34 風渡の野 目次 36


風渡の野  35 
33.
「ばかな」
 スレイは呆然とつぶやいた。その声は、ひと気のない石の廊下に響いた。
「話し合う、だと? そんなことできるはずもない……!」
 怒りと驚きにふるえる若者の肩を、ショルは強くつかんだ。
「スレイ。これは長と城臣全員で決めたことだ。レンディアのために一番よいと結論を出したのだ」
 だが、スレイはショルを睨めつけた。
「それでも俺は反対だ」
「スレイ!」
「ただ手をこまねいているなどセディムらしくもない」
 スレイは顔をゆがめ、肩にかけられた手を払った。
「城で決められたことには従おう」しかし、その目は怒りに見開かれたままだった。
「それでも、俺は戦うべきだと思っている――小王国の狩人の誇りをかけて」
 そう言い捨て、スレイは階段を駆け降りていった。


 長年の習慣というのは怖ろしいものだ。
 ヤペルが城で呼んでいる、と聞かされた時、ノアムは思わず苦笑いした。背中に寒気が走ったからだ。
 子供のころから聞かされたヤペルの小言が耳によみがえる。遊び呆けるな、セディム様の姿が見えない――こういうのは何年たっても忘れるものではないらしい。
「ノアムおじさん?」
 窺うような声に我にかえると、かたわらで甥のマウロが見上げていた。
 一日の仕事を終えてノアムが畑から帰ると、家にはことづけを携えた少年が待っていたのだった。
「ああ、何でもない」
 ノアムは手をふって甥に答えた。「手と顔を洗ってくるから、ちょっと待ってくれ。それから……」
と、腕まくりをしながらふり返り、わざと顔をしかめてみせた。
「俺は、まだおじさんじゃないぞ」
 外に出ると、耕されたばかりの畑が夕暮れの光に染まっていた。
 その間の小道を二人はぶらぶらと上っていった。マウロは見つけた小石を蹴りとばしながら、ノアムは黙ってその横を歩く。
 ときどき、ノアムはかたわらの畑に目をやった。濃い灰色の土にはよく犂が入り、明日にでも種をまくことができそうだ。ここはもう手伝いにくる必要はないだろう。
 その向こうでは、誰か――逆光になって顔はわからなかったが――イバ牛から農具をはずしてやっている。そのあわただしい帰り支度を見て、ノアムはふと眉を寄せた。
 今日は、村の誰もがおかしかった。
 普段ならば、自分の仕事が終われば隣の畑を手伝うものだ。だが、今日は誰もが太陽に追いたてられるようにして働き、陽が傾きだすと早々に仕舞い支度となった。
 昨日の今日、今にも平原の兵士がレンディアへ攻め入ってくるのではないか。
 そう思うと犂も鍬も放りだして逃げだしたい。そんな気分が村人の間にはただよっていたのだ。
 ――それを長や城臣たちは承知しているのだろうか。
 そこまで考えてノアムは首をふった。
 むろん、わかっているはずだ。城の連中にまかせておく方がいい。心配しても甲斐のないこともあるし、自分がややこしいことを考えると、事態をもっと込み入らせることが多いからだ。しかし――。
「マウロ、城づとめはどうだ?」
 考えごとを振り切るように、ノアムはかたわらの少年に声をかけた。マウロは小走りについてきて答えた。
「うん。面白いよ」
 ノアムは思わず足をとめた。「面白い?」
「うん」
 ちょうどマウロは窪みにはまった小石を蹴り出そうと真剣になっていて、うわの空の返事をした。
「だが、お前の仕事は城臣の手伝いだろう? 書きつけたり、書物を広げたり……」
「うん。だから、面白いよ」
 ノアムはそっと夕空を仰いだ。
 今年、十二になったばかりのマウロはノアムの姉の子だ。夫を病で亡くし、息子を連れて実家へ帰ってきたのだ。
 しかし、ノアムはときどき本当に血のつながった甥なのだろうかと思う。昔から、自分にとって書物ほど苦手なものはない。そんなものを広げるより、セディムと一緒に山リスの巣穴を見張る方がよほど楽しかった。だが、この甥はそうではないらしい。
 レンディアの子供たちは、皆読み書きができる。牛追いの仕事を減らしても子供に字を教えるのは、レンディアが命をつなぐためだ。
 厳しい冬、病、突然の雪嵐。いつ誰がハールの庭に召されるかはわからない。仮に長や城臣が死んだとしても、書物から先人の知恵を得て誰かが生きのびられるように。そのための勉強だ。
 新しい遊びのように、子供たちは文字を覚えて綴る。彼らの中でも、マウロの『遊び』熱心は群を抜いていた。
 まだ自分の弓も持っていないのにレンディアの年代誌を読みはじめ、しかもそれを端から諳んじてみせたものだから、教育係であるルタンは仰天して長へ報告したものだった。
 道がまっすぐになったところで小石を遠く蹴り飛ばすと、マウロはようやく顔をあげた。
「城臣のみんなは小さい文字が読めないと、すぐにぼくを呼ぶんだ。呼ばないのはセディム様だけだよ」
 だから長は誰よりすごい、という理屈なのか、マウロは尊敬と憧れのまなざしで城を見上げた。
「もっとたくさん読めるようになりたいな。セディム様みたいに」
 そのセディム様は書物が大嫌いだ、というひと言をノアムはのみこんだ。
 文字が役に立つといっても、弓や鍬にはかなわない。ノアムはそう信じている。だが、何にしてもできないよりもできる方がいい。そう大雑把に考えて納得することにした。
「書物だけでは、腹はふくらまないぞ」
 と、ノアムは甥にむかって厳しい顔をしてみせた。「働いて、麦を育て……」
「『獲物を追う』?」
 マウロは口をはさんだ。
「わかってるよ。セディム様はかっこいいなあ。何でもできるし、レンディア一の狩人だもの」
 少年の心は結局はそこへ向かうようだった。
 しかし何で、と考えてノアムは首を傾げた。
 ここまでセディムに思い入れするくせに、何故に叔父の自分には遊び仲間のような口のききかたなのだ?
 そう思ってノアムは苦笑した。おじさん扱いされたいのか、されたくないのか、彼は自分でもよくわからなかった。


34.
 夕陽の染まった城の扉の前で、ヤペルが待ちかまえていた。
「おお。ようやく来たか」
「何ですか?」
 ノアムは甥を使い走りから解放してやって、尋ねた。「城臣の手伝いなら、マウロより役に立ちませんよ」
「わかっとるわ。そなたに折り入って頼みがあるのだ。スレイのことだが……」
「スレイ? 帰ってるんですか?」
 ヤペルは苦い顔をした。
「橋を落としはした。だが、何もならんかった」
「何も?」
「奴らは新しく橋を架けはじめた。ここへやって来るぞ」
 そして、今朝方の城での話し合いのことを手短に説明した。
「弓は持たない。そう決まった。村の大方の者も納得した。だのに、奴だけが聞き分けんのだ。お前、話してみてくれんか」
「しかし」
 ノアムはふと眉を寄せた。「城で話し合って、もう決まったことでしょう?」
 ヤペルが説得を頼んでくるなど、スレイがそこまで頑固になっていることが意外だった。
「そうなのだ」
 ヤペルは苦い顔つきだった。
「長も今は先のことを考えるので手一杯だ。わしらはそれを支えるべきだというのに、奴は何を考えているのだ?」
 そう聞かれても、とノアムはとまどった。
 それより、道を断ちさえすれば何とかなるはずだったのに、それがあっけなく崩れた。そのことを考えると息苦しい思いがした。だが、ともかくスレイと会って話をしてみる、と引き受けた。
 城の広間では、避難してきた村人たちが落ち着きはじめたところだった。ちょうど皆集まって夕飯時で、薄い汁物をすする音、にぎやかな声があふれている。
 ヤペルとノアムが中をのぞこうとすると、入れ替わりにレベクが出てきた。彼は疲れた顔で首をふり、ヤペルとともに立ち去ってしまった。
 ひとり残されたノアムは、もう一度部屋の中をのぞいた。目指す相手はすぐに見つかった。汁物を前にしたスレイもすぐに気づいたらしい。さじを置くと、村人たちの間をぬけるようにしてやってきた。
「最初はショル、レベク、次はお前か」
 スレイは目をすがめ、幼馴染を冷ややかに見つめて唸った。
「誰が来ても同じだぞ。俺は反対だ」
「……」
 最初から拒まれて、ノアムは言いかけた言葉をどこかに逃してしまった。そのとまどう顔を見て、スレイはため息をついた。
「まあ、いい。聞こうじゃないか。上の回廊へ行こう」 


 朱と紫に染まる東の峰々が、城の回廊からとおく眺めわたせた。
 すぐ足元に連なる畑は急峻な斜面にかくれて、ここからはほとんど見えない。目に入るのは遠い、夢のような色合いの山並みだけで、日常の何もかもを置き去ってきたかのような、そんな不思議な気分にさせられた。
 ノアムは数年ぶりに歩くこの回廊をなつかしく見回した。
 ここは彼が子供の頃にはめったに入れない憧れの場所だった。というのも、長であったケルシュが心静かに過ごす気に入りの場所であったから、騒々しい子供たちは出入り禁止を言いわたされていたのだ。
 たまに長が城を留守にしたり、城臣たちと長く話し合っている間だけ、こっそり入り込むことが見逃されていた。だからこそ、その時に目にしたことは鮮明に記憶にのこっていた。
 壁の石組みや小さな傷には見覚えがある。子供の甲高い声まで聞こえそうな気がして、ノアムはふと微笑んだ。
「何、なごんでんだ」
 スレイが呆れ半分、苛立ち半分で言った。「のんきだな。俺はそんな気分じゃない」
「それじゃ、何だ?」
「おい。セディムはどういうつもりなんだ」
 話を聞こうと言ったのはスレイだったが、先に文句があふれだしたのも彼の方だった。
「奴らと話しあうなど、どうして考えられるんだ? お前にはわかるのか?」
 だが、ノアムは腕を組み、柱によりかかったまま何も答えなかった。スレイは首をふった。
「俺たちは狩人だ。冬の食料のために狩に出て、貯蔵庫が熊におそわれれば戦う。力を尽くして、それをハールに報告してきた。あんたの子供は正々堂々と戦った、と。それが、狩人の誇りというものだろう。
 だから、与えられるのがどんな結果であろうと、俺たちはそれを受け入れることができる。やれることをやったからだ」
 と、スレイは幼馴染の顔を正面から睨みつけた。
「教えてくれ。他の誰よりもそう考え、実行してきたセディムが、なぜ今回は躊躇するんだ」
「長が考えなきゃならんことは他にもある」
「畑か。レベクもそう言った。秋の収穫を考えれば、今、戦に手をさくことなどできないと。だがな……」
 スレイは苦い笑いをうかべた。
「その秋に、何人生き残れるのかと話しているんだ。そうやって仮に生きのびて、生き残された者たちはその先どうするというんだ」
「――スレイ」
「するべきこともせず、仲間を死なせ、エフタを見捨て……そんなことになるなら死んだ方がましだ!」
「そうしないためにセディムは話し合うのだろうが!」
 ノアムは思わず怒鳴り返した。だが、二人とも互いに目をそらしはしなかった。
「スレイ、俺は戦いたいとは思っていない」
 ノアムはゆっくり言葉を探した。
「もちろん、アレーナや息子を守るためには弓をとる。だが、そうしないですむならその方がいいとも思っている。ハールは子供たちが殺しあう姿など見たくはないだろう」
 スレイは嗤った。
「アルセナの兵士などハールの子供ではないぞ」
「人間はみんなハールの子供だ」
「じゃあ、奴らにもそう言ってやれ。話し合うとはそういうことか?」
「やめないか!」
 するどく遮ったが、ノアムは大きく息をついた。
「……やめないか。こいつはどう見ても俺たちの領分じゃない。レベクあたりに任せる方がいい」
 この場所で――かつてここに遊んだ二人が顔をつきあわせて、何故こんな生々しい話をしなければならないのだろう。
 それに、神おわす峰の足元でこんな言い合いをするなど、いつもなら考えられない。誰もがどうかしている。そう考えて、ノアムは気が重かった。
 スレイもまた、怒鳴りつけてもまだうかない顔だった。ノアムは幼馴染の肩に手をおいて、軽く揺さぶった。
「おい、俺たちはセディムの仲間だ。昔からそうだった。奴のすること、考えることを俺たちが信じられなくてどうする。それこそこれから先、どうやって生きられるんだ」
「……ああ」
 だが、スレイの目からうろ暗さは消えなかった。
「わかっている……だから、俺たちをがっかりさせないで欲しいんだ」
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