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風渡の野 34 | ||
31. | |
いつもと変らない朝日が、ツルギの峰を照らしつけていた。 陽光は紫色の山肌をなで、走りぬけるように谷底へと向かっていく。まだ露をやどしたままの小さな花が光をはじいて、山の斜面は輝いていた。 だが、それに目をとめることもなく、スレイは東へ向かう道にイバ牛を急がせていた。 レンディアへ――課せられた務めを果たしたと伝えるために。しかし、スレイの心は重かった。正面からの日差しにしかめっ面をしたが、顔をそむけることもしなかった。 遠い稜線から身をかわして上がっていく太陽と競うように、スレイは最後の山道を村へと下っていった。 たどり着いた城の中は、いつになくざわついていた。 朝早くの城には、普段ならば長と城住みの城臣くらいしかいないものだ。それが、どこかで赤ん坊の泣き声がする。それを宥める大人の声も。 そして、目覚めたばかり、朝一番の元気をまきちらして走る子供たちをかわして、スレイは階段を登っていった。 「間違いなく、橋は落としました」 朝のひんやりとした空気のただよう長の間。そこには長と城臣たちが顔をそろえていた。誰の目も赤く、おそらく夕べは休むこともなく話し合っていたのだろう。 スレイはその前に頭を下げていた。 「谷の向こう側には誰もいませんでしたが、念のために見張りとしてエルゴを残してきました」 そのとたん、場の空気がゆるんだ。 「ご苦労だったな」 城臣たちの間から疲れたようなため息がもれた。やれやれ、という呟きも聞こえる。 それを、まるで遠い場所のできごとのようにぼんやりと聞きながしながら、スレイはまだ目をふせたままだった。 できることなら、夕べの話のなりゆきを聞きたい。いったい何がどう決められたのか。それを聞かないうちは、仲間の若者たちのもとへ帰る気になれなかった。しかし……。 「ひとまず休むといいぞ」 その声に我にかえって目をあげた。 見れば、ヤペルもショルも満足げに頷いている。それ以上の話をするつもりはなさそうだった。スレイは気落ちしたのを隠すように、再び目をふせた。 「……では、そうさせてもらいます」 そうつぶやいて諦めて、重い足取りで部屋を出ようとした時だった。 「スレイ。言いたいことがあるのではないか」 呼びとめる声がかかった。セディムだった。 スレイはのろのろとふり返って唾をのんだ。 「橋を落として。レンディアは身を守って……それだけですか?」 「……」 「弓も持たず、巣に籠もるようにここに留まると?」 言葉を重ねるうちに、声は怒りにふるえた。このまま何もせずに友国を見捨てるなど、スレイには考えるのもたまらなかった。 「そうだとしたら、どう思うのだ?」 「皆が納得しない」 スレイは吐きすてるように切り返した。 「家族がエフタに住む者は、これではたまらないんだ。生きているかどうかもわからない。弓を持ってエフタへ駆けつけるべきだった」 「それが望みか」しかし、長の答えは冷ややかだった。 「そうだ。狩の時とおなじように、エフタを取り囲んでアルセナの奴らを狙って――」 「スレイ、なんという粗暴なことを」 若者を諌めようとショルが立ち上がった、その時だった。 階下から何やら声が上がり、一同は思わず扉をふり返った。そこに足音も高く塔を駆け上がり、部屋に飛び込んできた者がいる。 「エルゴ?」 スレイは目をむいた。「見張りはどうしたんだ」 駆け込んできたエルゴは髪も服も乱れたまま、息を切らせて声も出せない。窓の外からは彼が乗りつけて、そのまま放し置いてきたらしいイバ牛のいななきが聞こえた。 エルゴはごくりと唾をのんだ。 「西の谷の向こうに、兵士が現れました。奴ら、橋をかけようとしてます」 城臣たちはとまどい、顔を見合わせた。 「今の季節、エフタでそんな用意ができるわけが……」 「違います」 エルゴは激しく首を振った。 「違います。おれたちが使う縄蔓ではなくて、もっと太いのが……たくさん用意されてるんです」 一瞬、言葉の意味をはかりかねて皆が口をつぐんだ。ようやく呟いたのはヤペルだった。 「では、最初からレンディアへも来るつもりだったのだ」 「結構だ」 深く背をもたせかけた椅子から身をおこし、セディムがきっぱりと言った。 「レンディアのするべきことは決まっている」 スレイははっと顔をあげた。 「それじゃあ……」 「矢を放つことはしない」 今度はセディムがスレイを睨めつけた。「誰もそんなことを望んではいないからだ」 冷たく長い石の廊下を、スレイは足音も高く歩いていた。長の間を退きはしたが、とても眠れるような気分ではなかった。 「どうして、セディムは何もしようとしないんだ」 「やめないか、スレイ」 その後を追うのはショルだった。橋を落とせと命じた手前、若者を放っておくわけにはいかなかったのだ。 「長はエフタのことを忘れたわけではない。ただ、ここを守らなければならんのだ」 「ああ。だが、それなら弓を持つべきだ。それこそが皆の望みだろう」 スレイは城臣をふり返ろうともせずに怒鳴った。 「今すぐにでも西の谷へとって返せばいい。橋を架けるというなら、そこを狙ってやればいい」 その肩をつかんで、ショルは若者を振り返らせた。 「そんな勝手は許さんぞ」 腹の底からの吼え声に、スレイは城臣を見つめ返した。ショルは今朝がたまで膝をつきあわせていた仲間と長の姿を思い出していた。 |
32. | |
前夜は風の強い晩だった。 黒い空、ひきちぎられるように飛ぶ雲を見上げながら、城臣たちが集まったのは夜もふけてからのことだった。 長の間には煌々と灯りがともされ、城臣たちは車座になった。これほど遅い時間の集いはめずらしい。しかも、城住みの者だけではなく村から通う城臣も、古参も新入りも含めた全員が顔をそろえた。 夜半というのに集まった面々に長がねぎらいの言葉をかけると、「老体に無茶を申しつけられる」と軽口も叩かれた。 しかし、笑みをうかべた者も目は厳しかった。これから話される事どもを考えて黙りこみがちだった。 西の谷へ向かった若者たちが間に合えばいい。だが、もし間に合わず、橋を落とすことができなかったなら。 ――その時にとるべき道を夜が明けるまでに決めておきたい。 その長の言葉をうけて、城臣たちは夜まで村人の様子を見てまわったのだった。 戦うべきか、あるいは身を守って災厄が過ぎるのを耐えて待つべきなのか。 彼らの考えはさまざまだった。すぐにでも弓を持ってエフタへ行きたそうな若者もいれば、今はなりゆきを見守るべきという者もいた。 また、かなりの数の者が、いまだに事をはっきりとは掴みかねているようだった。 「また普段の暮らしに戻れるのか。そればかり考えては、行き詰まっている者も少なくありません」 ヤペルはゆっくりと言葉を選びながら言った。しゃべるのがそう得意ではないのだ。 「さしあたって、女たちは糧食のことを案じておるようで。前の冬を覚えている女房どもがまかないの計画を立てはじめております」 セディムはうなづき、城臣一同を見回した。 「我々はどうするべきだと考える?」 小王国では何事も話し合いを経て決められる。それは、祖先がこの地に居をかまえた頃から続く古い慣習だった。 村の日常のほんのささいなことさえ――畑の見まわり順から狩支度の段取りまで――当人たちが意見を述べながら決められた。誰もが言いたいことを言い、話し合って、もっとも良いと思われるやり方を決めるのだ。こうすることで、全員がある程度の納得をもって結論に従うことができる。 うまく決着できなければ城臣たち年寄りが話し合いをとりまとめた。麦の植えつけなど村にとって重要な問題は、城臣と長によって決められた。 そして、出された結論にはかならず全員が従うことになっていた。 もちろん、いくらかの不満が残ることはある。しかし、いつまでも反対すれば隣人の意見をないがしろにしたことになるのだから、そんなことはめったになかった。諍いの種を残さずに事をきめる――これが何より求められた。山の暮らしは貧しく、厳しい。協力しなければ誰も生きてはいけないのだ。 しかし、今回のできごとには誰もがとまどった。ハールが司る天候とも時節ともかかわりのない問題などめったになかったからだ。 「矢をそろえ、つがえて待つべきだとわしは思う」 沈黙を破ったのは城臣オルドムだった。六十はとうに越えているが、昔は血気盛んな狩人であったらしい力強い声だ。 「もし、橋を落とせなければ兵士が来る。来たとなれば、する事はひとつしかないはずだ」 「そうだ」 隣にすわるデレクも強くうなづいた。 「戦って、少しでも彼らの力を殺いでおけば、エフタを取り戻すこともできるかもしれん。そうしたら……」 「デレク、先走るな」 たしなめたのはトゥルクだった。 「まずは我々の意見を固めることを考えよ。そうしなければ、二頭目の獲物になるだけだぞ」 その言葉に一同は口をつぐんだ。幾人かは咳払いした。皮を剥がれて運ばれる山のけものの姿が誰の頭にも浮かんだからだ。しかし、トゥルクも眉をよせたままそれきり黙り込んでしまった。 「他には、どうだ?」 車座を見わたす長の問いかけに手があがった。モルードだ。彼は白いひげにうずもれている口をもぐもぐと動かした。 「これはハールが我々に与えられた困難、いわば嵐のようなものではないか? 山の嵐にこぶしをふり上げて何になる」 「これは嵐ではない」 「相手は人間だぞ」 しかし、モルードは首をふった。 「腰抜けと用心深いことを取り違えるな。立ち向かうにしても、それだけの用意ができるのか考えてみるといい」 「同じく、わしもそう思う」 古参の城臣のひとり、レベクも言いそえた。もっとも、穏やかで信心深い彼が他の意見に与するとは誰も思わなかったが。 「今は待ち月、植え替えを待つ苗が山ほどある。あれをどうするのだ。春に弓など持っていれば、やがて来る冬に村は耐えられまい」 吹雪の中、ヒラ麦は底を尽き野菜の貯えはみるみる減っていく――それは、そこにいる誰もが知る厳冬の風景であったから、一同皆おし黙ってしまった。 何もない、誰も来ないはずの山は変わってしまったのだろうか? セディムは考え事をするときの癖で膝のうえで手を組んだ。 「村のみんなの考えはよくわかった」 セディムはゆっくり言葉を紡いだ。「どれも道理。気持ちもわかる」 「それでは」オルドムがさっと顔を上げた。 「今すぐ弓を持ち、エフタを助けに行くべきです。畑を案じるならば、早い方が良いのでは?」 だが、その意気込みは他の城臣たちのつぶやきの中で空回りした。 「そう簡単にはゆくまい」 「奴らの望みもわからぬうちに、何ができる」 セディムは組んだ指を開いたり閉じたりしていたが、やがてそれも止まった。 「さっき、誰かが言ったな。相手は嵐ではなく、人間だ、と」 幾人かがうなづいた。 「それならば。そこにまだできることはあるのではないか?」 セディムはモルードに向き直った。 「たしかに嵐はハールが与えるものだ。避けようも逃れようもない。だが、相手が人ならば、話し合うことができるのではないか?」 「しかし……!」 「兵士と話し合うと?」 息をのみ、腰を浮かせたデレクをセディムはおしとどめた。 「ラシードは山を降りる前に言いおいていった。安易に戦ってはならない、と。そして、ひとたび矢を放てば、それを止めるすべなどない。もう一度考えてくれ。答えてくれ。我々は戦をしたいと願っているのか?」 城臣たちは顔を見合わせた。 答えを願う長の言葉。そこにある真摯な響きに、さっきまでいきまいていたデレクも声を鎮めた。 「……いいえ。それしか方法はないと思うだけです」 「では、何が望みだ?」 デレクもまた長の瞳を見つめ返した。「平和を」 セディムはうなづいた。 「そう。山に静けさを。それがレンディアの皆の望みだ」 |
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