきしむ音が響いた。塔のまわりでは、雲が散って去るように歌の音が消えていた。
 炎の音だけが響く中、職人の長らしい男が棒の先を確かめている。その顔は炎にあかあかと照らされていた。棒には黄色く輝く火の粉のようなものがついていたが、夜気にふれるとみるみる赤黒く冷えていった。
 男は満足げにうなづいた。
「朝までに、ゆっくり火を上げていくぞ」
 周囲の男たちは口々にそれに応え、ふたたび歌声が流れはじめた。
「炭を運べ。アマ ドーレ、エルド」
「お前、炉の色を見ていろ」 
 あたりは何もない暗闇だった。しかし炉の上はぱっくりあいた傷口のように赤く、熱い息を噴き出している。その下で、職人たちは休む間もないようだ。
 彼らが運び上げた石を炉の口に落とし込むと火の音が弱まったが、それも一瞬のこと。炎はすぐにいきおいを取り戻す。次々と送られる風にあおられて火が立ち上がると、彼らの歌声も高まった。
 炎が渋る時には風を送り、炉からあふれそうな時には勝手をさせまいとねじ伏せにかかる……。
 それを物陰から見守りながら、アーシアは思わず身震いした。
 送り込まれる風の音は規則正しく、まるで大きな獣の息づかいのようだ。脈打つ炎が歌を呼ぶのか、歌が火を高めるのか、アーシアはわけがわからなくなった。
(ここは裏通りじゃない)
 ただ、目を瞠ってアーシアは唾をのみこんだ。のどがからからだった。
 ここは工房都市の台所なのだとレンディアの男は言った。そして、パルトが教えてくれたように、職人たちはこうして鉄をつくる。少しでも良い鉄を造ろうと、それでもって町を守ろうとしているのだ。そのことがようやくアーシアにもわかってきた。
 彼らには彼らの理屈がある。
 ここがタジルの表通りなのだ。そして、商人向けに日用品を商っていた市場こそ、工房都市の裏通りなのかもしれない。

「……シア……アーシア殿」
 おしころした声に、アーシアは我にかえった。
「そろそろ戻った方がいい」
 低く響くラシードの言葉は穏やかだったが、有無をいわさぬ強さが感じられた。
「それと。ここで見たことは誰にも言わない方がいいでしょう」
 一瞬、何を言われたかわからずアーシアはぼんやりと相手を見つめ返した。
「……パルトにも?」
「そうです」
「どうして? だってパルトは……」
「助けてくれはしたが、よそ者にここを見て欲しいとは思ってはいないはずです」
 そう言って、ラシードはふいに黙り込んでしまった。
 それでもなお問いただそうとした時、アーシアの目に通り向こうの人影が映った。ティールだ。大きく手を振って手招きしている。声を出せるものならば怒鳴っていそうな形相だ。
 待ちきれず腰を浮かせて駆け寄ろうとする姿に、ラシードは手をあげて応えた。アーシアも背中を押されるままに戻るしかなかった。
 ティールは帰ってきたアーシアの頭をはたいた。
「痛っ……!」
「二度とこんな勝手をするんじゃない」
「でも」
 その時、路地奥の暗がりからパルトが現われた。
「そろそろ、見張りの交替だ」
 パルトは戻ってくる間も惜しいように身ぶりで一行を招いた。「今のうちに外へ出るのだ」
 ティールは抗議も聞かず、妹の腕をつかんだ。
「兄さま、そんなに引っ張らないで……」
「急ぐんだ!」
 引きずられるように駆け出したアーシアは、もう一度だけ、あきらめきれずにふり返った。
 家々の石壁にはばまれて、あの炉の口は見えなくなってしまった。だが、舞い上がる火の粉の色はアーシアのまなうらにはっきりと残っていた。


30.
 曲がりくねった小路はだんだん細くなり、唐突に壁に突きあたって終わっていた。
 タジルの町全体を取り囲む分厚い石壁の上は通路となっており、見張りの兵士が歩くことができる。だが、その見張りもつい先ほど通りすぎたばかり、今は路地端の草が夜風にしずかに揺れていた。
 行き止まりかと思ってアーシアは身を固くしたのだが、見れば長く続く石壁の中ほどに穿たれたように門があった。知らなければ見落としてしまうような小さな門だ。
 閂を手早くはずすと、パルトはがっしりと厚い木戸を押し開けた。
「行きなさい」
 と、ティールの背を送りだすように押した。
「夜が明ければ見張りの目にとまる。身を隠したいなら、すぐに森を目指すといい」
「ありがとうございます」
 ティールはアーシアの肩に手を置きながら言った。
「助けて下さったことは忘れません。妹によくして下さったことも。理由を申し上げられないことを許して下さい」
 続いて門をくぐったのは、ホークだった。もとよりタジルにもパルトにも思い入れがあるわけではない。外へすべり出ると、辺りを確かめようとふり返りもせず草の海にまぎれ込んでいった。
 そして、まだ思い残すあれこれをふり切れないアーシアをラシードが促した時。二人の間にパルトがすっと身をすべらせて立った。
「待て」
 小さな、しかし鋭い剣がラシードののどもとに閃いた。「あんたは何者だ?」
「パルト?!」
 アーシアはふり返って目を瞠った。
「……先も言ったとおりだ。この二人の故郷の者だ」
 ラシードはよく研がれた刃に用心しながら答えた。だが、パルトの目は厳しいままだった。
「では、何故そんなものを持っている?」
 と、顎でラシードの背を示す。
「鋼など似合う出自ではないはずだ。不法に手にいれたのではないか」
「パルト殿、彼は本当に……」
 ふり返ったティールがあわてて割って入ろうとすると、ラシードが喉で笑った。
「……なるほど。確かに不法だ。私はアルセナ人ではないからな」
「鋼だなんて、どうしてわかるの?」
 アーシアは老職人の袖にしがみついた。ラシードの背の品は布でくるまれたままだ。だが、
「柄を見ればどこの工房の品かすぐわかる。中の刃を見れば誰の手かということもな。いずれにせよ、まっとうな手段では手に入らん品だ」
 パルトは冷ややかな目で相手を睨めつけた。
「風渡りなんぞと手を組んで何をするつもりだ。誰であろうと、後ろ暗いことをする輩をいっしょに行かせるわけにいかん」
「パルト。彼は……」
「ゴーラだ」
 ぽつりとラシードはつぶやいた。 
「……何?」
「ゴーラか、ゴーリか。そんな名前の職人がつくったのだろう? これを売ってくれた旅商人が教えてくれた」
「売った、だと?」
 のどもとに刃をつきつけられては頷くわけにもいかないようで、ラシードは短くうなった。「銀貨十枚で」
 それを聞くとパルトは無言で眉をあげた。
「たった十枚? 考えられん」
 ずいぶんとまけてくれたらしい、とラシードは笑って言った。「だが、けっして卑怯な手段で得たものではない」
 パルトは相手の顔から目をそらさず、ラシードの背に手を伸ばした。むろん突きつけた小剣はそのままだ。彫りを施した柄をひくと、白い刃の光がこぼれた。
「……確かにゴーリの剣だ」
「できれば使いたくはない」
 ラシードは顔色ひとつ変わっていなかった。
「これでも薬師のはしくれだ。無闇と剣をふるっては、いずれハールの庭へ招かれたときに申しひらきが立たなくなる。しかし……」
 静かに手をあげ、のどもとの剣にふれて下ろさせた。
「必要とあれば抜くぞ。この二人の命を守ると、あるじと約束したからな」
 そのまなこをパルトはのぞき込んだ。二人の静かな、だが決して揺れそうにない目線がぶつかった。
 やがてパルトは剣を下ろし、帯に仕舞った。
「では、わしからも頼もう。何があっても、この娘を守ってやってくれ」
 アーシアはほっとして、震える手をパルトの袖から放した。
「パルト。どうして、そんなに心配してくれるの?」
「また、質問かね」
 パルトはうっすらと笑った。「最後の最後まで、だな」
 その笑みに、アーシアは胸が痛かった。
 相手の立場を思ってとはいえ、逃避行の理由は告げられなかった。それに、裏通りで何を見たか、言えないまま別れなければならないことが情けなかった。
 老職人はその前に腰をかがめて、
「何があったかは、もう聞かんよ」
 と、アーシアをのぞき込んだ。初めて出会った時と同じ、明るい瞳だった。
「あんたはきれいな強い娘だ。姿かたちのことだけじゃない。性質のいい子だ。まっすぐ前を見て、行くべき道を何とか見つけていけるだろうよ。しんどいこともあるだろうが、あんたは大丈夫だ」
 そして、小さく笑って見せた。
「打たれれば打たれるほど、汚れが落ちていく。質のいい鉄と一緒だな」
「パルト。助けてくれてありがとう。でも……」
 アーシアは声を詰まらせた。
「どうして?」
 パルトはいとおしげにアーシアを見つめた。
「あんたは、このわしが思いつかなかったようなことを教えてくれたからな。これで、わしらは貸し借りなしの友達だろう?」
 アーシアの顔が泣き笑いにゆがんだ。
「アーシア、急ごう」
 ティールに引っ張られて、アーシアは門をくぐった。
 ハールのお守りあるように。
 パルトのそんな言葉を聞いたと思ったのは気のせいだろうか。一行の後ろで、扉はすぐに閉められた。
「とろとろするんじゃねえ」
 風渡りの抑えた声が、夜風にのって聞こえてる。タジルの町壁から離れて土手を駆け下り、ティールとアーシアは仲間の後を追った。
 草原は広かった。どこまでもうねる草の波、どこかで遠くで河の音がしている。どこか遠く――山からきた二人には思いもしなかったほど草原は広かった。
 弧を描く地平線はとっぷりと夜に沈み、まどろんでいる。その上には高く、星が瞬いていた。
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